新潟カウンセリング研修センター

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私が「傍観者になっていた」といえるとき

2015-01-09 08:24:59 | 私の声
 傍観者になりたくないから„ということばが新聞を読み進めていて目にとまった。東日本大震災の被災地に足を運び、支援をし続けているかたのことばだった。ふと災害発生直後に、岩手県と宮城県の仮設住宅に、被災された方々を訪ねたことを思い出されてきた。兎にも角にも、一人の独りのその人間(ひと)の肉声を、聞かせていただきたい。よりそわせていただかないではいられない。使命感のような気持ちで。あのときから、まもなく3月で4年にならんとしている。紙面で紹介されている方の傍観者„は、それはそれとして、私にとって被災者は„ということばになって、そのことばに鈍感になったまま通り過ぎようとしているときだ。そこには、生身の人間(ひと)がいないからだ。一人の独りの人間(ひと)の哀しさを思う私が感じられていないとき。言い換えれば、被災者というひとくくりにした、一人の独りの人間はどこにも存在していないのだから。傍観者になっていた、と気づかされたことばの相(すがた)に被災者は„という言い方がある。不登校は„人間って„女は„のような類のことばも、日常よく聞くことばである。
 今年は、いまだ訪ねさせていただけていない福島県にと。肉声に聞かせていただき、゛救われた〟と、ともどもに感じられたら、それ以上の歓びはない。