らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

松江の七不思議

2016-05-20 | 旅行

今、日本の首都東京が揺れています。
一方、揺れていないのは「神々の国の首都」です。
「神々の国の首都」とは、山陰の松江のことで、これを命名したのは明治の文豪小泉八雲です。
先日、某テレビで、小泉八雲の「松江の七不思議」の話をしていました。
そこで今日はこの七不思議を調べてみました。

「松江の七不思議」
小泉八雲が記している「松江の七不思議」の言い伝えは次の通りです。
①:源助柱(gensuke_pillar)
慶長年間にはじめて松江大橋を架けるとき、何度造り直してもすぐに大水に流されてしまう。水神の怒りに違いないと、人柱を立てることとなり、選ばれたのが源助(gensuke)でした。それ以来、夜になると源助柱(gensuke_pillar)に鬼火が飛び交ったと言われます。
なお、源助(gensuke)柱は松江大橋の南詰に公園として整備され残っています。
②:嫁が島(yomega_shima)
昔、姑にいびられた哀れな嫁が、里帰りをしようとしました。近道をしようと氷の張った宍道湖を渡ったとき、氷が割れて宍道湖の中に落ちて死んでしまいました。
神様は余りにもかいそうなので、嫁のなきがらを乗せて一夜の内に島をお造りになり浮かび上がらせました。
③:お城のきつね
松平直政公(matsudaira_naomasa_kou)が松江藩主になった時、稲荷新左衛門と名乗る少年が、「城内に私の住む所をお作り下さるのなら、火の禍を防ぎます」と言って消えました。
そこで、直政公は城内に城山稲荷神社を造りました。
④:松江城の人柱
何度も崩れる石垣の下に、お祭りで踊っていたある美しい女性が人柱として生き埋めにされました。石垣は崩れなくなったものの、城が完成してから、盆踊り禁止令が出されました。それは、女性たちが盆踊りを踊るとお城全体が揺れ動くからだと言われています。
⑤:小豆とぎ橋
普門院(fumon_temple)の近くにある「小豆とぎ橋」では、杜若(kakitubata)の歌を歌ってはいけないと言われていました。
ある時、豪快な侍が大きな声で歌いました・・。そして、家の前にいた美しい女性の差し出した箱を開けてみると、そこには自分の子供の首が・・・・・。
⑥:子育て飴
毎日ある飴屋に若い女が飴を買いに来る。ある晩飴屋の主人が不信に思って後をつけると、大雄寺と言う寺の中に消えました。
ある新しい墓の下で子供の泣き声がするので掘り返してみると、そこには元気な子供と最近埋葬されたばかりの若い女性の躯が・・。
「母の愛は死よりも強い」。
⑦:子供の幽霊:(知られざる日本の面影」より
八雲は島根半島の「加賀の潜戸(kukedo)」を訪れた。新潜戸(new_kukedo))は佐太(sada)大神が生まれた場所で、旧潜戸(old_kukedo)は子供の魂が集う「賽(sai)の河原」として知られています。
この話は、八雲が旧潜戸(old_kukedo)で遭遇した不思議な体験と言い伝えだそうです。

テレビではこの「松江の七不思議」④の「松江城の人柱」を話題にしていたもので、後半にもう少し詳しく説明しておきます。

・盆踊り禁止令が出されている美しい松江城です。(2007年11月撮影)


「松江城の人柱」
松江城は優美な姿から千鳥城とも呼ばれ、兵庫県の姫路城に次ぐ平面規模の天守閣を有しています。また近年には太鼓櫓・中櫓・南櫓の3棟が復元されました。
この城は慶長十二年(1607 年)に着工され、五年もの歳月を費やして慶長十六年(1611 年)末に完成しました。
天守閣の工事は難航したそうで、いくら土をつき固めても石垣が崩れてしまうため、地の神が怒っていると考えた城主は盆踊りを開催して踊りの上手な娘を人柱として埋めることにしました。
その後は不思議と地盤が固まり、立派な天守閣を造ることができました。
ところが、完成の宴の時に女性たちが踊りだすと天守閣が揺れ出し、その後も天守近くで盆踊りを催すと人柱の娘達が踊るように城が震えるということで、盆踊りは一切禁止されたとのことです。

(参考)
小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーンは、1850年6月27日、ギリシアのレフカダ島でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生まれました。
1884年、アメリカのニューオリンズで開かれた万博で日本館を見学して東洋の神秘に興味を持ったようです。
以来「古事記(翻訳物)」を読み、次第に日本に傾注していきました。
そうした所、雑誌社から「日本旅行記」の話があり、喜んで日本に取材に行くことになりました。
しかし、航海の途中で、雑誌社との契約を破棄してしまいました。

「松江との出会い」
1880年4月、ハーンは横浜港に着きます。
ここで知人のつてを頼って職探しをしていたところ、運良く、松江の中学校の外国語の教師が見つかりました。
これがハーンと松江の出会いとなったのです。
8月30日、松江に到着したハーンは、ある朝、お米をつく杵の音で目を覚まし、また川向こうの寺で鐘が鳴り、物売りで朝から賑わう町。
その松江の光景に心を打たれたハーンは松江を「神々の国の首都」と呼びました。
ハーンにとって読みふけった「古事記」そのままの松江がいかに新鮮に写ったかを物語っています。

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南紀の旅(その7)「青岸渡寺」

2015-10-14 | 旅行

昨日ご紹介した那智大社に隣接して青岸渡寺(せいがんとじ)があります。
ここからの那智大滝の眺望は素晴らしいです。
今日は那智大滝と青岸渡寺をご紹介します。

「那智大滝」
那智大滝(なちのおおたき)は、和歌山県那智勝浦町の那智川中流にかかる滝です。
この大滝の特徴は滝口が三筋になっていることです。
水量は毎秒1トンで、石英斑岩からなる、ほとんど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅は13メートル、滝壺までの落差は133メートル、滝壺の深さ10mの落差日本一の名瀑で、昭和47年(1972年)7月11日に国の名勝に指定されており、華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられています。
なお、滝口の上には注連縄が張られていますが、この滝は滝壺の近くにある「飛滝神社」のご神体とされていることからということです。

・青岸渡寺の境内から眺める那智の滝です。


「青岸渡寺」
青岸渡寺は天台宗の寺院です。
伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)の僧、裸形(らぎょう)上人が那智滝において修行を積み、その暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが当寺の創始とされています。
その後、推古天皇の勅願寺となり、6世紀末から7世紀初め生仏聖(じょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置してその胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたと言われています。

如意輪観世音を祀る本堂は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残しており、2004年7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されています。

・本堂です。


「青岸渡寺山門」
本堂のすぐ下にある山門は昭和8年(1933年)の建築で、山門の両脇に安置されている金剛力士像は湛慶の作と言われているようです。

・「青岸渡寺山門」です。


「鐘楼」
宝篋印塔近くに「鐘楼」があります。
鐘には元亨4年(1324年:鎌倉時代)の銘があることから、鋳造は鎌倉時代と言われいます。



「宝篋印塔」
青岸渡寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は流紋岩でできた高さ4.3mの宝篋印塔です。
この宝篋印塔も鎌倉時代以降に成立したものといわれており、元亨2年(1322年)の銘があるようです。
宝篋印塔は供養塔、墓碑塔として建てられていますが、元々は違った目的で建てられていたものらしいということです。



「タブノキ」
境内にあるタブノキ(通称犬樟(いぬくす))です。
クスノキ科タブノキ属の常緑高木で、樹齢約700年と記されていました。



7回にわたって南紀の旅シリーズを取り上げましたが、今日でこのシリーズを終了します。

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南紀の旅(その6)「那智大社」

2015-10-13 | 旅行

日本一短い川を見た後、那智大社にお参りしました。

熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めている神社です。
熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つとなっています。

「那智大社・一の鳥居」
参道の途中に一の鳥居があり、473段の石段を登り切ると二の鳥居をくぐって境内に到着します。
境内は標高約500mに位置し、6棟からなる社殿が建ち、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神として、それぞれに神様をお祀りしています。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められています。



「手水舎」
熊野那智大社に通じる「一の鳥居」を過ぎると、立派な手水舎(てみずしゃ)があります。
ここで身を清めてから熊野那智大社、那智山青岸渡寺に参拝します。



「那智大社拝殿」
社伝によれば、神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸した際、那智山に光が輝くのを見て、那智の大滝をさぐりあて、神として祭り、八咫烏の案内で山々を越え大和に入ったとあります。
社殿は、仁徳天皇5年(317年)に現在の位置に創建され、大滝を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には夫須美神(ふすみのかみ)を祀ったのが「熊野那智大社」の始まりとされています。
その後、仏教が伝来し、役小角(えんのおづの)を始租とする修験道とともに熊野権現として崇められ、上皇、女院、武将や庶民の崇拝が増え、「蟻の熊野詣」と称されるようになりました。

・那智大社の拝殿です。


「八社殿」
ここに掲げられている説明は次のように書かれています。
熊野那智大社は熊野三山の一つに数えられ中世以降は日本第一大霊験所・根本熊野三所権現として、全国的に信仰された古社である。
社殿は東西横一列に配された第一殿から第五殿と、第五殿の正南方に並ぶ第六殿・御縣彦社からなる。各社殿は瑞垣で仕切られており、各社殿の正面には鈴門が開かれている。
第一殿から第六殿までが嘉永4年から7年(1854年)の建立、御縣彦社は慶應3年(1867年)の建立である。
社殿はその規模が大きく良質で、彫刻を殆ど用いないなど、配置や形式に特徴があり、全国の神社建築に影響を与えた熊野三山の社殿形式を伝えるものとして、我が国の神社建築史上貴重である。鈴門及び瑞垣は境内の景観を構成する上で重要である。

・左側のお社は御県彦社です。
 京都の下鴨神社の御祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祭られています。
 賀茂建角身命は神武天皇が熊野に上陸した際に八咫烏(やたがらす)となって導いたそうです。


「那智の樟(くす)」
ここに掲げられているの説明によれば、この樟は樹齢約800年と推定され、樹高は27m、幹回り約8.5m、枝張るは南北25メートルもあります。
県下でも珍しい樟の大樹で、根幹部は空洞化しています。
熊野三山造営の勅使として参った平重盛の手植えの樟と伝えられており、天然記念物に指定されています。



「樟霊社胎内くぐり」
この老樟は古来樟の精にあやかって樟霊社とし、又、無病息災を祈り、長寿を願って多くの人々に崇められています。
根幹部の空洞を通り抜ける「胎内くぐり」には備え付けの「護摩木」に願意・氏名を記入し、これを奉納して胎内に入り、出口の護摩社に納めます。
この護摩木は毎月18日の権現講祭に焚き上げ祈願するそうです。



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南紀の旅(その5)「日本一短い川」

2015-10-12 | 旅行

以前、日本一短い国道をブログにアップしたことがあります。
その国道は神戸港と神戸市中央区の国道2号線を結ぶ国道174号で、その距離は僅か187mでした。

日本一短いと言えば、和歌山には日本一短い川があるそうです。
紀伊大島から国道42号線を東へ和歌山県那智勝浦町まで行くと “ぶつぶつ川”という日本一短い川があります。
同行のK氏がご存じなので案内して頂きました。

「日本一短い川 」
K氏から「和歌山に日本一短い川があるけど、長さはどのくらいの川か分かりますか?」と訊かれ、川と言うからには短くても100mや200m以上かと思っていましたが、何と川の長さは13.5mでした。

この川の名前は二級河川“ぶつぶつ川”で、ここに掲げられている説明によれば次のように書かれています。
ぶつぶつ川は、川の長さ僅か13.5mの日本一短い川です。フツフツと清水が湧き出ていることから、昔からそう呼ばれてきたそうです。
今でも野菜や道具、洗濯物を洗ったりと、生活に欠かせない貴重な水源です。周辺の環境は、地元の方々の努力で維持され、豊かな生物多様性が守られています。

更に、次のようにも書かれていました。
県内には日本一長い二級河川も流れています。それは県の中央を流れる長さ114745mの日高川です。流域にはキャンプ場や龍神温泉など多数の観光名所があります。



「ぶつぶつ川の水源」
ここが日本一短い川 “ぶつぶつ川”」の川上であり、水源です。
ここから清水が湧き出て、13.5m先の川下まで流れているのです。

・日本一短い川“ぶつぶつ川”です。


「ぶつぶつ川」
川下から撮影した“ぶつぶつ川”です。
突き当りの石垣の脇から湧き出た水は、川下のここで粉白川(このしろがわ)に合流します。
ここまでが13.5mであり、二級河川の日本一短い川として和歌山県が認定しているものです。



「一級河川と二級河川」
なお、一級河川と二級河川の違いを簡単に書いておきます。
広辞苑によると、
・一級河川・・・河川法で、維持・管理・使用の制限などに関し国の管理下にある河川。
・二級河川・・・一級河川以外の水系で、公共の利害に大きくかかわる河川のうち、都道府県知事が指定した河川。

・川上から眺める“ぶつぶつ川”の全長です。
 僅か13.5mの日本一短い川、話の種に如何でしょうか?


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南紀の旅(その4)

2015-10-11 | 旅行

紀伊大島にはトルコ記念館の他にもアメリカに関する記念館もありました。
「日米修好記念館」がそれで、ここには、黒船の浦賀入港より62年も早い寛政3年(1791年)3月に2隻のアメリカ商船が寄港した経緯となる資料が展示されています。

「日米修好記念館」
日米修好の歴史は、現在のところ1853年(嘉永6年)に、アメリカのペリー提督率いる黒船の浦賀入港がその始まりとされていますが、それより遡ること62年前の1791年(寛政3年)3月に2隻のアメリカ商船が日本に寄港し、貿易を申し込んだと云う史実がアメリカの文献により明らかにされました。
この記念館には、その商船の模型や歴史的文献、アメリカから贈られた資料などが展示されています。

アメリカの文献とは、<マサチューセッツ・海事史1783-1860>で、それによると、1791年、ボストンのレイディ・ワシントン号(船長ケンドリック)がニューヨークのグレイス号(船長ダグラス)を伴って、ラッコの毛皮を交易しようと、南日本の港に入港しました。しかし住民は毛皮の使用方法を知らなかったので商売にならなかった。
と記録されているようです。

その後、この日米初の接触の舞台となった南日本の港は、日本の文献などから、和歌山県串本町大島地区であることが確認されています。
この記念館は日米親善の幕開けという事実を永久に後世に残すため、また、日米両国のより大きな友愛と協調を願ってこの地に建設されたそうです。



「タカノス園地(海金剛)」
海金剛は鷹の巣台地の50m眼下に広がる海中に、ピラミッド形や獅子頭のような奇岩が浮かぶ豪快な海岸美です。
海金剛の名称は朝鮮半島の名勝金剛山からその名をとったということです。
この景観はマグマからできた岩が太平洋の荒波によって削られてできたそうです。
岩の割れ目の大きさや傾き方の違いによってピラミッド型のものやドーム型のものなど、様々な形を見ることができます。
この名勝地は昭和58年(1983年)1月、朝日新聞が公募した「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれています。



「風化的岩漿岩」
岩漿岩(がんしょうがん)とは、マグマが冷えて固まった岩です。
柱状の岩から丸い岩まで、割れ目に沿って風化が進んだ岩石の連続的な変化が見られます。



「橋杭岩」
橋杭岩は大島に向かって大小40ほどの岩が約900mにわたってそそり立っている岩群です。
これは地下から上昇したマグマが泥岩層に入り込んで固まった後、柔らかい泥岩層が波に削られてできました。
このさまが橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれ、国の名勝天然記念物に指定されています。
海岸に散在している岩は橋杭岩が壊れたかけらで、橋杭岩から離れたところにある大きな岩は巨大地震による津波で運ばれてきたものと考えられています。

なお、橋杭岩には次のような伝説もあるようです。
弘法大師と天の邪鬼が一晩で大島まで橋を架ける競争をしたものの、負けそうになった天の邪鬼が鶏の鳴き真似をして夜が明けたと思わせたため、弘法大師が橋を完成させることなく杭だけで終わったというものです。



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南紀の旅(その3)

2015-10-10 | 旅行

南紀の旅シリーズ、3回目もエルトゥールル号の遭難から始めます。

「船甲羅」
この辺りの岩礁は船甲羅と呼ばれて、昔から航海者にとって海魔として恐れられていた岩礁地帯なのだそうです。
明治23年(1890年)9月16日、トルコ皇帝から明治天皇への親書と勲章を贈呈のため来日したトルコの軍艦エルトゥールル号が、帰路の途中暴風雨のためこの船甲羅で座礁沈没し、特派大使船長ら乗組員587名が遭難する大惨事となりました。

・エルトゥールル号が座礁沈没した船甲羅と呼ばれている岩礁地帯です。


樫野崎灯台下に流れ着いたエルトゥールル号の生存者は十数メートルの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせたと言われており、恐らくこの辺りの断崖を這い上って来たものと思われます。

・樫野崎灯台下の崖です。


「樫野崎灯台」
樫野埼灯台は大島の東端、樫野の断崖に建つ日本最古の石造り灯台で、今も活躍しています。
現在は自動点灯の無人灯台で内部は非公開ですが、ラセン階段を登り、遠くは太地町の梶取崎まで見通せます。
灯台の高さは10.20m、光度53万カンデラ、光達距離18.5海里です。
なお、2002年にな展望台が完成し、素晴らしい眺望を楽しむことができるようになりました。



「トルコ軍艦遭難慰霊碑」
明治23年(1890年)9月16日、トルコ国皇帝特派使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が暴風雨のため、この慰霊碑眼下の海域に臨む船甲羅岩礁で難破し、69名は救助されましたが580余名の乗組員の尊い命が奪われました。
そして引き上げられた遺体はこの丘に埋葬されました。
翌、明治24年に和歌山県知事をはじめ、有志の義金により墓碑と慰霊碑が建立され併せて追悼祭が行われました。
この碑は、昭和4年の昭和天皇の樫野埼行幸を聞いたトルコ共和国ムスタファ・ケマル・アタテュルク初代大統領が新たに慰霊碑を建立することを決定、トルコ共和国の資金により昭和12年(1937年)6月3日に完成したものです。

・トルコ軍艦遭難慰霊碑です。


「ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像」
第一次世界大戦後、分割占領された祖国解放に立ちあがったムスタファ・ケマル・アタテュルクは指導者としてこの戦争を勝利に導いたトルコ国民の偉大な英雄です。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは初代大統領として、あらゆる分野で改革を行い、祖国の近代化を成し遂げた建国の父として今なお国民から深い尊敬を受けているそうです。
この騎馬像は日本トルコ友好の礎を築いた軍艦エルトゥールル号の遭難120年に当たる平成22年(2010年)6月3日、更なる両国友好の発展を祈って駐日トルコ共和国大使館、日本財団を始めとする多くの方々に深甚の感謝を捧げるものである。
と記されています。
像の高さは4.2m、台座部分を含めると6mの巨大な像となっています。

・「トルコ軍艦遭難慰霊碑」を建立したトルコ共和国ムスタファ・ケマル・アタテュルク初代大統領の騎馬像です。


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南紀の旅(その2)

2015-10-09 | 旅行

昨日は急遽、星の話題を取り上げましたが、今日から「南紀の旅」シリーズに戻ります。
今回の南紀の旅は、潮岬から紀伊大島を経て国道42号線を那智まで行き、熊野三山の一つ熊野那智神社にお参りするコースです。

・これが今回のルートです。


「潮岬」
潮岬は台風情報でおなじみの岬で、紀伊半島の南部、和歌山県の串本町にあります。
位置は北緯33度25分58秒で本州最南端となる岬です。(正確には先端にあたる太平洋に突き出たクレ崎が本州最南端です。)
 
岬には、かつて海軍の望楼が築かれていた望楼の芝生や、360度の大パノラマが楽しめる潮岬観光タワー、そして少し離れた所に、「あなたが選ぶ日本の灯台50選」に選ばれた、明治6年(1873年)9月15日に本点灯を開始した、高さは22.51mの潮岬灯台があります。

・潮岬は本州最南端の地です。


「潮岬灯台」
潮岬灯台は幕末の1866年(慶応2年)5月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名「江戸条約」)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つで、日本の「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計・指導して1869年(明治2年)年4月に樫野埼灯台と共に着工しました。
翌1870年(明治3年)6月10日に完成し、仮点灯で業務を開始しました。
当初の灯台は八角形の木造で、我か国最初の洋式木造灯台だったようです。

・潮岬灯台です(ネットより)


本州最南端の潮岬から眺めた太平洋です。
水平線は緩やかな曲線を描いており、地球が丸いことが実感できます。



潮岬から紀伊大島に渡り、トルコ記念館を見学しました。
今回の私の訪問目的のメインはここを訪れることでした。
そのきっかけは6年前にトルコ旅行をした時に「エルトゥールル号遭難」事故の顛末を聞いたことです。

「トルコ記念館前の日赤モニュメント」
モニュメントには次のように説明されています。
明治23年(1890年)9月16日、トルコ皇帝から明治天皇への親書と勲章を贈呈のため来日したトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路の途中暴風雨のためこの樫野崎で座礁沈没し、特派大使船長ら乗組員587名が遭難する大惨事となった。
この時、串本町大島の皆さんによる懸命の救助活動により69名が救出され、神戸に移送されることになった。日本赤十字社は急遽救護のため医師、看護婦を派遣して、言語・習慣の違いなどの困難に遭いながらも神戸で治療に当たり、10月10日には負傷者全員をトルコへ送り出すことができるようになった。
この救護は日本赤十字社の平時での最初の国際救助活動と言われている。
この活動を後世に伝えるためここに記念碑を建立する。

なお、「エルトゥールル号遭難」の概略は、2009年5月7日の弊ブログに書いているのでご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/raishou0213/e/2de5c64a63ae65b923e532a198ac23a3

・トルコ記念館前の日赤モニュメントです。


「トルコ記念館」
トルコ国との友好の証としてトルコ軍艦遭難慰霊碑の近くに建設された記念館です。
館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。
記念館は、オスマン皇帝の特使を乗せて日本に派遣されたエルトゥールル号が、帰国の途にあった1890年(明治23年)に、樫野埼灯台近くで座礁し、沈没した遭難事故に由来します。
犠牲者587名という大惨事でしたが、地元の大島村(現串本町)の人々はトルコ人の遭難者に温かい対応を行ったことが、日本とトルコの友好の始まりとして有名なエピソードになっています。
トルコ記念館はこの出来事を記念して1974年(昭和49年)12月に遭難現場付近の紀伊大島に建設されたものです。
2階展望台からはエルトゥールル号が座礁した地点を見ることができます。
館内は撮影禁止なので展示物などのご紹介ができません。

・トルコ記念館です。壁にはトルコブルーを基調としたイズニックタイルが貼られています。


「エルトゥールル号座礁現場」
手前中央の大きな岩の沖に海面から点々と覗く5つの小さな岩礁が並んでいますが、5つ目の岩礁の沖が遭難現場なのだそうです。

・エルトゥールル号座礁現場です。


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南紀の旅(その1)

2015-10-07 | 旅行

一昨日、懇意にして頂いているご近所のK氏ご夫妻に南紀串本を案内していただきました。
この串本の旅は、私が予(かね)てから紀伊大島のトルコ記念館を訪ねてみたいと言っていたことに対し、和歌山県の地理に詳しいK氏が同行を快く受けていただき、実現したものです。

今日から南紀の旅シリーズとしてご紹介します。
串本と言えば有名な民謡に「串本節」がありますので、初回は民謡「串本節」からスタートしたいと思います。

「くしもと大橋」
くしもと大橋は平成11年9月8日に開通した串本本土と大島をつなぐ架橋で、290mのアーチ橋と苗我島(みょうがじま)に架かる386mのループ橋からなっています。
串本節に巡航船が歌われているように、この橋が架かるまでは渡し船が交通手段でした。
現在は紀伊大島と串本本土がくしもと大橋で結ばれて便利になりましたが、民謡に唄われているような昔の風情がなくなり、ちょっぴり寂しい感があります。

・右の島は紀伊大島、左の島が苗我島です。正面が苗我島と紀伊大島に架かっている「くしもと大橋」のアーチ橋とその手前がループ橋です。


それでは串本節で南紀の旅シリーズの始まりです。

「串本節」・・・唄 三橋美智也


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姫路の旅(その4)

2015-10-05 | 旅行

 姫路城を見学した後は、揖保の糸資料館「そうめんの里」を見学しました。
「そうめんの里」は兵庫県たつの市にあって、姫路から北西方向へバスで40分ほど行ったところです。
昼食はここに併設されている「レストラン庵」で頂き、その後、館内を見学しました。

「そうめんの里」
揖保乃糸 資料館「そうめんの里」は、西播磨地域の伝統産業であり、全国各地で親しまれている「手延べそうめん」の伝統の技と味わいを体験することができる施設です。
「揖保乃糸」は全国的には知られているのかどうかは分かりませんが、関西ではよく知られているそうめんのブランドです。



「播州そうめんの始まり」
播州地区でのそうめんの歴史は古く、兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺には、1418年の古文書「鵤庄(いかるがのしょう)引付」に"サウメン"の記述見られること、同じく1461年に社殿造営があった宍粟市一宮町の伊和神社では、社殿造営の祝言に"そうめん"を使う等の記録が見られるということから、既にこの頃からそうめんが作られていたようです。
播州でそうめんづくりが本格的になったのは、江戸時代の安永頃(1771年〜1780年)だと考えられ、当時は龍野藩の「許可業種」として奨励されていたようです。
また伝統の「揖保乃糸」の産地化は、龍野藩が著名な産物の保護育成を始めた文化年間頃(1804年〜1818年)からだと考えられます。

・これが「レストラン庵」で頂いた昼食です。そうめんの里だけあってメインはそうめんでした。


「そうめんができるまで」
資料館にはそうめんに関するいろいろな資料が展示されていましたが、その中からそうめんができるまでのジオラマをご紹介します。

板切作業・・・よくこねたそうめんの生地は、幅およそ10cm厚さおよそ5cmの麺帯(めんたい)にし、 "採桶(さいとう) "と呼ばれる桶に巻き込んでいきます。


小均(こなし)作業・・・およそ1時間ねかせた麺紐を、さらに、直径およそ6mmまで細長くしていきます。


掛巻作業・・・およそ4時間ねかせた麺紐を、掛巻機(かけばき)という機械を使って麺紐に"縒り"を掛けながら、2本の管(くだ)に8の字を描くように掛けていき、室箱(おも)に入れていきます


試し引き~小引き作業・・・およそ1時間後、室箱から取り出した麺紐を、熟成の進み具合や翌日の天候を考えながら、およそ50cm程に引き延ばします。
 小引き作業・・・長年の経験をもとに"試し引き作業"を行なった後、道具を調整し効率的に延ばしていきます。


a.つけまえ作業・・・小分けされた菅(麺紐)は、4本〜5本ずつ"はた"につけていきます。
  b.あしづけ作業・・・"はた"につけられた麺をおよそ1.6mに延ばします。
  c.はたうわぬきあげ作業・・・さらに1.6mから2mへと徐々に延ばします。
  d.手さばき作業・・・"はた"につけられた麺にハシを入れ、均等にさばいていきます。
  e.はた守り作業・・・手さばき作業を終えた"はた"は、乾燥室の温度・湿度や天井扇からの風の流れを見ながら向きを変え、乾燥させていきます。
  f.乾燥作業・・・仕上げ乾燥ともいわれ、 "はた"全体を均一に乾燥させていきます。



「切断から検査まで」
・切断作業・・・麺水分を13%程度に乾燥させた素麺を1 9cmの長さに切断します。
・計量、結束、箱詰作業・・・切断したそうめんは、50gずつ計量、結束し、金属検出機を通し目視による品質チェックを行ないながら、箱詰めします。
・検査指導員により、格付検査が行なわれます。

そうめんができるまでの工程をご紹介してこのシリーズを終わります。

コメント (1)
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姫路の旅(その3)

2015-10-04 | 旅行

今回の姫路城見学会では大天守に上る予定でしたが、観光客で混雑していたことから上る時間がなくなり、3階で引き返すことになりました。

「姫路城鳥瞰図」
明治初期の姫路城鳥瞰図です。
下の内堀中央左に架かる橋が桜門橋と大手門です。鳥瞰図を見ると、その広大さがよく分かります。


・三の丸広場からの大天守と西小天守です。


「六葉釘隠し」
姫路城内の各所には釘隠しと呼ばれる金物が設けられています。
この釘隠しは6片の葉の形をしていることから、「六葉釘隠し(ろくようくぎかくし)」と呼ばれています。
六葉釘隠しの案内は大天守1階の長押部分に掲げられていますが、目線より高い位置につけられているため、ガイドさんが説明してくれなければ見逃していたかも知れません。



「東大柱」
姫路城を支えているのが2本の大柱です。
東西にそれぞれ高さ24.6m、根元直径95㎝、末口42㎝の大きな柱が、それぞれ地階から5階まで一本柱で通されています。
この東大柱は姫路城大天守を支える2本の大柱のうちの東側の1本です。

・3階で見られた大柱です。


「石棺」
備前門の入口脇にはきれいに加工された直方体の石が縦に積まれています。
これは古墳に埋葬されていた石棺で、築城の際に石垣に転用されたものです。その他の石垣にも組合式石棺の石や底石などにも転用されています。
こうした古墳の石棺が積石として多く転用されているのが、姫路城の石垣の特徴ですが、築城によって姫路近辺にあった古墳がいくつも破壊されたのではないかと想像されているようです。

・縦長の積石が石棺です。


・真下から撮影した大天守です。


「お菊井戸」
この井戸は播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」と言われています。
永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職(のりもと)の執権、青山鉄山は町坪弾四郎(ちょうつぼだんしろう)と語らい、城を奪おうと企てていました。
則職の忠臣衣笠元信はお菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。
則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。
お菊の動きを知った弾四郎はお菊を助ける代わりに結婚を強要しました。
元信を慕うお菊はそれを拒みました。
弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責め上げました。
それでも弾四郎を拒むお菊は、遂に切り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたと言います。
やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神」として十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)内に祀られました。

・金網で蓋がかけられているお菊井戸です。


「人面岩」
姫路城の城壁に、人面岩と呼ばれているものがあるとガイドさんが教えてくれました。
ぬの門を出た所の石垣です。
正面の石垣の上から3段目に二つの長い横石が積まれていますが、これが人面岩の眉です。
その下の大きな二つの石が目で、その中央の縦長の石が鼻、そしてその下が口ですが、人面にみえるでしょうか。



コメント (3)
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