カトリック信者のほとんどが教皇のことをパパ様と呼んで、愛情深い親しみを持っている。
それはパパ様の前では聖書で言われる「幼子」のようになることが証ししていると思う。
パパ様が来に来日した土曜日はMC{マザーテレサの修道会の略}山谷のブラザーと西新井のシスターたちはバチカン大使館のレセプションに呼ばれた。
17:45分にパパ様は大使館に着くとのことだった。
私は山谷のMCブラザーの院長セバスチャンにパパ様の写真を撮ってくるようにお願いした。
しかし私には一つ心配事があった。
セバスチャンは背が低く、うまく写真を撮れるかどうか心配ではあった。
と言うのは、セバスチャンはマザーテレサが亡くなった時、最終誓願のためにちょうどカルカッタに居て、マザーのお棺を運ぶ名誉に授かったのだが、いざマザーのお棺を運ぶその時になると、前もって決まっていた人以上の人がマザーのお棺に集まり、背の低いセバスチャンはお棺を運ぶのではなく、どうにかお棺に触れられるような形になってしまったと、セバスチャンから聞いた。
私はそれで「それは聖書の長血の女のようだね」と言ったものだった。
今回もそれと同じようになるのではないか、と思ったら、私の予感は少し外れたが、セバスチャンのスマホの写真を見せてもらうと、パパ様はとても近くにいるのだが暗くて、あまり良く写っては居なかった。
またマザーの時と同じように切なく、だが、微笑ましいエピソードになってしまった。
パパ様が大使館に到着し、MCシスター純愛がパパ様に花輪をあげたらしい。
これはとてもシスター純愛は嬉しかっただろう。
まさにイエスの幼子のようになり、喜んだに違いない。
ドームのミサの始まる前もパパ様があの手すり付きの車で近くを通ると走って近寄るシスター純愛の動画を見たが、やはり幼子そのままであった。
私が思うに、聖書には急いで何かをすると言う大切なテーマがある。
「走って向かう」ただひたすらに神さまのもとに、信じきるその思いで「走って向かう」のである。
体裁など何も気にせずにである。
私はそれに無性に魅かれるのである。
ここで何年かは知らないがローマでのマザーの逸話を紹介しよう。
その時、マザーはシスターとバチカンに教皇との謁見に向かった。
だが、その途中、路上でホームレスに会い、マザーは話し掛けた。
マザーはホームレスの話しを慈しみ深く聞いていたのであろう。
シスターはマザーに「もう教皇様との謁見の時間になります」と言った。
マザーはシスターに「教皇様に伝えてください。私はいまイエス様と話しているので遅れますと」と言った。
マザーにとって貧しい人はイエスそのものである。
私はマザーのようには到底なれないが、マザーのこの思いをいつでも忘れずに私のこの身体を使いたいと願っている。
マザーは言う「貧しい人の関わりは神さまの現存の証しである」と。