素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

きっぱりと冬が来た

2022年12月18日 | 日記
 今日初めて自転車に乗る時に手袋をつけた。西日を背中に受けてのジムからの帰路、冷たい向かい風が自転車をこぐ足を重くする。坂道を上っている時、突然頭の中に「きっぱりと冬が来た」というフレーズが出てきた。中学か高校の時に授業で習った高村光太郎の詩集《道程》に収められている「冬が来た」の冒頭の一節だ。

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木もほうきになった

きりきりともみこむような冬が来た
人にいやがられる冬
草木にそむかれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ

ぼくに来い、ぼくに来い
ぼくは冬の力、冬はぼくの餌食(えじき)だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た


          

 普段は記憶の奥底に潜んでいる詩だが、今日のような日を迎えると浮かび上がって来て、冬に立ち向かう力を与えてくれる。「学校で習うことは社会に出て役に立つのか?」「こんなこと習って何になるの?」などということを生徒から言われたことが時々あった。これには「う~ん」とうなるだけで明確な答えは用意できない。

 「役に立つかどうかはわからないけど、各授業を通じて経験や知識を自分の中に貯め続けていると、何かの折にひょいと顔を出し、壁を乗り越えるヒントを与えてくれたり、現状を打破する力になったり、支えてくれることがあった。」といって、自分が経験してきた例を話すのだが、この詩もその一つであった。

 最近、「コスパ」が高いとか低いとかいう言葉をテレビを通じてよく聞く。私には馴染みのない言葉なので調べてみると「コスパ」とは「コストパフォーマンス」の略語で、日本語では「費用対効果」となる。

 支払ったコスト(費用)に対して、その対価として手に入るパフォーマンス(能力・成果)のことを意味して、コストは「金銭・労働・時間・情報など」を指し、パフォーマンスは「結果」を指す。

 それでいうなら、学校の授業で学習することは、「コスパ」が低い(悪い)となるのではないか。この立場に立つと「もっとすぐに役立つことを効率よく教えた方が良い」となり、無駄の排除につながっていく。

 私は、そう簡単に割り切れないのでは?と考えている。


 
コメント
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