アメリカの現代小説、エルナン・ディアズの『トラスト-絆/わが人生/追憶の記/未来ー』を読んだのは今月はじめで、その感想も述べた。そんな縁があったのかなかったのかよくわからないが、図書館の新着の棚に、トルーマン・カポーティの初期(最初)の長編小説、『遠い声、遠い部屋』が並んでいるのを見かけ、つい借りてきて読んだ。借りてから気がついたのだが、これは従前の河野一郎:訳ではなく、村上春樹の新訳のより、今夏発刊されたものだという。
トルーマン・カポーティ(1924~84年)は1965年に発刊された『冷血』というルポルタージュ文学で知られた作家で、その折、つまり半世紀以上前に私も読んでいるのだが、まさに冷血な殺人事件を、冷血な筆致で描いていた以上の記憶はすっ飛んでいる。確かまだ、わが家のどこかでホコリを被っているはずだから、もう一度読んでもと思っている。
さて、そのカポーティの初期長編(23歳の作品)だが、読み始めると同時にこれぞ「文芸」作品だと思った。どういうことかというと、文章の「芸」なのである。あえて芸術とはいわない。芸術の定義を巡ってややっこしくなるから。
彼の文章の芸、または技はすごいと思った。あらゆるものの描写や比喩が、意表を突くように縦横無尽に描かれ、それらが、詩と散文の境界を縫うようにして表現される。村上春樹がこれを訳そうとした気持ちがわかるようだ。とはいえ、ハルキストには叩きのめされそうなほど村上春樹についてはよく知らないのだが。
主人公はジョエルという13歳の少年である。彼が幼い頃、両親は離婚し、母と育った彼には父の記憶はない。しかし、その母も他界し、叔母に育てられていた彼のもとに、その父からの誘いの手紙が届く。彼はその父に逢うべく、単身でその南部の田舎町を訪れる。その家へたどり着くに前にも出会いがあり、それがこの物語とも関わってくる。
若き日のカポーティ
父の住む家に着いたジョエルは、父の再婚相手という女性やその従兄弟というランドルフという男性(30代半ば?)に迎えられるが、父親にはなかなか逢わせてもらえない。しかし、ひょんなことから再会は叶うが、その父は寝たっきりで、その意思表示はボールをベッドから落とす以外にはないというありさまだった。
ジョエルは、その家の窓の外観から、居るはずのない女性の姿を目撃したり、残してきた叔母に宛てた手紙が投函したはずのポストから消えたりする怪奇に見舞われる。
それでもその間に知り合った隣家の気性の荒い双子の妹と知り合い、ともにでかけたりするが、意志が通じ合っているのかどうかはよくわからない。
そのうちに、彼を招いたのが父というより、同居しているランドルフであったり、そのランドルフの同性愛志向が次第に明らかになってきたりする。
かつて、その結婚相手から殺されかかった黒人女性(首に傷跡がある)が、南部では見られない雪を求めてワシントン目指して旅立ったり、さまざまなエピソードがジョエル少年を取り囲むが、やがて彼は、誰もが叶えられぬ夢を抱いてい生きているこの環境から自分は抜け出すべきだと判断するに至る。
とまあこんな具合で話は進むのだが、それ以降の後半はその風景描写といい、登場人物といい、彼らの挙動といい、そのすべてが現実と夢幻の世界、不条理などがない混ぜになったままの描写で進んでゆく。それらはまるで淵や瀬、激流を行く川下りの小舟に乗り合わせたかのようで、その推進力はカポーティの華麗にして流暢な文体である。
それらの過程は、主人公ジョエルが置かれた特殊な状況(著者、カポーティも子供時代孤児さながらに親戚をたらい回しにされて育ったとか)にもあるが、同時にこれは、私たち一般が少年少女の時代、迷妄のうちに周囲の状況に触れ合いながら、夢を抱いたり、見失ったりする過程をどうくぐり抜けたりするかの詩的にしてかつ幽玄的な描写ともいえる。
主人公の少年ジョエルの話は、以下のように閉じられる。
「彼にはわかっていた。自分が行かなければならないことが。怯えることなく、臆することなく。彼は庭の端で少し歩を止めただけだった。なにかを忘れてきたみたいに、彼は立ち止まって後ろを振り向き、華やぎを欠いた降りゆく暮色を、自分が背後に残してきたその少年の姿を目にした。」