叔父が亡くなって葬儀に出た。
母の兄弟姉妹の末っ子であった。
その兄弟姉妹というのは成人しただけで10人で、母はその真中ぐらいだったが4年前に亡くなっている。
そして、今回の叔父の死去で10人のすべてが世を去ったことになる。
ちなみに、亡くなった叔父は87歳で、私より一回り上である。というか踵を接して私たち次の世代が続いていることになる。
叔父への献花
叔父や母の世代に戻ろう。
この10人は、敗戦時、上は40歳代から下は10代の後半であった。
にもかかわらず、あの激しかった戦争で、戦死したものはいない。
それどころか兵隊にとられたものもいない。
これは当時としては珍しいことというべきである。
しかし、種明かしをすれば簡単で、この10人の兄弟姉妹の内訳は、上の二人と今回亡くなった末っ子が男で、その間の7人はすべて女性だったのだ。
つまり、上の二人はすでに兵士になるには歳をとり過ぎていたし、末っ子はまだ兵役年齢に達していなかったというわけだ。
しかし、それぞれが戦争と無縁であったわけではない。空襲で逃げまわったり、食料の確保に汲々としたりで、それぞれの場所でそれぞれが辛酸を舐めてきた。
伯母のひとりは、田舎へ買い出しに行く途中、米軍の艦載機による機銃掃射に狙われて、わずか一尺(30cmほど)のところで弾が土煙を上げたという話を、いつも引きつったような顔で話していた。
これらの世代10人を送り出した。
私にとってはひとつの世代、まさに私の上の世代が終わったという感が今更ながらにある。
では、次は私たちの世代かというとそうでもない。私たちはもう、限りなく前の世代に近いとことに押しやられて、その次の世代が世の中の中枢を占めている。
私たちの世代は何をしてきたのだろう。
というより、私は何をしてきたのだろう。
私の葬儀のとき、人びとは私の世代を、ないしは私自身を、どのような表象でもって思い描くのだろう。
そんなことを考えながら読経を聞いているのであった。
葬儀場の近くにある美濃赤坂の金生山。子どもの頃、この近くに疎開していたため毎日見ていたが、その頃はもっとこんもり盛り上がった山であった。全山石灰岩で大理石もとれるとあって、採掘が進んだ結果こんな姿になった。
ついでながら、真宗では、こうした葬儀の際、蓮如が書いたという「白骨の御文」というものを読み上げる。
この御文はけっこう美文調でこれでもかこれでもかと人の世のはかなさを説き立てる。
「されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ・・・・」
と、いった具合である。
こうした無常の教えが八割方、延々と続き結語へと至る。
「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すものなり。あなかしこ、あなかしこ。」
しかし、この世のことは無常だという前半と、だから後生を願えという後半とでは飛躍がありはしないか。いくら真宗が他力本願であるとはいえ、これでは人間が生きるということ自体がなにか虚しいものになってしまう。
グノーシスではないが、人間が生まれること自体がある種の堕落であることにもなりかねない。
親鸞を参照して論証する暇もないが、彼のいう往相・還相という実践的コミュニケーションの例などを見るに、人間の生にもう少し能動的な契機を見ていたように思う。
そしてそれは、アーレントのいう、
「人間は必ず死ぬ。しかし、死ぬために生まれてきたのではない」
と、矛盾するものではあるまいと思うのだが、このへんまで来るといささか牽強付会というべきであろうか。
話が逸れたが、叔父を最後に去っていった父母の世代、そして、それに続くべきはずだった私たちの世代がなんであったのか、やはりそれを考えるべき節目のように思う。
《追記》定年まで、ある電鉄会社に勤めていた叔父の法名は、「◯鉄院釈光徳」。
なんとわかりやすいことか!
ただし、◯の部分は電鉄会社そのままではなく同じ読みの別の字が当てられている。
母の兄弟姉妹の末っ子であった。
その兄弟姉妹というのは成人しただけで10人で、母はその真中ぐらいだったが4年前に亡くなっている。
そして、今回の叔父の死去で10人のすべてが世を去ったことになる。
ちなみに、亡くなった叔父は87歳で、私より一回り上である。というか踵を接して私たち次の世代が続いていることになる。
叔父への献花
叔父や母の世代に戻ろう。
この10人は、敗戦時、上は40歳代から下は10代の後半であった。
にもかかわらず、あの激しかった戦争で、戦死したものはいない。
それどころか兵隊にとられたものもいない。
これは当時としては珍しいことというべきである。
しかし、種明かしをすれば簡単で、この10人の兄弟姉妹の内訳は、上の二人と今回亡くなった末っ子が男で、その間の7人はすべて女性だったのだ。
つまり、上の二人はすでに兵士になるには歳をとり過ぎていたし、末っ子はまだ兵役年齢に達していなかったというわけだ。
しかし、それぞれが戦争と無縁であったわけではない。空襲で逃げまわったり、食料の確保に汲々としたりで、それぞれの場所でそれぞれが辛酸を舐めてきた。
伯母のひとりは、田舎へ買い出しに行く途中、米軍の艦載機による機銃掃射に狙われて、わずか一尺(30cmほど)のところで弾が土煙を上げたという話を、いつも引きつったような顔で話していた。
これらの世代10人を送り出した。
私にとってはひとつの世代、まさに私の上の世代が終わったという感が今更ながらにある。
では、次は私たちの世代かというとそうでもない。私たちはもう、限りなく前の世代に近いとことに押しやられて、その次の世代が世の中の中枢を占めている。
私たちの世代は何をしてきたのだろう。
というより、私は何をしてきたのだろう。
私の葬儀のとき、人びとは私の世代を、ないしは私自身を、どのような表象でもって思い描くのだろう。
そんなことを考えながら読経を聞いているのであった。
葬儀場の近くにある美濃赤坂の金生山。子どもの頃、この近くに疎開していたため毎日見ていたが、その頃はもっとこんもり盛り上がった山であった。全山石灰岩で大理石もとれるとあって、採掘が進んだ結果こんな姿になった。
ついでながら、真宗では、こうした葬儀の際、蓮如が書いたという「白骨の御文」というものを読み上げる。
この御文はけっこう美文調でこれでもかこれでもかと人の世のはかなさを説き立てる。
「されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ・・・・」
と、いった具合である。
こうした無常の教えが八割方、延々と続き結語へと至る。
「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すものなり。あなかしこ、あなかしこ。」
しかし、この世のことは無常だという前半と、だから後生を願えという後半とでは飛躍がありはしないか。いくら真宗が他力本願であるとはいえ、これでは人間が生きるということ自体がなにか虚しいものになってしまう。
グノーシスではないが、人間が生まれること自体がある種の堕落であることにもなりかねない。
親鸞を参照して論証する暇もないが、彼のいう往相・還相という実践的コミュニケーションの例などを見るに、人間の生にもう少し能動的な契機を見ていたように思う。
そしてそれは、アーレントのいう、
「人間は必ず死ぬ。しかし、死ぬために生まれてきたのではない」
と、矛盾するものではあるまいと思うのだが、このへんまで来るといささか牽強付会というべきであろうか。
話が逸れたが、叔父を最後に去っていった父母の世代、そして、それに続くべきはずだった私たちの世代がなんであったのか、やはりそれを考えるべき節目のように思う。
《追記》定年まで、ある電鉄会社に勤めていた叔父の法名は、「◯鉄院釈光徳」。
なんとわかりやすいことか!
ただし、◯の部分は電鉄会社そのままではなく同じ読みの別の字が当てられている。
新聞記者も含めて参列は許されなかったので、
参列者は母と弟を始めとする親戚7人に、
江口喚、佐々木孝丸と10人にも満たなかった。
今夜(22日)の『ラジオ深夜便』午前1時から、
「わが心の人」と題して、澤地久枝さんが
小林多喜二について語ります。