子供は待つことを知りません。
その欲望をすぐに満たすことを要求します。
それに対し、その充足には待つことが、つまり迂回することが必要だと教えるのが教育であるのかも知れません。大人は待ちます。まるで、人生とは待つことだともいうかのように・・。
バスや電車を待ちます。
宝くじが当たるのを待ちます。
恋しい人がこちらを向いてくれるのを待ちます。
降りかかっている災いが除かれるのを待ちます。
努力した成果の実りを待ちます。
季節が変わって自然が変化するのを待ちます。
夜が明け日が昇るのを待ちます。
でも、じっと待っているそれらはほんとうに来るのでしょうか。
上に述べた例の中でも、確実に来そうなものと、必ずしもそうでないものもあります。
しかし、確実に来るものというのはあるのでしょうか。
それ自身、一定の限度や条件のうちにおいてではないでしょうか。
電車は確実に来るのでしょうか?
そう、脱線事故や天災による支障がない限り。
季節や昼夜の交代は確実でしょうか?
そう、あと45億年後に地球の寿命が終わるまでは。
ただし、その途中の他の天体との衝突などによる異変は不確定です。
反面、宝くじはなかなか当たりません。
努力すれば報われない場合も多々あります。
降りかかった災いはなかなか取り除かれません。
しかし、宝くじは誰かには当たっています。
(残念ながらそれは私にではないのですが)
努力が報われた人もいます。
(私の場合、多少はといった程度ですが)
災いが転じて福となった人もいます。
(私の場合はそういう見方をすればそうかなといった程度です)
こうしてみてくると、待つという行為の中には、かなりの不確定な要因があることが分かります。ある種の長いスパーンでみた場合は可能であったり、逆に、短いスパーンの中でのみ可能であったりもします。
しかし、これが待つことの面白さであり、そこにおいて物語や、あるいは歴史が生まれる可能性があるような気がします。
これはおそらく、科学がいくら発達しても残る分野ではないでしょうか。科学はひとつの系を想定して法則性を打ち立てますが、私たちの現実は幾重もの複雑な要因が錯綜していて、それらすべてを読み込むことは不可能だと思います。
もし、未来がすべて予測され、待つことが確実に起こるとき、そこには人間に関するいかなる物語も、そして歴史も残されてはいないでしょう。
この写真のみ昨年名古屋駅で撮したもの
むかし、笑い話に、未来予測が発達したら、明日、どこで火事が起こるのかが分かる、従って予め消防自動車がそこに待機すればよい、というのがありましたが、このパラドックスは、それぐらいなら火事そのものを生じさせないようにすればよいということでした。
ことほどさように、待つということは、期待と、にもかかわらずそれが裏切られるかもしれないという境界の間にある行為なのではないでしょうか。
だから私たちは待つのではないでしょうか。
さてと、宝くじでも買いに行きましょうか(笑)。
その欲望をすぐに満たすことを要求します。
それに対し、その充足には待つことが、つまり迂回することが必要だと教えるのが教育であるのかも知れません。大人は待ちます。まるで、人生とは待つことだともいうかのように・・。
バスや電車を待ちます。
宝くじが当たるのを待ちます。
恋しい人がこちらを向いてくれるのを待ちます。
降りかかっている災いが除かれるのを待ちます。
努力した成果の実りを待ちます。
季節が変わって自然が変化するのを待ちます。
夜が明け日が昇るのを待ちます。
でも、じっと待っているそれらはほんとうに来るのでしょうか。
上に述べた例の中でも、確実に来そうなものと、必ずしもそうでないものもあります。
しかし、確実に来るものというのはあるのでしょうか。
それ自身、一定の限度や条件のうちにおいてではないでしょうか。
電車は確実に来るのでしょうか?
そう、脱線事故や天災による支障がない限り。
季節や昼夜の交代は確実でしょうか?
そう、あと45億年後に地球の寿命が終わるまでは。
ただし、その途中の他の天体との衝突などによる異変は不確定です。
反面、宝くじはなかなか当たりません。
努力すれば報われない場合も多々あります。
降りかかった災いはなかなか取り除かれません。
しかし、宝くじは誰かには当たっています。
(残念ながらそれは私にではないのですが)
努力が報われた人もいます。
(私の場合、多少はといった程度ですが)
災いが転じて福となった人もいます。
(私の場合はそういう見方をすればそうかなといった程度です)
こうしてみてくると、待つという行為の中には、かなりの不確定な要因があることが分かります。ある種の長いスパーンでみた場合は可能であったり、逆に、短いスパーンの中でのみ可能であったりもします。
しかし、これが待つことの面白さであり、そこにおいて物語や、あるいは歴史が生まれる可能性があるような気がします。
これはおそらく、科学がいくら発達しても残る分野ではないでしょうか。科学はひとつの系を想定して法則性を打ち立てますが、私たちの現実は幾重もの複雑な要因が錯綜していて、それらすべてを読み込むことは不可能だと思います。
もし、未来がすべて予測され、待つことが確実に起こるとき、そこには人間に関するいかなる物語も、そして歴史も残されてはいないでしょう。
この写真のみ昨年名古屋駅で撮したもの
むかし、笑い話に、未来予測が発達したら、明日、どこで火事が起こるのかが分かる、従って予め消防自動車がそこに待機すればよい、というのがありましたが、このパラドックスは、それぐらいなら火事そのものを生じさせないようにすればよいということでした。
ことほどさように、待つということは、期待と、にもかかわらずそれが裏切られるかもしれないという境界の間にある行為なのではないでしょうか。
だから私たちは待つのではないでしょうか。
さてと、宝くじでも買いに行きましょうか(笑)。
確かに、少し気が短いところと子供っぽいところをお持ちだと思います。しかし、それは只今さんの魅力であるし若さの源のような気が致します。
アンファン(子供)の好奇心は創造や鑑賞にとって必要な資質だと思います。
今まとめているモーツアルトについての論考は、もっぱらその観点から、アンファンでありスキゾフレーニーであったからこそ、その多様な創造が可能であったのだというところを強調しています。
>冠山様
「情け無いと思わないこととしている」
私もそうありたいと思っています。
写真の方は、逆光線で取ってみたら、少し面白くなったという、いわば、怪我の功名です。
それにしても、岐阜駅のスナップはいいですね。ああいう芸当の持ち主が羨ましい。ぼくのデジカメは常にピンボケばかりです。
例えば「待つ」ということは、人の話をよく聞くことですが、私はそれが出来ません。何故かを考えてみますと、
例えば「待てば海路の日和かな」というのは、余裕のある人の言い分ではないか、亀に対する兎の説教ではないかと思ってきたからです。
例えば、「果報は寝て待て」という宝くじは買ったことはありませんが、馬券はよく買います。貴方任せにはしたくないと思うからです。
そして、万博で並んだことは一度もなく、パソコンを開く時、待つ時間が長くなったので買い換えようかと思ってみたりしています。
しかしそれらは言ってみれば、単に我慢のできない「子ども」だったからです。
ということが、人生の終わり近くになつてやつと判りかけてきたというのは、これ以上ない「こどもっぽさ」ですが、どこかから聞こえてこなくもありません。
「終わりを待つことは、始まりを待つこと!」。