goo blog サービス終了のお知らせ 

素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

成人の日に

2010年01月11日 | 日記
 今朝の毎日新聞の『余録』は“「大人になる」とはどんなことか若者一人一人が答えを求め続けねばならぬ現代”ということが主題になっている。その中で、谷川俊太郎の『成人の日に』という詩が紹介されている。

       どんな美しい記念の晴着も  どんな華やかなお祝いの花束も
       それだけでは きみをおとなにはしてくれない

       他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
       自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ

       でき上がったどんな権威にもしばられず
       流れ動く多数の意見にまどわされず

       とらわれぬ子どもの魂で いまあるものを組み直し つくりかえる

 “人間”として生を受けた以上「より善いもの」を求め続ける宿命を負っているのかもしれない。その1つの区切りが成人の日、昔でいえば元服。私にとってははるか昔のことだが、「人間とは常に人間になりつつ存在だ」ということを思い起こす日にしている。

 月曜日の朝刊には[歌壇・俳壇]面があり、そこに、「俳句と青春」というコーナーがあり、何人かの俳人が交替で執筆している。一番のお気に入りは仙田洋子さんである。いつも心にグッとくる文章である。今日のもなかなか良い。『思うようにならない現実への反抗心や苛立ち』を中島みゆきの歌や若手俳人の田中亜美の句を引いて語った後、正岡子規にふれる。

それでは、今から約百年前、明治二十九年に詠まれた《三十にして 我老いし 懐炉哉》はどうか。妙に年寄りぶった冴えない句だというのが、最初の印象ではないだろうか。少なくともそれが脊椎カリエスで寝たきりとなり、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。」(病牀六尺)と書き残した正岡子規の句であると知るまでは。《老いし》と詠まざるを得ない病み衰えた肉体に、《いくたびも雪の深さを尋ねけり》《障子明けよ上野の雪を一目見ん》と若々しく弾む心が宿っているのが悲劇的だ。

 だが、激動の明治時代に青雲の志を抱きながら、病死や戦死など思い通りでない悪運に見舞われた青年は、他にも大勢いたことだろう。その中で、長年病床にありながら精一杯運命に抗い、俳句の革新に力を注いだ子規の人生は、東京の新春の空のようにからりと晴れていたと思いたい。

 先行きの見えない時代だが、先人に学びつつ生きていかねばならない。

 



 

 

 

 


       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする