現代語訳 枕草子 大庭みな子訳 岩波書店刊
春はあけぼの。
で始まる枕草子は、森羅万象の格付け機関の様相を呈しています。
木の花は、こいのもうすいのも紅梅。
木は楓、桂、五葉の松。
草の花はなでしこ。
虫は鈴虫。ひぐらし。ちょう、松虫、きりぎりす。
川は飛鳥川。森は浮田の森。原はあしたの原。
絵にかくと、じっさいよりつまらなく見えるもの。なでしこ。しょうぶ。桜。
えがいて実物より映えるもの。松の木。秋の野。山の里。山の路。
さまにならないもの。潮が干上がった潟に座礁してしまった大船。
がっかりするもの。男も女もことばづかいのいやしいのが何よりもよくない。
・・・
すこし日が高くなり、萩などが重たげに垂れていたのが、
露の落ちるたびに枝がゆれ、人が手を触れるわけでもないのに、
上にはねあがるのがとても面白いと私は思うのだが、
そんなことは別に面白くも何ともないという人もいるらしい。
それがまた面白い。
と、世界を見つめる目が常に心と触れ合っている。
そこがこの書の面白いところです。
春はあけぼの。
で始まる枕草子は、森羅万象の格付け機関の様相を呈しています。
木の花は、こいのもうすいのも紅梅。
木は楓、桂、五葉の松。
草の花はなでしこ。
虫は鈴虫。ひぐらし。ちょう、松虫、きりぎりす。
川は飛鳥川。森は浮田の森。原はあしたの原。
絵にかくと、じっさいよりつまらなく見えるもの。なでしこ。しょうぶ。桜。
えがいて実物より映えるもの。松の木。秋の野。山の里。山の路。
さまにならないもの。潮が干上がった潟に座礁してしまった大船。
がっかりするもの。男も女もことばづかいのいやしいのが何よりもよくない。
・・・
すこし日が高くなり、萩などが重たげに垂れていたのが、
露の落ちるたびに枝がゆれ、人が手を触れるわけでもないのに、
上にはねあがるのがとても面白いと私は思うのだが、
そんなことは別に面白くも何ともないという人もいるらしい。
それがまた面白い。
と、世界を見つめる目が常に心と触れ合っている。
そこがこの書の面白いところです。
現代語訳 方丈記 佐藤春夫訳 岩波書店刊
こんなに短い文章だったのですね。でも内容は哲学的です。
飢饉の惨状について
親を愛さない子は世にあるとしても、
子を愛さない所の親は無い筈である。
だから親は必ずその得た食物を子供に与えてしまうので、
親は必ず先に餓死しなくてはならないのである。
真に最も強き愛は親の子に対する愛と言わねばならない。
自分について
今自分はこうして淋しい山の中に来て唯一間しかない所の
狭い家に住んでいるけれども精神は真に平安で、
毎日毎日を非常に楽しく暮らしているのである。
と言っていても,そこで終わらず
自分の生活というものを考えて見ると
外見は聖人のようではあるがその心持はまだまだ聖人には
遠く及美も着かないもので
全く俗人の如くに濁ったものなのである。
と結んでいることに驚きました。
800年前なのに、すでに近代人の心です。
こんなに短い文章だったのですね。でも内容は哲学的です。
飢饉の惨状について
親を愛さない子は世にあるとしても、
子を愛さない所の親は無い筈である。
だから親は必ずその得た食物を子供に与えてしまうので、
親は必ず先に餓死しなくてはならないのである。
真に最も強き愛は親の子に対する愛と言わねばならない。
自分について
今自分はこうして淋しい山の中に来て唯一間しかない所の
狭い家に住んでいるけれども精神は真に平安で、
毎日毎日を非常に楽しく暮らしているのである。
と言っていても,そこで終わらず
自分の生活というものを考えて見ると
外見は聖人のようではあるがその心持はまだまだ聖人には
遠く及美も着かないもので
全く俗人の如くに濁ったものなのである。
と結んでいることに驚きました。
800年前なのに、すでに近代人の心です。
現代語訳 蜻蛉日記 室生犀星訳 岩波書店刊
藤原兼家の妻、藤原道綱の母
いわゆる才色兼備の有閑階級の婦人の日記です。
嫉妬深くて口うるさくて素直じゃないので、
どちらかというと夫の兼家に同情的な気持ちでした
・・・妻が3人いるのだから仕方ないじゃないか・・・と
巻の上の終わりころで
こうして年が改まったとしても、うれしいわけではない。
相変わらずはかない日常であることを思うと、
こんなことを書き記していることも、あるかなきかの感じがして、
ちょうど「かげろうの日記」とでも名づけたらよいのであろう。
と書いたあたりから、自分をみつめる冷めた目が現れて来て、
読んでいてとても面白くなってきました。
生活の中の和歌の位置づけがすばらしいです。
1000年以上前にここまで文化的で詩的な生活をしていたとは!
和歌には自分の心を相手の心に直接届けようとする効果がありますね!
平安時代の他の日記文学にも挑戦してみます。
藤原兼家の妻、藤原道綱の母
いわゆる才色兼備の有閑階級の婦人の日記です。
嫉妬深くて口うるさくて素直じゃないので、
どちらかというと夫の兼家に同情的な気持ちでした
・・・妻が3人いるのだから仕方ないじゃないか・・・と
巻の上の終わりころで
こうして年が改まったとしても、うれしいわけではない。
相変わらずはかない日常であることを思うと、
こんなことを書き記していることも、あるかなきかの感じがして、
ちょうど「かげろうの日記」とでも名づけたらよいのであろう。
と書いたあたりから、自分をみつめる冷めた目が現れて来て、
読んでいてとても面白くなってきました。
生活の中の和歌の位置づけがすばらしいです。
1000年以上前にここまで文化的で詩的な生活をしていたとは!
和歌には自分の心を相手の心に直接届けようとする効果がありますね!
平安時代の他の日記文学にも挑戦してみます。