「うつす」あるいは「うつる」は漢字に転換すると様々になりますが、それらは共通した根っこを持っているようです。
移す、遷すはようするに「移動」を表し、映す、写す、撮すは「射影」を表します。
しかし、前者の「移動」に関するものも、本来あった位置から他の場所へということからすれば、後者の「射影」と共通するものがあるといっていいかも知れません。
ここでは、後者の「射影」に関連するのですが、「うつす」(映す、写す、撮す)はいわば能動的で、それに対し、「うつる」(映る、写る、撮る)は受動的なように思われます。
「うつす」方はそこに意志や行為が伴っているのに対し、「うつる」にはそれが欠落しているように思われるのです。
例えば、私は写真を撮し、それを日記やブログに載せます。
それはとうぜん、私が選択したものを私が大きさやアングルを決め、撮し、それを載せるということで、私の意志や行為の結果であるということになります。
一方、ここに載せた写真たちは、ロード・ミラーであれ、車のリア・ウインドであれ、自ら意志し、行為して撮しているのではなく、たまたまそこに置かれたために「撮す」のではなく「映っている」にすぎないようです。
車のリア・ウインドに至っては本来映すためのものですらないのに、たまたま光のいたずらで映っているに過ぎません。
こうしてみると、「撮す」と「映る」の違いは大きいように見えます。
しかしです、私は本当に自身の意志や行為で撮しているのでしょうか。
私が美しいもの、珍しいものとして撮す写真、或いは映像として伝達すべきだとして載せる写真は、実はその大部分をこの現代の社会的通念のようなものに負っているはないでしょうか。
もし、私の写真に個性のようなものがあったとしても(あるといっているのではありませんよ)、それは私に与えられた環境や教育、経歴からするいわば受け身の差異であって、私の中に予めセットされた意志や行為の結果とは言い難いのではないかとも思えるのです。
ここまで来ると、「撮す」と「映る」の境界は曖昧になってきます。
ミラーやウインドにしたところで、それらはものを映したり、運転者の後方確認を容易にするために様々な技術が施され、それによって映るのですから、人間の意志や行為とは無縁ではありません。
ここには、リアリズムのある種の危うさと重なる問題があると思います。
ひとつは、無心に撮すことを意志するということの危うさです。撮す者の意志の中には、既にして撮す側の予めのスタンスが刷り込まれてしまっているはずです。
また、自ずから映るというのも、そこにはそれを準備し受け止める意志や具体的な人間の技術が介入してしまっているのであり、たとえそれが自然の水鏡であっても、それを見るという美学の中には、やはり人為的な働きが既にしてあるのではないかということです。
右端に怪しげな「映るんです」が・・。
かくて、「撮す」と「映る」の違いは混沌としてきます。
私は、時にはロード・ミラーのように、また時には車のリア・ウインドのように、なにかを「映して」いるのかも知れません。
また、ロード・ミラーやリア・ウインドは、それ自身が人間の産物であり、それが映し出す風景もまた現代が生み出したものであるとすれば、彼らはまさに現代を「撮して」いるのかも知れません。
移す、遷すはようするに「移動」を表し、映す、写す、撮すは「射影」を表します。
しかし、前者の「移動」に関するものも、本来あった位置から他の場所へということからすれば、後者の「射影」と共通するものがあるといっていいかも知れません。
ここでは、後者の「射影」に関連するのですが、「うつす」(映す、写す、撮す)はいわば能動的で、それに対し、「うつる」(映る、写る、撮る)は受動的なように思われます。
「うつす」方はそこに意志や行為が伴っているのに対し、「うつる」にはそれが欠落しているように思われるのです。
例えば、私は写真を撮し、それを日記やブログに載せます。
それはとうぜん、私が選択したものを私が大きさやアングルを決め、撮し、それを載せるということで、私の意志や行為の結果であるということになります。
一方、ここに載せた写真たちは、ロード・ミラーであれ、車のリア・ウインドであれ、自ら意志し、行為して撮しているのではなく、たまたまそこに置かれたために「撮す」のではなく「映っている」にすぎないようです。
車のリア・ウインドに至っては本来映すためのものですらないのに、たまたま光のいたずらで映っているに過ぎません。
こうしてみると、「撮す」と「映る」の違いは大きいように見えます。
しかしです、私は本当に自身の意志や行為で撮しているのでしょうか。
私が美しいもの、珍しいものとして撮す写真、或いは映像として伝達すべきだとして載せる写真は、実はその大部分をこの現代の社会的通念のようなものに負っているはないでしょうか。
もし、私の写真に個性のようなものがあったとしても(あるといっているのではありませんよ)、それは私に与えられた環境や教育、経歴からするいわば受け身の差異であって、私の中に予めセットされた意志や行為の結果とは言い難いのではないかとも思えるのです。
ここまで来ると、「撮す」と「映る」の境界は曖昧になってきます。
ミラーやウインドにしたところで、それらはものを映したり、運転者の後方確認を容易にするために様々な技術が施され、それによって映るのですから、人間の意志や行為とは無縁ではありません。
ここには、リアリズムのある種の危うさと重なる問題があると思います。
ひとつは、無心に撮すことを意志するということの危うさです。撮す者の意志の中には、既にして撮す側の予めのスタンスが刷り込まれてしまっているはずです。
また、自ずから映るというのも、そこにはそれを準備し受け止める意志や具体的な人間の技術が介入してしまっているのであり、たとえそれが自然の水鏡であっても、それを見るという美学の中には、やはり人為的な働きが既にしてあるのではないかということです。
右端に怪しげな「映るんです」が・・。
かくて、「撮す」と「映る」の違いは混沌としてきます。
私は、時にはロード・ミラーのように、また時には車のリア・ウインドのように、なにかを「映して」いるのかも知れません。
また、ロード・ミラーやリア・ウインドは、それ自身が人間の産物であり、それが映し出す風景もまた現代が生み出したものであるとすれば、彼らはまさに現代を「撮して」いるのかも知れません。