八月は嫌いな月だ。
幼い頃、戦争で多くの人が死んだ。
そこで私も死ぬはずだったのに、戦争に敗けてもう死ななくてもいいと言われた。
昨日まで、「大きくなったら天皇のために立派に戦って死ね」と言っていた人たちがそう言った。
幼い私はすでにして「人生の目的」を失った。
でもここまで生き延びたのはその都度、生きる目的をおのれに設定してきたからだ。
もちろん、その過程でとんでもない間違いを何度もしてきたのだが。
そうそう、八月の話だった。
中学生の時、全国合唱コンクールに出場するためのメンバーに選ばれた。
歌がうまかったからではなく、きっとこの美貌からして舞台が映えると判断されたのだろう。
夏休みのほとんど毎日、練習のために学校へ通った。
近所のワルガキが、「これから長良川へゆくんじゃ」とはしゃいでいるときでも、私は見向きもせず学校へと通った。
ひたすら芸術という崇高な使命に殉ずるためにだ。
苦しかった練習の夏が終わって、秋口、岐阜県大会の予選が始まり、私たちは会場となった学校の講堂へと集まった。
まもなく出番というとき、指導している教師から意外なことが告げられた。
「メンバーが大会の基準よりひとり多いので、ひとりの出場を辞退してもらう」というのだ。
なぜそんなことになったかというと、途中での脱落や当日の病欠を考えて、予め定員よりひとり多い編成で練習してきたというのだ。
ところが、誰も脱落せず、病気にもかからずここまで来たせいで、ひとり余ってしまったというわけだ。
でどうするかというと、ジャンケンで決めるのだという。
各グループでジャンケンをし、負けたものが集められさらに…という過程が繰り返され、その都度人数が少なくなっていった。
そして私はその少ない人数の中に居続け、あろうことか最後のひとりになるまで居残ったのだった。
「六、君は客席から応援してくれ」というのが教師の冷酷な宣告であった。
それ以降はあまり記憶にない。
客席から奇声を発し演奏の妨害をしてやろうかなどと企てる必要もなく、わが校は予選で敗退した。
当たり前だ。私という大エースを欠いて臨んだ試合に勝てるわけがない。
イチローを欠いたマリナーズのようなものだ(あ、イチローが打っても負けてるか、まあこの際それはどうでもいい)。
「ざまあみろ」とは言わなかったが、それが当然の結果だと思った。
休耕田に生えた苔が水に浸かってめくれてきた
ところで、私のあの夏休みの日々の精進はなんだったのか。
「それは決して無駄な努力ではなかった」というのはきれいごとにすぎない。
多感な時期の私にとって、他にすべきこと、したいことは山ほどあった。
ああ、それなのに、私はなんのためのこの夏の時間を消耗したのか。
だから、ある時、「コンクールの反省会があるから、メンバーは放課後残るように」と言われたとき私は断固として残らなかった。
私は「メンバー」ではなかったし、これ以上の無駄を重ねたくはなかったのだ。
それに、その反省会で、「私たちが敗けたのは、六がいなかったからだ」という謙虚な反省の言葉が出てくるはずがないと思ったからだ。
それ以来私は、合唱というあのファッシズムにも似た形式が嫌いになった。
なんで指揮棒に合わせて、みんな同様に口をパクパクしなければならないんだ。
そこから回復できたのはシューマンのおかげであった。
彼の「流浪の民」をしみじみと聴いたとき、合唱というのもさほどに悪いものではないと思った。
ただし、合唱コンクールというのは未だに好きではない。
「指揮は〇〇先生」などと聞くと「ケッ!」と思ってしまう。
私の奪われたあのいとおしい八月。
私がグレもせず今日ここまでこれたのは、その後、そうしたコンクールなどという他者の設定した目標に惑わされることなく、自ら目標を設定することを学んできたからである。
それは誤りの集積だったかもしれない。
それでもいい。他者の設定に乗せられて、最終段階で放り出されるよりよほどましだ。
といったわけで、私がこの八月を忌み嫌うわけをお分かりいただいたであろうか。
しかし、私にとって最も忌々しいのは、あのコンクールと練習の日々について、一番良く覚えているのはほかならぬこの私だということだ。
他の連中もいいジジババになっているだろうが、もはやそんなコンクールがあったことすら多分覚えてはいないであろう。
ああ、嫌だ嫌だ、八月なんて早くどこかへ行ってしまうがいい!
幼い頃、戦争で多くの人が死んだ。
そこで私も死ぬはずだったのに、戦争に敗けてもう死ななくてもいいと言われた。
昨日まで、「大きくなったら天皇のために立派に戦って死ね」と言っていた人たちがそう言った。
幼い私はすでにして「人生の目的」を失った。
でもここまで生き延びたのはその都度、生きる目的をおのれに設定してきたからだ。
もちろん、その過程でとんでもない間違いを何度もしてきたのだが。
そうそう、八月の話だった。
中学生の時、全国合唱コンクールに出場するためのメンバーに選ばれた。
歌がうまかったからではなく、きっとこの美貌からして舞台が映えると判断されたのだろう。
夏休みのほとんど毎日、練習のために学校へ通った。
近所のワルガキが、「これから長良川へゆくんじゃ」とはしゃいでいるときでも、私は見向きもせず学校へと通った。
ひたすら芸術という崇高な使命に殉ずるためにだ。
苦しかった練習の夏が終わって、秋口、岐阜県大会の予選が始まり、私たちは会場となった学校の講堂へと集まった。
まもなく出番というとき、指導している教師から意外なことが告げられた。
「メンバーが大会の基準よりひとり多いので、ひとりの出場を辞退してもらう」というのだ。
なぜそんなことになったかというと、途中での脱落や当日の病欠を考えて、予め定員よりひとり多い編成で練習してきたというのだ。
ところが、誰も脱落せず、病気にもかからずここまで来たせいで、ひとり余ってしまったというわけだ。
でどうするかというと、ジャンケンで決めるのだという。
各グループでジャンケンをし、負けたものが集められさらに…という過程が繰り返され、その都度人数が少なくなっていった。
そして私はその少ない人数の中に居続け、あろうことか最後のひとりになるまで居残ったのだった。
「六、君は客席から応援してくれ」というのが教師の冷酷な宣告であった。
それ以降はあまり記憶にない。
客席から奇声を発し演奏の妨害をしてやろうかなどと企てる必要もなく、わが校は予選で敗退した。
当たり前だ。私という大エースを欠いて臨んだ試合に勝てるわけがない。
イチローを欠いたマリナーズのようなものだ(あ、イチローが打っても負けてるか、まあこの際それはどうでもいい)。
「ざまあみろ」とは言わなかったが、それが当然の結果だと思った。
休耕田に生えた苔が水に浸かってめくれてきた
ところで、私のあの夏休みの日々の精進はなんだったのか。
「それは決して無駄な努力ではなかった」というのはきれいごとにすぎない。
多感な時期の私にとって、他にすべきこと、したいことは山ほどあった。
ああ、それなのに、私はなんのためのこの夏の時間を消耗したのか。
だから、ある時、「コンクールの反省会があるから、メンバーは放課後残るように」と言われたとき私は断固として残らなかった。
私は「メンバー」ではなかったし、これ以上の無駄を重ねたくはなかったのだ。
それに、その反省会で、「私たちが敗けたのは、六がいなかったからだ」という謙虚な反省の言葉が出てくるはずがないと思ったからだ。
それ以来私は、合唱というあのファッシズムにも似た形式が嫌いになった。
なんで指揮棒に合わせて、みんな同様に口をパクパクしなければならないんだ。
そこから回復できたのはシューマンのおかげであった。
彼の「流浪の民」をしみじみと聴いたとき、合唱というのもさほどに悪いものではないと思った。
ただし、合唱コンクールというのは未だに好きではない。
「指揮は〇〇先生」などと聞くと「ケッ!」と思ってしまう。
私の奪われたあのいとおしい八月。
私がグレもせず今日ここまでこれたのは、その後、そうしたコンクールなどという他者の設定した目標に惑わされることなく、自ら目標を設定することを学んできたからである。
それは誤りの集積だったかもしれない。
それでもいい。他者の設定に乗せられて、最終段階で放り出されるよりよほどましだ。
といったわけで、私がこの八月を忌み嫌うわけをお分かりいただいたであろうか。
しかし、私にとって最も忌々しいのは、あのコンクールと練習の日々について、一番良く覚えているのはほかならぬこの私だということだ。
他の連中もいいジジババになっているだろうが、もはやそんなコンクールがあったことすら多分覚えてはいないであろう。
ああ、嫌だ嫌だ、八月なんて早くどこかへ行ってしまうがいい!
とはいっても、歴史の認識は客観的でなければならず、
・従軍慰安婦⇒韓国朝鮮の公娼を利用しただけ。強姦でも性奴隷でもない。ベトナム戦争での韓国兵の所業とは天と地の差。
・強制連行⇒国家による強制的なものでも、奴隷狩りのようなものでもない。むしろ、不法入国を日本政府が黙認しただけのもの。
・日韓併合⇒当時の国際法上適法に結ばれた条約であって国と国との対等な合併。西欧諸国の植民地経営のように、資源を搾取し、奴隷労働を強制したり人身売買をしたものではない。国内以上に投資をし、近代化の基礎を作ったもの。
など、誤った理解については、堂々と正すことが必要と考えます。
歴史はあくまでもある特定の立場から、あるいはある特定の未来志向から導き出される歴史的事実の抽出です。
歴史は科学ではありません。
ですからある公理のようなものから演繹されるものではないのです。
現実に起きる事態は無数です。
歴史家はその中から「彼の」歴史を構成するに相応しい事象を取り上げます。この時点で既にして彼のパースペクティヴによる事実の選択が為されます。
ここで排除された事実は「なかったこと」になります。
選択された事態の評価も、また、ある事態とある結果の結合や必然性の度合いも、価値判断を除外するわけには行きません。
ですから、現実にそうであるように、無数の歴史が並行して存在します。
ただし、歴史がある客観性に至る方法が多少はあります。そのひとつは、それらが対象とする出来事と現在との時間的隔たりです。
ここでは、利害関係における価値判断の影響力が薄れていますから、割合各歴史間のぶれが少なくなります。
しかし、これとても、「現在への影響や継承」を基準にした選択ですから、切り捨てられてしまった無数の事実があったわけです。
もう一つは、割合新しい事象でも、数値化して判断できる史料の客観性のようなものが確定する場合があります。
たとえば日本の人口の推移のようなものです。
しかし、上にN響大好き。さんがお挙げになったような「事実」は、そのパースペクティヴによって全く異なるものです。
従って、具体的事実には触れませんが、当時の条約上の字面や権利義務関係の表層では理解できないものがあるように思います。
それは、彼我の軍事的、経済的力の差異が背後に厳然としてあったということです。それらは、たとえば戦後日米間に結ばれた多くの条約などについても言えることで、全くの不平等として既に廃棄されたものも含めて、それらは、日本政府の承認を得たもので、アメリカにいわせれば全く合理的かつ合法的だったわけです。
N響大好き。さんが韓中の歴史認識を容認できないように、彼らもまたN響大好き。さんがお挙げになった事柄を絶体に容認しないでしょう。彼らを説得してみたことはありますか?
さて、客観的な事実はどこにありますか? N響大好き。さんが、あるいはまた韓中が、自分たちのみが正しいとする特権的根拠を相互に持ち得ないことは明らかですよね。
繰り返しますが、歴史は科学ではありません。
むしろこの時間系列のなかで、自分が何を志向するかを表明するようなものだと理解しています。
ただし、その結果として抽出されたものを相互に比較検討し、合意できる点は共通の歴史認識として保持して行くことは可能ですし、そうした作業は日韓中の間でもう始まっています。
さきごろ、その経過が発表されたようですが、その相互の一致と違いのなかに、私たちがこの東アジアで平和に共存して行くことの鍵があるように思います。
気長に見守りたいものです。