失敗は許されないというのは一般論ではない。一般的にいえば失敗は取り戻せばいいだけだ。
若い頃には私も失敗だらけの人生を送ってきた。というか、私の人生、失敗によってできているといってよい。身体のどこを切っても、失敗という血潮が吹き出すほどだ。
私の人生は失敗の集積であるが、しかし、それを悔やんではいない。なぜなら、そのお陰でそこそこ変化に彩られた人生を送ってきたのだから。
問題はこれからだ。これからというか老いてからの失敗はダメージが大きいし、もはやそれによるマイナスを取り戻すだけのエネルギーもないということだ。
だいいち失敗すればカネがかかる。車をコツンと何かにぶつけても、これくらいはと思っている以上に請求が来る。自損ではなく相手があったりすると負担額は一挙に上昇する。
下手なところで転んだら寝たっきりになる可能性もある。一昨年私は、階段から落ちて左手を骨折し、2度の入院を余儀なくされた。
消化器系と呼吸器系の接続を誤って誤嚥などしようものなら、肺炎を誘発し、命に関わる。
若い頃なら、事故を起こしても懸命に働けばなんとかカバーできる。少々の怪我をしても治りが早い。誤嚥をしてもむせ返るだけで済む。
老いてからの失敗はそうは行かない。
息子が会社のカネを使い込んだというので慌てて銀行のATMに駆けつければ、ン百万円という被害に襲われる。
頑張っても、もうカバーなど出来はしない。年々減り続ける一桁の年金で、どうやって三桁の被害をカバーできるのか。
だから失敗はもう許されない。
しかしである。失敗はわれら老人の属性であり、しかも、老人が失敗するその属性は日々増してゆくのである。
減退する記憶力と注意力、世間の情報への疎さ、無知、などなど、失敗の要因は枚挙にいとまがない。
老いるということは肥大する失敗の温床を自らのうちに抱え込むということなのだ。
だから、オレオレ詐欺などの特殊詐欺犯が老人を狙うのはまったく正しい。彼らにとって、ことを効率的に進めるためには、老人の存在は不可欠なのだ。
しかし、老人が一般的には忌避され、特殊詐欺犯によってのみ珍重されるというのはあまりにも悔しいではないか。
だから、われら老人は失敗しないために注意力を研ぎすませねばならない。失敗をして、「だから老人は」などといわれないためにも。
しかし、「失敗しなように、失敗しないように」と緊張して生きるのも結構しんどい。悪いことには、ことほどさように緊張していても失敗は容赦なくやってくるのだ。
ではどうすればいいのか。
認知症は老人を巻き込む否定的な症状と考えられることが多い。しかし、最近はそうばかりではないのではないかと思いはじめている。
どういうことかというと、認知症は「失敗しないように」という責任主体からの完全な撤退であり、もはやその圏外に自己を置くこととなるからだ。
失敗とか責任とかいうのは、一応の判断能力をもった主体を前提としている。しかし、その主体が認知症であり主体たる条件を欠落しているとしたらどうだろう。彼は失敗の結果に責任を負うことから除外される。
もはや失敗を恐れることなく、天真爛漫に振る舞えるのではないか。
近年、認知症が増加したといわれるのも、実は、そうした老人の自己防衛本能が作用しているのではないだろうか。
ちょっと小難しい言い方もしたが、これをひらがなでいえば、「ぼけるがかち」ということだ。
これなら、私にも可能性は開かれている。
そのための修行なんてあるのかしら。
若い頃には私も失敗だらけの人生を送ってきた。というか、私の人生、失敗によってできているといってよい。身体のどこを切っても、失敗という血潮が吹き出すほどだ。
私の人生は失敗の集積であるが、しかし、それを悔やんではいない。なぜなら、そのお陰でそこそこ変化に彩られた人生を送ってきたのだから。
問題はこれからだ。これからというか老いてからの失敗はダメージが大きいし、もはやそれによるマイナスを取り戻すだけのエネルギーもないということだ。
だいいち失敗すればカネがかかる。車をコツンと何かにぶつけても、これくらいはと思っている以上に請求が来る。自損ではなく相手があったりすると負担額は一挙に上昇する。
下手なところで転んだら寝たっきりになる可能性もある。一昨年私は、階段から落ちて左手を骨折し、2度の入院を余儀なくされた。
消化器系と呼吸器系の接続を誤って誤嚥などしようものなら、肺炎を誘発し、命に関わる。
若い頃なら、事故を起こしても懸命に働けばなんとかカバーできる。少々の怪我をしても治りが早い。誤嚥をしてもむせ返るだけで済む。
老いてからの失敗はそうは行かない。
息子が会社のカネを使い込んだというので慌てて銀行のATMに駆けつければ、ン百万円という被害に襲われる。
頑張っても、もうカバーなど出来はしない。年々減り続ける一桁の年金で、どうやって三桁の被害をカバーできるのか。
だから失敗はもう許されない。
しかしである。失敗はわれら老人の属性であり、しかも、老人が失敗するその属性は日々増してゆくのである。
減退する記憶力と注意力、世間の情報への疎さ、無知、などなど、失敗の要因は枚挙にいとまがない。
老いるということは肥大する失敗の温床を自らのうちに抱え込むということなのだ。
だから、オレオレ詐欺などの特殊詐欺犯が老人を狙うのはまったく正しい。彼らにとって、ことを効率的に進めるためには、老人の存在は不可欠なのだ。
しかし、老人が一般的には忌避され、特殊詐欺犯によってのみ珍重されるというのはあまりにも悔しいではないか。
だから、われら老人は失敗しないために注意力を研ぎすませねばならない。失敗をして、「だから老人は」などといわれないためにも。
しかし、「失敗しなように、失敗しないように」と緊張して生きるのも結構しんどい。悪いことには、ことほどさように緊張していても失敗は容赦なくやってくるのだ。
ではどうすればいいのか。
認知症は老人を巻き込む否定的な症状と考えられることが多い。しかし、最近はそうばかりではないのではないかと思いはじめている。
どういうことかというと、認知症は「失敗しないように」という責任主体からの完全な撤退であり、もはやその圏外に自己を置くこととなるからだ。
失敗とか責任とかいうのは、一応の判断能力をもった主体を前提としている。しかし、その主体が認知症であり主体たる条件を欠落しているとしたらどうだろう。彼は失敗の結果に責任を負うことから除外される。
もはや失敗を恐れることなく、天真爛漫に振る舞えるのではないか。
近年、認知症が増加したといわれるのも、実は、そうした老人の自己防衛本能が作用しているのではないだろうか。
ちょっと小難しい言い方もしたが、これをひらがなでいえば、「ぼけるがかち」ということだ。
これなら、私にも可能性は開かれている。
そのための修行なんてあるのかしら。