<6日の日記から>
少しうきうきする日である。
年二回、高校時代の友人たち六人で、勉強会のようなことをしている。
いい年をして何を今さらといわれそうだが、それでも楽しい。
今回のテーマは、まさにその「今さら学んだりものを考えたりすること」自身がテーマだった。
題して、「21世紀と私たち」。
例によって話はあっちへ飛んだりこっちへ戻ったりする。
司会役のU氏が適度にテーマに話題を戻すのだが、またまた外れる。
でも、それはそれでいいし、それがまた楽しい。
出発前に自宅で撮ったラッパ水仙
全員、半世紀以上の付き合いである。キャリアは千差万別で、学問などちゃんとやった奴はひとりもいない。
でも、みんな、なにがしかを考え、語る。
これで六回目を迎えるのだが、次第に話題が広がり、皆が饒舌になってきた。
半世紀の時間は、各自にいろいろなものをもたらし、それなりに変化はあったのだが、その語り口に、それぞれ若き日の色合いがちゃんと保たれているのがおかしい。
そんな私たちだが、結構真面目に勉強してきたつもりだ。過去五回の足跡を示そう。
1)夏目漱石の『こころ』を読んだ。
2)「沖縄」へ行った人が、その実状などを述べた。
3)「世界的規模の森林破壊」の状況を学んだ。
4)「地域社会の実状」について話し合った。
5)「言葉とは何だろうか」について学んだ。
6)そして今回
途中の川畔で見かけたアオサギ。この鳥、かなり接近しても
逃げようとはしない。その点シラサギはすぐ逃げる。
今回の結論。
私たちが、現状に縛られることなく、来るべきものに開かれてあるとしたら、21世紀どころか、「永遠の今」を生きることができる。
どんなに若く、かつ最先端に位置しようが、それらが単に現状の追認にしか過ぎないならば、それは「たんなる今」を生きているに過ぎない。
というようなことで、その「永遠の今」を確かめるべく、酒宴に。
そこではさらに自由なトーク。だが、勉強会の延長で話が弾む。
イヤ~、楽しかった。
集まった皆から、エネルギーをたっぷりもらうことができた。
合計六時間近い集まりを終えて外へ出ると、寒のぶり返しで吹く風が冷たい夜であったが、半世紀前の少年の日に戻った私たちには、春風のように暖かであった。
友よ、また秋に!
少しうきうきする日である。
年二回、高校時代の友人たち六人で、勉強会のようなことをしている。
いい年をして何を今さらといわれそうだが、それでも楽しい。
今回のテーマは、まさにその「今さら学んだりものを考えたりすること」自身がテーマだった。
題して、「21世紀と私たち」。
例によって話はあっちへ飛んだりこっちへ戻ったりする。
司会役のU氏が適度にテーマに話題を戻すのだが、またまた外れる。
でも、それはそれでいいし、それがまた楽しい。
出発前に自宅で撮ったラッパ水仙
全員、半世紀以上の付き合いである。キャリアは千差万別で、学問などちゃんとやった奴はひとりもいない。
でも、みんな、なにがしかを考え、語る。
これで六回目を迎えるのだが、次第に話題が広がり、皆が饒舌になってきた。
半世紀の時間は、各自にいろいろなものをもたらし、それなりに変化はあったのだが、その語り口に、それぞれ若き日の色合いがちゃんと保たれているのがおかしい。
そんな私たちだが、結構真面目に勉強してきたつもりだ。過去五回の足跡を示そう。
1)夏目漱石の『こころ』を読んだ。
2)「沖縄」へ行った人が、その実状などを述べた。
3)「世界的規模の森林破壊」の状況を学んだ。
4)「地域社会の実状」について話し合った。
5)「言葉とは何だろうか」について学んだ。
6)そして今回
途中の川畔で見かけたアオサギ。この鳥、かなり接近しても
逃げようとはしない。その点シラサギはすぐ逃げる。
今回の結論。
私たちが、現状に縛られることなく、来るべきものに開かれてあるとしたら、21世紀どころか、「永遠の今」を生きることができる。
どんなに若く、かつ最先端に位置しようが、それらが単に現状の追認にしか過ぎないならば、それは「たんなる今」を生きているに過ぎない。
というようなことで、その「永遠の今」を確かめるべく、酒宴に。
そこではさらに自由なトーク。だが、勉強会の延長で話が弾む。
イヤ~、楽しかった。
集まった皆から、エネルギーをたっぷりもらうことができた。
合計六時間近い集まりを終えて外へ出ると、寒のぶり返しで吹く風が冷たい夜であったが、半世紀前の少年の日に戻った私たちには、春風のように暖かであった。
友よ、また秋に!
今を生きるといいますが、今はすでに過去になってしまいます。来たるべき過去である未来に眼を向けて生きる。未来は開かれいるのではなく、わたしたちが自らを未来に向けて開いておくのですね。
はまなすや今も沖には未来あり 草田男
はまなすは「王に攻めるの作り」と「瑰」
いわゆる生産と消費のエコノミーの世界の内側に閉じこめられているかぎり、それは不可能です。
「今あること」は、「他のありよう」に代入可能であり、たまたま、「今あること」は「他のありよう」を押しのけて居座っているのみで、未来はさまざまな「他のありよう」(人間の思考のパラダイムすら変えるような)に取って代わられるかもしれないということです。
それらに対して開かれてあるありようを、やや気取って「永遠の今」と名付けてみました。「今あるように」にがんじがらめに囚われて、「たんなる今」を生きることへの対比としてです。
生産と消費のエコノミーの外側に立つものとして己を定位すること、それ自身そう簡単ではないのですが、自分が、ものをつくる機械、産む機械、「あるある」に刺激されて納豆を買いに走る消費機械であることから離れて思考してみることは可能です。
(以下次のコメントへ続く)
考えてみれば、七〇歳に近い人間が、21世紀や未来を語ることは滑稽かも知れません。しかし、先の観点からすれば、例え最先端の科学技術の場にあっても、そして彼がどんなに若くとも、現状に埋もれて生きている限り、彼は「たんなる今」に縛られているに過ぎません。
あと何年生きられるかが問題なのではありません。その意味では私たちは明らかに有限な存在です。死後の霊魂のようなものも、人々の間に残る思い出のようなものを除いては考えうべくもありません。
しかし、私たちは、己が有限であることを知るが故に無限をも思考できるのです。そしてそれを私たちの生きる場へと折り返すことが可能です。その時、今は、「たんなる今」や刹那的な時間経過を超えたものたり得るのではないかと考えます。
「人間は死ぬから偉い」、これは故・折原修三の言葉です。
当日の話を、もっとも固くまとめると以上のようなところですが、実際には余談やおまけ、愚痴や自分の家庭の事情、などなどが絡んで話しがあっちへ行ったりこっちへ飛んだり・・。
でも、それが楽しかったことは本文の方に記したとおりです。
酔うのは酒のみにあらず。
わたしもこれから現場を離れて空手道場へ行って若い子たちと大声出して蹴り合ってきます。道場では最年長です。
最近読んだ本、『ひとつの昭和精神史』(伊藤益臣・思想の科学社)は、東京銀行に定年まで勤めながら、戦争や国家、老いや文学、親鸞などについて幅広く思考した人、折原修三の生き様と昭和という時代を絡ませた書ですが、あの大企業のまっただ中で(大企業だからできた面もありますが)よくそれほど思考しえたと思わずにはいられません。
彼の言行録の中には、「思考を節約するな」、「世間を裁判官とするな」とか、「老いを動態として捉える」、「絶対はない、一切は解釈」とかいった興味深いものがいっぱいあるのですが、その生涯と思考は、まさにその実践そのものでした。
そして、もうひとつ興味があるのは、その折原に共鳴し、この本を著した伊藤益臣という人がまた、三菱重工業を定年まで勤め上げた大企業の人だということです。
逆に、生産と消費と無縁のように振る舞っている学者の中に、その無思考ゆえに、実はエコノミーの原則にどっぷり浸かっている連中は沢山います。
本来、学者さんは現実の中から専門分野という特殊性を自ら選んで切り取り、現象を相対化し、本質を一般化するべき立場を得ています。しかも、尚且つそれによって口に糊することが可能な人たちです。
それなのにわたしの治療室ではつい気を許して生産と消費を自らの世界に持ち込んでキュウキュウと苦しんでおられる様子を吐露されます。
その点では折原氏のように大いなるアマチュアの方が自らをより相対化し、結果として深みに到達できる可能性はありますね。
方法論や表現方法はもたなくとも大向こうを唸らせる職人の一言など、実に見事なものです。
わたしも鍼職人の末席を汚すものとしてそんな一言を紡ぎ出したいものです。