素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

母の実家のある伊勢市・徳川山に約50年ぶりに行く

2015年03月27日 | 日記
 母の実家は伊勢市の二俣にある。小さい頃は極自然に「山の家」と呼んでいた。今思うとこの『山』には2つの意味合いがあったように思う。1つは、田の家。今でこそ伊勢市と言っているが、古くは内宮周辺地域は宇治、外宮周辺地域は山田と呼ばれ、両地域は激しく対立していた。その2つが合併して宇治山田町になったのが1889年(明治22年)である。1906年(明治39年)に宇治山田市と市政を施行した。伊勢市と名前が変更されたのは1955年(昭和30年)である。

 もう1つは、徳川家康が宮川以東の神領を管轄するため慶長8年(1603年)山田奉行所を山田吹上に置いたこともあり、実家のある地域に徳川家の係累が住んでいたということで徳川山と呼ばれていたまさに。山というよりは岡だが小さい頃に祖母の家へ行く時ダラダラ続く上り坂が大変だっと記憶している。まさに山の上にある家だったのである。

 現在は、末の弟である叔父夫婦が住んでいる。6年ほど前に脳内出血のため半身が不自由になりリハビリなどで大変だと聞いていたので訪問することをずっと遠慮してきた。松山に住んでいる兄の叔父夫婦が納骨のために伊勢に来たついでに立ち寄りたいとういうので私が車で送迎することになった。およそ50年ぶりである。小学校時代までは祖母が暮らしていたこともあり年に数度は泊まりに行っていた。そのかすかな記憶をたよりに車を走らせた。

 外宮前を通り過ぎると観光地としての顔は消え、昔ながらの町の姿となる。古びた二つのトンネルは子供心に怖かったことは鮮明に覚えている。このトンネルは昭和の初期にあった伊勢電気鉄道のためのものであったことは後で知った。1942年(昭和17年)に山田線(現在の近鉄大阪線)と競合するという事情で廃止した新松阪 - 大神宮前間の軌道が道路になっていた。当時はもっと狭く照明もほとんどなかったように思う。
  このトンネルの上のあたりが徳川山と呼ばれていた。すっかり宅地化されて昔のひなびた感じはすっかり消えていた。

 2人の叔父と一緒にゆっくり話をするのは初めてぐらいだ。小1時間、思い出話や近況について語った。その中で、墓をどうするか?ということで兄弟の意見が違った。墓の問題はこれからの大きな課題になるだろうなと話を聞いていて思った。「お前はどうする?」とたずねられても即答はできなかった。

 78歳と81歳の叔父二人、あと10年を見据えていろいろ考えていることがよくわかった。とても参考になった。
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