健康診断でとりあえず慌てたのは、身長体重の微縮(?)もさることながら裸眼視力。左・右の差が、昔は0.4ぐらいだったのが、ダブルスコアどころか、トリプルを通り越して、えーと、なんだ、クアドルプル・スコアになっている(惑)。
検査の前に担当看護師さんに「この機械は0.1未満だと測定できませんが裸眼で大丈夫ですか」と訊かれ、また更衣室まで戻って眼鏡とってくるのは面倒くさいし、0.1なら楽勝だろうと思って検眼機覗いてみたのですが、中盤までは本当に楽勝。ひょっとして視力よくなってる?とヌカ喜びしていたところ、突然、輪っか(=ランドルト環)の大きいのから菊の花みたいに見え出し、上下左右どこが開いてるものやらさっぱりわからなってしまいました。視力のいいほうの右目をマスキングされたからそうなったらしいのね。さっきまで楽勝で見えていたのは、悪い左目をマスクし右目だけで見ていたから。
「右左だいぶ差がありますが、眼鏡で矯正されてるんですね、じゃそう書いときます」と看護師さん。おい!矯正されてるかされてないか、眼鏡着用でもう1回検査しなくていいのか?面倒くさいのでスルーしてしまいましたが、あとで同じ健診受けた人から聞いたところでは、あらかじめ書いて当日受付に提出する問診表「車の運転する・しない」の“する”に○つけると「じゃ普段お使いの眼鏡かけてもう一度」と言われるそうです。
別の知人はそれを知っていたので最初から「しない」に○して出したところ、「車は運転されないんですか?」「お仕事は営業職では?内勤ですか?」「通勤は?地下鉄ですか?」としつこく念を押されるので、なんだかヤバいような気がして「あ、書き間違えました、運転します」と“自供”したとか。職場結婚の奥さんも彼の前日同じセンターで、同じ“要領”で健診にのぞんだところ何も言われず裸眼のみの検眼で終了したので、女性にはチェックがゆるいのではないかということです。
それにしても健康診断の話になると、何の検査がどうだったという話題のいちいちに全員「面倒だから」「面倒くさいから」とマクラコトバが付くのが可笑しいやら微笑ましいやら。それだけ深刻な不安材料がなく健勝だということで結構な話ではあります。
昨夜は高齢家族のリクエストで『古畑任三郎ファイナルvs.イチロー “フェアな殺人者”』を録画、深夜CMカット編集。深夜の作業は音声オフでやるのですが、本編後に三谷幸喜さんと演出河野圭太さんの対談インタヴューがあった模様で、これは高齢組に見せてからも保存しておこう。
06年正月番組として放送されたとき、一応最後の古畑シリーズだしと思ってVTR録画して見た記憶はありますが、あまり惹き込まれなかったし印象にも残らなかったので保存しませんでした。
99年の『vs.SMAP』でもそうでしたが、“犯人役のキャラがリアルの一部を借用、重層”という作りがどうにもいただけない。“シアトルマリナーズで大活躍中の高年俸メジャーリーガー、子供たちの憧れ”とか“婦女子に熱狂的人気の歌って踊るスーパーアイドルグループ、辣腕ベテラン女性マネつき”なんていう表面的なポジションだけ横流し的に流用して、劇中で殺人犯として成立させるために生い立ちや家族関係・過去の経緯だけ設定として描き加えるというのは、書き手は愉快かもしれませんが、フィクションとして“ずるい”と思ってしまう。
意外な俳優さんが、意外な、でも「演らせてみると似合ってるよね」「アリだよね」という役どころに扮するのが魅力のシリーズだったのに。
第2シリーズから「キミ名前は?」と古畑に訊かれ続け、どう考えてもコメディリリーフ用の“人間小道具”だった向島巡査が、結婚したり離婚したり復縁したり、その都度姓が変わったり旧姓に戻ったり、昼ドラの人物みたいに笑かしてくれた挙句“暴力団員とうっかり草野球仲間に”“それを知ったトップ屋にしつこく強請られる”“そのために警官を辞し警備員に”なんてシャレにならない設定がオンされる時点で、もうこれ、問題外でしょう。悪乗りし過ぎ。おまけに“腹違いの弟が大リーガー”までオン。気弱善良キャラのスタンスを崩さないまま、ご無体な後付け設定をきちんとセリフで説明し切った小林隆さんの演技力こそ褒めてあげるべきかもしれません。
SMAPなりイチローなりにもともと濃い関心がある人なら理屈抜きにおもしろいのかな。こういう“半分パラレルワールド”みたいのがいちばん理解しにくい年代の高齢組に、視聴させる前にどう設定を説明するかがいまから鬱陶しいのですが、掛け値なし本物の“子供たちの憧れ”であるイチロー選手の、人を殺めるところが映像で映る役を引き受けた度胸と心意気、“古畑ワールドへのシンパシー”、ひいては“アメリカの豪勢な自邸で古畑のDVDをBGM代わりにリピートしているという、天才の孤独”に思いを致しつつ観るなら、それもまた一興。
でも、やはり『古畑』は96年放送の第2シーズンまでが本物で、それ以降は“デキにばらつきの大きい変奏曲、パスティーシュ”に過ぎなかったと思います。書いてる人、製作してる人が興がっているだろうことは画面からばんばん放射してくるのですが、観ているほうはどんどん冷めていった。
「この俳優さんがこんな職業の、こんな設定の役どころで、こんな動機でこんな手口で、こんな人を殺しちゃうの?」というサプライズが、第2まではもれなくあった。TVドラマとしての『古畑』の魅力の過半はここにあったと言ってもいい。今泉刑事・西園寺刑事らレギュラー脇キャラを含めたやりとり・小ネタはもちろん、いったん暗転した後の古畑の謎解きすら“付け合せ”のようなものです。
第3シリーズ以降は、古畑よりゲスト犯人より、付け合せ部分がやたらに濃いしつこい味になった、と言うより脚本三谷さん筆頭に、演出河野さんら製作陣のほうが“主役”になってしまった感。「田村正和さん、また古畑演って」より「三谷さん、また古畑書いて」の声のほうが巷に優勢なのもここらへんの地合いをよく物語っています。
ま、個性的な異色1話完結ドラマが“作家性”のほうに重心を移すことで形骸化して行くプロセスの、絶好のいちサンプルとしてシリーズあたまから再鑑賞するのも、これまた一興です。『相棒』9年6シーズンの長持ち具合、と言うか延命具合と比べてみてもいいかもしれません。
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