麻生氏の発言が波紋を広げ、国内からも、そして海外やユダヤ人の団体からも抗議の声が上がっているようです。ようするに、憲法改正にあたっては、ナチスのやり方に学び、静謐のうちに進むのがいいといった主旨で、それがナチの積極的な肯定にあたるとして非難や抗議が寄せられているわけです。
それを受けて、麻生氏は慌ててその発言を撤回しました。
撤回してもその発言は残ります。
そこで、当初の発言を書き起こしたものをじっくり読んでみました。
相変わらず、主語述語の関連が曖昧で、なおかつ、ワイマール憲法下のドイツでナチズムの支配がすんなり出てきたのような歴史認識上のずさんな見解が加わり、あたかも、彼自身がナチを全面的に肯定していたかのように受け止められる向きもありますが、必ずしもそうではないと思います。
一番危ない箇所というのは、「憲法は、ある日、気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」という部分ですが、これは確かに「手口を学ぶ」ということでナチの肯定のように受け止められる節もありますが、彼のいいたかったことは必ずしもナチの全面的な肯定ではないように思います。
ようするに、彼の言語能力からして、自分が何を語っているのかがよくわかってはいないので、発言そのものは極めて曖昧で揺らぎまくっているのですが、ナチズムの肯定といわれてもっとも驚いたのは麻生氏自身ではないかとも思えるほどです。
ですから、これをもって麻生氏の辞職を求めたりする動きがあることを否定しようとは思いませんが、しかし、「麻生=ヒットラー」と短絡してその首をとったとしても、なおかつ、彼の発言の核心は無傷で残るように思います。
それでは、彼の発言の核心はどこでしょうか。それは、繰り返しいわれ、そのためにこそ言わずもがなのナチを例証に出した以下の点だと思います。
「ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。」
「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。」
ようするに、憲法改正が、「喧騒」の中ではなく静謐のうちに行われるべきだというのが論旨なのです。そのために「靖国」の例も引いていますが、やはりみんなが騒ぐのが良くないという主旨です。
最後の引用にある「民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」と「喧騒のなかで決めてほしくない」は矛盾しています。
ナチズムによる統治やスターリニズムによるそれ、あるいは戦前の天皇制におけるそれのように、上意下達の「静謐」のうちですべてが進められるような決定は民主主義とはまったく反するものなのです。
逆に、「喧騒」を認めること、侃々諤々を認めることが民主主義の本意なのです。彼はそれを否定するためにこそ、不確かな知識しか持ち合わせていないワイマールからナチへの移行をとりあげ、それがなにかとてもスムーズな移行であるかのように脚色しました。
そこには、自民党の改憲案が、「喧騒」にさらされることなく、「静かに」実現さるべきだという主観的願望が吐露されているのです。
もし、あなたが進められつつある自民党の改憲案に反対だとしたら、「麻生=ナチ」としてその首を挙げることにのみ血道を上げるのではなく、麻生発言の核心、改憲を粛々と進めたいという主旨に反して、改憲反対の声を侃々諤々、まさに「喧騒」として組織してゆくことこそが必要なのではないでしょうか。
なお、半分冗談ですが、私は麻生氏の辞任に反対です。
彼が政権中枢にいることによって、安倍氏が慎重に隠蔽している政権の本音が漏れ出てくるからです。菅官房長官が優等生のスポークスマンだとしたら、麻生氏は本音を漏らしてくれる貴重な情報源ではないでしょうか。
それを受けて、麻生氏は慌ててその発言を撤回しました。
撤回してもその発言は残ります。
そこで、当初の発言を書き起こしたものをじっくり読んでみました。
相変わらず、主語述語の関連が曖昧で、なおかつ、ワイマール憲法下のドイツでナチズムの支配がすんなり出てきたのような歴史認識上のずさんな見解が加わり、あたかも、彼自身がナチを全面的に肯定していたかのように受け止められる向きもありますが、必ずしもそうではないと思います。
一番危ない箇所というのは、「憲法は、ある日、気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」という部分ですが、これは確かに「手口を学ぶ」ということでナチの肯定のように受け止められる節もありますが、彼のいいたかったことは必ずしもナチの全面的な肯定ではないように思います。
ようするに、彼の言語能力からして、自分が何を語っているのかがよくわかってはいないので、発言そのものは極めて曖昧で揺らぎまくっているのですが、ナチズムの肯定といわれてもっとも驚いたのは麻生氏自身ではないかとも思えるほどです。
ですから、これをもって麻生氏の辞職を求めたりする動きがあることを否定しようとは思いませんが、しかし、「麻生=ヒットラー」と短絡してその首をとったとしても、なおかつ、彼の発言の核心は無傷で残るように思います。
それでは、彼の発言の核心はどこでしょうか。それは、繰り返しいわれ、そのためにこそ言わずもがなのナチを例証に出した以下の点だと思います。
「ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。」
「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。」
ようするに、憲法改正が、「喧騒」の中ではなく静謐のうちに行われるべきだというのが論旨なのです。そのために「靖国」の例も引いていますが、やはりみんなが騒ぐのが良くないという主旨です。
最後の引用にある「民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」と「喧騒のなかで決めてほしくない」は矛盾しています。
ナチズムによる統治やスターリニズムによるそれ、あるいは戦前の天皇制におけるそれのように、上意下達の「静謐」のうちですべてが進められるような決定は民主主義とはまったく反するものなのです。
逆に、「喧騒」を認めること、侃々諤々を認めることが民主主義の本意なのです。彼はそれを否定するためにこそ、不確かな知識しか持ち合わせていないワイマールからナチへの移行をとりあげ、それがなにかとてもスムーズな移行であるかのように脚色しました。
そこには、自民党の改憲案が、「喧騒」にさらされることなく、「静かに」実現さるべきだという主観的願望が吐露されているのです。
もし、あなたが進められつつある自民党の改憲案に反対だとしたら、「麻生=ナチ」としてその首を挙げることにのみ血道を上げるのではなく、麻生発言の核心、改憲を粛々と進めたいという主旨に反して、改憲反対の声を侃々諤々、まさに「喧騒」として組織してゆくことこそが必要なのではないでしょうか。
なお、半分冗談ですが、私は麻生氏の辞任に反対です。
彼が政権中枢にいることによって、安倍氏が慎重に隠蔽している政権の本音が漏れ出てくるからです。菅官房長官が優等生のスポークスマンだとしたら、麻生氏は本音を漏らしてくれる貴重な情報源ではないでしょうか。
このことを翌30日、『共同通信』配信。
『東京・中日』翌31日報道。
『朝日』『毎日』が報じたのは、8月1日。
遅れをとったのは、
共同通信に加盟していない、というただそれだけの理由からなのでしょうか。
何をいっているのか分からなくて、その書き起こしができてそれを確認するのに手間取ったのではないでしょうか。私もそれを読むまでは事態がわからず、というかそれを読んでも、そのでたらめな日本語や言葉の脈絡に、何を言いたいのかサッパリわからないのが真相です。
そこで私なりに整理してみたのが上の文章です。
メディアに関しては、そうした講演をしたという事実は掌握していても、その問題点が那辺にあるのかわからなかったのだろうと思います。もっとも、そうした不確かなままで何かを報じ、政権与党に睨まれたくないという「大人の配慮」?のようなものが働いたのかもしれません。
だとしたら、先頃のTBSの取材は拒否という自民による恫喝が、ボディブローのようにじんわり効いているのかもしれません。
久々に同感です。
この国の政権中枢にいる人がナチスを全面的に肯定しているとは思いたくありませんし、彼もそれほど低能ではないでしょう。
しかし、彼のワイマール期からナチへの移行の歴史認識はまったくのデタラメですし、その無知が、いらざるところでナチを引き合いに出し、それを正当化するかの如き叙述になっていることは誠に遺憾だと思います。
それと、私が指摘した自民党の憲法改正案が「喧騒」なき状況下で粛々となされるべきだという民主主義の根底の否定はいかんともしがたいと思います。彼のご先祖が確認した「万事公論に決すべし」をも否定しているのですから。
それから、かかる曖昧な歴史認識をそれと自覚することなく公言し、しかもそれをほとんど言語能力を欠いたまま公の場で言いつのること自体が、その筋の人達がよく使う言葉でいえば、いかに「国益」を損なっているかを知るべきでしょう。
こうした人が、かつては総理を務め、いまなお政権の中枢にいるという日本の政治の暗愚で軽薄な実状について、日常、国家などあまり考えたことはない私ですが、それでも何か、とても恥ずかしい国だと思わざるを得ないのです。
美濃部都政誕生のときは「婦人が美濃部スマイルにやられた。婦人に参政権を与えたのが失敗」。創氏解明の件では「朝鮮の人たちが求めてきたのが始まり」。日中のコメ価格差については「どっちが高いか、アルツハイマーの人でも分かる」等々、枚挙にいとまなし。
自分では、シャレを効かせた程度の感覚なんでしょうね。ワイマール憲法の件も。批判に対し「シャレの分かんねえ奴らだ」が本音かも。文化、見識の問題だけでなく、その発言がどんな影響を与えるか、人をどんな気持ちにさせるかという想像力が欠けているように思います。
今後も失言はくり返すでしょう。それが、ご指摘の裏スポークスマンの役割とはなるでしょうが。
「ナチスの手口学んだらー憲法改正で麻生氏講演」という最初の見出しが次版では
「〈狂騒・狂乱の中で決めるな〉と麻生総理」
に変更されていますが・・・。
同様の戸惑いあっての『朝日』の〈遅れ〉では?
と、ふと思ったからです。
『朝日』の政治部長は『文春』の麻生原稿代筆したとされる曽我豪氏ということに気が付いたからですが、しかしそれはゲスな勘ぐりというものだろう、と思いながらのコメントでありました。
しかし、「国語力があればジョークとわかる」という橋下維新代表始め、「第二の慰安婦問題とさせるな」との青山繁晴氏のアピール(ニコニコ動画)など、
麻生発言何が悪い!とのアピール、波うち続いています。
民放各局は当然のこととして麻生問題を採り上げていましたが、NHK夜の7時、9時ニュースでは影も形も見られませんでした。
麻生氏が問題発言したシンポジュウムの場面と音声がネットて見られます。麻生氏の隣はているのは、維新の会からも除名された西村真悟氏でした。
自分が何をしゃべっているのか自分でもよくわからない、ましてやそこで発した言葉の重みなんてものにはほとんど注意すら傾けないし、ご指摘のようにそれがどんな影響をもたらすかについての想像力の欠片すら持ち合わせない、ようするに言語能力=知性を著しく欠落している人だと思うのですが、問題はそういう人を政権の中枢にいただくこの国のありようです。
当分は他の国の人と会っても、日本人だとは分からないようにしたいものです。とにかく恥ずかしい!
>只今さん
この講演の場は、国家基本問題研究所(理事長櫻井よしこ)の月例研究(?)会です。
7月29日の会のゲストは、麻生氏の他、只今さんご指摘の西村眞悟(無所属)、それに民主党の笠浩史です。
で、櫻井よしこや西村眞悟はいわば札付きですが、この笠浩史という男、ちょっとググるとこんな経歴です。
1)映画「南京の真実」の賛同者であり、2007年6月14日、ワシントン・ポストに掲載されたアメリカ合衆国下院121号決議の全面撤回を求める広告「THE FACTS」の賛同者
2)文部科学大臣政務官在任中の2011年8月、終戦記念日に靖国神社を参拝。笠は「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に参加しており、2010年以前にも靖国神社に参拝していたが、民主党に所属する現職の政務三役で靖国神社を参拝したのは、笠が初めてである
といったわけで、西村がかつて民主党員であったように、笠もまた自民党の中のリベラルよりもはるかにひどいといえるでしょう。
そうしたお仲間内ということもあって、機嫌よく麻生節は飛び出したのでしょうが、それはともかく、この与野党を越えたおぞましい図式がこの国をリードしてゆくのだとしたら、それこそ恐ろしい事態ですね。
中国の指導者と日本の指導者では、その権力構造がまったく違うし、選挙で選ばれたといっても、低い投票率で組織票で、などということを説明しても、彼らは何が何だかさっぱりわかりません。
やはり、国の指導者は指導者であり、日本を代表する意見だと考えてしまうのです。それが現実であり、しかもそういう人たちが億という単位で中国には存在しているのです。
彼らは、例えばユダヤ人団体のように抗議声明など、金輪際出しません。彼らの意識の中に、「やっぱり日本人は……」という認識が少しづつ少しづつ積み重なってゆくだけです。そしてこれは、政治的レベルで語られる“反日感情”よりも、ずっとずっと底広がりが大きく、だからこそ、たとえ金で雇われたとはいえ、簡単に“反日暴動”に転化してゆくのです。
「国語力があればジョークとわかる」などという擁護発言も、この人はいったいどんな世界観を持っているのか?世界の広さを知らな過ぎると、ほんとーにウンザリします。