先日、「人は何故キャラクターにはまるのか」という、目下のコロナ禍の世間のどこからも何の需要もない、不要不急きわまりない考察をこのブログ内で展開し、「人間が、人間を好きだからだ」という、これまた何の、えーと、何だっけ?そうだエビデンスもない結論で締めたばかりですが、我が身を振り返ると、「なんで最初にはまったのがぐでたまだったんだろう」と、いまだにふと思うことがあります。
デイトブックを出先のセブンイレブンの雑誌スタンドで見つけて、あまりの脱力っぷりに思わず買い帰ってしまったのが2015年の秋で、以来、ダイアリーなりカレンダーなり、毎年、何かしらのぐでたまステーショナリーがデスク周りで三百六十五日伴走する日常になっている。初めてのデイトブックには“何これ”モードだった家族ももう怪しみません。
決めゼリフのひとつ「どーせ食われるだけだし~」が良かったのかなと思います。当方のアンテナ周波数にしっくり来る。なんか、悟っているというか、醒めているというか、いっそ爽快じゃないですか。食べられちゃったら無くなるんだけど、食べてもらえないまま何週間も何か月も過ぎたら、いずれグレたまさんになっちゃうので、彼(=ぐでたま)本人(?)としては限りなく、絶え間なく、食べてもらえることを志向している。
醤油かけてほしいとか、寒いからベーコンの下に潜り込むとかいろいろ我儘勝手言ってますが、すべては“美味しく食べられたい”という一途な願いの然りあらしむるところ。
ずいぶん昔から、イヌとかネコとかウサギとかネズミとか、動物由来のキャラクターはどうも苦手というか、身近に置いて眺めたり触れたりして可愛がりたい気持ちになれないのですが、根底に“生命あって知覚を備えた生き物を自分の生活空間で支配下におく”のが憂鬱だという思いがあります。
飼育、愛玩のためだけに傍らにいる生き物って、彼らの身になるとどうしても幸せと思えない。人間なんかの住環境よりずっと彼ら自身に適した世界、時間があるはずなのに、人間の趣味嗜好で捻じ曲げて連れて来られている気がする。
生き物の生を、継続的に自分の生活環境内に置いて、水や食物を補給して生かすということは、日々刻々、じりじりと死に近づいて行く時間をともにし見守るということでもありますから、そういう作業を引き受ける対象は家族だけでもうじゅうぶんだという思いもあります。
そこ行くと潔いじゃありませんか、ぐでちゃんは。どーせ食われるだけだし。でも食われてナンボだし。あまりにもぐでっと無抵抗なので、食べようとして思わず固まって「・・あとでいいか」となるくらい。
食べても食べても、タマゴと名の付くものあるところ、茶わん蒸しはもちろん、カステラにもドーナツにも、プリンにもぐでたまはいる。イクラの軍艦巻きにも、からし明太子にもいる。錦糸卵になってちらし寿司の上にのっていたり、マヨネーズとしてポテサラから出現したりする。
“食われて終了”な潔さと“食っても食ってもそこらへんから何度でも現れる”不滅さ。これぞ、凡百のキャラクターにはない、月河が愛してやまぬぐでたまエッセンシャル、ぐでたまレーゾンデートル(←言ってみたかっただけ)です。
人間でない生き物を無理くり人間の環境、人間の価値観ワールドに入れ込んで適応させて、人間より短い寿命なのにいたずらに可愛いカワイイと愛玩いじくり倒しているバツの悪さが微塵もありません。
ぐでたまに続いてなんとなく自然とグッズが身の周りに増えてきつつあるKIRIMIちゃんも決めゼリフは「おいしく食べてね」「こんやのおかずはワタシに決めてね!」、小麦粉の妖精“コギムーナ”の女の子、という設定のこぎみゅんに至っては、“将来なりたいもの”が「おにぎりになりたいみゅん」・・小麦粉なのに。美味しくなりたい、食べてほしい気持ちがあり余って、自分の実態が見えなくなっているという。
「人間は、人間を好きだから、キャラクターにはまるのだ」という根拠のない結論を出したその舌の根もかわかないうちにこういうのもなんですが、“生きてない無生物”のキャラ化だからこそホッとできる、癒される、ってのもまた真実なのではあります。
生きていること、生きているもの、生命を持つ存在って、愛玩するには重すぎるんです。“死”に近づいて行く過程に付き合うんですからね。