男には熱中症の危険を犯してでもやり遂げねばならないこともある。
え?女にもあるって?そうでしょうね。失礼しました。
まあ、いってみればそれぐらい意気込んで出かけたということで・・・。
ようするに出かけた。浅葱色のシャツに紺の綿パン、オット帽子を忘れてはいけない。足回りは素足に雪駄だ。暑い時はこれが一番だ。
田んぼに挟まれた田舎道を進む。先週末頃から水を引き始めたばかりで、まだ田植えを済ませた田は数えるほどしかない。しかし、水が張られただけでなんとなく華やいだ感じになる。
きっと水が、空や雲などを映し出すキャンバスの役割をして、平面が多彩になったからだろう。
ときおり、白い腹を見せて反転しながら飛翔するつば九郎たちもその華やぎに色を添える。
こんな中を雪駄チャラチャラで進む。時折の風が涼を運ぶ。
その風に乗って何やら青くさ~い匂いが漂ってくる。
「ん?」これはと立ち止まったが、その正体をすぐ思い出した。
あたりを見回してもその臭いを放つものの正体は見当たらない。
それくらい香りが強いのだ。
風が運ぶその香の強さは、おそらく金木犀のそれと双璧だろう。
「よしよし、あとで見に行ってやるからな」とひとりごちて歩を進める。
まずは銀行。カード決済やネットでの現金の移動が多くなっているのだが、どうしても一定量の貨幣を手元に確保しておく必要もある。
銀行はATMの他に窓口での用件もあったが、意外と早く済んだ。
続いて少し離れた郵便局へ。
うちを出たのが1時半ぐらいだから、日差しはますます強くなる。
無理をしないでゆっくり歩く。
郵便局からの帰りは私の好きな川沿いの道だ。
水量が多い時期はチロチロと動き回る小魚たちの姿を見かけるのだが、この時期、彼らは所々にある深みに集まっているようだ。
そうした深みの近くで立ち止まって目を凝らすと、何かの拍子に明るい色の石の上をよぎる魚影を確認することができる。
あるいは水中で反転する折の瞬時の銀色のきらめきが見えたりする。
そんなのを目撃すると、少し幸せな気分になる。
うちを出てから三角形におおよそ1キロ余を歩いたことになる。所定の用件はすべて済ませたのだが、まだ体力はありそうなので、ちょっと遠回りをして、先ほど風に乗せてメッセージをよこした奴に逢いに行ってやることにした。
この辺に半世紀近くも住んでいると、その正体は無論だがその在処もわかってしまっているのだ。
おお、今年も立派に咲き誇っている。
栗の花である。
栗にも色々種類があるが、この木は大栗が実るだけあって、その花も豪華だ。
そしてまた、臭いも強烈だ。
ひと通り携帯で撮ってから帰ろうとすると、「私も撮ってよ」とばかりにハグマノキ(白熊の木・スモークツリー)が行く手を遮る。
うちの近くに差し掛かると、田に水を送るための溝を清らかな水が勢い良く流れている。しばらく覗きこんでいたが、水生動物の姿は皆無だ。
そりゃあ、そうだろう。つい数日前まではカラカラに干上がっていたコンクリート製のU字溝に、ポンプで組み上げた水を送っているだけだから。
水草のように水流になびいているのは、コンクリートの隙間から生えていた本来は陸上の草たちだ。なかには、春紫菀の姿もある。彼らもきっと驚いていることだろう。
ところで、栗の花や金木犀など、あまりにもその香が強いものは見る段にはともかく、その香自体についてはいくぶん淫靡な印象をもってしまう。
それはその香が彼らの生殖作用に関連していることを知っているからだろうが、同時に、それにしても過剰ではないかと思ってしまうのだ。
まあしかし、それも粛々たる自然の営みであり、そんなことを思い浮かべてしまう私の想念の方にそれを淫靡とする要因があるのであろう。
早い話が、私自らの淫靡を自然への投影したものともいえる。
帰宅してから、ミッシェル・フーコーの『ユートピア的身体/ヘテロトピア』を読了。
自分と一緒にしてはいけないが、フーコーもまた、おのれの淫靡さを開示しつつ、それがはらむセクシュアリティの問題、そしてそれに内在する権力の痕跡を徹底的に洗い出そうとした人だ。
同書に収められた、ジュディス・バトラーの「フーコーと身体的書き込みのパラドックス」の一文が、フーコーの論に寄り添いながら自身のジェンダー論を研ぎ澄ませてきたこのひとならではの指摘で、少し興奮しながら読んだ。
やがて死ぬゆく身だが、こうした興奮がある以上、読書は素晴らしい。
そのためにも、健康でいたい。
え?女にもあるって?そうでしょうね。失礼しました。
まあ、いってみればそれぐらい意気込んで出かけたということで・・・。
ようするに出かけた。浅葱色のシャツに紺の綿パン、オット帽子を忘れてはいけない。足回りは素足に雪駄だ。暑い時はこれが一番だ。
田んぼに挟まれた田舎道を進む。先週末頃から水を引き始めたばかりで、まだ田植えを済ませた田は数えるほどしかない。しかし、水が張られただけでなんとなく華やいだ感じになる。
きっと水が、空や雲などを映し出すキャンバスの役割をして、平面が多彩になったからだろう。
ときおり、白い腹を見せて反転しながら飛翔するつば九郎たちもその華やぎに色を添える。
こんな中を雪駄チャラチャラで進む。時折の風が涼を運ぶ。
その風に乗って何やら青くさ~い匂いが漂ってくる。
「ん?」これはと立ち止まったが、その正体をすぐ思い出した。
あたりを見回してもその臭いを放つものの正体は見当たらない。
それくらい香りが強いのだ。
風が運ぶその香の強さは、おそらく金木犀のそれと双璧だろう。
「よしよし、あとで見に行ってやるからな」とひとりごちて歩を進める。
まずは銀行。カード決済やネットでの現金の移動が多くなっているのだが、どうしても一定量の貨幣を手元に確保しておく必要もある。
銀行はATMの他に窓口での用件もあったが、意外と早く済んだ。
続いて少し離れた郵便局へ。
うちを出たのが1時半ぐらいだから、日差しはますます強くなる。
無理をしないでゆっくり歩く。
郵便局からの帰りは私の好きな川沿いの道だ。
水量が多い時期はチロチロと動き回る小魚たちの姿を見かけるのだが、この時期、彼らは所々にある深みに集まっているようだ。
そうした深みの近くで立ち止まって目を凝らすと、何かの拍子に明るい色の石の上をよぎる魚影を確認することができる。
あるいは水中で反転する折の瞬時の銀色のきらめきが見えたりする。
そんなのを目撃すると、少し幸せな気分になる。
うちを出てから三角形におおよそ1キロ余を歩いたことになる。所定の用件はすべて済ませたのだが、まだ体力はありそうなので、ちょっと遠回りをして、先ほど風に乗せてメッセージをよこした奴に逢いに行ってやることにした。
この辺に半世紀近くも住んでいると、その正体は無論だがその在処もわかってしまっているのだ。
おお、今年も立派に咲き誇っている。
栗の花である。
栗にも色々種類があるが、この木は大栗が実るだけあって、その花も豪華だ。
そしてまた、臭いも強烈だ。
ひと通り携帯で撮ってから帰ろうとすると、「私も撮ってよ」とばかりにハグマノキ(白熊の木・スモークツリー)が行く手を遮る。
うちの近くに差し掛かると、田に水を送るための溝を清らかな水が勢い良く流れている。しばらく覗きこんでいたが、水生動物の姿は皆無だ。
そりゃあ、そうだろう。つい数日前まではカラカラに干上がっていたコンクリート製のU字溝に、ポンプで組み上げた水を送っているだけだから。
水草のように水流になびいているのは、コンクリートの隙間から生えていた本来は陸上の草たちだ。なかには、春紫菀の姿もある。彼らもきっと驚いていることだろう。
ところで、栗の花や金木犀など、あまりにもその香が強いものは見る段にはともかく、その香自体についてはいくぶん淫靡な印象をもってしまう。
それはその香が彼らの生殖作用に関連していることを知っているからだろうが、同時に、それにしても過剰ではないかと思ってしまうのだ。
まあしかし、それも粛々たる自然の営みであり、そんなことを思い浮かべてしまう私の想念の方にそれを淫靡とする要因があるのであろう。
早い話が、私自らの淫靡を自然への投影したものともいえる。
帰宅してから、ミッシェル・フーコーの『ユートピア的身体/ヘテロトピア』を読了。
自分と一緒にしてはいけないが、フーコーもまた、おのれの淫靡さを開示しつつ、それがはらむセクシュアリティの問題、そしてそれに内在する権力の痕跡を徹底的に洗い出そうとした人だ。
同書に収められた、ジュディス・バトラーの「フーコーと身体的書き込みのパラドックス」の一文が、フーコーの論に寄り添いながら自身のジェンダー論を研ぎ澄ませてきたこのひとならではの指摘で、少し興奮しながら読んだ。
やがて死ぬゆく身だが、こうした興奮がある以上、読書は素晴らしい。
そのためにも、健康でいたい。
こちらの記事、私にとって少し難しいと感じることが多いのですが、ちょっと高尚な気分になりたい時は背伸びして拝読しています。
朗読を趣味となさるお友達がいらっしゃるそうで、嬉しい限りです。
今後ともよろしくお願いいたします。
先般、「じゃがたらお春」でお越しいただいた方ですね。
おっしゃるように、馬酔木は、これを食べた馬の足元が怪しくなることから、「足癈(あしじひ)」といわれ、それが馬酔木に転化したようです。匂いは、私自身はあまり記憶にないのですが、「ジャスミンにも似た甘美で動物的な力強い芳香」と表現したものを見かけました
サボテンの花、今年は長くお楽しみになれそうで良かったですね。
貴ブログ、拝見致しました。
書道、華道、朗読など多彩な才能の持ち主でいらっしゃいますね。
もちろん、朗読の方も拝聴させていただきました。朗々としてお見事です。私の友人(女性)で、やはり朗読を趣味とする人がいますので、機会があったら聴かせてやりたいと思います。
今後とも、よろしくお願いいいたします。
寺山と山田の両氏は、早稲田の同窓生でしたね。やはりフーコーはカヴァーしていたのでしょうか。しかし、ラカンはどうなんでしょう。正直いって私は取っ掛かりのところでもたついているのみです。
私も、ハグマという和名、スモークツリーという英名は知っていたのですが、その漢字表記が「白熊」だとは知りませんでした。
もともとは大陸伝来のヤクの毛から作った僧侶の払子(ほっす)や武士の采配、そして槍の装飾などを意味し、それと類似の花というので白熊の木というのだそうです。
私は、今、堀辰夫の「浄瑠璃寺の春」を朗読して、ブログに載せたところですが、この小説に「馬酔木の花」が出てきますね。馬が食うと麻痺するから「馬酔木」だそうですがこの花はやはり強い匂いを発するのでしょうか。匂いのことは出てきませんが。
1人は、先日貴方と接待した京都の友人が身近で見守っている日高六郎さん。
日高さんは、戦後思想を考える6人のうちの1人としてフーコーを挙げていますが、「ユートピア的身体」の原初であるラジオ講演(1966)を聞かれたのか、それを知りたいと思いました。
いま一人は、寺山修司のこと。
山田太一が寺山を送る弔辞の中で、フーコーに触れていたことを思い出し、その弔辞を捜したら、ありました。
=亡くなる直前、私の家に来た「貴方は、私の本棚魅せろ、と言い、どの棚もどの棚も丁寧にたどって、昔の本を見つけると “なつかしいね” と声を高め、ミッシェル・フーコーを読んだか? ジャック・ラカンは、と学生時代に退行してしまったような時間を過ごしました」=
でも、金木犀はもっと別の芳香、うっとりと別世界に連れて行ってくれるとても素敵な匂いだと思うのです。
10月になると、散歩のときにああ、ここの金木犀は今年は遅くなったとか、銀モクセイが切り倒されて、普通の家が建ってしまったとか、よその家の樹木なのに、自分のもののように、楽しんだり悲しんだりするのです。
スモークツリーが、こんな和名をもっているとは知りませんでした。一つ利口になった気分です。有り難う!