某月某日 名古屋市東区の某所を通る。
時折訪れる場所だから見慣れた風景ではあるが、何となく今日は警官の立ち番が多いような気がする。
だいたいこの辺り、いつもこんな気配なのだが、ときによって多少変動がある。ようするに、「何か」があって情勢が緊迫すると警備も厳しくなるのである。
具体的に言うと、ここには中国領事館がある。
でもって、ここは名古屋での中国の公の窓口だから、「何か」があるとその筋のひとやその筋ではない人たちもが押し寄せる。
だから警官たちが周辺の辻を含めて立ち番をするという次第になる。
この国とは、例えば直接には尖閣諸島(せんかくしょとう)、中国名ではでは釣魚島をめぐる領土問題がくすぶっている。また間接的には先の戦争においての事柄や歴史解釈などの問題がことあるごとに表面化する。また、チベットなど少数民族に対する中国自身の対応の問題もある。これから先は日中間の経済的な問題も大いに絡んでくるだろう。
だから、「何か」があるとトラブルになる可能性がきわめて多く、また、そのトラブルの処理を誤るとさらに大きな問題に発展する可能性をいつも孕んでいる。
しばらく前にこの前を通りかかると、だぼシャツにマルガリータのオッチャンが立ち番の若い警官に盛んに話しかけている。とくに激高してわめいている様子もなく、何やら説得調である。
傍らを通りかかり聞くとはなしに聞くと(というか耳をジャンボにして聞くと)、「あんたらの立場も分かるけどなぁ」と言いながらの説教のようである。
どうやら、自分たちがなぜここに抗議に来るかを警官に理解させようとしているようなのである。
若い警官の表情を見やると、目を前方に据えてきっとしているのだが、その眉間の辺りの皺に「なんぎやなぁ、はよどっかへいんでくれへんかなぁ」と書いてある。
一人で、丸腰でただ話しかけてくるだけのオッチャンを力ずくで排除するわけにも行かないのだろう。じっと我慢の警官が可哀想であった。
公正を期すためにいうと、かつて左翼というひとたちがいて、そのひとたちのデモや集会などでも警備の機動隊員に話しかけるひとがいたものである。やはり、「あんたらの立場も分かるけどなぁ」で始まるお説教である。
話しかける本人はお説教のつもりではないのだろうが、相手が個人としてそれに応答することが禁じられている以上、一方通行のお説教であることには間違いない。
ようするに、バッキンガム宮殿の警備の衛兵に、英国王朝史の非道を説くようなものなのである。
つまるところそれは、立っている警官にとっては迷惑至極でしかない。話しかける人は少しも「あんたらの立場」を分かってはいないのである。
だいたい彼は、主義主張でそこに立っているわけではないのだ。
個人的にいうならば、ここを断固守護しようとしているひともいるかも知れないし、また逆に、こんなところ俺が爆破してやろうかと思っているのかも知れないのだ。まあ、一般的に言って、命令だから職務の一環として立っているのだろう。
最近のはなしに戻ろう。上の写真を撮った日である。
写真を撮るにあたって、やはり一言いっておくのがマナーだろうと思い、正面に立っている警官に、「写真を撮っていいですか」と尋ねてみた。
「内部や自分を撮さないでくれたらけっこうです」とのことだった。
写真を撮ったあと、「ありがとう。いつもここですか」と尋ねると、「はい、何かがあると困りますから」との返事。
気がつくと、あのだぼシャツのオッチャンと同じことをしている自分がそこにいた。
もっとも私は、「あんたらの立場も分かるけどなぁ」とはいわなかったが・・・。
*「あんたらの立場も分かる」で、上司の命令や職務への忠実さでは許されなかった例もある。ナチスの政権下でユダヤ人の移送を担当し、結果として百万単位のユダヤ人の「最終処理」を実現したアイヒマンの場合である。
彼はユダヤ人を憎んだこともなく、差別をしたこともなかったといった。そして、「私はひとりのユダヤ人をも殺したことはない」とも。
詳しくは、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』を参照されたい。
時折訪れる場所だから見慣れた風景ではあるが、何となく今日は警官の立ち番が多いような気がする。
だいたいこの辺り、いつもこんな気配なのだが、ときによって多少変動がある。ようするに、「何か」があって情勢が緊迫すると警備も厳しくなるのである。
具体的に言うと、ここには中国領事館がある。
でもって、ここは名古屋での中国の公の窓口だから、「何か」があるとその筋のひとやその筋ではない人たちもが押し寄せる。
だから警官たちが周辺の辻を含めて立ち番をするという次第になる。
この国とは、例えば直接には尖閣諸島(せんかくしょとう)、中国名ではでは釣魚島をめぐる領土問題がくすぶっている。また間接的には先の戦争においての事柄や歴史解釈などの問題がことあるごとに表面化する。また、チベットなど少数民族に対する中国自身の対応の問題もある。これから先は日中間の経済的な問題も大いに絡んでくるだろう。
だから、「何か」があるとトラブルになる可能性がきわめて多く、また、そのトラブルの処理を誤るとさらに大きな問題に発展する可能性をいつも孕んでいる。
しばらく前にこの前を通りかかると、だぼシャツにマルガリータのオッチャンが立ち番の若い警官に盛んに話しかけている。とくに激高してわめいている様子もなく、何やら説得調である。
傍らを通りかかり聞くとはなしに聞くと(というか耳をジャンボにして聞くと)、「あんたらの立場も分かるけどなぁ」と言いながらの説教のようである。
どうやら、自分たちがなぜここに抗議に来るかを警官に理解させようとしているようなのである。
若い警官の表情を見やると、目を前方に据えてきっとしているのだが、その眉間の辺りの皺に「なんぎやなぁ、はよどっかへいんでくれへんかなぁ」と書いてある。
一人で、丸腰でただ話しかけてくるだけのオッチャンを力ずくで排除するわけにも行かないのだろう。じっと我慢の警官が可哀想であった。
公正を期すためにいうと、かつて左翼というひとたちがいて、そのひとたちのデモや集会などでも警備の機動隊員に話しかけるひとがいたものである。やはり、「あんたらの立場も分かるけどなぁ」で始まるお説教である。
話しかける本人はお説教のつもりではないのだろうが、相手が個人としてそれに応答することが禁じられている以上、一方通行のお説教であることには間違いない。
ようするに、バッキンガム宮殿の警備の衛兵に、英国王朝史の非道を説くようなものなのである。
つまるところそれは、立っている警官にとっては迷惑至極でしかない。話しかける人は少しも「あんたらの立場」を分かってはいないのである。
だいたい彼は、主義主張でそこに立っているわけではないのだ。
個人的にいうならば、ここを断固守護しようとしているひともいるかも知れないし、また逆に、こんなところ俺が爆破してやろうかと思っているのかも知れないのだ。まあ、一般的に言って、命令だから職務の一環として立っているのだろう。
最近のはなしに戻ろう。上の写真を撮った日である。
写真を撮るにあたって、やはり一言いっておくのがマナーだろうと思い、正面に立っている警官に、「写真を撮っていいですか」と尋ねてみた。
「内部や自分を撮さないでくれたらけっこうです」とのことだった。
写真を撮ったあと、「ありがとう。いつもここですか」と尋ねると、「はい、何かがあると困りますから」との返事。
気がつくと、あのだぼシャツのオッチャンと同じことをしている自分がそこにいた。
もっとも私は、「あんたらの立場も分かるけどなぁ」とはいわなかったが・・・。
*「あんたらの立場も分かる」で、上司の命令や職務への忠実さでは許されなかった例もある。ナチスの政権下でユダヤ人の移送を担当し、結果として百万単位のユダヤ人の「最終処理」を実現したアイヒマンの場合である。
彼はユダヤ人を憎んだこともなく、差別をしたこともなかったといった。そして、「私はひとりのユダヤ人をも殺したことはない」とも。
詳しくは、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』を参照されたい。
?耳を「ダンボ」にして・・・
>>耳を「ダンボ」にして・・・
ダンボというのはディズニーのあのアニメからの表現ですね。したがって当然英語風の表記なんでしょうね。
実は私もそのつもりで書いたのですが、ちょっと「グルジア語」の訛りで表記してみようかと思ったのです。
わかりにくいようでしたら英語表記に戻そうと思ったのですが、コメントがついてしまったのでそのままにしておきます(と、ひとまずいっておこう)。
しかし、そんなところによく気がつくなぁ(笑)。