これを書いたのはもう10年以上前のことである。
二種類の日本に置ける貧困である。
こうしたことが無くなった訳ではない。
いまもなお、誰かがこのような現状に居るかもしれない。
私たちには何が出来るのだろうか。
微笑みを用いて、喜んで行いをすることで愛に繋がっていくのではないだろうか。
「六月二日の出来事」
山谷に行くのに電車に乗った。
二人の女の子{15、6歳の子}のそばに乗った。
一人の可愛い女の子の腕には包帯があった。きれいではないその巻き方に気がかかり、手首の方を見ていくと無数の傷跡があった。
「リスカのあとだ」私は心のなかで呟いた。
この子は昨夜も切ったのだろう・・・。どんな思いに苛まれながら、流れ行く血を眺めただろう・・・。流れ行く血の暖かさに何を思ったのだろう・・・。切っていくうちにだんだんと上のほうに上がっていくんだろう・・・。 もう何度も何度も切ったのだろう、切らざるを得なかったのだろう・・・。
何かを感じ、何かを誤魔化し、何かを確かめ、その罪を背負うのか、逃れるのか、逃れたいのか、何のために、何の罰を受けようとするのか、罰を受ければ許されるのか、どこに行けばいいのか、誰が救ってくれるのか、救ってはくれないのか・・・。
一つの傷が治癒すれば、一つの苦しみも晴れるのか。傷をいくつ作れば生きている実感を持てるのか、今まで持ったことはあるのか、それは何?わたしに持てるものなのだろうか?わたしは何者なのだろうか・・・? 生きていることに何の意味があるのだろうか・・・?生きている意味は必ず、あなたのなかにあるんだ・・・。
彼女の声と私の声が相互に重なり合ったかのように私の脳裏に浮かび上がり続けた。
電車を降りるまでの間、私はその子の痛みに対して祈り続けた。
「どうか、今日は楽しい一日を。。」
山谷の午前の炊き出しを終え、昼食を終えた午後、自転車に乗って、浅草方面にカレーを配りに行った。
ある公園で、どうにも歩けそうもない衣服の汚れきった叔父さんにあった。
彼は裸足だった。30センチほどの長方形の下水の網を持ち上げようとしていた。
「叔父さん、カレーを食べて」
「あぁ・・すごくお腹が空いているんだ・・」
「そうなんだ、ゆっくりと食べてね。またね」そう言って自分はその場を立ち去った。
浅草の東橋まで配り終え、帰りにもう一度、彼に会いに行った。
彼は下水の鉄の網を上げ、ゴミの入ったビニール袋で底にある汚れた水をすくい飲もうとしていた。。
彼がなぜ鉄の網をあげていようとしていたことがそのときになって判った。。
「喉が渇いてしょうがないんだ。。」そう呟いた。
私はカラダのなかに重く固まったものを極度に感じていた。言葉になる前の、言葉にはできない、表すことのできない何かが、そこにはあった。
命、生きる、人間、尊厳、生きようとする力、その本能、治癒力・・・、まざまざと感じざるを得ない思いになっていた。
「叔父さん、ちょっと待ってて、何か飲み物を買ってくるよ」
私はペットボトルのスポーツドリンクを買ってきた。
泥だらけの手でそのボトルをつかんでは「おいしい、、おいしいよ」って飲んでいた。500ミリのスポーツドリンクはすぐに飲み終わってしまった。そのボトルに水を入れようと水道を探したが、その公園では見つからなかった。
もう一本をスポーツドリンクを買ってきた。
まだその渇きは終わらないようだった。
一人のボランティアにブラザーの施設に行って、何か履くものをあったら持って来て欲しいと頼んだ。
その間、叔父さんといろいろと話してみた。
「今日は何日かな?」
「八日かなぁ・・」
「何月?」
「五月・・」
彼のなかでは五月八日だった。六月二日なのに・・・。
どこからの病院を抜け出してきたのか?追い出されたのか?はっきりとその理由を話せるような状態ではなかった。
ブラザーのところには履き物がなかったのでサンダルを買ってきてくれた。喜んでそれを受け容れてくれた。そして、彼と別れた。
彼と別れた場所から十メール離れたところに寝袋で寝ている知り合いの叔父さんに彼のことを頼んだ。
「ダメそうになったら、救急車を呼んで」 そう言うと快く受け入れてくれた。
どんな境遇にあろうと、誰かのためにあれるということで人は生きる力をつける。もちろん、履き違えれば、破壊をもしてしまう。がしかし、私はおじさんたちにそうした力があることを感じられる。そうした力を彼ら自身の生活のなかの一部に密接にあるように思える、痛みを知る彼らだからこそ、人情深く優しいのである。
「また会おう・・」あらゆる思いを包みまとめ、私は祈りながら、その場を離れた。