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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

桑名紀行 六華苑・七里の渡し跡・蛤うどん御膳

2018-03-28 11:55:14 | 歴史を考える
 過日、歴史や故事来歴に詳しい人とともに桑名を訪れた。
 桑名はこれまで何度も通ったことがあったが、いつも「通る」だけの通過地で、街そのものに足をとどめたことはない。
 岐阜から大垣経由で、養老山脈に沿って南下する。山裾に早咲きの桜などが散見でき、のどかな山里の風情が広がる。

            
            

 桑名駅で名古屋から来た人と落ち合い、最初の目的地六華苑へ。
 ここは、山林王として知られた桑名の実業家諸戸清六の邸宅で、大正二年、当時としては最先端でモダンな洋館と、伝統的な日本家屋とが接合する珍しい複合建築として建てられたものであり、その洋館部分は鹿鳴館なども手がけたジョサイア・コンドルによるものである。

                          
            
            

 入り口で入苑料を払おうとしたら、「今日はテレビのクルーが入っているため、見学に制限があったりして支障を及ぼす恐れもありますので無料で結構です」とのこと。
 え、え、この段階ではそれが吉なのか凶なのかはわからなかったが、結論を言ってしまうと「ラッキー!」であった。確かに庭園の一角をそのクルーが占めて取材をしていたり、似つかわしくない場所にケーブルが這っていたりしたが、彼らの取材手順と私たちの見学コースがバッティングしなかったせいもあって、何の支障もなく、見るべきものは見ることができた。

    
    

 1,800㎡という広大な敷地に、和洋複合様式の建築がとても面白いバランスを見せている。和風建築の南北両側には、長~い廊下があり、その間に幾つかの部屋がある。そのどれもが少しずつ違った佇まいを見せているのも面白い。突き当りは、当時の町家建築がそうであったように蔵造りとなっていて、ここが貴族や武家の住まいではなく、商人のそれであったことが実感できる。



 六華苑をあとにして、というかすぐ近くの七里の渡し跡へ。
 ご承知のように東海道五三次は、熱田の宿とこの桑名宿の間は、海路であって、その距離が約三〇キロ弱であったことから七里の渡しといわれた。
 現名古屋市の熱田宿周辺はすっかり埋め立てられて、今や海の面影もないが、こちらの桑名は、無論当時のままではないにしてもその面影を残している。

 
 木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)のうち、長良川と揖斐川が合流し伊勢湾に注ぐ河口近くにその場所はある。
 それが一望できる辺りに来たとき、実に醜悪で嫌なものを見てしまった。長良川河口堰である。予め覚悟はしていたものの、改めてこんなものは目にしたくない。
 洪水対策と銘打ったそれは、実際には天然鮎の遡上やサツキマスの往来をほとんど遮断し、長良川の生態系を激変させたほか、この周辺のシジミ漁に壊滅的な打撃を与えた土建屋行政のシンボルともいえるものだ。

            

 そちらはできるだけ見ないようにして、辺りを散策する。かつての船着き場辺りから西の方角には、名古屋駅前の高層ビル群を望むことができるし、さらにやや北へ視線を移すと、白い冠雪を輝かせた御岳を見ることもできた。
 写真の水門の間、やや左の茶色い建物の上に見えるのが御岳である。

 海上往来の無事を祈る住吉神社、かつての船着き場のランドマークであった蟠龍櫓などを見学し、いにしえの東海道の賑わいを回想したのだった。

            
            

 けっこう歩き疲れたので、ランチということに。
 やはりここに来た以上、ハマグリを食べないことにはゆかないだろう。ということで、「歌行燈」というお店で「蛤うどん御膳」をいただくことに。
 小ぶりな蛤が入ったうどんは、それでも出汁に蛤の味がでて、けっこう美味しかった。

 このあとも結構面白いところへ行ったが、それはまた次回にでも。

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