ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

戦火の馬〜ミリタリー・アニマル

2018-01-12 | すずめ食堂

「ミリタリー・アニマル」シリーズ、犬のエントリにはつい入れこんでしまいました。

そこで犬についてこれだけは付け足しておきたい、今回知った情報ですが、
ベトナム戦争でアメリカ軍が撤退するとき、軍犬は「装備」としてしか見なさされず、
犬のハンドラーはもちろん兵士たちが熱心に連れて帰ることを希望するも
現地に放棄する旨厳重な命令を出したということがありました。

人間のためならば何億もするヘリを惜しげも無く捨てるアメリカ軍が、
犬の命にこうも冷淡だったというのは少し不思議な気がしますが、
軍命令として許可を出してしまうと当然誰も犬を手放したがらない以上、
危急の際の人命第一の観点から仕方がなかったのかもしれません。

鬼怒川の洪水で自衛隊員が犬を助けたことにも非難が起きたように、
飼い主にとって家族でも公的には「もの」に過ぎないのが動物です。

ベトナムではアメリカ軍に4000匹以上の犬がいましたが、
その多くは多くは何らかの形で生命を犠牲にしたと言われます。

軍が撤退するとき、24時間、365日彼らとともにいたハンドラーたちは
泣く泣くたちを手放し、帰国せざるを得ませんでした。

彼らが戦地で数千人のアメリカ軍兵士を何らかの形で救い、
軍犬としての任務を十分に果たしたにもかかわらず・・・・。

 

■ ラクダ

さて、気を取り直して続きはラクダからです。

ラクダは中東と北アフリカで古代から軍隊の一部分となっていました。
過酷な砂漠の気候でも耐え抜くタフな動物で、水を取ることもなく
長い距離を重い荷物を背負って歩くことができるからです。

1800年代中ごろ、アメリカでもラクダが使われ始めます。
西部開拓者が砂漠を縦断するのに彼らを必要としたのです。

1856年、66頭のラクダが北アフリカから大西洋を超えてアメリカ大陸に到着、
そのまま彼らはテキサスへの道を歩き始めました。

それからしばらくは、南西部開拓団の軍隊もラクダを配備するようになります。

南北戦争の1861年、南部連合の中隊が南部で物資輸送のために
使われたラクダは戦争が終わると動物園やカーニバルに売られていきました。

第一次世界大戦時、イギリス軍には

Imperial Camel Corps(帝国ラクダ部隊)

なるものが存在し、砂漠での敵掃討に使われましたが、
基本的には彼らの任務は水を運搬することでした。

彼らの運んだ水で数千人もの人命が生き延びることができたのです。

 

ちなみにラクダの性質は決して温厚ではなく(笑)
敵の攻撃に対しては平然としているのはいいとしても、
急に走り出して逃げてしまったり、自分に乗っている人間の膝頭に
首を伸ばして噛み付く(首が長いので)のがデフォなんだそうです。

■ ゾウ

ゾウ軍団に対抗するには小さな動物をたくさん放てば良い、という話を
豚の欄でお話ししましたが、これは小さければいいのではありません。
象が自分で踏んづけちゃったことが認識できなければなんの意味もないので、
子豚くらいがちょうど?いいのです。子豚にはかわいそうですが。

さて、象は古代では戦車のような位置付けで軍に使われていました。

ギリシャの王ピュロス(エピロス)はローマを侵略するのに象の軍団を編成し、
攻め込んでいくとローマ兵は象の姿を見ただけで逃げたという話があります。

ただしこの時の「ピュロスの勝利」は「勝ったけど損害が大きく実質敗北」
という勝負を表す言葉になってしまっています。
象の飼育代が高くつき過ぎたから、に1アウレウス。


 

近代になっても戦争シーンに象は欠かせませんでした。
第二次世界大戦では例えばビルまでジャングルに橋や道路を作るのに
象の力を必要としました。(アニメ空の神兵でも描かれていましたね)

頭がいい彼らはバランスよく大きな木材を鼻で持ち上げたり、
それをちゃんと指定された場所に置くこともできたのです。

写真の吊り下げられている象さんの名前はリジー。

もともとサーカスで活躍していた象ですが、徴兵?されて彼女がやってきたのは
後ろの景色を見てもおわかりのようにここはイギリスの鉄鋼業の街シェフィールド。

第一次世界大戦で象さん、じゃなくて増産体制に入ったイギリスは、
鉄鋼業に力を入れましたが、そこで運搬に投入されたのが象だったのです。

彼女はこの街で鉄鋼の運搬を運搬する仕事に従事していました。
石畳の道を荷を曳きながら歩くのは体重の重い象にとって辛かったと思うのですが、
リジーは子供達にも人気、すっかり街のアイドルだったそうです。

 

第二次世界大戦でイギリス軍が敵国(日本ですが)を迎え撃つために
東南アジアの戦場で頼りにしたのもやはり象でした。

47頭からなる象軍団のうちの一匹、「バンドーラ」と名付けられたメス象は、
あたかも象の司令官のような統率力で軍団を率いて信頼が厚かったそうです。
行軍が終わると彼女はパイナップル畑に分け入り、900個をペロリと平らげました。


ベトナム戦争では象をヘリで輸送したという記録があります。

山間の村からベトナム人をリクルートして結成した特殊部隊に、アメリカ軍は
キャンプを建設させることにしましたが、材料も人手も道具もあるのに、
ただ一つ、その村には象がいなかったのです。

今ベトナムに旅行に行くと象使いの村に行って象に乗るということもできるそうですが、
どこにもここにもいるというものではないので、アメリカ軍は象を二頭、
ヘリコプターで村までの300マイル(482キロ)の距離を空輸しました。

を吊り下げて行ったとすれば、東京から滋賀県くらいの距離を飛ぶ間の
象さんの気持ちとか、その間の象さんはどうしていたかとか、
その間象さんの落としたもので地上では何事も問題はなかったのだろうかとか、

いろんなことを考えてしまいますね。

ちなみに成象の重さはだいたい23トンくらいだそうです。

小さな村に木材などを運ぶことをベトナムでは

「Operation”Barroom”」

と呼んでいたそうですが、これは決して「バールーム」のことではなく、
象がガスを噴出するときの音だそうです。

実際に象と一緒に暮らした者でないとまず思いつかない作戦名ですね。

 

■ ネズミ

ネズミがシェフになるというピクサー映画「ラタトゥイユ」は
イタリア料理の「Ratatouille」の最初三文字が RAT、
ネズミであるというシャレから(のみ)成り立っていたのに(多分)
邦題は何の関係もない

「レミーのおいしいレストラン」

となっていて、心底残念に思ったものです。
翻訳しなくてもよかったんじゃないかと思いますが、それだと
ネズミを英語で「マウス」としか認識しない日本人には
さらに何のことやらわからなくなってしまうので仕方なかったのでしょう。

それはともかく、ラットです。

あの荒唐無稽なアニメには、たったひとつ真実があります。
ネズミの嗅覚は大変鋭敏であるということです。

レミーが優れたシェフになれたのは、彼が優れた嗅覚を持っていたからでしょう。 


ネズミが軍隊で何か役に立つとすれば、それは間違いなく
嗅覚を生かして地雷を検知するためです。

写真のアフリカオニネズミは2000年ごろから地雷を検知する
訓練を受けて投入されてきました。
彼らがモザンギークでで見つけ出した地雷は7000個、
爆弾は1000個以上であったという記録が残っています。 

彼らの強みはなんといっても体が軽いこと。
地雷の上に乗っても爆発することはありませんし、
犬よりも小さなスペースに入って行くこともできます。

彼らが任務を果たすのはただ餌のため。
しかし兵士の「携帯用ペット」としては大きさ的にも最適です。

 

■ 馬

「戦火の馬」(War Horse)という第一次世界大戦時に徴用された
軍馬の物語についてお話ししたことがあります。

馬は近代まで戦争につきものでした。

古くはアレキサンダー大王の伝説に、彼は愛馬ブケパロスを含む
4頭立てのチャリオットで、自分を侮辱したうえで挑戦してきた
ニコラオスを轢殺し、優勝したというものがあります。

アメリカでは独立戦争以来、いつも戦場には馬の姿がありました。

《ジョージ・ワシントン》

独立戦争中に初めてアメリカで騎兵隊を組織しました。
イギリスとの戦いで組織された騎兵部隊との戦いに負けたあと、
彼自身の馬と専門の「ホースマン」を持っていたそうです。

《南北戦争》

南部の方が北部より馬も馬子も潤沢に持っていました。
その点では北軍は不利だったと言えます。

馬が運搬するものは物資や負傷兵ですが、最も戦争で重要な
武器を運ぶことができたからです。

南部連合軍のロバート・リー将軍は、有名な騎手でもありました。
彼の愛馬「トラベラー」は、合衆国の北軍のグラント将軍の
「シンシナティ」と並んで名の知れた名馬です。

ちなみにリー将軍がグラント将軍に降参した1865年4月9日、
南北戦争は終わりを告げました。

《第一次世界大戦》

「戦火の馬」は第一次世界大戦を背景にした、戦馬ジョーイと
青年アルバートのふれあいの物語で、これを映画化したのは
スピルバーグでした。

騎兵隊だけでなく物資や食料、武器を運ぶために多くの馬が
ヨーロッパに渡り、参戦していました。
ガス攻撃に備えて馬専用のガスマスクもデザインされましたが、
彼らは次々と命を失い、アメリカから参加した8万頭以上のうち、
生きて祖国にアメリカ兵士を乗せて帰ることができたのは
わずか数千頭だったといわれています。

《第二次世界大戦と戦後》

ジープ、戦車、そして飛行機が登場するようになり、それらは
確実に馬よりも優先されるようになりました。
戦馬が戦場で命を落とす悲劇は第一次世界大戦が最後でした。

しかしながら、戦車も進んでいけないような地形の戦地、
例えばイタリアの山岳地帯やビルマのジャングルなどでは
やはり馬を投入するしかないことも多々ありました。

 

戦後は騎兵隊は廃止されましたが、馬は特定の地域での
軍の活動のために未だに一部特殊部隊で使用されています。

冒頭写真はアフガニスタンでカウボーイハット(階級付き)
をかぶり馬に乗ってかける陸軍軍人の雄姿ですが、ここでも
戦車やハンヴィーでは行くことができないところには
馬で行くしかないのです。

ワールドトレードセンターが攻撃された2001年の同時多発テロ後、
アフガニスタンに侵攻した特殊部隊の攻撃は馬で行われることもありました。

ベトナム戦争では顧みられなかった馬の人権?ですが、
第一次世界大戦後には

アメリカンレッドスター アニマルリリーフ

という団体が立ち上がり、傷ついた馬の介護とケアをしよう、
という呼びかけがなされたそうです。

第一次世界大戦でヨーロッパに投入されたほとんどの馬は、
最前線に出されてからせいぜい12日くらいしか生きられませんでした。


続く。

 

 

 


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜特別編:司令官交代問題結着す

2018-01-10 | 軍艦

当初から話題になっている司令官交代問題ですが、
もしかしたら、最終結論が出たかもしれません。

今北産業のかたのためにもう一度説明しておくと、

wiki、つまり海軍に残っている資料によると艦隊司令は

大正13年度 古川 鈊三郎 大正14年度 百武三郎

であるのに、実際の13年度艦隊司令は百武三郎だった(三行)

という謎です。

とりあえず、大正13年度の遠洋航海に、なぜか14年度の司令官であるはずの
百武中将が司令として参加している、ということは、はっきりしました。

海軍がその交代を書面処理しなかったらしいこともわかりました。

問題は、その変更によってあちらこちらに起きるはずの人事の混乱を捺してまで、
いくら海軍の歴史で唯一の兄弟で海軍大将になるようなエリート軍人のいうことでも
こんな無茶を海軍がホイホイと受け入れるものだろうかということです。

unknownさんがおっしゃるように、ここはのっぴきならぬ
古川中将側の事情があったのではないか、という予想はもっともです。


しかし、一枚の写真の発見が、この問題をどうやら解決させたような気がするのです。
今一度、我慢してお付き合いください。

 

大正13年度遠洋航海練習艦隊は卒業式を終え、江田島を出航しました。

現代の練習艦隊は国内巡航は基本時計回りに寄港地を巡り、
最終的に横須賀に到着することになりますが、この頃の練習艦隊は
そもそも期間が長かった(7月24日に出航して翌年4月4日に帰国)のです。

というのも、当時日本が持っていた統治地方、「外地」をまず最初に
巡ることが決まっていたからでした。

練習艦隊はまず大連、旅順、そして朝鮮半島の鎮海に帰港しました。
順番が最後からになりますが、鎮海寄港の様子をまずお話しします。


【鎮海】

立派な巴里式都市の設計まで出来乍ら、気の毒にも流産した鎮海の町
完成の暁はどんなに美麗であったろう
程遠からぬ統営の古戦場を訪ねて忠烈詞に詣で朱舜臣の健闘を偲ぶ


鎮海要港部庁舎

鎮海は大韓民国の最大の軍港です。

遠洋航海の外地巡行の最後の都市は要港部のあった鎮海を訪問することになりました。

「要港部」というのは舞鶴、大湊と同じような根拠地のことで、大陸には
他に旅順、馬公も要港部とされた港湾がありました。

1904年2月、日露戦争開戦に際して、日本海軍は鎮海湾一帯を掌握、
海軍根拠地の建設が行われ、日本海海戦ではここが連合艦隊の集結地となりました。

日露戦争後は、鎮海湾に軍港を建設する計画が進められ、1910年から
鎮海軍港と都市の建設が開始され、1916年に完成しました。

以後、鎮海は日本海軍の軍港都市として発展します。
写真は当時の要港部庁舎と説明があります。

 

紹介文の

「気の毒にも流産」

が何を意味するのかちょっとわからないのですが、日本の統治後、
「巴里風の」都市建設を計画していたのが何かの理由でダメになった、
という事情か何かがあったのでしょうか。

現在の鎮海は市の中心部にあるロータリーをはじめ、随所に
往時の日本の都市計画の姿を見ることができ、また、
地名には末尾が「町」となる、日本式の地名が付与されたということなので、
ある程度の都市開発は出来たのではなかったかと思うのですが・・・。

水運び

藁葺きの家に石を積み重ねただけの壁、
水道などもちろんないので水運びを子供も行います。

洗濯は井戸の周りで。

忠烈詞というと台湾の衛兵交代のあれしか検索しても出てきません。
統営(トンヨン)の忠烈詞李舜臣を祀っている廟です。

かつて朝鮮水軍の李舜臣がここに統制営を置いたことから、この地の名前は
統営になったという言い伝えがあります。

李舜臣は文禄、慶長の役で日本と戦って朝鮮の英雄となりましたが、
統治後の日本では、李舜臣を「水軍の名将」として敬意を表していたため、
こうやって海軍軍人が忠烈詞を参拝しているわけです。

 

ちなみに、現在でも自衛隊は外国に赴くと、その国を護って亡くなった
軍人の慰霊碑や墓に慰霊訪問を行うことが慣例となっています。

例えば2013年には韓国海軍哨戒艦「天安」沈没事件で犠牲になった46人に
幹部候補生学校の学生が黙祷を捧げるために訪問していますし、
練習艦隊ハワイ寄港時にはでアリゾナ記念館で必ず慰霊を行っています。

今年も顕忠院で「リース・レイイング」を行なったという報告がありました。

 

国際関係は、合意の履行を巡って最近さらに不穏になりつつある日韓ですが、
平成29年度の練習艦隊報告会ではそれを受け、最後の質疑応答の時に初老の男性が

「韓国に行って何か反日を感じるようなことはなかったのか」

と質問されました。
真鍋海将補のお答えは「全くそのようなことはなかった」というものでした。

HPに発表された各地における活動記録を見れば、少なくとも自衛隊と
韓国海軍の間には不穏不快な夾雑物はないものとわかります。

これはスクリーンを撮影したものですが、両手を振っている韓国海軍の軍人たちの
後ろのバナーには、「歓迎 日本練習艦隊訪問」として日韓の国旗が描かれています。



自衛隊寄港の際旭日旗が大騒ぎされたとか寄港を断わられたとか聞きますが、
少なくとも韓国海軍はそのようなことに関わっていないはずです。

 


さて、冒頭に挙げた写真ですが、もう一度ご覧ください。

キャプションには練習艦隊寄港中、「斎藤総督」が訪問した、とあります。
真ん中の海軍軍人、第3代朝鮮総督の斎藤実(まこと)大将のことです。

斎藤は兵学校での中でも「天才」と言われるほど特に優秀な生徒だったそうで、
海軍大将、のちに総理大臣にまで登りつめますが、内大臣だった時に起こった
二・二六事件で坂井直率いる蹶起将校に殺害されることになります。

天皇を誑かす者として、青年将校たちの目の敵にされていたためでした。

 

そして皆さん!お待たせしました。

わたしは皆様に謝らなければなりません。

前回「古川中将はこのアルバムに写っていない」と

きっぱりと言い切ったのですが、申し訳ありません!

斎藤総督の左側・・・古川中将が写っています!

参考画像

これは何を意味すると思いますか?

最初は斎藤大将の右側に座っている人物を百武中将だと思い込んでいましたが、
どう考えても艦隊司令が二人、大将の両脇に座るなんて変ですよね。
そもそも右に座っている人、百武中将に似ているけど少し雰囲気が違う・・・・。

もしやと思って、当時の当時鎮海要港部司令官だった犬塚太郎中将の写真を確認すると・・・、

犬塚太郎中将

ね?

何がね?だ、って話ですが、斎藤大将の右は要港部司令犬塚に間違いありません。
つまり国内巡航の司令官は最初の予定通り古川中将が務めてるってことなんです。

念のため目を皿のようにして国内巡航の写真全て確認したところ、
豆粒のようなものしかありませんが、司令官は百武ではなく
古川中将のような体型顔型をして見えるんですよね。


・・・つ  ま  り  。

練習艦隊出航直前に百武中将は

「同級生の墓参りに北米行きたいから司令官代われ」

と言ったものの、当時舞鶴要港部の司令官という仕事がまだ残っていたので、

国内巡航は古川中将が当初の予定通り行なった

11月からの遠洋航海から司令官が百武中将に交代した

という可能性が出てきました。
これなら書類を書き換える必要は・・・あるけど、まあなんとかセーフ?


ちなみに百武中将は舞鶴要港部司令を

10月3日に退職しています。

そして遠洋航海練習艦隊司令官として、

11月10日に横須賀を出港。(゚д゚)ウマー


そして、遠洋練習艦隊は翌年、大正14年4月4日に帰国
百武は帰国から11日後の

4月15日に佐世保鎮守府長官に着任。(゚д゚)ウマー


かたや古川中将はというと。
当初の辞令通りに、7月末から11月まで13年度練習艦隊国内巡航に参加。

(それでアルバムには両者の写真が掲載されているというわけです)

練習艦隊司令を百武に交代した11月から何をしていたかというと、

軍令部出仕

という謎の配置(なこたーない)で忍び難きを忍び、翌年、
身分は軍令部に置いたまま、百武の代わりに

大正14年練習艦隊司令として国内巡航(2度目)を行い(笑)

そして遠洋航海を最後まで恙無く終えて、4月帰国。

大正14年6月、舞鶴要港部司令官に着任

わずか半年後、百武の後任として(百武からの”御礼”だった可能性あり)

佐世保鎮守府長官に就任(゚д゚)ウマー


どうですか?

これで二人のこの2年の行動が矛盾なく綺麗にトレースできました。

 

つまり、百武中将がなんとしてでも級友の墓参りをするために、
遠洋航海の部分だけ
いいとこ取りした可能性が限りなく高くなったのです。


百武中将の佐世保鎮守府長官の赴任期間は大正14年4月から15年の12月。
結論をいいますと、海軍にはこの1世紀近く、百武中将の

練習艦隊司令官(大正14年〜15年)

佐世保鎮守府長官(大正14年〜15年)

という一人の人物に同時に起こりえない経歴が公式に残されてきたことになります。
どうしてこの矛盾に突っ込んだ人がこれまでいなかったのか。

歴史の些事といえばこんなどうでもいいこともありませんが、
それでもその一つがこうやって明らかになったことで、
今のわたしは、まるで金鉱でも掘り当てたようにワクワクしているのです。


というわけで、最新の結論が出ましたが、今後も
写真を解説しながらハードエビデンスを探していきたいと思います。

エビデンス?ねーよそんなもん、と思ってしまったらそこで終わりです。
(虚構じゃなくて某自称大
新聞に対する嫌味です)

 

最後におまけ。

この有名な、東郷元帥、秋山真之、加藤友三郎が写っている三笠艦上での写真の
後列右上の清河純一という士官の名前を見つけるたびに、
ここで紙面?を割いてせっせとご報告しているわけですが(笑)
今回扱った鎮海要港部大正14年度の司令長官に、この清河さんが就任しています。

若い時に連合艦隊参謀だった清河純一大尉(この頃)、
ちょうどこの練習艦隊の頃には百武、古川と同じ中将になっていたのですね。

 

ちなみに、米内光政も清河中将の二期後に鎮海要港部長官を務めました。

 

さて、大正13年度練習艦隊、順序が逆になりましたが、
もう一度江田島出港直後から外地巡航についてお話ししたいと思います。

 

続く。



 


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜百武中将の司令官交代と兵学校卒業式

2018-01-09 | 海軍

さて、新橋の古本市で手に入れた大正時代の練習艦隊の記念アルバムを
順を追ってご紹介しています。

次に進む前に、わたしは読者の皆様にも推理していただいた、

「艦隊司令官が古川中将から百武中将に変わっていた件」

もう一度整理してみます。
皆様のご意見を見ながらつらつら考えていて、実は
ある可能性を発見したのです。


●まずこの練習艦隊が大正13年に出航をしたことは間違いありません。
13年、14年というのは遠洋航海が14年にも及んだという意味で、

「13年度遠洋航海」を意味することはもはや確定です。

●そして大正13年度遠洋航海の参加艦艇は「八雲」「出雲」「浅間」。

●参加した兵学校の期数は52期です。

wikiにも載っている、つまり海軍に残された遠洋航海に関する正式な記録は

大正13年海兵52期等は古川司令官
大正14年海兵53期等は百武司令官

というものですが、アルバムを見れば一目瞭然。
実際の大正13年遠洋航海艦隊司令は最初から最後まで百武中将一人です。
そもそもこのアルバムには、全行程を通して一切古川司令官の姿はありません。

だいたい司令官が二人いて、前半と後半で交代、などは考えられませんよね。

なお、

●アルバムの揮毫は百武三郎中将のものだけである

●参加名簿の艦隊司令官は百武三郎の名前しかない

つまり、

大正13年度 海兵52期等遠洋航海司令官は 百武中将だった

 

というのが史実であり、現在残っている記録はその訂正を行なわず
間違ったまま残されたものではないか、
というのがわたしの出した結論です。

それでは、なぜそのようなことになったのか。

まず司令官交代の考えられる理由としては三つです。

1、大正13年の艦隊司令だった古川鈊三郎が何らかの事情で行けなくなった

2、百武三郎がどうしても今年参加しなければならない事情があった

3、その両方


実は、この遠洋航海について最後まで精査した今、わたしは
2番、百武中将の事情でこうなったのでは、大胆にも仮定します。

 

アルバムに沿ってご紹介していく過程でそのうちお話しすることになりますが、
今回の遠洋航海のルートは南米からアメリカ、そしてカナダに寄港するのがメインです。

カナダではブリティッシュコロンビアのエスカイモルトに寄港しますが、
一行はここで、かつて練習航海途上、不幸にも病気で命を落とした兵学校19期卒の
士官候補生、草野春馬の現地にある墓所を訪ね、慰霊を行なっているのです。

 

百武三郎は兵学校19期のクラスヘッドとして卒業しています。
その彼が士官候補生として参加した遠洋航海航路途中の悲劇でした。

ここからは全くのわたしの推測です。

 

大正十三年六月。
兵学校五十二期の卒業と国内巡航を一カ月後に控えた日のことである。

百武三郎は大正十四年度練習艦隊司令官に任ぜられたとの知らせを受け、
若き日に駐在武官として欧州に行ったきり、もう一生行く事も無いと思つてゐた
外国を艦隊司令として再び見られることに内心欣喜雀躍した。

「さうだ、『クラスメート』の草野が死んだブリチッシュコロンビヤに行き、
彼の墓参りをする最初で最後の『チャンス』ぢゃ無いか」

百武は客死した「クラスメート」の棺を候補生全員で涙と共に葬り
彼を一人異国の地にに残してきたあの日をまざまざと想ひ出した。

「草野・・・・貴様の墓所に花を供えに行つてやるぞ」

しかし、百武は14年度の予定航路を具に聞くや愕然とした。

東南亜細亜、そして豪州だと・・・・。

一生に唯一度、艦隊司令官として遠洋航海に出ると云ふのに、
嗚呼痛恨の極み、一年違ひで北米廻りでないとは!!

・・・否。

俺たちが士官候補生として遠洋航海を行なつたのと
今年の練習艦隊の『コース』は、ほぼ一緒だと聞く。

それなら、今年行けば善い。来年でなく、今年行くのだ。

さうだ、古川に今年の司令官を交代して貰へばいいのだ。

幸ひ古川は俺より二期学年も下だからなんとかなるだらう。

彼奴が四号の時に俺が修正した事も多分なかつただらうと思ふ。(笑ひ)
頼めば快く今年の艦隊司令を代わつて呉れるに違い無い。

きつと・・・・・。

 

んな風に考えた百武中将は、クラスメートの眠っている墓所を訪ねる、
というこれ以上ない「行かねばならぬ理由」と、古川より二期上のクラスヘッド、
という立場を強権的に生かして(笑)出航間際に
無理やり司令官を交代してしまったのでは?というのがわたしの推理です。

どうでしょう。
え?まるで司馬遼太郎並みの針小棒大な創作だって?


百武は古川とは同じ中将といっても二学年上というだけでなく、
佐賀藩士出身で、二・二六事件のあとは鈴木貫太郎に代わって侍従長を務め、
後に天皇陛下の第三皇女、和子内親王の教育係を行なった、
というくらいの超エリート軍人ですから、いかに理不尽な願いでも
申し出を断ることは周りもできかねたのではないでしょうか。

しかし、謎はもう一つあります。
直前に急遽変更になったとはいえ、なぜその後も書面は書き換えられなかったのか。
そしてそのまま今日までその情報が残されているのか。


これも推測ですが、百武中将のゴリ押しが本当に出航の直前だったため、
司令官の交代が急で、
辞令とかそれに伴うお役所仕事をゼロからやり直す暇もなく、
書面上は「13年度古川中将」のままで百武中将が実質司令官となったのでは?

そして練習艦隊は出航してしまったので、書類は結局書き換えられず、
のちの歴史にも
変更前の記述が残っているのではないでしょうか。


この推理がもし、万が一当たっていると仮定すればですが、
艦隊司令の突然の交代申し入れは、ことに事務方にとって

大変な迷惑でしかなかったにも関わらず、結局海軍は
百武中将の無茶な希望を叶えてやったということになります。

それも、書面を変更せずにしれっと人間だけすげ替えてしまうという
今なら考えられないようないいかげんなやり方で。

だとすれば、海軍というのは建前は建前として、なかなか粋な計らいをする、
”情を汲む組織”であったといえますし、百武ほどの軍人であればこんな無理も通る
「隙のある」組織であったということもできるかと思います。


もちろんこの一連の推理はあくまでもわたし個人の判断に基づくものですので、
どなたか司令官交代と文書の整合性について、何か史実をご存知でしたら
ぜひご教授いただければ幸いです。

 

さて、練習艦隊の第一歩は海軍兵学校の卒業式から始まります。
(一緒に参加する海軍機関学校の卒業式については写真や資料がないので
お話しすることができないわけですが、今はさておきます)

それにしてもこの冒頭の写真は一体・・・・。

江田島に行ったことのある方なら、これが大講堂の裏門に近い出入り口、
例えばこの頃ならかしこき辺りの方々が出入りになられるところを
現在の「レストラン江田島」のある建物の前から見たところ、
とおわかりいただけると思いますが、それにしてもフォーカスが無茶苦茶です。

建物にはもちろん、手前の柳の葉にもピントが合っていない不思議な写真。
しかもこれがページいっぱいの大きなものです。


「偉大なる海を想い、渺茫たる太陽を憧憬せし若人の
華やかなる活動の舞台は将に展開せんとす
見よ、江田島の湾内に浮かぶ練習艦隊八雲浅間出雲の三艦
希望に輝く初夏の空、恭しくも聖上陛下第三皇子高松宮殿下を
御同窓として戴き祝福されたる若人の門出
輝く軍艦旗の下にたちて、江田島よ、さらば!」

わたしは幸運にも昨年度の幹部学校卒業式に出席していますが、
同じ江田内に「かしま」をはじめとする自衛艦が浮かんでいたのを思い出します。

煙突からは黒煙を噴き出しているという船の姿形の違いはあれど、
あの光景を知っている目には、この白黒の写真から実際の空気の色まで想像できます。

練習艦隊は卒業式をを目前に、江田湾で壮途への出航をいまかと待っています。

そして大講堂での兵学校52期の卒業式が行われました。

大正一三年七月二十四日

山階宮武彦王殿下の御台臨を辱ふし
古鷹山下海軍兵学校に於て卒業式挙行さるる


52期の卒業式は真夏に行われました。
写真で玉座におられる山階宮武彦殿下は、父君の菊麿王に続き兵学校46期卒、
皇族として初めて海軍航空隊に所属し、「空の宮様」と異名をとった殿下です。

経歴を見ていて驚いたのですが、この前年の大正12年の関東大震災で
山階宮家の鎌倉別邸にたまたま滞在中であった武彦王は
初子懐妊中の妻佐紀子妃を建物の倒壊によって亡くしているのです。

wikiには、その結果、武彦王は精神を病み開かずの間にお籠りになった、
ということが書かれているのですが、この時には少なくとも海軍軍人として
こうして人前で儀式を行っておられます。

ちなみに当時殿下は二十六歳、薨去された佐紀子妃はまだ二十歳でした。

武彦王はこの翌年の1925年(大正14年)3月には、民間航空振興のため、
練習費を徴収しない飛行機搭乗者養成機関、『御国航空練習所』
を建立しておられます。

この写真の直後には早くも後添えをお貰いになる話が出たということですが、
その縁談も王の病状が原因で破談になったということです。


尚、52期クラスヘッドは入江籌直ですが、戦史にはその名前を残していません。
源田実は17番、淵田美津雄は108番の成績です。

卒業式を終え、大講堂から表門に敬礼しながら退場される高松宮殿下。
殿下が赤痢にお罹り遊ばすのはこの2ヶ月後の9月です。

どうも殿下は卒業後、国内巡航には最初から参加されなかったようです。
つまり11月の横須賀からの遠洋航海に参加するつもりをされていたのが、
9月に病気になって、参加が取りやめになった、ということではないでしょうか。

卒業後、皆は「伊勢」など練習艦にランチで乗り込んでいくのですが、
殿下のランチだけは一応表玄関から卒業していったものの、どこかで乗り換えて、
一度は都にお戻りになったということではないかと思われます。
ランチの天蓋の下には、遠目にもそうとわかる殿下の制服姿が確認できます。

あ、ということは赤痢は卒業後罹ったということに((((;゚Д゚)))))))

練習艦隊の軍艦に乗り込んで「帽振れ」をする候補生たち。
この頃の軍艦の艦体というのは海面からほぼ垂直にそそり立って見えます。

そして「帽振れ」は今よりずっと、なんというかフリーダムな雰囲気ですね。
今は自衛隊では登舷礼で並ぶ位置にマーキングして美しく整列するようですが、
これを見る限り、帽振れの最中も手すりを掴んで舷側に鈴なり状態。
少なくとも当時は今ほどかしこまった儀礼ではなかったように見えます。


この後、大正、昭和と時代が進むにつれ、帽振れは徐々に儀礼化してゆき、
今の形に落ち着いたのではないかと思われます。

もっともこの頃の軍艦は、候補生が一列に整列して並べる形状ではなかった、
ということなのかもしれませんが。

 

さて、江田島を旅立った士官候補生を乗せた練習艦隊は、まず国内巡航、
国内の寄港地を周る訳ですが、この頃の国内巡航には今では存在しない
「外地」が含まれていました。

中国大陸、そして朝鮮半島です。

 

続く。


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜淵田美津雄を探せ

2018-01-08 | 海軍

今風にいうと大正13年度遠洋練習航海、当時の名称で
帝国海軍練習艦隊の遠航アルバムを手に入れたので、それをここで
ご紹介していくことにしました。

なお、平成29年度遠洋練習航海の航路と重なっている寄港地については
水交会で行われた練習艦隊報告会で艦隊司令真鍋海将補が紹介された
スライドの写真などを活用してお話ししていくつもりです。

前回は艦隊司令官の名前がアルバムと違っているということで
その謎を解き明かそうとしてみましたが、やっぱりわからないので断念。

今日は練習艦隊参加艦艇とその乗組員、参加した候補生の写真を紹介します。


まず、軍艦「八雲」の乗組員総員写真です。

たくさんいすぎて後ろの人は顔が全く確認できませんが、
それではこうやって目立ってやろうとばかり、
マスト横で変なポーズをしている人がいますね。


軍艦「八雲」はドイツから輸入した装甲巡洋艦で、1900年から就役し、
日露戦争に参戦したあとは練習艦の代名詞のようにもなっていました。
その後、老体に鞭打って大東亜戦争にも対空砲専門で参加をしています。

そして戦没を免れて生き残ったあとは、近距離専門の復員業務に携わり、
ここでも触雷などに逢うこともなく無事にその一生を全うしました

 

冒頭画像は軍艦「浅間」総員の写真。
主砲に座って得意そうに腕組みをしている水兵さんたちを拡大しました。

写真を撮るときに動いてしまい、顔がブレてしまった人がいますね。

みんな20歳前後、もしかしたら十代が多いのかもしれません。
こうして特にセイラー服や下士官姿の青年を一人ずつ見ていると、
当たり前ですが、そのまま今の海上自衛隊の海曹海士にいそうな顔ばかりです。

この写真は1924年に撮られたものですから、彼らは今の海士のひいお爺ちゃん世代。
確実に全員がこの世にいないのが何か不思議な気がしてきます。




「浅間」も「八雲」と同じく装甲巡洋艦で、戦後まで生き残っています。

イギリス製で、なんども天皇陛下が座乗されるお召し艦になっており、
もし高松宮殿下のご参加があったなら「浅間」に乗り組まれていたに違いない、

とわたしは予想したのですが、その後、参加候補生名簿を見て驚きました。

あったのです。

「浅間乗り組み候補生」の最初に「宣仁親王」のお名前が。

アルバムが作成されるということは、その時点でもう練習航海は終わっていたはずですが、
写真はともかく、なぜ殿下の御名前が参加名簿から消されなかったのか・・・。

まあ、理由はわかりますが、何だか配慮申し上げすぎて変なことになってますね。

 

さて、第一次世界大戦で派出されたメキシコで座礁、その後広島湾でまた座礁、
(こちらは当直将校のミス)とご難続きの「浅間」さんでしたが、
大東亜戦争では幸い最後まで生き残りました。

「浅間」に乗った少尉候補生の中には福地周夫(ふくちかねお)の名前があります。

福地は「陸奥」運用長を拝命直後、大動脈瘤と誤診され、療養のため退艦したことで
その直後におこった謎の爆沈事故から逃れたという強運の持ち主です。

また福地大佐は珊瑚海海戦において被弾した「翔鶴」において、運用長として
冷静な判断による的確なダメコンを行なった、ということを評価され、
当時帰国して講演会をしたそうですが、その時肝心の艦隊主要指揮官幕僚は
「あの」ミッドウェイ海戦に備えた図演のため一人も参加していなかったという・・。

こうして後から知ると何という歴史の皮肉なのでしょうか。

軍艦「出雲」総員写真です。

「出雲」は日露戦争の殊勲艦で、あの上村艦隊の旗艦として
蒜山沖海戦ではロシアのリューリック号を撃沈し、
さらには海上の敵兵を救助したことでも有名になりました。

日本海海戦では「磐手」とともに連合艦隊のしんがりで活躍しています。

そんな「出雲」ですが、その後第一次世界大戦ではメキシコ動乱に
警備艦として派出され(集団的自衛権の行使というやつですね)
帰ってからは装甲巡洋艦の類別のまま練習艦に採用されていました。

この写真の頃には一等海防艦に種別変更されています。

「出雲」の右舷側もアップにしてみました。
一人お立ち台に立っている水兵がいますが、ここは
この時代の軍艦の信号兵のポジションでしょうか。

波が高い時にここに立つのはむちゃくちゃ怖いと思うんですけど。

しかし、海軍の団体写真では誰一人歯を見せたりしてませんね。

「八雲」の准士官以上です。

准士官とは下士官出身で士官に準じる待遇を受けるもの、という定義で、
この頃にはそれまでの上等兵曹から兵曹長という呼称に変更されていました。

写真を見ると年配の軍人はほとんどが口髭を立てています。
この頃の流行りでもあったんでしょうね。
海上自衛隊では髭は先任伍長、というイメージがありますが、
オフィサーで髭を生やしている人は見たことがありません。

右から5番目は艦長の鹿江三郎大佐ですが、足の揃え方といい、
視線が明後日を向いていることとい、どうも緊張感がないような・・・。


「浅間」の准士官以上です。

「浅間」の撮影の日は運悪く雨が降っていたようです。
軍人は傘をささないという習慣がありましたから皆は平気だと思いますが、
写真屋さんはさぞかし苦労したことでしょう。

この写真を見る限りかなりの雨が甲板を濡らしています。
こういう雨の中で撮られた海軍の団体写真はあまり見たことがありません。

よく見たら上階で何やらお仕事をしている水兵さんがいますね。

雨が降っているので信号旗のラックにカバーでもかけているんでしょうか。
作業が写真に写ってしまうのは構わなかったのでしょうか。

「出雲」の准士官以上。
手すりに幕が貼られています。

現代の自衛艦も、出国、帰国行事の時にはこのような白幕が貼られます。
「出雲」は着々と出国行事のための準備中だったのかもしれません。

それにしても「出雲」はこの時就役して26年たっているはずですが、
さすがの日本海軍、手入れが行き届いて主砲はピカピカ、ペンキは塗りたて。

これも全て出国行事に合わせて万全の補修を施したのでしょう。

「八雲」に乗り組む予定となった士官候補生たち。
兵学校の短いジャケットからもうすでに士官用の長いジャケットに変わっています。

「八雲」に乗り組んだ少尉候補生の中には、後年真珠湾攻撃の飛行隊長となった
淵田美津雄、「神風特別攻撃隊」の命名者となった猪口力平がいます。

猪口力平の顔まではわかりませんが、あの!淵田大佐なら、
きっとどこにいるかわかるに違いない!

とわたしは半ば確信を持って全員の顔を熟視して探してみたのですが、
最上段に立って非常に目立っている二人のうちの左側、

この人淵田さんじゃないですかね。
遠目に見た方が淵田美津雄っぽく見えるかもしれませんのでお試しください。

なお、少尉候補生の名簿は、どうやら成績順らしく、「八雲」の2番目に

内藤雄(たけし)大佐

の名前があります。
兵学校卒業時の成績は236名中6番、クラスでも昇進がトップグループだったため、
福地周夫が少佐の時、もう中佐で、小沢治三郎を補佐する参謀になっていました。

戦闘機に進んだ源田とともに「戦闘機の源田、爆撃機の内藤」として知られ、
海軍爆撃術の体系化に功績があった士官搭乗員です。

しかし優秀で、連合艦隊司令官古賀峯一の参謀にまでなったことが彼の死を早めました。

昭和18年4月。
古賀長官と共に内藤が乗り込みダバオに向かった二式大艇は
その途中で行方不明になり、撃墜されたと後に認定されました。

この「海軍乙事件」で、内藤は死後1階級昇進し大佐に昇進しています。

 

こちらは「浅間」の士官候補生たち。

先ほどの水兵さんはカバーをかける仕事を終わったようですね。

それから、左手の舷門のところに鳥打ち帽をかぶった一般人が
ちょうど仕事を終わったのか退出していくのが写り込んでいます。


それから、一人なぜかこの雨の中サングラスをかけている候補生が・・・。
目が腫れているかなんかで見せたくなかったんでしょうか。

しかし皆キリッといい顔をした青年ばかりですね。

そして「出雲」の士官候補生たち。
この写真のどこかには少尉候補生時代の源田実が、小柄な体躯ながら
ぎょろりと鋭い眼をレンズに向けて写っているはずです。

この真ん中の人・・・・どうですか?

また、この「出雲」には、のちに日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、
その技量と統率力から「陸攻の神様」「 海軍の至宝」と言われた

入佐俊家少将

も乗り組んでいました。
常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも信頼を受けた指揮官でした。

入佐は1944年(昭和19年)、小沢治三郎中将のたっての指名を受け、
第六〇一海軍航空隊司令兼空母「大鳳」の飛行長となりますが、
その後マリアナ沖海戦で「大鳳」が爆沈した際に戦死しました。

戦死後は二階級特進し、海軍少将に任ぜられています。

続いて、練習艦隊絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊の写真。

この写真の司令部付きというのはおそらく従兵のことではないかと思われます。
士官の世話を身近で行う従兵は気が利いて頭の回転が早く、
しかも清潔感のある人物しかなれなかったので、それだけにその後の出世も早かったとか。

最後に、軍楽隊の皆さんをアップにしてみました。
自衛隊の練習艦隊音楽隊は各音楽隊からの志望で結成されているそうですが、
この頃はどうなっていたのかはわかりません。

さあ、これで練習艦隊全部隊の紹介を終わりました。
それでは次回からいよいよ航海の写真をご紹介していきましょう。

まずは江田島での卒業式、江田湾出港からです。


続く。


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜遠洋航海アルバムとの出会い

2018-01-06 | 海軍

ある日TOが「OLD IRONSIDES」という洋書を買ってきてくれました。

この「オールド・アイアンサイド」(鉄の横っ腹)は他でもない、
ボストンで見学し、ここでも長きにわたってお話ししたアメリカの
「ナショナルシップ」、コンスティチューションの今昔について
リタイアした海軍軍人が書いた写真入りの英語の本(1963年発行)です。

写真を撮っていて初めて気がついたのですが、JFKが前書きを書いています。

「私の小さな時の海軍にまつわる最初の記憶は、チャールズタウンの
USS「コンスティチューション」を見に行ったことだった(以下略)」

「新橋の駅前で古本市が始まってたのでとりあえずこれを買ってきてあげたよ」

「うわ、嬉しいー!ありがとう」

「海軍兵学校の写真集なんかもあったよ」

「それ買ってきてくれればいいのに」

「でも高かったし、そもそも要るかどうかわからなかったから・・・。
来週いっぱい古本市やってるみたいだし、行ってみたら?」

 

ちなみに「オールド・アイアンサイド」は「安かった」そうです。

というわけで、週明けに早速新橋駅前のロータリーに並んだテントの
古本市に足を運びました。

たくさん本屋が出ているので、その中からTOのいう遠洋航海の写真集とやらが
一体どこで売っているのかわかるだろうかと大変不安を感じたのですが、

「そういう系統の本を扱っているところは一部だから」

という言葉を思い出し、一通りざっと回遊してみました。

すると、向こうの方から存在を主張するかのように、あるいは
見つけてくださいと言わんばかり目に飛び込んできたきた一冊の古びた本。

 

「これだ」

わたしは思わず口に出して独り言をいいました。

元は白かったと思われる縒った紐を四、五本ずつ束ねて製本した
布表紙に金文字で

「大正十三 十四年 練習艦隊巡行記念」

と書かれています。

手に取ってみると、中をめくってみられないように
本はビニールで包んでセロテープできっちりと止めてありました。

「すみません、これ中見せてもらえますか」

お店の人に声をかけて、中を見ました。

大正13〜14年の遠洋航海といっても、果たして大枚をはたいてまで
わざわざ買う価値があるものなのだろうか。

もし中を見て、全く興味を惹かないようなら潔く諦めよう、
そう思ってページをめくると、

「軍艦八雲」「軍艦浅間」「軍艦出雲」

というおなじみの軍艦の名前、そして候補生の名簿からは

「猪口力平」「淵田美津雄」「源田実」

の名前が目に飛び込んできました。
それを確認するなり、
わたしは「これください」と頼んでいました。

店の人は、

「これは出版された本じゃなくて航海に参加した人しかもらえなかった、
つまり出版されたわけではないのでものすごく価値があるものですよ」

と言いながらも、こんな古本を5分もかけずにお買い上げになったのが
女性であったことに少し驚かれたようで、

「・・なんか本でも書かれるんですか?」

としみじみ聞いてこられました。

まあ、仕事が物書きで、資料に必要という事情でもなければ
古本にポンと3万円も出すのは奇矯な部類に属するかもしれません。

「いえ、興味があるだけなので・・・もし他にこんな系統
(海軍関係)があれば見てみたいですが」

そう言って他のお店を物色しているとそこで見つけたのが「海軍兵学校名簿」。
もし成績順になっていれば買おうと思って中を見せてもらっていたら、
(あいうえお順だったので購入を断念)さっきの本屋さんが後ろから忍び寄ってきて、

「あのー、こんなんありましたけど」

見せてきたのは

「軍艦香取聖戦記念写真集」

おっ!とまたしても目を輝かせたわたしの様子を見るなり、

「さっき買ってくれたからこれ五千円値引きしますよ」

大変商売上手な本屋さんでした。

 

というわけで、ほとんど衝動買いした練習艦隊記念アルバム、
せっかくですのでここでご紹介していきましょう。

というか紹介したい。紹介させてください。

 

 まず、練習艦隊司令官の百武三郎海軍中将の筆による

「内省実行」


という書が最初のページに出てきます。
海軍兵学校をクラスヘッド、恩賜の短剣で卒業した百武は海軍大将で予備役となり、
二・二六事件の後負傷した鈴木貫太郎に代わって侍従長を務めました。


そんな人物ですので、当たり前に達筆です。
バランス、墨のカスレ、省略、デフォルメ、全てが芸術的。

このころは今より「書は人なり」が生きていたのです。

このページを見て、練習艦隊司令官が二人いるのにはて?と思い、
次に『大正十三、十四年』と書かれているのに首をひねりました。

ウィキによると、

【大正13年度練習艦隊】

司令官古川 鈊三郎海軍中将
兵学校52期、機関学校33期、経理学校12期
「出雲」「八雲」「浅間」

【大正14年練習艦隊】

司令官百武三郎中将
兵学校53期、機関学校34期、経理学校13期
「磐手」

それなら両中将が同じ写真集におさまっているのはなぜなのか。

アルバムを見ていくと、実際の艦隊司令官は百武中将で、古川中将はいません。
しかし写真の上3人は右から「出雲」「八雲」「浅間」の艦長。
(下3人は右から先任参謀、軍医長、機関長)

実際にも参加艦艇は「出雲」「八雲」「浅間」の3隻で間違いありません。

どう見ても、大正13年度の練習艦隊司令(古川)と14年度の艦隊司令(百武)
の名前が入れ替わっているのです。

わたしはいきなり難問に直面し、うーんと唸ってしまいました。

ちなみに名簿に載っている少尉候補生の期数は52期。
考えても調べても、この違いを埋める発見はついに現れません。

しかし唸っていてもラチがあかないので、とりあえず写真集を具に見ていけば
何事かわかるかもと思い直し、先に進むことにしました。


アルバムの最初には高松宮宣仁親王のお姿がありました。

高松宮親王は海軍兵学校予科を経て兵学校52期に入学しましたが、

「無試験で入学できる皇族子弟は他の生徒より
知的・体力的に劣らざるをえなかった。
宣仁親王の予科入学に際してはレントゲン検査も含め
健康管理に万全の準備が整えられていたが、凍傷になったため
他の生徒とは異なる厚手の作業着が用意された」wiki

兵学校跡である現在の第一術科学校の坂を上っていったところには
高松宮のために作られた一軒家があります。

一般の学生は余暇を「下宿」で過ごすことになっていましたが、
平民の家が殿下を受け入れるわけにもいかず、ということで
殿下が週末を過ごすための別邸が殿下入校が決まってから建てられました。

それまでにも皇族の方々の在校を仰ぐことはありましたが、
の度は畏れ多くも天皇陛下のご子息の初めての入校とあって、
全てにおいて特別扱いがあったことがこの一事からもうかがえます。


さて、アルバムにそのお写真があるものの、高松宮親王は兵学校卒業して
少尉候補生になった9月、赤痢を罹患し遠洋航海参加を断念されることになります。

健康に万全の注意を払ったはずなのに、嗚呼、文字通り殿様育ちの殿下は、
あっさりと赤痢なんぞにお罹り遊ばしてしまわれたということになりますが、
一体その直接の原因は何だったのかがとっても気になります。

考えたくはないですが、何か下賎なものでもこっそり買い食いされたとか・・・。


しかしここだけの話ですが、練習艦隊司令部は殿下の参加が叶わぬとなった時、
実は内心ホッとしたのではなかったでしょうか。

殿下が乗艦されるとなると、司令部、幕僚から候補生、下々のものまで
殿下の一挙一動に神経を払わなくてはなりませんし、寄港地の側も気を遣います。
迎え入れる方も大変ですし、おそらく専用のスタッフが一個小隊必要になってきます。

何より航海中に万が一の事態が起こり怪我や事故、病気などということでもあれば、
下手したら関係者の首が一つならず飛ぶことにもなりかねません。

当時の医療では航海中の不慮の事故や病気に対応するにも限界がありましたし、
実際に遠洋航海中死亡して異国の地に葬られた候補生もいたという時代です。

今回の遠洋航海では、そんな不幸な候補生の墓にお参りをするという行事が
スケジュールに組み込まれていたくらいでした。

病み上がりの殿下を1年近い航海に連れ出すのはあまりに双方に負担が大きく、
畏れながら不参加になっていただき助かりました、というのが本音でしたでしょう。

司令官と各艦艦長、及び幕僚の艦上での記念写真です。

百武司令の左が浅間艦長七田今朝一大佐、一番左が
八雲艦長鹿江三郎大佐、一番右が出雲艦長である
重岡信治郎大佐らしいことはわかりました。

この頃の軍服はまだ変更前の、ウィングカラーシャツのダブルスーツです。
今現在の海自の制服はこちらに近いとも考えられますね。

そして、しつこいようですがもう一度思い出してください。
ここには古川中将の姿はありません。


現在の資料には残っていないけれど、何かの事情があって
14年度の練習艦隊司令古川中将が参加できなくなり、
仕方ないので司令官だけ百武中将と交代した。

古川中将の写真が掲載されているのは、一応敬意を表して、ということで、
実は古川中将は翌年の14年度の司令官を務めたのでは・・・?

というのがこれまでのところのわたしの推理です。

というか、結局最後までこれを覆すような発見はなかったわけですが、
もしどなたか
この事情を解き明かすか実際のところをごぞんじであれば
ぜひ教えていただきたく思います。

 

続く。



かつての敵に囲まれて〜ソビエト連邦海軍潜水艦 B-39

2018-01-05 | 軍艦

ところで、このお正月、「スターウォーズ」観た方おられます?

話の出来についてはいろんな意見があるかと思いますが、それは抜きにして、
自己犠牲により我が同胞を守る、という行為が一度ならず語られ、しかも
それが絶賛されて(というか感動的に語られて)いましたよね。

ホルド副司令の「Godspeed rebels」が出たとき、わたしなど内心
「おおっ」と色めき立ってしまったのですが(笑い)、
皆様はどうご覧になりましたでしょうか。


さて、年末に途中までお話ししたソ連潜水艦B-39の続きです。

前部魚雷発射室からハッチを抜けたところにある士官区画を抜けると、
次に来るのがメインコントロールルームです。

ここはいきなり夜用の照明、つまり真っ赤でした。

昼夜の違いがわからない潜水艦内では、自衛隊の場合昼間は白灯、
夜間は赤灯に切り替えていると以前ここにも書いたことがありますが、
このソ連海軍潜水艦B–39は夜間という設定のようでした。


照明を赤くするのは、ここメインコントロールルームだけになります。
なぜかというと、夜になると当たり前ですが海上は真っ暗です。
潜望鏡を覗くとき室内が明るいと、外の暗さに順応できず、何も見えません。

だから、潜望鏡のある発令所は暗くしておく必要があるのです。
なんでも赤いライトは白色より目に対する刺激が弱く、夜間に暗順応
(明るい所から暗い所に移った場合に目が慣れること)を乱さない、
というのが第一の効果で、昼夜を認識するというのは実は副次的な効果です。

同じ理由で夜はその他の居住区も暗くしておきます。

潜水艦のふるさとであるグロトンで潜水艦見学をしたとき、
彼らが艦内で使用していたトランプのハートとダイヤに黒の縁取りがされ、
赤色灯の下で赤のカードがが見えるようになっていたのを思い出しました。

ソーナーも暗い方がモニターを見やすいので暗くしていましたし、
電子式の潜望鏡になって全員で外の状況をモニターで見られる現代でも
暗い方が画像がわかりやすいという事情は同じでしょう。

ほとんど替え電球やコードリールなどの物置と化しているようですが、
ここがレーダー室だったのかもしれないと思ったり。

ここでまたしてもハッチをくぐります。
あれ?ところで、メインコントロールルームに入るハッチに

「音と光のショー」

って書いてあったはずなんだけど何も起こらなかったぞ?

ハッチの厚みは約40センチ。
というわけで、ここを潜るにはまず片足を向こうに踏み入れ、
一瞬40センチの部分に馬乗りになるようにして上半身を横向けにして
潜って移動することになります。

でも、実際に非常時の乗員はそんな悠長なことしてられなかっただろうな。

ハッチを出たところに謎の文字が書かれた全く何かわからない機器が。
今ロシア語アルファベット表を引いたところ、

「F M SH ー200」

英語のアルファベットに変えるとこうなりました。
余計わかんねーし。

他のハッチは蓋が外されていましたが、ここのはちゃんと元のまま残っています。
ロシアは日本と同じメートル表記なのでわかりやすくていいですね。
しかし、このハッチに書かれた数字の意味はやっぱりわかりません。

縦型テレビ?

ではなくて、こちらに向けてテレビ画面を見せるためには
立てて置くしかなかったのだと思われ。

それにしても内装がアメリカの潜水艦より木造部分が多いのに気づきます。
まるで掃海艇の中のようです。

ここも一応は一人で寝ることができるベッドが・・・。

先ほどの士官用より一回りくらい小さな食堂兼休憩室がありました。
明らかに作りは雑です。

食事はこれは世界共通だと思うのですが、一日4回、
0700の朝食に始まって、夕食、夜食、(6〜7時)、
ティー&スナック2200に提供されました。

やはり潜水艦なのでソビエト海軍の中でもっとも内容が豪華で充実しており、
栄養価も非常に考慮されたものであったということです。

誕生日には恒例としてスペシャルケーキがつきました。
(誕生日を迎えた人だけだったのか、皆で食べたのかは謎です)

こちらも一人部屋・・・・なので、もしかしたら兵用のバンクは
全く別のところにあって、これらも12名の士官用なのかもしれません。
ここなど通気用高なんだかわからない大きな機械と一緒なので
決して静かに寝られそうにはありませんが、それでも

「ホットバンク」(二人でベッドを交代で使う)

でないだけましというものですし、何より一人で寝られるのは
潜水艦勤務では何よりの贅沢というものでしょう。

ここも一人部屋のようです。
ソファは夜ベッドになるということでしょうか。

士官用に飲み物やスナックを用意するスペースまであります。

わざわざロシアの食料品店に行って買ってきた缶詰、おかし、
ビールなどが展示されていて、なかなか凝った演出です。

ソビエト海軍は潜水艦の中で酒を飲むことが許されていたんでしょうか。

なんでもロシア人は酒好きで、嫌なことがあったらウォッカで忘れる、
みたいなイメージがありますし、最近でも入浴剤や工業用アルコール、
飲んではいけないものを酒がわりに飲んでしまうという話もあるのですが、
それはまあ特殊な例としても、潜水艦の中でお酒が飲めたのか、
どなたかご存知でしたら教えてください。

こちらはキッチンです。

ロシア人もマスタードを食べたのか・・・。
それにしても、言葉がわからないというのは、こういうものも
全く読めないので本当に困りますよね。

外国人が日本に来て日本語しか書いていないとどれだけ困るか、
なんだかこれで初めてわかるような気がします。

この中で中身が想像できるのは赤のケチャップだけ。
あっ、ケチャップの横、オートミールって読める(ような気がする)!

左側に説明板があって、Tで始まる何かが書いてあるのですが、わかりません。
何かをテストする部屋のようです。

ここで何段かの階段を降りて行きます。

こちら、潜水艦の心臓部、エンジンコントロールルーム。

ここには兵用の三段バンクがあります。
アメリカの潜水艦と比べると、ちょっとしたスペースがあると
寝床にしてしまっているという感じに見えます。

エンジンコントロールルームの一部。

トイレは案外広いスペースにあります。
足元にレバーがあってそれで水を流していたようですね。

アメリカの潜水艦のトイレと違って、ちゃんと木の蓋がありました。
しかもこの蓋が装飾的で案外なレトロ風おしゃれ。

ここはもう後部魚雷発射室となります。

ベッドに登る乗組員は、靴をいつどこで脱ぐんだろう、と
しばし真面目に心配してしまいます。
まさかベッドの上まで土足ってことはないと信じたい。

しかもこの梯子段だと、寝ている人の上を歩いて
空いているスペースまで行かなきゃならんよね?

ホットバンクの意味は、例えば一つのスペースを二人で使う、といったような
計画的な?ものではなく、このベッドを見る限り、

「自分が寝る時間になった時、空いているスペースでどこでもいいから寝る」

といういいかげんシステムだったのでは・・・((((;゚Д゚)))))))

大きめの薄型モニターでは、冷戦時代のドキュメンタリーが流れていました。
これは・・・アメリカの潜水艦ですよね?

ところで、この部屋に来た途端、結構色彩が華やかというか、
その原因はあちらこちらに付箋が貼ってあるからだということに気がついたのですが、

どこかで付箋を配られて、感想を貼り付けているようです。
そのほとんどが左のようにジスイズソークール、というレベル。
右のは

「MIND BLOW! 」(びっくり、ショック、面白い)

として、絵文字風の顔が書いてあります。
ちなみにこの夏、アメリカではどこにいっても「Emoji movie」の宣伝をしていましたが、
割とみんなEmojiが日本語であることを知らないようでした(笑)

後部魚雷発射管は4基あります。

魚雷発射管の部分は立ち入り禁止のネットが貼ってあったのですが、
皆が付箋を貼るために乗り越えるので、こんな風に垂れ下がってしまって・・。

まあ、どうせ貼るならチューブに貼りたいとか思うんでしょうけど、
それにしてもアメリカ人行儀悪すぎ。

というわけで、外に出るための階段を上がっていくことにしました。
その途中にこんな棚があって・・・

なんとこんなところでも寝ていたようです。

甲板の上は直接歩くことはできず、このデッキを通って外に出ます。

上から覗き込んでみました。

どうも鳥のおうちになっているようです。

セイルの部分も、鉄板の継ぎ目がこんなに浮き上がっています。
よくこんなで潜水できたなあ・・。(木曽艦長的感想)

ここは出口だから入っちゃダメ、とシェパードを連れた
兵士が"Comrade"(同士)と呼びかけて注意しております。

「コムラード」というのは苦労を共にしてくれるような親しい僚友、
仲間、同志、組合員、共産党員という意味で、
もともとスペイン語の「同室の仲間」から来ているそうです。

これを製作したアメリカ人は、「共産党員」という意味があることから
てっきりロシア語源だと思い込んでいたか、アメリカでは
ソ連時代のロシア人がしゃべる時の一つの「パターン」としてこの
コムラードを使っているのかもしれません。

ところで、どこを探してもなぜこの潜水艦がアメリカにあるのかがわかりません。
サンディエゴ海事博物館のHPには

「冷戦終結を告げるベルリンの壁の崩壊から20年も経たないうちに、
彼女はここサンディエゴ湾、かつての敵国にその姿をつながれています」

とあるだけで、ここに来た経緯が全く説明されていないのです。

かつてのソ連海軍潜水艦として、間違いなく米船を攻撃して来た側の彼女の
甲板に立つと、確かに”かつての敵国”の船に囲まれているのを実感します。

っていうか、今でも一応敵国か。


B-39シリーズ 終わり。


ミリタリー・アニマル〜ポーランド陸軍一等兵ヴォイテク(ただしクマ)

2018-01-04 | すずめ食堂

前回に続き「軍と動物シリーズ」です。

【ミュール】

ミュールってあれよね、かかとを覆わないサンダルのことよね、と
女性なら思うわけですが、Muleという同じスペルで、こちらは
騾馬(雌馬と雄ロバを掛け合わせた雑種)のことです。

サンダルのミュールの語源は騾馬からきていたということ、というかアレが
騾馬の蹄みたいだからか、と愕然とするわけですが、その話はさておき。

騾馬はロバより賢く脚も早かったそうですが、馬と比べてどうかはわかりません。

画像の「ジョージワシントンの騾馬」という囲み記事ですが、
ワシントンの騾馬の父ロバは「ロイヤルギフト」という名前で、
スペイン国王からプレゼントされたというそれがどうした情報です。

プレゼントのロバをわざわざ雌馬と掛け合わせて騾馬を作っちゃったのか・・。

 

大変力が強く、重量のある荷物をご覧のような山間地で運ぶ時、
騾馬の存在は大変役に立ちました。
アメリカ軍は第一次世界大戦では船で30万等の騾馬を輸送したそうですが、
騾馬が乗っている船となると、ドイツ軍は最優先で攻撃しました。

いかに彼らが有益であるか知っていたからだそうです。

上の写真は第二次世界大戦のイタリアでの一コマだそうです。
ジープも戦車も、馬も通れない場所でも騾馬なら平気。

現在でもアメリカ軍はアフガニスタンで騾馬を投入しています。

「ハンビーより、ヘリより役に立つ」

から、だそうです。


【猫】

冒頭写真は朝鮮戦争での一コマ。
兵士が生まれたばかりで目の見えない子猫にミルクをやっています。

猫は主に軍艦で重要な役割を演じていたことが知られています。
ここでも以前「アンシンカブル・サム」(不沈のサム)としてお守りになった
軍艦猫についてお話ししたことがありましたが、特に船では昔から猫は
鼠を捕るため重宝されていました。

現在はどうか知りませんが、割と最近までロシア海軍の軍艦には一艦に一匹、
軍艦猫を雇っていましたし、日本でも猫、特にミケのオスは珍重されました。

一般に黒猫というのは魔女の使いとして忌み嫌われる傾向にあるヨーロッパですが、
(アメリカでもその傾向は強く、朝市で開催されていた猫のアダプティングで
”黒猫は引き取り手が少ないのでぜひもらってください”という張り紙を見ました)
セイラーたちはオカと違って特に黒猫を船のお守りとして歓迎したようです。


■ クリミア戦争中の1854年のことです。

イギリスとフランスの中隊はロシアの港を占拠しました。
しかし現地人が一切秘匿してしまったため、彼らは食べるものに困り始めます。

その時、「クリミアン・トム」として知られていた一匹の猫が彼らを案内して、
食べ物の隠してあるところに連れて行ってくれた、というのです。
おかげで彼らは生き延びることができ、感激してイギリスに連れて帰り、
軍籍を与えたということです。

 

■ 時は降って第二次世界大戦中。

イギリス海軍のHMS「アメジスト」乗組猫「エイブルシーキャット・サイモン」
もともと中国の揚子江で負傷しているところを拾われ救われた猫でした。

傷の手当てをしてもらったサイモンは「アメジスト」に乗って彼の役割を
忠実に果たし、鼠をたくさんとってなんと正式にオナーメダルを授与されています。

彼が亡くなった時、彼の亡骸はたくさんのメダルとともに葬られました。

イギリス軍では勇敢な軍の動物に与えるための

「ディッキン・メダル」Dickin Medal

というものがあります。
メダルには

「We Also Serve 」(私たちも勤務します)

という言葉が刻まれています。(冒頭画像右上のメダル)

 

■ アメリカ軍の軍猫ハマー1等兵は、イラク戦争に従事しました。
兵士たちの貴重な食料を荒らす極悪鼠を次々と殺傷し、
兵士たちにとってよき友人でもあったこの猫を部隊は名誉隊員とし、
一人の兵士が彼の故郷のコロラドに連れて帰ったということです。

 

■ 鼠を捕ることと兵士の友になることのみならず、CIAは
冷戦時代に猫をスパイ作戦に投入しようとしたと言われています。

その作戦名は、

オペレーション・アコースティック・キティ

1961年、CIAは猫の耳に超小型のマイク、尻尾にアンテナ、そして
体内にそれらのバッテリーを埋め込みました。

ってまじかよ。ひどいことするんじゃねーよ。

そしてその猫をソビエトの政府要人のいる建物の窓枠から忍び込ませ、
議会を盗み聞きさせたらいいんじゃまいか、というのが作戦の全容です。

5年間かかってトレーニングを行い、スパイ猫は準備を終了。
テストとしてまずワシントンのソ連から来た人々の多い地域に放ちました。

ところが、大変不幸なことに、猫は放出直後に

タクシーにひかれてしまいました。(-人-)ナムー

CIAが計算外だったのは、猫というものが気まぐれであちらに行けといっても
本猫がそう思わなければ決して行ってくれず、それのみならず基本的に
人間の命令を全くきかないという性質であることでした。

しかし、はっきり言ってあまりのCIAの認識の甘さには唖然とするばかりです。
5年の訓練期間中に一人くらいそのことに気づく関係者はいなかったのでしょうか。

アコースティックキティ作戦は1967年、正式に中止になり、
その後猫をスパイにする計画は二度と立てられていません。

ウクライナの国旗カラーのリボンを誇らしげに巻き、威嚇する戦車猫。
国を守る気概にあふれた精悍な表情をご覧ください
(適当)


【さる】

長年、ある中国軍の航空基地では鳥に悩まされていました、
ちょうど基地のあるところが鳥の繁殖地だったのです。

昔から基地のあるところにわざわざ引っ越してきて繁殖し、基地騒音に対し
文句を垂れる馬鹿者というのが一定数生息することが我が日本でも認められています。

この場合は先住していたのは鳥さんたちで、後からやって来た航空基地は
筋からいうと(笑)文句をいうに値しないわけですが、
飛行場の近くを鳥がたくさん飛ぶとバードシューティングが頻繁に起こり、
最悪の場合は飛行機が墜落してしまうのでまあ仕方ありません。


これを重くみた中国軍は鳥の巣を徹底的に排除したり、カカシを置いたり、
花火をあげたりして対策しますが、効果はいまひとつ。
やってもやっても鳥は帰って来てしまっていました。

そう、中国軍の誇る秘密兵器を投入するまでは。

訓練を受けたマカク猿はホイッスルを吹けば木に登り、たちまち
巣を落としてしまいます。
しかも、その際匂いを残していくので、鳥が二度と帰ってこないのです。

さる軍曹(彼は特に階級はもらわなかったそうですが一応)のおかげで
基地付近から鳥は減少し、安心して飛行機を飛ばすことができるようになりました。

よかったですね。

 

【アレチネズミ】


イギリスのCIAに当たるMI5は1970年代、飛行機でやってくるテロリストを
訓練したネズミを使ってその嗅覚で識別することを考えました。

最初にそのアイデアを思いついたのはイスラエル防衛軍で、
空港のセキュリティチェックにネズミを入れたカゴを置いて、
扇風機でパッセンジャーの匂いを嗅がせるという方法をとりました。
アレチネズミの鋭敏な嗅覚がアドレナリンを噴出?させた人物を嗅ぎ分けると
ボタンを押すようにトレーニングしたのです。

いやこれ、ちょっと待って?
別の理由でアドレナリンを噴出させてる人だって結構いるんじゃないかと思うの。
テロリストはゲートをくぐる時に最大限緊張するに違いないから、ってことだと思うけど。

そして案の定( 笑 )

すぐにこの試みは失敗であることが判明しました。

空港のセキュリティゲートをくぐる時の一般人のストレスは
案外高く、それは潜在的テロリストレベルだったのです(´・ω・`)

つまりアレチネズミさんはひっきりなしにボタンを押し続けたか、
あまりの人々のアドレナリンを嗅ぎ分けるのに疲れてしまったか、

・・・とにかくイスラエル軍はこの計画を放棄しました。

 MI5も諜報員ジェームス・ボンドから得たそれらの情報から解析を行い、
アレチネズミを空港に置くという計画を断念したのです。

 

【ブタ】

古代ローマでのブタの軍事活動というものは、極限まで飢えさせた彼らを
敵地に放ち、その食料となりそうなものを徹底的に食べさせることでした。

あるいは敵が採用する軍象に対抗する動物として採用されることもありました。
古代ローマでは軍象を使って攻撃を仕掛けてくることもありましたが、
これを迎え撃つ軍は攻撃の最前線に子豚をたくさん放つのです。

もちろんかわいそうな子豚ちゃんたちは次々と踏み潰されてしまうのですが、
不思議なことに、象軍団は象突猛進をやめ、踏みとどまってしまうだけでなく
引き返してしまうのでした。

実は巨大な体躯を持つ象は案外リスや子豚などを怖がる性質があるのです。

「あー、やべーなんか踏み潰したけどこれ何?何?
ちっちゃくて柔らかくて罪悪感半端ないんですけど」

という心情になるから・・かどうかは知りません。

近代になって、アメリカ軍はボディアーマーの耐性実験にブタを使っていますし、
(実験の後は皆でポークチョップなんだろうなあ)
イギリス軍ではブタを使って戦場における緊急手術のトレーニングを行います。
(訓練の後は皆でポークステーキなんだろうなあ)

これらの実験に対しても、動物愛護協会は廃止を申し入れているそうです。

どうせポークチョップになるんだから実験してもしなくても一緒だろうがよ!
と英米軍が彼らに言い返したかどうかは知りません。

 

【クマ】

第二次世界大戦時、ポーランド軍には「軍熊」がいたそうです。
階級は一等兵、名前は「ヴォイテク」(Wojtek)

1943年イランに進駐したポーランド軍の兵隊さんが子熊だった彼を拾い、
餌を与えていたらすくすくと育ってこんなに大きくなりました。

ヴォイテクは人間とレスリングをしたり、泳いだりして遊びました。
大変賢かったようで、敬礼をすることもできたというのですが、
そればかりかシャワーの使い方を覚えてしまい、しかも彼がシャワーを使うと
水がなくなってしまうので、バスルームの鍵をかけなくてはならなかったそうです。

ある時彼は鍵を閉め忘れてシャワーを浴びている人のブースに忍び込み、
あろうことか彼の武器を盗み出したこともあり、これですっかり英雄になりました。

(本来なら怒られそうですが、どうも怒られたのは盗まれた兵隊さんだった模様)

部隊がヨーロッパに船で移動することになった時、彼らはヴォイテクを連れていく
唯一の方法は彼をソルジャーということにするしかないと、正式に彼に
ポーランド陸軍の軍籍を与え、階級とシリアルナンバーを与えました。

「ヴォイテク」という名前は

「スマイリング・ウォリアー」「戦いを楽しむ男」

という意味があるそうです。

イタリアのモンテカッシーノの戦いでは、ヴォイテクは武器運搬に従事しました。
戦後、無事に凱旋した部隊と共に、ヴォイテクはスコットランドのグラスゴーで
ポーランド軍の一員として凱旋行進を行なったと言われています。

その後、部隊は祖国に帰国することになったのですが、ヴォイテクだけは
イギリスに残ることになりました。
連れて帰ることができなかったのか、他の理由だったのかはわかりません。

スコットランドのエジンバラ動物園を引退後の住まいと決められた彼は、
そこで(多分)悠々自適の生活を送りました。

かつての戦友はしばしばプレゼントを持って彼に面会に来ていたそうです。

 

 

続く。

 

 

 


平成30年、東京のお正月

2018-01-02 | お出かけ

みなさま、初詣は元旦に行く派?午後に出かける派?
それとも大晦日の夜から出かけて年が変わると同時派ですか?

我が家は今年息子の受験もあってどこにもいかないことになったので、
王道の元旦参りを決行しました。

遡って2017年クリスマスの夜。
我々は工事が完成した(やっとだよ)東京駅近くでこの夜を過ごしました。

丸の内のイルミネーションにはまるで誘蛾灯に引き寄せられるかのように
カップルや家族連れ、観光客が押しかけていましたが、それらは
走る車から見ただけです。

駅前は樹々も軒並みライトアップされて大変華やか。

いつもの駅前ホテルでクリスマスのディナーをいただきました。
これがなかなか斬新だったのでご紹介します。

メニューは何々のナントカ添え何々風、といったよくある名前ではなく
「ユリ根」「ホタテ」「鹿肉」とだけ書かれていて、それがどんなものかは
出てきてからのお楽しみ。

これは、帆立貝に何か挟んだものをきっちり海苔で包み、二つに割ったもの。
手でつまんでいただきます。

枯れ枝と石の上に乗っていますが、ジオラマではありませんので念のため。
色々出てきましたが、ユリ根とこのホタテが抜群でした。

この日メインの鹿肉。
運ばれてくるときにもモミの木(あ、クリスマスだからか)に乗せてあり、
香ばしい香りが肉に纏わり付いてなかなかこれがよろしい。

お皿にセットされた状態。
左上はビーツ、白い球体はホワイトチョコではなく・・・あれ、なんだっけ(笑)

いろんな食材やソースと一緒にお召し上がりください的なコンセプトです。

デザートの後、最後に出てきたトリュフ。

「姫林檎は食べられますか」

「姫林檎は飾りでございます」

このディナーをいただいたのと同じ駅前ホテルで、元旦のおせちをいただいてみました。
今やコンビニでもお節は買えますが、基本的におせち料理の定番、
数の子に昆布煮しめ、伊達巻にごまめというようなものが実はかなり苦手なので、
(その心は辛いから)気に入ったダイニングを持つホテルで
ちょっと洋風入ったおせちを楽しむのが最近のお正月となっています。

カモがネギ背負って、じゃなくてネギ(リーク)がカモを背負ったもの、
ローストビーフにガランティーヌが入ってくるのがホテルのおせち。

泊り客はほとんどが外国人で、おせちはまず出ないらしく、今年から
予約制で元旦のみ20食限定になりました。

お雑煮は鴨肉でおすまし仕立てでした。

 

おせちをいただき、早速初詣に出かけました。
実は息子は昨晩鎌倉の友人宅に泊まって皆でお詣りに行こうとするも
あまりの人の多さに途中で諦めたそうです。

まあ鶴岡八幡宮ではねえ・・・。

ナビを入れると銀座を避けて案内が出たのですが、あえてそれに逆らい
中央通りを突っ切って行くことにしました。

今年はデパート始めお店も元日は休業することになったので、
銀座に来ているのは何も知らない中国人だけ。

三越とニッサンのビルの間の横断歩道の人待ちがこんなに少ない。

お店が開いていないガラガラの銀座はある意味珍しくて見る価値ありです。

和光の前もこの通り。
誰もいない銀座をバックに自撮りしている人多数。
こんなときにも虚無僧が辻立ちしていました。

行き先は虎ノ門なので、和光の角を左折。

今日の最初の参詣はここ!
え?高層ビルじゃないかって?

この虎ノ門琴平タワーはですね・・。

こんな具合に、昔からここにある金刀比羅宮と融合した作りになっているのです。

参道がビルのエントランスを兼ねているという斬新な作り。
日本に神社は数多くあれど、こんなのが見られるのは東京だけでしょう。

そのせいか、外国人の観光客の姿がいつも見える神社です。

参道沿いにはこのような立派な神楽殿も新築されているわけですが・・、

ビルの駐車場からの出口スロープの上に建っていたりします。

参詣のために列に並びました。
鳥居は青銅製で、文久4年(1864)の建造だと裏側に彫ってあります。

金毘羅宮といえば琴平というくらいで、当然四国のあの金毘羅のことですが、
こちらの金毘羅宮は、讃岐丸亀藩主だった京極さんという人が、
1660(万治3)年に邸内神社として金比羅山を勧請(かんじょう・
神仏の分霊を請じ迎えること)して創建したものが始まりだそうです。

いわば四国の金比羅山の支店みたいな感じでしょうか。

大東亜戦争時、社殿は消失したそうですが、鳥居もお百度石も
昔のものがそのまま残されています。

今回はお酒も奉納いたしました。

稲荷神社と結(むすび)神社もあります。

結神社は縁結びの神ということで、赤の結び紐を買い、
ここに結びつけて良縁を願うんだそうです。

その昔、良縁祈願に訪れた女性たちは、この結神社の前で自らの黒髪を一部切り取り、
或いは折り紙を持参し、社殿の格子や周りの木々にそれらを結んだのだとか。

受験を控えたMKに「学校に入るのも縁結びだから」という理由でやらせようとしたら、
800円也の「良縁セット」は女性にしか売ってもらえないとのこと。

参道から鳥居越しに見た神社外側。
シュールです。

神社の横にあったカップ、メダル製造会社のショーウィンドに錨のマーク発見。
隣は「日本傷痍軍人妻の会」の50周年記念メダル。

神社の向かいに旭日旗が!

と思ったら「ちょい飲み福ちゃん」の看板でした。

MKは鎌倉の友達の家に荷物を置いて来たというので東京駅まで送ることに。
お堀端のいつも車が混雑しているところもガラガラです。
第一生命ビルのまえを走っているのは黄色いはとバスのみ。


東京駅前広場の改修が終わり、駅から皇居まで、まっすぐ道が繋がりました。

つまり新任の外国大使が天皇陛下に自国からの信任状を捧呈する
「信任状捧呈(ほうてい)式」に向かう際の
丸の内駅舎から皇居までの馬車ルートが復活したのです。

捧呈式に参内する際の交通には車か馬車を選ぶことができますが、
大半の大使は(いわゆる反日とされる国大使も)馬車を選ぶそうです。

これは・・・乗ってみたいよね。(リハーサル画像)

大使が乗る「二頭引き座ぎょ式」の儀装馬車は、駅前広場の工事のため、
2007年から出発地点が東京・丸の内の明治生命館前に変わっていました。

ずっと工事中の駅前ばかり見ていたので、完成後にこんな
すっきりとした広場になるとは想像していませんでした。

「音楽大進軍」という戦時映画でここを走り回るロッパの写真をご紹介しましたが、
ほとんどその頃のままという感じで、感激です。

なんでも壊してゼロから新しい駅舎を作るのの10倍くらいの費用がかかっていて、
それというのも駅舎を「高層ビル」にしないために「空中権」も買ったためだとか。

「あの銅像、だれ?」

「東京駅に関係あるとしたら・・・後藤象二郎?」

後藤象二郎にしてはスマートすぎるような・・・。

「東京駅を見てるね」

日本鉄道の父と言われた、井上勝先生の銅像でした。

と言われてもピンと来ない方、「長州ファイブ」の一人で、井上馨、
伊藤博文とともに留学したといえば思い出されるでしょうか。

銅像は昔皇居を向いていたそうですが、駅前広場の工事完成に伴い
東京駅を向いて立つように設置されたということです。

広場ではありますが、車が人や荷を降ろすために一時停車する車道があります。

そして毎年恒例の靖国神社参詣へ。
昇殿参拝して来ました。

驚いたのですが、参集殿から本殿へと渡る廊下と本殿の床になんと

床暖房が設置されていました!

毎年冬の昇殿参拝はストッキング履きの足には辛く、
相当な覚悟をしていったのですが、ありがたかったです。
本殿の奥にはエレベーターも設置(違和感のないデザイン)
されていましたし、この一年で改修工事は完成したようです。

参詣客の多さは、首相が参拝した時には遠く及びませんが、
元日ということで今年もなかなかの賑わいです。

昇殿参拝をする参集殿で、陸自の制服を着た男性とその恋人らしい
カップルが人目を引いていたのと、あとは境内を歩いている
「NHKから国民を守る党」の人もお見かけしました。

お獅子舞と山門脇の写真屋さんも健在です。

ご祈祷料に応じて神社からはお返しがいただけますが、
「ご神菓」はご覧のような可愛らしい犬があしらわれた月餅でした。

 

しかし帰って年賀状を見ていたら、地本勤務の自衛官からの賀状に気になる一文が・・。

「海自の採用が危機的状況です」

これは現在の国際情勢が影響していると考えるべきでしょうか。
おかげで今年の初夢は、海自の採用を増やすべく奔走するわたしを題材にした
混沌とした壮大なドラマ仕立てになってしまいました(笑)

とにかく今年も粛々と、ここから発信することによって
微力ながらそれが自衛隊、特に海上自衛隊の応援になればという気持ちで
真摯にやっていきたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いします。

 

 

 

 


戌年スペシャル企画 第一次世界大戦の勇士スタビー軍曹

2018-01-01 | すずめ食堂

みなさま、あけましておめでとうございます。

たまたま前年度から作成していたエントリに、お正月の読み物として
もしかしたらこれ以上ないのではないかと思われるものがありました。

軍とそれに関わる、あるいは関わらされた?動物についての展示を
去年訪れた軍艦内で見つけたので、それをまとめたものです。



軍と動物、というとまず思いつくのは馬、鳩、犬でしょう。
靖国神社の境内には戦争で命を失った彼らの鎮魂碑があります。

ミリタリーアニマルシリーズ、戌年スペシャルとして王道の犬からです。


犬が軍隊に所属することは大昔から古今東西に見られる現象でした。
古代ローマでもフン族のアッティラでも警備のために犬が飼われていました。

アメリカ軍も独立戦争からイラクでもアフガニスタンでも、
その軍隊に犬の姿を見ないことはありません。

冒頭のブルテリアの雑種ですが、彼は第一次世界大戦の時
第26ヤンキー師団第102歩兵部隊に所属して17もの戦闘に加わった

スタビー軍曹

その人、じゃなくてその犬です。

コネチカットにあったトレーニングキャンプで部隊の兵士に拾われた彼は、
軍艦「ミネソタ」に飼い主によってこっそり乗せられました。

艦上で犬を見つけた司令は激怒したのですが、飼い主はスタビーに
こんなこともあろうかと?軍隊式の敬礼を仕込んでいたので、
それを見た司令はあっさりスタビーの同行を容認するようになりました。

芸は身を助くってやつですね。

しかしスタビーは単なるマスコット以上の、とんでもなく有能な犬だったのです。

軍隊と行動を共にするうちに、彼はいつのまにか当時大変な脅威であった
毒ガスのわずかな匂いを嗅ぎ分け、各塹壕を走り回って仲間にそれを警告するようになり、
しかも戦闘終了後、戦場で倒れている負傷兵を探し出したりしました。

勇猛果敢に最前線に出ていくため一度彼は手榴弾で負傷したこともあります。
しかしどんな時でも彼は必ず塹壕に帰って来ました。

そしてドイツ軍のスパイのパンツを咥えたまま放さず、味方がくるまで
スパイを足止めにしたという功績をあげた後に、スタビーは正式に
軍曹に昇進したのです。

ちなみに飼い主だったコンロイは伍長だったので、いきなりスタビーは
彼より上官になってしまいました。

海自の警備犬も曹の階級を持っているそうですが、警備犬の階級章を見るときの
士クラスの隊員なら、コンロイのこのときの気持ちがわかるかもしれません。

戦争が終わり、アメリカ国民はこのヒーローの帰国を熱狂的に迎えました。

戦勝パレードに加わったばかりか、ウィルソン大統領に会い、
大統領は軍曹の栄誉を称えて彼とがっちり(多分)握手をしました。

その後何かと表舞台に出ることの多かったスタビー軍曹は、第29代大統領ハーディング、
そして第30代のクーリッジと三代にわたる現職大統領に拝謁しています。

第一次世界大戦でもっとも有名な犬がスタビーだとすれば、
第二次世界大戦でよく知られていた犬はジャーマンシェパードの雑種、

チップス(CHIPS )

でしょう。

彼はスタビー軍曹のように拾われた犬ではなく、民間人がある程度まで育て、
そのあとはバージニア州にあった

War Dog Training Center(戦争犬訓練センター)

に送られて専門の訓練を受けたプロフェッショナルでした。

彼の第一線デビューは1943年で、ルーズベルト−チャーチル会談の時、
歩哨犬として派遣されています。

その後ヨーロッパ戦線に投入されたチップス。

シシリー島での戦闘においてチップスと彼のハンドラーは、イタリア軍に
海岸線まで追い詰められ機関銃で囲まれるという絶体絶命の危機に陥りました。

ところが彼は猛然と敵に向かっていき、激しく吠えながら相手に噛みつき、
イタリア兵のうち4人はバンカーに飛び込んで逃げました。
しかし、チップスはなおも彼らに攻撃を加え続け、4名は降参したのです。

そのときチップスは頭皮を火薬で火傷していたのですが、さらにそのあとも
戦場で10人のイタリア兵を捕虜にすることに成功しました。

のちの大統領、ドワイト・アイゼンハワーはチップスに感謝の意を表し、
その勇気ある戦闘行動を称えました。

彼は戦功に対するルバースター勲章と、自らの負った負傷に対し
パープルハート勲章を授与されています。

ただし、上の写真に添えられた説明によると、

「ただし彼はドーナツのご褒美をもらう方がハッピーだっただろう」

ごもっともです。
彼にドーナツ?をあげているのは、ハンドラーだったジョン・ローウェル一等兵。
後ろのテントには「ドーナツショップ」と書いてありますね(笑)

 

戦争が終わり、除隊になったチップスは、元の飼い主だったレン家に戻り、
穏やかな一生を終えたということです。

彼の一生を見てなんだかディズニーみたいだなと思ったらやっぱり(笑)
1990年になって、ウォルト・ディズニー社が彼の活躍を

Chips, the War Dog(軍犬チップス)

というドラマにしています。

ちなみに彼は最初からトレーニングを受けた軍犬でしたが、規定により
軍の階級は与えられないままでした。

陸軍は犬、海軍は猫、というイメージが(あくまでもわたしの中で)ありましたが、
実は海軍やコーストガードでは犬は普通にポピュラーなマスコットだそうです。

外国の海岸線をパトロールするときには犬は必須ですし、最悪の場合?
食べ物を探してくれることもあります。
しかし何と言っても長い航海で兵士たちの心の友になってくれることでした。

海軍は、また哨戒艇に犬を乗せることもありました。
敵潜水艦のシュノーケルからでる空気の匂いを嗅ぎ分けさせるのです。

 

大型犬だけではなく、小型犬も軍犬として活躍しています。

ヨークシャーテリアのスモーキーは第二次世界大戦で海軍に従事しました。
スモーキーが発見されたのは1944年のニューギニア。
日本軍が撤退したあとの壕にいたので、犬を見つけた兵士は最初スモーキーを
”ジャップ”だと思ったのですが、日本語もドイツ語も通じませんでした。
(どちらも試してみたってことですね)
その後犬の訓練士でもあったウィリアム・ウィンに7ドルくらいで売られました。

ポーカーの掛け金を手っ取り早く手に入れたかったからだそうです。

それから2年もの間、スモーキーはウィンと太平洋戦線に従事しました。
正式な軍犬ではなかったため、彼女は(メスだったのです)Cレーションや
スパムを分けてもらったり、ゲームテーブルのグリーンのフェルトの上で寝て、
暑さと異常な湿度に飼い主と一緒に耐え続けました。

ウィンによると、彼女は

The South Pacific with the 5th Air Force,

26th Photo Recon Squadron

flew 12 air/sea rescue and photo reconnaissance missions

つまり偵察隊の飛行機に同乗していました。
そして何時間も偵察機の機銃近くの乗組員の肩にぶらさがって大人しくしていたそうです。

そんな状態で150回ものミッションをこなし、(沖縄で台風にも遭遇している)
12回もの戦闘に生き残り、これに対してサービススターを与えられています。

空中勤務の時、万が一の場合に備えて、スモーキー専用のパラシュートも作られ、
彼女はその実験のために9.1mの高さからパラシュート降下を行なっています。

ウィンは彼女のことを

「壕から来た天使」

と読んでいたそうですが、その理由はスモーキーによって命を救われたからでした。
輸送船の上で砲弾がこちらに向かってくるのを彼女に教えられ、
姿勢を低くした次の瞬間、彼の隣にいた8名にそれがヒットしたのです。

 

オフタイムには、エンターテイナーとしてもスモーキーは人気者でした。
賢い彼女はいくつかの手品芸を覚え、病院の慰問も行なっています。
ウィンによると彼女は彼が教える以上のことをその犬としての人生?に
たくさん教えてくれたということで、1944年、ある雑誌は彼女のことを

「南太平洋戦線のチャンピオンマスコット」

とタイトルにしたそうです。

スモーキーはまた、ルソンやリンガエン湾など、敵前線にある
重要な基地の建設でもエンジニアを助けることによってヒーローとなりました。

(アメリカでは女性でもこういう時にはヒーローと言います)

ルソン基地で長さ20m、直径8インチ(20センチ)のパイプの中に
電信線を通さなければならなくなった時、体長4インチの彼女が
その重要な役目を任命されました。

ウィンが戦後テレビでこう語っています。

私はスモーキーの襟に紐(ワイヤーに縛られた紐)を結び、暗渠の反対側に走った。
彼女はいろんなことをされて一旦逃げ出したが、私はもう彼女に

「おいで、スモーキー」

そうはっきりと言って、もう一度やり直した。

彼女が約パイプを10フィート進んだ時、ひもが引っ掛かった。
紐で繋がれている自分の肩をみた彼女はまるでこう言っているようだった。

『そこに行けば一体何があるの?』

紐は解けて、彼女は再びこちらに歩んで来た。
彼女が歩くたびにほこりやカビが舞い上がり、もはやその姿は見えなくなった。

どこまで彼女が来ているか全くわからないまま、私は彼女を呼んだ。
すると約20フィート離れたところに私は2つの小さい琥珀色の目を見つけた。
そしてかすかなぼんやりとした音を聞いた。

15フィートまで来た時、彼女は走り出した。

彼女がうまくやり遂げたことが嬉しくて、私たちはおよそ5分間の間、
ずっと彼女を撫でたり抱きしめたりしてやった

彼女がたった5分でやり遂げた仕事は、250人の地上員を動員し、
敵の爆撃からの警戒に40機の戦闘機と偵察機を運用し、
3日間かけて掘削を行った上で行われた最後の工程でした。

終戦の年の12月7日、ウィンとスモーキーは、地元紙のの第一面記事で取り上げられ、
(二つ上の写真)すぐにアメリカ中の話題の犬となります。
彼らはその後10年間、ハリウッドはじめ全米各地で目隠しをしながら綱渡りをするなどの
驚くべきデモンストレーションを見せて回りました。
42回ライブで出演した番組で彼らは二度と同じトリックを行いませんでした。

退役軍人病院への慰問も彼らの大事な仕事となりました。

ウィンがご覧のようにハンサムな青年だったこともその人気に拍車をかけたようです。
そしてウィンによるとスモーキーは、

「1940年代後半から1950年代初めに数百万ドルを稼いだ」

ということです。
ポーカー代金の7ドルで買われた犬が大変な恩返しをしたってことですね。

1957年2月21日、「コーポラル・スモーキー」(彼女の芸名)は14歳で亡くなり、
クリーブランド・メトロパークで30口型弾薬ボックスに入れて葬られました。

ほぼ50年後、退役軍人の日である2005年11月11日に、2トンの花崗岩のベースの上に
GIのヘルメットに置かれたスモーキーのブロンズ実物サイズの彫刻が発表されました。

記念碑には、

「スモーキー ヨークリー・ドゥードル・ダンディー、
そしてすべての戦争の犬に捧ぐ」

とあります。

この後ヨークシャーテリアが有名になり、人気の犬種になったことも
いわばスモーキーの「功績」の一つだそうです。

 

今日では人間の10万倍という嗅覚の鋭さを生かした訓練を受け、
時としてその訓練士とともに大変危険な任務に赴くことがあります。

例えば敵のテリトリーで爆弾や地雷の危険のある地域を先導し
危険を察知すれば対処するといったような。

写真はアメリカニューヨークの同時多発テロ発生時、
ニューヨーク警察のK-9部隊に所属していた捜索救助犬、アポロです。

事件発生の15分後に彼と相棒はワールドトレードセンターに到着し、
人命救助に当たりました。
炎とその後のビル崩壊で彼らは危うく命を失うところでしたが、
ひるむことなく危険な現場で救助を続け、その功績によって
アポロはディッキン・メダルを授与されたのでした。

「チップス」の項で、彼が最初「ジャップの犬かと思われていた」と書きましたが、
これは海兵隊がグアムでの日本軍掃討作戦の後、現場で顎を砕かれていた
日本軍の犬に救命のための緊急手術を行っているところです。

人を憎んで犬は憎まず、ってところですか。


それからやはりチップスの欄で、イタリア兵が次々と投降した、と書きましたが、
幾ら何でも犬一匹に、と思ったあなた、あなたは甘い。

軍用犬の用途の一つに「脅迫」「脅し」に使うというのがあるんですよ。

写真はバグダッドのアグレイブ刑務所で囚人を脅すアメリカ兵。
脅かされる囚人。
マジで怖がっているらしいのがその表情と後ろにそらした上半身でわかります。
いやー、これ確かに怖いと思う。

最後に。

スタビー軍曹は、1926年にお亡くなりになった後、
スミソニアン自然史博物館によって剥製にされました。

その障害に受けた数々のメダルをつけたケープとともに、
現在は国立アメリカ歴史博物館に展示されているということです。

 

 

続く。