信州は上田市の郊外、ニセアカシアが群生する丘に「戦没画学生慰霊美術館 無言館」がある。館主は窪島誠一郎氏、私が訪れた当日も出口付近の管理室に詰めていらっしゃった。
十字架を寝かせたような間取りの館内には、かつてこの国が起こした戦の中、兵士として招集され、「この続きは帰ってから描く」とかりそめの筆を置いた者たち、「これが最後」と意を決して仕上げの筆を入れた者たち、そしてただ黙ってイーゼルのもとを離れた者たちと、彼らはそれぞれ還らぬ人となってしまったのだが、その思いが遺された作品が蒐集されている。
若くしてすでに大家の風貌を示す画風、荒っ削りでまだまだといった感があるがそれだけにその伸びしろを感じさせる画風、しかしそのそれぞれがそこで切断されたまま、こんにちに残るのみである。
戦中戦後のドサクサのなかで、失われたものや行方不明のものが多いなか、これだけのものを蒐集された窪島氏とスタッフの尽力に頭が下がる。
これらの作品は、こうして集められることによって相互に呼応し、散逸したままでは出てこなかったであろうひとつの時代の実像、表現者の肉体がそのまま消滅せしめられるというあの忌まわしい時代の貌を赤裸々にあぶり出し、そして告発する。
無惨に踏みにじられて散った表現者の怨念、それを鎮魂するこの美術館は、やはりその作品を十字に間取られた空間に配置しなければならなかったのだろう。
私が生を受け、次第に物心つき始めたまさの同じ時期に、この若者たちは逝ったのだった。
本館すぐ下の第二展示室「傷ついた画布のドーム」を出ようとするとき、ここを管理している方から声をかけられ、「このすぐ近くに、金子兜太さんが最後にその碑の揮毫をされた〈俳句弾圧不忘の碑〉と〈檻の俳句館〉がありますが、興味がおありでしたらどうぞ」と勧めてくれた。
「行きます」と答えて在り処を訊くと、すぐ近くで、しかもここへ来る前に通り過ぎた場所ではないか。
到着すると、まるで待ち構えていたように、草色のTシャツの西洋人の方が現れ、石碑の由来や、「檻の俳句館」の説明をしてくださった。
この方は、「不忘の碑」の筆頭呼びかけ人で、「俳句館」の館長であるマブソン青眼さんというフランス出身の俳人で、本名はマブソン・ローランさん。青眼は俳号で、彼が澄んだ青い瞳のもち主であること、さらには、彼が師事した金子兜太が若き頃投句をはじめた俳誌「土上」の主宰者・嶋田青峰の「青」を受けたものだという。
石碑への金子兜太の揮毫もそんな縁で、この碑の除幕式は今年の2月25日に行われた。実はこの日、兜太自身がその式典に参加するということで準備が進んでいたのだが、病状悪化により2月20日にその生を終えたため、それが叶わなかったという。そして、この碑への揮毫が、兜太が記した最後の文字ではないかとも。
2015年に兜太が澤地久枝さんに依頼されて揮毫したという「アベ政治を許さない」は暴政に対する怒りに満ちた力強いタッチのレタリングであるが、この黒い御影石の碑に刻まれたそれは、戦中、圧政と弾圧のなかで17文字(自由律もあり)の表現を続け、検挙や投獄の憂き目にあった先達の俳人たちへの、慈しみと敬意に満ちた筆跡というべきだろう。
そんなわけで、この不忘の碑は、戦時中に、治安維持法による弾圧の対象となった京大俳句事件など新興俳句弾圧事件の被害者たち、その表現を不法に絶たれた者たちを忘れることなく継承し、もって表現者たちの自由を守る決意の表れといえる。
なお、青眼さんの俳号のところで述べた嶋田青峰も、その被害者の一人で、彼は胸の病をもつ身で特高警察に囚えられ、激しい尋問を受けたあと釈放されたのだが、もはや再び立つことができず、その後いくばくもしない間にその生命を終えたという。
そして、そうした抑圧された俳人たちの句をユニークな形で展示したのが「檻の俳句館」で、ここでは、展示された各俳人の似顔絵と反戦句が、鉄格子(=檻)に囲まれて展示され、私たちはその格子越しにその作品を味わうことになる。こうすることによって、フラットに展示されたそれとは違って、これらの句がどんな状況下で詠まれたのか、その臨場感をも合わせて味わうことができる。
これらはすべて、マブソン青眼さんが説明してくれたものに私が後で調べたことなどを付け加えたものだが、それを説明してくれる青眼さんの熱意がビンビンと伝わってきて引き込まれるものがあった。
といっても、それらは決して堅っ苦しいものではなく、持ち前のユーモア感覚が随所に散りばめられた楽しいものであった。ちなみに彼は、この信州の俳人、小林一茶の研究家でもあり、一茶の、枠を逸したとも思える自由でユーモア感にあふれる句を日本語とフランス語で解説した著作もある。
最後に、この館に備え付けの電子ピアノで、遠来の客のために、バッハの平均律集の中の一節を、つっかえつっかえしながら聴かせてくれたもご愛嬌だった。
こうして、無言館訪問の旅は、おもわぬおまけに恵まれて、より豊かなものになった次第である。
以下に、この俳句館と不忘の碑に関わるページを貼り付けておくので、近くへおでかけの際には足をお向けになればと思う。
「無言館」へおでかけになったことがない方は、是非セットで両方をご覧になることをお勧めする。いうまでもなく、この二つのスポットを貫くコンセプトは同一である。いわく、「不戦」。
「檻の俳句館」ブログ
https://showahaiku.exblog.jp/
なお、俳句ではないが、川柳の世界でやはり戦前に厳しい弾圧にさらされた鶴彬(つるあきら)に関して、かつて私がブログに載せた記事があるのでそれも貼っておく。
最初は10年前のもの、ついで6年前のもの。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20080713
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20121023
十字架を寝かせたような間取りの館内には、かつてこの国が起こした戦の中、兵士として招集され、「この続きは帰ってから描く」とかりそめの筆を置いた者たち、「これが最後」と意を決して仕上げの筆を入れた者たち、そしてただ黙ってイーゼルのもとを離れた者たちと、彼らはそれぞれ還らぬ人となってしまったのだが、その思いが遺された作品が蒐集されている。
若くしてすでに大家の風貌を示す画風、荒っ削りでまだまだといった感があるがそれだけにその伸びしろを感じさせる画風、しかしそのそれぞれがそこで切断されたまま、こんにちに残るのみである。
戦中戦後のドサクサのなかで、失われたものや行方不明のものが多いなか、これだけのものを蒐集された窪島氏とスタッフの尽力に頭が下がる。
これらの作品は、こうして集められることによって相互に呼応し、散逸したままでは出てこなかったであろうひとつの時代の実像、表現者の肉体がそのまま消滅せしめられるというあの忌まわしい時代の貌を赤裸々にあぶり出し、そして告発する。
無惨に踏みにじられて散った表現者の怨念、それを鎮魂するこの美術館は、やはりその作品を十字に間取られた空間に配置しなければならなかったのだろう。
私が生を受け、次第に物心つき始めたまさの同じ時期に、この若者たちは逝ったのだった。
本館すぐ下の第二展示室「傷ついた画布のドーム」を出ようとするとき、ここを管理している方から声をかけられ、「このすぐ近くに、金子兜太さんが最後にその碑の揮毫をされた〈俳句弾圧不忘の碑〉と〈檻の俳句館〉がありますが、興味がおありでしたらどうぞ」と勧めてくれた。
「行きます」と答えて在り処を訊くと、すぐ近くで、しかもここへ来る前に通り過ぎた場所ではないか。
到着すると、まるで待ち構えていたように、草色のTシャツの西洋人の方が現れ、石碑の由来や、「檻の俳句館」の説明をしてくださった。
この方は、「不忘の碑」の筆頭呼びかけ人で、「俳句館」の館長であるマブソン青眼さんというフランス出身の俳人で、本名はマブソン・ローランさん。青眼は俳号で、彼が澄んだ青い瞳のもち主であること、さらには、彼が師事した金子兜太が若き頃投句をはじめた俳誌「土上」の主宰者・嶋田青峰の「青」を受けたものだという。
石碑への金子兜太の揮毫もそんな縁で、この碑の除幕式は今年の2月25日に行われた。実はこの日、兜太自身がその式典に参加するということで準備が進んでいたのだが、病状悪化により2月20日にその生を終えたため、それが叶わなかったという。そして、この碑への揮毫が、兜太が記した最後の文字ではないかとも。
2015年に兜太が澤地久枝さんに依頼されて揮毫したという「アベ政治を許さない」は暴政に対する怒りに満ちた力強いタッチのレタリングであるが、この黒い御影石の碑に刻まれたそれは、戦中、圧政と弾圧のなかで17文字(自由律もあり)の表現を続け、検挙や投獄の憂き目にあった先達の俳人たちへの、慈しみと敬意に満ちた筆跡というべきだろう。
そんなわけで、この不忘の碑は、戦時中に、治安維持法による弾圧の対象となった京大俳句事件など新興俳句弾圧事件の被害者たち、その表現を不法に絶たれた者たちを忘れることなく継承し、もって表現者たちの自由を守る決意の表れといえる。
なお、青眼さんの俳号のところで述べた嶋田青峰も、その被害者の一人で、彼は胸の病をもつ身で特高警察に囚えられ、激しい尋問を受けたあと釈放されたのだが、もはや再び立つことができず、その後いくばくもしない間にその生命を終えたという。
そして、そうした抑圧された俳人たちの句をユニークな形で展示したのが「檻の俳句館」で、ここでは、展示された各俳人の似顔絵と反戦句が、鉄格子(=檻)に囲まれて展示され、私たちはその格子越しにその作品を味わうことになる。こうすることによって、フラットに展示されたそれとは違って、これらの句がどんな状況下で詠まれたのか、その臨場感をも合わせて味わうことができる。
これらはすべて、マブソン青眼さんが説明してくれたものに私が後で調べたことなどを付け加えたものだが、それを説明してくれる青眼さんの熱意がビンビンと伝わってきて引き込まれるものがあった。
といっても、それらは決して堅っ苦しいものではなく、持ち前のユーモア感覚が随所に散りばめられた楽しいものであった。ちなみに彼は、この信州の俳人、小林一茶の研究家でもあり、一茶の、枠を逸したとも思える自由でユーモア感にあふれる句を日本語とフランス語で解説した著作もある。
最後に、この館に備え付けの電子ピアノで、遠来の客のために、バッハの平均律集の中の一節を、つっかえつっかえしながら聴かせてくれたもご愛嬌だった。
こうして、無言館訪問の旅は、おもわぬおまけに恵まれて、より豊かなものになった次第である。
以下に、この俳句館と不忘の碑に関わるページを貼り付けておくので、近くへおでかけの際には足をお向けになればと思う。
「無言館」へおでかけになったことがない方は、是非セットで両方をご覧になることをお勧めする。いうまでもなく、この二つのスポットを貫くコンセプトは同一である。いわく、「不戦」。
「檻の俳句館」ブログ
https://showahaiku.exblog.jp/
なお、俳句ではないが、川柳の世界でやはり戦前に厳しい弾圧にさらされた鶴彬(つるあきら)に関して、かつて私がブログに載せた記事があるのでそれも貼っておく。
最初は10年前のもの、ついで6年前のもの。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20080713
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20121023
六文銭さんの、おまけの「檻の俳句館」は不案内でで、そこへ行かなかったのは残念に思います。
その時の私たちの珍道中記は次の通りです。http://blog.livedoor.jp/shography/archives/1002435766.html 驚いたことには、日付が2012年9月。六文銭さんの前のご訪問が2012年10月なのですね。
「檻の俳句館」のオープンは今年の2月25日でしたから、前にいらっしゃった折にはまだなかったわけです。
それから、私が前に訪れたのは2010年の6月です。2012年10月23日は、治安維持法で特高警察に検挙され、獄中死した川柳作家、鶴彬についての一文をブログに載せた日です。
もう一度、上田方面にお出かけの際には、「檻の俳句館」も見ものです。運がいいと、マブソン青眼さんが詰めていて、熱心に説明をしてくれますよ。
こちらのペ-ジを私の方で紹介させてください。
ご紹介の労、ありがとうございました。