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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

小さきものたちへのすこし観念的なオマージュ

2011-10-12 00:35:28 | ポエムのようなもの
 誕生したばかりの小さなものたちにこそ可能性の開けを見出すことができます。

 一方、死こそ人間にとって不可避で必然だから、その死に「先駆けて」おのれの「本来性」を生きよなどと説く人もいます。
 確かに死は必ずやって来るでしょう。
 しかし、その死が、いつ、どこで、どのようにやって来るのかは不確定でむしろ偶然に属します。

 ですからそんな不確定な死に先駆けて「本来性」を生きよということが、死の必然への服従として、かえって「不」自由であるかも知れないのです。
 むしろ、「生まれる」こと、「生成」することへの「複数」の可能性、そしてそれがはらむ「偶然性」のなかにこそ生きるという意味が、そしてその「自由」の根拠があるのではないでしょうか。

       
          昨年は花の付きが悪かった小菊 今年は確実に蕾が

 私は、私がいなかったこの世界へと生まれ来て、そしてやがてそこを去ってゆくのですが、まずもってこの世へと生まれたこと、そしてそこで第二、第三の誕生を繰り返すなかで、この世界を舞台として何ものかとなってゆくことが生きるということの意味だと思うのです。

 「なるほど、人間は死ななければならない。だが、人間が生まれてきたのは死ぬためにではない。その逆である。つまり、新しい何かを始めるためである」

 これは「死に先駆けること」を説いた人の教え子でもあった女性の思想家の言葉です。
 師の言葉とは視点がまるで逆だといえます。
 私はこの女性思想家の言葉に深く共感します。

       
        もう水仙の芽が そんな時期なのかそれとも気候異変のせい?

 小さきものたちへ心奪われるのはそのせいでしょうか。
 このものたちがどのような結果を私たちにもたらすのか、その大筋はともかく、いつどのようにしてどうなるのかのディティールは未定です。
 それは決して昨年のそれをそのままなぞるわけではありません。
 だから私たちは、この小さきものたちがはらむ偶然のドラマを、期待をもって見つめることができるのです。

 これは安易なロマンティシズムとは違うかたちで「無常」を受け止めることではないかとも思います。
 無常は死にゆくという必然性のなかにではなく、生きるという出来事の偶然性のうちにこそあるのだと思います。
 それはまた、自由と無が隣接しているということを意味しています。
 
 私の生は、様々な必然の罠を潜り抜け、自分の誕生をどのように彩るかの創作でもあります。
 だからこそ私の生には、ある種の責任が常につきまとうのです。

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