1945年(昭・20)以前、私は熱烈は軍国少年(幼年?)であった。国民学校(今の小学校)へ入学した折、教師がお定まりの質問をした。
「大きくなったら何になりたいか?」
私は、「ハイ、天皇陛下のような偉い人になりたいです」と答えたが、教師は眉をひそめていったのだった。
「天皇陛下は神様です。私達がどんなに頑張ってもなれません」
そこで私はランクを下げて、「それでは、東条英機のような立派な大将になりたいと思います」と答えた。
教師は満足げに頷くのだった。
幼心に、大将になるのが並大抵ではないことは、どこかで分かっていたが、天皇陛下のために闘って死ぬのだという思いは変わらなかった。
これは、私の特殊な思いではない。その頃多くの少年たちがそう思っていたはずだし、またそういう方向で強烈な教育が行われていた。
そしてまた、私達の回りでは続々と戦死者の報が届き、私達と一世代上の若者たちが、神風特攻隊として出撃し散っていった時代であった。
ただし、子供なりにそれ相当の山っ気があった私は、戦場でただ敵弾に当たってころんと死ぬのはイヤだった。やはり、華々しく闘って、軍神と崇められるような壮烈な死を選びたかった。
その壮烈な死のお手本は、修身の教科書にあり、人口に膾炙されていた二つの英雄譚にあった。
ひとつは、日清戦争において戦死したラッパ手、木口小平の物語で、彼は敵弾に的り戦死を遂げたのだが、「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」で有名であった。
もうひとつのお手本は、1932年のいわゆる上海事件で生まれた国民的英雄「爆弾三勇士」の物語であった。
これは相手陣地の強固な鉄条網に前進を阻まれていた前線で、三人の勇士が点火した爆弾を抱えてその鉄条網に突進し、自分たちの命共々その鉄条網を破壊し、軍の前進を可能にしたというものであった。
幼少の頃、ミサイルのような爆弾を三人の兵士が抱えて突進する絵画や銅像を幾度となく見たものである。
彼等の快挙を讃えるグラビアが巷に溢れ、与謝野鉄幹や山田耕筰が関与した複数の歌も作られた。やがて映画にもなった。
それらこそ、私にとってのお手本であった。どうせ天皇のために死ぬのならこのくらい華々しくなくっちゃぁと思った。
しかし、このお手本を実行する前に戦争は終わった。
私は今も、こうして生き残っている。
ところで、このお手本の二つの例であるが、戦後、様々な実像が明らかとなった。
先のラッパ手の話は、実は最初、白神とかいう別のラッパ手の話として伝えられ、それが後に訂正されたりして、事実はどうもあやふやであること、加えて、ラッパを離さなかったのは単なる死後硬直のせいだなどという説も出て、大いにしらけるところとなった。
さて、もうひとつの方の「爆弾三勇士」の方であるが、これも多分、幾分の誇張や美化はあるだうとは思っていたし、眉唾だと聞いたこともあった。
それがまた、軍部と新聞がでっち上げとんでもないオーバーなフィクションだったことが改めて確認されるところとなった。
「朝日新聞」は、6月13日付で、シリーズ「戦争と新聞」の特別版として、ほぼ一面を割いて、「肉弾三勇士」物語を特集しているが、それによると、あの作戦自体が何ら自爆を目標としたものではなく、単なる事故に近いもの、あるいはそれに現場の上官の威圧が加わったものにすぎなかったというのだ。
国立公文書館の内務省警保局保安課によって保管されている目撃者の聴き取り資料は、以下のことを告げている。
強固な鉄条網に悩まされたことは事実だが、そして、それを破壊するために爆弾を仕掛けようとしたのは事実だが、決して自爆を要するようなものではなかった。
事実はどうだったかというと、爆薬を運び素早く帰ってくる作戦だったのだが、3人の内の一人が、何らかの事情で転倒し、爆発までの時間が足りなくなってしまい、戻ろうとしたのだが、現場にいた上官が「天皇のためだ国のためだ行け!」(前出聴取書による)と怒鳴りつけたので、再び鉄条網に行き、到着するやいなや爆弾が炸裂し、三人が犠牲になったというものである。
要するに、写真でセルフタイマーをセットして慌てて自分の写る場所に戻ろうとしたのだが、途中で転んだかなにかして、シャッターが降りてしまったと同様の事故だったのである。ただし、転んだ兵士たちにさらに前進を強要した上官の行為は許し難いものがある。
これが、決して自爆の英雄的行為を必要とした作戦ではなかったことの、もうひとつの確たる証拠がある。それは、この作戦に従事したのは、彼等三人だけではなく、もう一組、三人が爆弾を運んだが、彼等は首尾よく爆弾を鉄条網のもとに運び、全員無事陣地へ帰還しているのだ。そしてその爆弾は誰一人傷つけることもなく鉄条網を破壊したというのだ。
これが実際の作戦だったのである。
当初、この帰還した三人も含め、「六勇士」とすべきではという声もあったようだが、それでは死んだ三人の美談としとの効果や国民への衝撃度が弱まるというので、「三勇士」に絞られたのだという。
この事実、既に当時においても知る人ぞ知るで、その年の7月には、陸軍工兵隊の小野中佐という人の、『爆弾三勇士の真相と其の観察』という本が出版され、上に述べたような事実がはっきり書かれているそうなのだ。
こうした「事故」、そして上官の「強要」に基づく事態が、英雄物語にふくれあがる過程には、軍部の忠誠心養成の思惑と、この「朝日新聞」をも含めたマスコミの特ダネ作り、美談作りの競演が重なったものと思われる。
軍部も、新聞も、上記のような事実を知っていたにもかかわらず、その事実を隠蔽し、三人の英雄的「自爆行為」という虚構に焦点を合わせ、国民を煽り立てるという極めて恣意的な情報操作を行ったのであった。
それにより、死して天皇のため、国のために尽くせという一大キャンペーンが強化され、私のような小国民にまで、日本人として生まれた以上、天皇のために死すのは当たり前という観念を植え付け、また、実際に多くの若者たちを戦場へと狩り出して無為に死に至らしめたのである。
とりわけ、この「事故」を、「自爆」と言いつのることが、その後の「神風特攻隊」や人間魚雷「回天」のほとんど戦略戦術としては効果がない悪あがきに継承され、多くの命を無為に失わせた契機となったことを見逃すわけには行かない。
どこかのお坊ちゃん首相は、今やお尻に火がついて、「美しい国」や「憲法」に言及するいとまもないようであるが、その「美しさ」や「改憲」の行く手が、上に述べたような醜い事実と繋がるのではないかという疑念を拭い去ることは出来ない。
かつて、若者たちを死に狩り立てた道具として、戦死を美談とする新聞を始めとするマスコミがあり、そして、徹底した皇民化という洗脳教育があった。要するに情報の管理と教育の管理であるが、これが現在、お坊ちゃん首相の目論見として、「最重要課題」などといわれたりしている。
しかし、まずはこの辺で踏み留まるべきではあるまいか。
「大きくなったら何になりたいか?」
私は、「ハイ、天皇陛下のような偉い人になりたいです」と答えたが、教師は眉をひそめていったのだった。
「天皇陛下は神様です。私達がどんなに頑張ってもなれません」
そこで私はランクを下げて、「それでは、東条英機のような立派な大将になりたいと思います」と答えた。
教師は満足げに頷くのだった。
幼心に、大将になるのが並大抵ではないことは、どこかで分かっていたが、天皇陛下のために闘って死ぬのだという思いは変わらなかった。
これは、私の特殊な思いではない。その頃多くの少年たちがそう思っていたはずだし、またそういう方向で強烈な教育が行われていた。
そしてまた、私達の回りでは続々と戦死者の報が届き、私達と一世代上の若者たちが、神風特攻隊として出撃し散っていった時代であった。
ただし、子供なりにそれ相当の山っ気があった私は、戦場でただ敵弾に当たってころんと死ぬのはイヤだった。やはり、華々しく闘って、軍神と崇められるような壮烈な死を選びたかった。
その壮烈な死のお手本は、修身の教科書にあり、人口に膾炙されていた二つの英雄譚にあった。
ひとつは、日清戦争において戦死したラッパ手、木口小平の物語で、彼は敵弾に的り戦死を遂げたのだが、「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」で有名であった。
もうひとつのお手本は、1932年のいわゆる上海事件で生まれた国民的英雄「爆弾三勇士」の物語であった。
これは相手陣地の強固な鉄条網に前進を阻まれていた前線で、三人の勇士が点火した爆弾を抱えてその鉄条網に突進し、自分たちの命共々その鉄条網を破壊し、軍の前進を可能にしたというものであった。
幼少の頃、ミサイルのような爆弾を三人の兵士が抱えて突進する絵画や銅像を幾度となく見たものである。
彼等の快挙を讃えるグラビアが巷に溢れ、与謝野鉄幹や山田耕筰が関与した複数の歌も作られた。やがて映画にもなった。
それらこそ、私にとってのお手本であった。どうせ天皇のために死ぬのならこのくらい華々しくなくっちゃぁと思った。
しかし、このお手本を実行する前に戦争は終わった。
私は今も、こうして生き残っている。
ところで、このお手本の二つの例であるが、戦後、様々な実像が明らかとなった。
先のラッパ手の話は、実は最初、白神とかいう別のラッパ手の話として伝えられ、それが後に訂正されたりして、事実はどうもあやふやであること、加えて、ラッパを離さなかったのは単なる死後硬直のせいだなどという説も出て、大いにしらけるところとなった。
さて、もうひとつの方の「爆弾三勇士」の方であるが、これも多分、幾分の誇張や美化はあるだうとは思っていたし、眉唾だと聞いたこともあった。
それがまた、軍部と新聞がでっち上げとんでもないオーバーなフィクションだったことが改めて確認されるところとなった。
「朝日新聞」は、6月13日付で、シリーズ「戦争と新聞」の特別版として、ほぼ一面を割いて、「肉弾三勇士」物語を特集しているが、それによると、あの作戦自体が何ら自爆を目標としたものではなく、単なる事故に近いもの、あるいはそれに現場の上官の威圧が加わったものにすぎなかったというのだ。
国立公文書館の内務省警保局保安課によって保管されている目撃者の聴き取り資料は、以下のことを告げている。
強固な鉄条網に悩まされたことは事実だが、そして、それを破壊するために爆弾を仕掛けようとしたのは事実だが、決して自爆を要するようなものではなかった。
事実はどうだったかというと、爆薬を運び素早く帰ってくる作戦だったのだが、3人の内の一人が、何らかの事情で転倒し、爆発までの時間が足りなくなってしまい、戻ろうとしたのだが、現場にいた上官が「天皇のためだ国のためだ行け!」(前出聴取書による)と怒鳴りつけたので、再び鉄条網に行き、到着するやいなや爆弾が炸裂し、三人が犠牲になったというものである。
要するに、写真でセルフタイマーをセットして慌てて自分の写る場所に戻ろうとしたのだが、途中で転んだかなにかして、シャッターが降りてしまったと同様の事故だったのである。ただし、転んだ兵士たちにさらに前進を強要した上官の行為は許し難いものがある。
これが、決して自爆の英雄的行為を必要とした作戦ではなかったことの、もうひとつの確たる証拠がある。それは、この作戦に従事したのは、彼等三人だけではなく、もう一組、三人が爆弾を運んだが、彼等は首尾よく爆弾を鉄条網のもとに運び、全員無事陣地へ帰還しているのだ。そしてその爆弾は誰一人傷つけることもなく鉄条網を破壊したというのだ。
これが実際の作戦だったのである。
当初、この帰還した三人も含め、「六勇士」とすべきではという声もあったようだが、それでは死んだ三人の美談としとの効果や国民への衝撃度が弱まるというので、「三勇士」に絞られたのだという。
この事実、既に当時においても知る人ぞ知るで、その年の7月には、陸軍工兵隊の小野中佐という人の、『爆弾三勇士の真相と其の観察』という本が出版され、上に述べたような事実がはっきり書かれているそうなのだ。
こうした「事故」、そして上官の「強要」に基づく事態が、英雄物語にふくれあがる過程には、軍部の忠誠心養成の思惑と、この「朝日新聞」をも含めたマスコミの特ダネ作り、美談作りの競演が重なったものと思われる。
軍部も、新聞も、上記のような事実を知っていたにもかかわらず、その事実を隠蔽し、三人の英雄的「自爆行為」という虚構に焦点を合わせ、国民を煽り立てるという極めて恣意的な情報操作を行ったのであった。
それにより、死して天皇のため、国のために尽くせという一大キャンペーンが強化され、私のような小国民にまで、日本人として生まれた以上、天皇のために死すのは当たり前という観念を植え付け、また、実際に多くの若者たちを戦場へと狩り出して無為に死に至らしめたのである。
とりわけ、この「事故」を、「自爆」と言いつのることが、その後の「神風特攻隊」や人間魚雷「回天」のほとんど戦略戦術としては効果がない悪あがきに継承され、多くの命を無為に失わせた契機となったことを見逃すわけには行かない。
どこかのお坊ちゃん首相は、今やお尻に火がついて、「美しい国」や「憲法」に言及するいとまもないようであるが、その「美しさ」や「改憲」の行く手が、上に述べたような醜い事実と繋がるのではないかという疑念を拭い去ることは出来ない。
かつて、若者たちを死に狩り立てた道具として、戦死を美談とする新聞を始めとするマスコミがあり、そして、徹底した皇民化という洗脳教育があった。要するに情報の管理と教育の管理であるが、これが現在、お坊ちゃん首相の目論見として、「最重要課題」などといわれたりしている。
しかし、まずはこの辺で踏み留まるべきではあるまいか。