ここに掲げた看板は「長者町繊維街」(名古屋市中区)を除いた他は、最近岐阜市内で撮ったものです。
長者町のものを一つだけ入れたのは最近この街が再開発されようとしていると聞いたからです。
それにこの、白地に赤い明朝体の看板、シンプルでわかりやすくて好きなのです。
この辺を通りかかって、この看板を見るとなんだかホッとします。
岐阜公園を起点に徒歩で南下しながら撮りました。
最初は名和昆虫博物館のものです。
ここは日本最古の昆虫博物館なのです。
「ギフチョウの発見者(命名者)である昆虫学者名和靖が、害虫駆除、益虫保護の研究のために、1896年(明治29年)4月に開設した名和昆虫研究所が前身」で、今では「世界各国の昆虫約18,000種類、300,000点以上の標本を有する」とあります。
当然のこととして昆虫好きの子供たちのメッカでもすから、夏休みの終わり頃ともなると、自分が採集した昆虫などを参照するためにやってくる子供たちで賑わうようです。
私も二、三度いったことがありますが、大人も充分楽しめるスポットです。
岐阜公園から伊奈波神社へ南下してくる辺りは、あの岐阜大空襲からも免れた一帯で、戦前からの町屋造りの家屋もかなり残っています。
しかし、その保全というのはなかなか大変で、空き家になったりするとたちまち崩壊や倒壊などの危機に襲われます。それらを防ぎ、町屋をを今風に活用活動しようと頑張っている人たちがいます。
しかし、商店街一般や昔ながらの個人商店の没落など、経済事情と絡んで避けがたい事情もあって一軒、また一軒と閉鎖する店があとを絶たないのも厳しい実状なのです。
最後に伊奈波神社の参道を西へ折れ、長良橋筋をこえた木造町の界隈で、こんな看板を見つけました。
読めません!右から読むのか、戦前流に左から読むのかも分かりません!
店の中を覗いたら、せめて何屋さんかがわかりヒントになるかもと思ったのですが、あいにくの日曜日、カーテンが閉まっていて中をうかがうことはできません。
分からないことは率直に尋ねるに限ります。たまたま通りかかったいかにもこの土地の人でしかもある程度年配の人を捉まえて尋ねました。
「これってなんと読むのですか?」
「さあ」
「ここって何屋さんですか?」
「さあ」
といった具合で話になりません。
まあ、いいや、うちに帰れば漢和辞典という強力な助っ人がいるのだからと、その場での解明は諦めることにしました。
しばらく放ってあったのですが、今日思い出して調べてみました。
ところがです、漢和辞典にもないのです。
右から二番目の字なんか、画数も少なくいかにもありそうな字ですがそれがないのです。
いちばん左の字もありません。
他の二つの字は同じなのですが、これもありません。
しかし、私にはもう一つ強力な武器があります。
それは日本語入力システム「ATOK」で、これに手書き文字入力という機能があって、そこへマウスで書き込めばたちどころにその文字が現れるという仕組みです。
しかしです、しかしそれでも該当する文字はないのです。
ようするにこの文字は(それが文字であるとして)一般的な流通性をもたないのです。
もし特殊な文字で、何らかの意味があるとしたら、この通りを挟んで古刹と思われる寺院が三つあり、さらに近辺一帯は寺の密度が高いところなのです。
とすれば、何か仏具に関連するものかも知れません。
一般に看板というものは、広く人に何かを伝えるものですが、この看板の場合、それを拒否し、分かる奴に分かればいいとうそぶいているようでもあります。
これをごらんの皆さん、なにとぞこの読みと意味とを教えて下さい。
最近また不眠や途中覚醒に悩まされているのですが、その主要な原因は異常な暑さにあるとはいえ、もう一つの要因はこの看板のせいかも知れません。
どうやら私は、見てはいけないものを見てしまったようです。
長者町のものを一つだけ入れたのは最近この街が再開発されようとしていると聞いたからです。
それにこの、白地に赤い明朝体の看板、シンプルでわかりやすくて好きなのです。
この辺を通りかかって、この看板を見るとなんだかホッとします。
岐阜公園を起点に徒歩で南下しながら撮りました。
最初は名和昆虫博物館のものです。
ここは日本最古の昆虫博物館なのです。
「ギフチョウの発見者(命名者)である昆虫学者名和靖が、害虫駆除、益虫保護の研究のために、1896年(明治29年)4月に開設した名和昆虫研究所が前身」で、今では「世界各国の昆虫約18,000種類、300,000点以上の標本を有する」とあります。
当然のこととして昆虫好きの子供たちのメッカでもすから、夏休みの終わり頃ともなると、自分が採集した昆虫などを参照するためにやってくる子供たちで賑わうようです。
私も二、三度いったことがありますが、大人も充分楽しめるスポットです。
岐阜公園から伊奈波神社へ南下してくる辺りは、あの岐阜大空襲からも免れた一帯で、戦前からの町屋造りの家屋もかなり残っています。
しかし、その保全というのはなかなか大変で、空き家になったりするとたちまち崩壊や倒壊などの危機に襲われます。それらを防ぎ、町屋をを今風に活用活動しようと頑張っている人たちがいます。
しかし、商店街一般や昔ながらの個人商店の没落など、経済事情と絡んで避けがたい事情もあって一軒、また一軒と閉鎖する店があとを絶たないのも厳しい実状なのです。
最後に伊奈波神社の参道を西へ折れ、長良橋筋をこえた木造町の界隈で、こんな看板を見つけました。
読めません!右から読むのか、戦前流に左から読むのかも分かりません!
店の中を覗いたら、せめて何屋さんかがわかりヒントになるかもと思ったのですが、あいにくの日曜日、カーテンが閉まっていて中をうかがうことはできません。
分からないことは率直に尋ねるに限ります。たまたま通りかかったいかにもこの土地の人でしかもある程度年配の人を捉まえて尋ねました。
「これってなんと読むのですか?」
「さあ」
「ここって何屋さんですか?」
「さあ」
といった具合で話になりません。
まあ、いいや、うちに帰れば漢和辞典という強力な助っ人がいるのだからと、その場での解明は諦めることにしました。
しばらく放ってあったのですが、今日思い出して調べてみました。
ところがです、漢和辞典にもないのです。
右から二番目の字なんか、画数も少なくいかにもありそうな字ですがそれがないのです。
いちばん左の字もありません。
他の二つの字は同じなのですが、これもありません。
しかし、私にはもう一つ強力な武器があります。
それは日本語入力システム「ATOK」で、これに手書き文字入力という機能があって、そこへマウスで書き込めばたちどころにその文字が現れるという仕組みです。
しかしです、しかしそれでも該当する文字はないのです。
ようするにこの文字は(それが文字であるとして)一般的な流通性をもたないのです。
もし特殊な文字で、何らかの意味があるとしたら、この通りを挟んで古刹と思われる寺院が三つあり、さらに近辺一帯は寺の密度が高いところなのです。
とすれば、何か仏具に関連するものかも知れません。
一般に看板というものは、広く人に何かを伝えるものですが、この看板の場合、それを拒否し、分かる奴に分かればいいとうそぶいているようでもあります。
これをごらんの皆さん、なにとぞこの読みと意味とを教えて下さい。
最近また不眠や途中覚醒に悩まされているのですが、その主要な原因は異常な暑さにあるとはいえ、もう一つの要因はこの看板のせいかも知れません。
どうやら私は、見てはいけないものを見てしまったようです。
こんなのがありましたが・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE
1 『大漢和辞典』『広漢和辞典』などを見るが、■(手偏に合+辛)、●(手偏に包+口)という漢字はなし。
2 もしかしたら、日本で作られた漢字(国字)かもしれないと思い、『国字の字典』(参考:813.2/ス)を調べてみると、■と●が見つかり、「■抬■●」で「さむはら」と読むことが分かる。
3 『日本国語大辞典』を引くと、「さむはら」とは「災難よけに記す符字。またそれを記した守り札」とある。
「さむはら」で調べるとウィキなどいろいろ出てきます。
その後、次のサイトが見つかり、理解を深めることができました。
http://homepage2.nifty.com/Gat_Tin/kanji/sinji.htm
このサイトでの説明を抜き書きしておきます。あわせてご参考までに
>神道系神字。ふりがなの様に,全4字で「さむはら」と読み,これを墨書きして持つと,銃弾除けや怪我除けなどの効用を持つ護符となるという
[補足]
1:看板の文字中、①右から2番目の文字はこのサイト中、4番目に、②右から4番目の文字は5番目に紹介されています
2:上記1-②の説明によれば、看板の文字は「右から読む」ものとなっています
3:看板中、右から2番目の文字の旁はは「台」となっていて、「抬・擡」(もた・げる【擡げる】)ということかと思ったのですが、サイト上の文字では「ム」の「てん」がありませんでした。しかし、ここではあえて異を唱えることではないと思っています
変な呪文だなと思いましたが、そのまま、馬鹿にして、深くたずねることもしなかったのを、今はとても後悔しているようです。
私も、mishimahiroshiさん(六のことではありません)のご指摘に基づき、bbさんと同じところにたどり着きました。
で、逐次的な読み(=意味)については、別のところで他の方に教えていただいた、判じ物のような読み方が正解だと思います。
「辛を拾い、口を払い、辛を拾い、口を抱く」
(辛いことを進んでせよ、でも愚痴はこぼすな 辛いことを進んでせよ、でも愚痴をこぼさずに自分の胸にだけしまっておけ)
いってみれば、つらいことにも黙って絶えろということなのでしょうが、これがいつの間にか魔除けのおまじないに転じたのでしょうね。戦争中には出征軍人の弾よけのお守りとしても使われたそうですが、私の地方(西濃)では聞かなかったように思います。
千人針のお手伝いには行きました。