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素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

道徳「特別の教科に」中教審答申~18年度にも検定教科書導入~

2014年10月22日 | 日記
 今日の朝刊一面は『泉南石綿・国が和解方針』が紙面の大半を占めていたが左端の 道徳「特別の教科に」中教審答申~18年度にも検定教科書導入~がやはり目に入る。

 道徳教育の難しさについては何度かふれてきた。その難しさをふまえた上で論議を重ねていくのならいいが、現状はそうではないと思うのでいつも疑問符がついてしまう。21日に答申を受け取った下村博文・文部科学相は「道徳教育は、人が人として生きるのに必要な規範意識や思いやりの心など豊かな人間性を育むものだ」と話したと新聞にあったが。このような抽象的な表現のレベルでは「そうだな」と思っても「じゃ具体的にはどうなんだ」となると個々人によって『人が人として生きるのに必要な規範意識』は異なってくる。価値観に大きく関わるものほどそうなる。

 教科には①教科書②専門の免許を持つ教員➂数値による評価の3つの要素があるのが一般的である。これから①の教科書づくりを各出版社は始めることになるが、どのようなものができるのか興味はある。

 ②、➂は見送られるみたいで、それゆえに「特別の教科」と呼んでいるみたいだが、大切な部分を素通りしていていいのかなと思う。

 小学校への英語の導入でも免許の部分の整備が不十分なまま、担任がという見切り発車的な部分があった。教員養成のシステムをきちっとすべきだと考える。教員免許が、場合によって鉄のような重い存在となったりヘリウムガスのように軽い存在となるのはとても変なことだと思う。

 記述式の評価は難しいだろうな。。今まで接してきたたくさんの生徒を頭に思い浮かべながら、どんな評価を書くだろうかと考えてみたが、「不可能」という単語しか出て来ない。

 本来、教育という行為は教える側の価値観の押しつけを内包する。それに対して教えられる側は共感したり、反感しつつ自分自身の価値観を形成していくものだと思う。私塾のように教える側が個人の場合は問題が出て来ないが、学校のように組織として多くの教師が関わるようになると個人の価値観のぶつかり合いが生じる。これを調整して学校全体として一定の調和を保つ必要はある。

 そのためには、個人としても、集団としても、今押しつけている価値観はどうなのだという検証を常に行なっていくことが必要である。これはとってもやっかいなことだが避けて通れないものだと思う。

 それをすっ飛ばして国レベルで価値観の押しつけをしようとすると大きな問題が起こってしまう。その端的な例が、戦前と戦後における大きな価値観の転換であった。

 ある日を境に同じ教師が、生徒に向かって正反対のことを押しつけるということがなされた。私個人としてはそういうことはしたくないというのがずっと根底にあり続けた。先日のNHKスペシャルの中でもそのことをあらためて思う部分がいくつもあったが、広瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長の銅像撤去にいたる映像と映画監督の伊丹万作の言葉は強く残った。
  

   

 歴史の事実からもっと学びたいものだ。「生き方」の教育は「ほどほど」が良い。

  



 

 
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