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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

往く春への感傷的な回想

2011-04-10 01:30:26 | 想い出を掘り起こす
 春はいつも何がしか淫靡なものを伴っている。
 加えて今年は、禍々しい気配が漂っていて、僕らの口笛はいつの間にか陳腐なエレジィになってしまう。

        

 それにしても花の吸引力は凄まじい。
 ここしばらく、ディスクワークに没頭していて外へ出る機会もなく、花便りは聞こえてくるもののそんな誘惑には乗るもんかと無視してきたが、ひと通りの仕事が片付いたのをきっかけに、では、往く春ぐらいは見届けてやろうかと、自宅から徒歩5分ほどのマイ・お花見ロードへと足を運んだ。

        
        ビッシリと花筏 どうしてここで止まっているんだろう

 こんな近場へさえ来なかったのだから、僕は多分、軽い自閉症だったのだろう。
 そういえばここ10日ぐらい、誰かと有意味な会話を交わしてもいない。あまり人と会話をしていないと、急にその機会が訪れたとき声が出ないことがある。

        

 自己との対話というといささか生意気だが、これはしている。ほとんどが自己肯定にもとづく怠惰な会話なのだが。
 もっとも、この自己との対話が著しく乖離した場合、かつての用語の「分裂症」のように、いささか厄介なことになる。

        

 進学の是非やらなんやらで悩み続け、人と会うのが億劫でそれを避け続けたのは、半世紀以上前の高校2年生の春から夏にかけてであった。あとにして思うのだが、このときは危機的であった。
 あの年に、僕は花を見たであろうか。
 感傷的で短い小説を一篇書いて、新しい道に踏み出る決意をした。

        

 それから先はその延長線上というわけでもない。
 幾度かの挫折に翻弄されながら、いまもなおそれを過去形で語れない状況のうちで生きている。
 ただし、あの高校2年生の折の人格破壊をも賭けた決断に比べればその後のそれは大したものではないとも思う。あの時の決断のうちにその後の亀裂はすべて含まれたいたように思うからだ。

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 それはいわば、いささかこそばゆい言い方をすれば、被投された自己を企投するという意味で実存的に生きるということであったのだが、困ったことに僕は今やそうした実存主義者でもないのである。

        
        桜並木が終わったあとには春の陽光に煌めくせせらぎが…

 屁理屈はともかく、私の72回目の春が往く。
 冒頭に戻るが、春は常に淫靡で、時として禍々しいものである。
 もし、それを見ることができたとしたら、来年の花はどんな色合いで僕の前に現れるのであろうか。

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