突き抜けるような秋の青い空とそこにたなびく雲に出会ったりすると、つい思い出す歌がある。
こちらの機嫌がいい場合など、おもわず口ずさんだりもする。
植木等(1926-2007)の「だまって俺について来い」だ。
この歌の一番にある「みろよ 青い空 白い雲」が秋の青空に呼応するのだ。
年配の方はご存知の通り、この歌は秋の叙情とはまったく関係のないコミックソングである。
1964年にヒットしたこの歌の全歌詞は以下のようである。
ぜにのないやつぁ?俺んとこへこい?
俺もないけど 心配すんな
?????????????みろよ 青い空 白い雲?
そのうちなんとかなるだろう??
彼女のないやつぁ?俺んとこへこい?
俺もないけど 心配すんな?
みろよ 波の果て 水平線?
そのうちなんとかなるだろう
??????????????仕事のないやつぁ?俺んとこへこい?
俺もないけど 心配すんな?
みろよ 燃えている あかね雲?
そのうちなんとかなるだろう
曲は萩原哲晶、そして詞は青島幸男である。
この一番から三番までの3行目が歌詞、メロディともにとても叙情的で、そのうちの一番の部分が私の思い出を刺激するわけである。
ところで、この時代を「無責任時代」といい、植木等は「無責任男」としてその中心的なキャラを担っていた。
時代はまさに高度成長の黎明期、第一回の東京五輪もあり、敗戦後の鬱積した気分を吹き飛ばして、ひたすら成長が叫ばれた時代であった。
しかし、植木等を無責任時代のヒーローとするのはまったく誤っている。ほとんどが、前記の萩原哲晶と青島幸男のコンビによって作られ、植木等やクレージー・キャッツのメンバーによって歌われた歌の数々は、優れてこの時代を批判するパロディであって、ほんとうの無責任は、植木等らが演じる表層の部分にではなく、その深層で進行しつつあった事態であった。
まずは、「生産性」という言葉が経営などの専門領域を越えて一般用語として普及し、「生産性向上」は錦の御旗、または水戸黄門の印籠のようなものであった。
その掛け声のもとに重化学工業を中心に、太平洋ベルト地帯の工業化、コンビナート化が進められた。「人手不足」が深刻化し、農山村や漁村から都市や工業地帯へと労働力が集中するところとなった。
結果として、地方は疲弊し、過疎化し、閉村という事態も相次いだ。そこまでは至らなくとも、地方の村々といえば人口の構成は老人と子どもといったことが一般化するところとなった。
それらはまた、地方市町村の小売業者の危機をまねき、今日のシャッター通りの遠因にもなっている。
さらにそれに追い打ちをかけるように、60年代末から70年代にかけて深刻な事態が発生する。各種公害の噴出だ。
イタイイタイ病、チッソ水俣病、新潟水俣病、四日市ぜん息などの四大公害病をはじめとする各種健康障害、光化学スモッグなどの大気汚染、水質汚染、騒音障害などがそれらである。
歴史に学ばない単純な嫌中派は、現行の中国の公害を嘲笑して溜飲を下げているが、それはつい何十年前の日本の姿だったのだ。
もう一つの無責任は、今日の原発にまで及ぶ核開発の起点がこの頃にあるということである。
これはすでに公開文書などで明らかになっているが、上記の歌と同年のまさに1964年に佐藤栄作首相のもとで、密かに核兵器所有の策が練られていたということである。さすがにこれは、アメリカの高官から、日本はアメリカの核の傘のもとにあるのだから重複して核兵器を保つ必要はないだろうとたしなめられている。
ならばそれが可能となる条件だけでもと原発の設置が加速されるところとなった。
その延長上に今回の事故があるのだが、原発以前に核武装へ意志があったことを忘れてはならないし、それらはいまも衣の下の鎧として存続している。
原発事故後の対応の無責任、東電の倍賞などに応じないという無責任についてはいまさらいうまでもない。
これらの無責任は、いってみれば当面の利潤や欲望すら満たされれば、それらによって生じる副作用や副産物がどのような結果をもたらそうと知ったことではない、それらはそれで、後の世代がなんとかするであろうというものであり、その最たるものが原発から生じる核廃棄物の放置である。
さて、最初の歌の話に戻ろう。
すでに述べたように、この歌の作者たちや歌った人たちが無責任だったわけではない。
むしろ彼らは、前進あるのみという底抜けの世相のその水面下で進行しつつあったさらに巨大な無責任を嗅ぎ取り、それを表現していたのである。この時代に端を発する無責任の系譜を揶揄するものでこそあれ、それ自身は決して無責任ではないといえる。
この歌は、コミックソングとして売りだしたため、植木等もそれらしく誇張して歌っているが、普通に歌ってもいい歌だと思う。
繰り返しになるが、それぞれのの3行目にある叙情的な部分は、ちまちまとした人間の事象と自然の雄大さを対比させているのであり、したがって最後の「そのうちなんとかなるだろう」の部分は私たちが帰属すべきはこのおおらかな自然のうちにこそあるのだと歌いあげているのだと思う。
その意味では、この「そのうちなんとかなるだろう」は、産業社会やテクノロジーがその尻拭いを後代に押し付けていることとはまったく次元が違うように思う。
そしてそれは、私の座右の銘、「セ・ラ・ヴィ」(諦観や疎外論ではなく「これぞ我が人生」という積極的受容)にも通じるものだと思っている。
こちらの機嫌がいい場合など、おもわず口ずさんだりもする。
植木等(1926-2007)の「だまって俺について来い」だ。
この歌の一番にある「みろよ 青い空 白い雲」が秋の青空に呼応するのだ。
年配の方はご存知の通り、この歌は秋の叙情とはまったく関係のないコミックソングである。
1964年にヒットしたこの歌の全歌詞は以下のようである。
ぜにのないやつぁ?俺んとこへこい?
俺もないけど 心配すんな
?????????????みろよ 青い空 白い雲?
そのうちなんとかなるだろう??
彼女のないやつぁ?俺んとこへこい?
俺もないけど 心配すんな?
みろよ 波の果て 水平線?
そのうちなんとかなるだろう
??????????????仕事のないやつぁ?俺んとこへこい?
俺もないけど 心配すんな?
みろよ 燃えている あかね雲?
そのうちなんとかなるだろう
曲は萩原哲晶、そして詞は青島幸男である。
この一番から三番までの3行目が歌詞、メロディともにとても叙情的で、そのうちの一番の部分が私の思い出を刺激するわけである。
ところで、この時代を「無責任時代」といい、植木等は「無責任男」としてその中心的なキャラを担っていた。
時代はまさに高度成長の黎明期、第一回の東京五輪もあり、敗戦後の鬱積した気分を吹き飛ばして、ひたすら成長が叫ばれた時代であった。
しかし、植木等を無責任時代のヒーローとするのはまったく誤っている。ほとんどが、前記の萩原哲晶と青島幸男のコンビによって作られ、植木等やクレージー・キャッツのメンバーによって歌われた歌の数々は、優れてこの時代を批判するパロディであって、ほんとうの無責任は、植木等らが演じる表層の部分にではなく、その深層で進行しつつあった事態であった。
まずは、「生産性」という言葉が経営などの専門領域を越えて一般用語として普及し、「生産性向上」は錦の御旗、または水戸黄門の印籠のようなものであった。
その掛け声のもとに重化学工業を中心に、太平洋ベルト地帯の工業化、コンビナート化が進められた。「人手不足」が深刻化し、農山村や漁村から都市や工業地帯へと労働力が集中するところとなった。
結果として、地方は疲弊し、過疎化し、閉村という事態も相次いだ。そこまでは至らなくとも、地方の村々といえば人口の構成は老人と子どもといったことが一般化するところとなった。
それらはまた、地方市町村の小売業者の危機をまねき、今日のシャッター通りの遠因にもなっている。
さらにそれに追い打ちをかけるように、60年代末から70年代にかけて深刻な事態が発生する。各種公害の噴出だ。
イタイイタイ病、チッソ水俣病、新潟水俣病、四日市ぜん息などの四大公害病をはじめとする各種健康障害、光化学スモッグなどの大気汚染、水質汚染、騒音障害などがそれらである。
歴史に学ばない単純な嫌中派は、現行の中国の公害を嘲笑して溜飲を下げているが、それはつい何十年前の日本の姿だったのだ。
もう一つの無責任は、今日の原発にまで及ぶ核開発の起点がこの頃にあるということである。
これはすでに公開文書などで明らかになっているが、上記の歌と同年のまさに1964年に佐藤栄作首相のもとで、密かに核兵器所有の策が練られていたということである。さすがにこれは、アメリカの高官から、日本はアメリカの核の傘のもとにあるのだから重複して核兵器を保つ必要はないだろうとたしなめられている。
ならばそれが可能となる条件だけでもと原発の設置が加速されるところとなった。
その延長上に今回の事故があるのだが、原発以前に核武装へ意志があったことを忘れてはならないし、それらはいまも衣の下の鎧として存続している。
原発事故後の対応の無責任、東電の倍賞などに応じないという無責任についてはいまさらいうまでもない。
これらの無責任は、いってみれば当面の利潤や欲望すら満たされれば、それらによって生じる副作用や副産物がどのような結果をもたらそうと知ったことではない、それらはそれで、後の世代がなんとかするであろうというものであり、その最たるものが原発から生じる核廃棄物の放置である。
さて、最初の歌の話に戻ろう。
すでに述べたように、この歌の作者たちや歌った人たちが無責任だったわけではない。
むしろ彼らは、前進あるのみという底抜けの世相のその水面下で進行しつつあったさらに巨大な無責任を嗅ぎ取り、それを表現していたのである。この時代に端を発する無責任の系譜を揶揄するものでこそあれ、それ自身は決して無責任ではないといえる。
この歌は、コミックソングとして売りだしたため、植木等もそれらしく誇張して歌っているが、普通に歌ってもいい歌だと思う。
繰り返しになるが、それぞれのの3行目にある叙情的な部分は、ちまちまとした人間の事象と自然の雄大さを対比させているのであり、したがって最後の「そのうちなんとかなるだろう」の部分は私たちが帰属すべきはこのおおらかな自然のうちにこそあるのだと歌いあげているのだと思う。
その意味では、この「そのうちなんとかなるだろう」は、産業社会やテクノロジーがその尻拭いを後代に押し付けていることとはまったく次元が違うように思う。
そしてそれは、私の座右の銘、「セ・ラ・ヴィ」(諦観や疎外論ではなく「これぞ我が人生」という積極的受容)にも通じるものだと思っている。
その父親も、僧侶であり社会運動家でもあったようで、無責任なスーダラ節を歌うことを、ためらっている息子の背中を押したのは、社会運動を支持していた父親だったという話を、どこかで耳にしました。
お前が歌わなければ~~と励ましたとかなんとか。
社会運動家辞典とかいうものを、作るのにほんの少し手を貸した縁で、鶴見俊輔さんが、植木さんの父親や、ハウスキーパーだった熊沢光子の名前とともに、語っておられたのを、知ったのです。間違いの多い本になって、少し後悔してもいるのですが。それはまた別の話ですね。
おっしゃるように父親はなかなかの人で、戦前、自分は被差別の出身ではないにもかかわらず、この差別を見逃すことは自分も差別する側にいることだと「」運動に積極的に参加し、治安維持法で逮捕されたりしていますね。
なお、植木等に「等」と名づけたのもこの平等意識からだそうです。
余談ですが、植木等は、父親が名古屋東別院で僧侶をしているときに名古屋で生まれたのだそうです。しかし、まもなくして父が三重県の寺の住職となったので、三重県出身で通したようです。