素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

東海道新幹線開通50周年

2014年10月01日 | 日記
 東京オリンピックの開会にギリギリセーフだったという印象がある。中学2年生の時だった。当時は近鉄電車も宇治山田駅までで、伊勢と鳥羽は国鉄(現JR)の参宮線でつながれており、鳥羽と賢島間は単線の志摩電気鉄道(略して志摩電)がのんびり走っていた。そういう環境にいたので新幹線のニュースは現実味のないものだった。

 初めて新幹線を見たのは中3の修学旅行の時である。東京、箱根方面だったが、志摩電、参宮線と乗り継いで伊勢から近鉄に乗り換えてとなると名古屋で一泊する必要があった。のんびりした時代であった。名古屋から東海道線で修学旅行専用列車を使って東京に向かう途中で、新幹線に追い抜かれた時に「速い!」と興奮した。修学旅行の写真を貼ったアルバムである。
 自分達の乗った専用列車の速度が時速100kmと分かった時もガッタンゴットンの志摩電しか知らないので興奮したが、それを時速200kmで楽々と抜いて行く姿は強く印象に残った。アルバムの拙い絵がそれを物語っている。

 その修学旅行で名所、旧跡まわりよりも男子が楽しみにしていたのが浅草国際劇場での松竹歌劇団(SKD)のグランドレビューであった。なぜこんな所に行ったのか今思えば、先生の趣味?としか言いようがないが先輩からラインダンスの模様を聞かされるたびに妄想がふくらんでいった。昨日の笠置シズ子のバックで踊っていたのはNDT(日劇ダンシングチーム)だが、当時は娯楽の1つとして大きな地位を占めていたことは確かである。

 情報量の少なかった分妄想力は今の中学生より発達していたかもおしれない。ワクワクして劇場に入った私たちを待ち受けていたのは、まず座席の通路に新聞紙を敷いて座ること。「なんで椅子には座れないの?」という素朴な疑問。そして始まったのはレビューでなく「あんこ椿は恋の花」の映画。妄想が音をたててくずれていくのを感じた。なぜそうなったのかは一切説明もなかった。おそらく何か手違いがあったのだろう。

 当時は、私の住んでいた鵜方にも中央劇場と国際劇場と有楽館という3つの映画館があった。「これなら東京まで行かなくても、鵜方の国際劇場でいい」と不満を述べ合ったことが懐かしい。

 余談だが高1になって、友人のOくんに、初デートで映画に行くが心細いのでついてきてほしいとたのまれ浜島の映画館に出かけたが、そこで見たのも「あんこ椿は恋の花」だった。「頼にもよってなんでまた」という思いと二人の世界の横にいて「なんのために俺はここに座っているのか、映画が終わったらどうしたらいいのだ」という思いが頭の中を駆け巡っていた。

 東海道新幹線開通50周年のニュースを聞いてふと思い出したことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする