から揚げが好きだ。

映画とサウナ。

Mommy/マミー 【感想】

2015-05-03 09:00:00 | 映画


母は子を想う。子は母を想う。
体内のレベルから始まっている母と子の関係は濃密であるはずだ。生まれた子どもを胸に抱いた瞬間から、その幸せと希望ある未来を母は願う。母により愛され、守られる子どもが、母を愛することは必然的な感情なのだろう。この映画をみると、何かと嫌味に使われる「マザコン」という言葉が異なる意思を持って響いてくる。

グザビエ・ドランが描く母と子の物語は、普遍的なテーマであるにも関わらず、安易に観る側との距離を縮めようとしない。
子どもは「多動性障害」を患っている。自身の感情や理性をコントロールすることができず、衝動的な行動をとってしまう。本作で描かれる感情の多くは「怒り」だ。すぐに発火して、激しい暴力を振るう。周りの人間がそれに巻き込まれる。シングルマザーであり、唯一自分に愛情を注ぐ母親にもその矛先が向けられ、身の危険に及ぶレベルにまで迫る。けたたましい怒号が飛び交い、肉体と肉体がぶつかる激しい描写が続く。1対1の画面の閉塞感も手伝い、観る側を圧迫する。「可哀相」などと同情する隙もない。子どもを愛したい、母を愛したいという2人の純真な想いは確かに存在するのだが、映画はそれを邪魔をするかのようだ。絶望と痛みが横たわる。なかなか近付けない。

不協和な母親と子ども。そんな2人の間に、隣人で吃音症に悩む女教師が投下される。子どもの障害による攻撃は女教師にも向けられ、同じエネルギーの衝突が生まれる。そのシーンの迫力が凄い。しかし、新たに形成された三角関係はそれぞれに変化をもたらす。 平穏と希望の道筋がみえてくる。

その変化へのアプローチがまさにドラン流だ。感情の移ろいを映像の力をもって表現する。映像がまず先行して、その先に感情が追いかけてくるという感じか。象徴的なのは物語の中盤で待ち受ける、1対1の画面フレームがワイドに変化するシーンだ。気恥しくなるほど有名なポップナンバーに乗せて、道路の真ん中をスケボーで走る子どもが「自由だ!」と叫ぶ。その傍らで、母親と女教師が自転車で追っかけ、「もう、何やってんの~」と喜びと解放感でゲラゲラと大笑いして子どもを見守る。高揚感たっぷりなのだが、冷静に捉えると「何が自由なんだろ?」と置いてきぼりをくらったりする。動機の設定はあまり重要ではなく、映像から察する感情の波に身を任せるのがドラン映画の正解なのかもしれない。

画力による感情表現へのアプローチ。光も自在に操る多彩なカメラワークは、過去作以上に大きなインパクトを残す。しかし、それが本作については思いのほか「共感」という形で、自分には結びつかなかった。それは、映画自体の問題ではなく、その本編前に上映されたドキュメンタリーが原因だ。ドランの映像技法について、「この技法はこういうことなんですよ」とご丁寧に解説する。気づきに近いものもあり、それ自体は興味深いコンテンツだったのだが、おかげで芸術作品を観るような目で、本作に臨まざるを得なくなった。映画は芸術作品である前に、面白いかどうかの娯楽作品であってほしい。どう感じるかは観る人の勝手だ。一度リセットしたつもりだったが、本編を鑑賞するうえで余計なバイアスになった。個人的には、あのドキュメンタリーは本編の前提として見せてほしくなかったなー。

物語は過ちの代償を支払うことに躊躇しない。それが残酷な結末に繋がるとしてもだ。母は子どもを守り続ける。
クライマックスに迫る直前のシークエンスが強烈に胸を突き刺さる。3人で乗り込んだ車中から、突然、モノ凄いスピードで時間が経過し、子どもが成長を遂げる姿をみせる。大学(?)に入学し、彼女ができて、結婚して、子どもが生まれる。それぞれのイベントの歓喜の中に母親がいる。愛する子どもの成長と幸福。母の夢、母の愛がそこにある。

【70点】
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