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大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜特別編:司令官交代問題結着す

2018-01-10 | 軍艦

当初から話題になっている司令官交代問題ですが、
もしかしたら、最終結論が出たかもしれません。

今北産業のかたのためにもう一度説明しておくと、

wiki、つまり海軍に残っている資料によると艦隊司令は

大正13年度 古川 鈊三郎 大正14年度 百武三郎

であるのに、実際の13年度艦隊司令は百武三郎だった(三行)

という謎です。

とりあえず、大正13年度の遠洋航海に、なぜか14年度の司令官であるはずの
百武中将が司令として参加している、ということは、はっきりしました。

海軍がその交代を書面処理しなかったらしいこともわかりました。

問題は、その変更によってあちらこちらに起きるはずの人事の混乱を捺してまで、
いくら海軍の歴史で唯一の兄弟で海軍大将になるようなエリート軍人のいうことでも
こんな無茶を海軍がホイホイと受け入れるものだろうかということです。

unknownさんがおっしゃるように、ここはのっぴきならぬ
古川中将側の事情があったのではないか、という予想はもっともです。


しかし、一枚の写真の発見が、この問題をどうやら解決させたような気がするのです。
今一度、我慢してお付き合いください。

 

大正13年度遠洋航海練習艦隊は卒業式を終え、江田島を出航しました。

現代の練習艦隊は国内巡航は基本時計回りに寄港地を巡り、
最終的に横須賀に到着することになりますが、この頃の練習艦隊は
そもそも期間が長かった(7月24日に出航して翌年4月4日に帰国)のです。

というのも、当時日本が持っていた統治地方、「外地」をまず最初に
巡ることが決まっていたからでした。

練習艦隊はまず大連、旅順、そして朝鮮半島の鎮海に帰港しました。
順番が最後からになりますが、鎮海寄港の様子をまずお話しします。


【鎮海】

立派な巴里式都市の設計まで出来乍ら、気の毒にも流産した鎮海の町
完成の暁はどんなに美麗であったろう
程遠からぬ統営の古戦場を訪ねて忠烈詞に詣で朱舜臣の健闘を偲ぶ


鎮海要港部庁舎

鎮海は大韓民国の最大の軍港です。

遠洋航海の外地巡行の最後の都市は要港部のあった鎮海を訪問することになりました。

「要港部」というのは舞鶴、大湊と同じような根拠地のことで、大陸には
他に旅順、馬公も要港部とされた港湾がありました。

1904年2月、日露戦争開戦に際して、日本海軍は鎮海湾一帯を掌握、
海軍根拠地の建設が行われ、日本海海戦ではここが連合艦隊の集結地となりました。

日露戦争後は、鎮海湾に軍港を建設する計画が進められ、1910年から
鎮海軍港と都市の建設が開始され、1916年に完成しました。

以後、鎮海は日本海軍の軍港都市として発展します。
写真は当時の要港部庁舎と説明があります。

 

紹介文の

「気の毒にも流産」

が何を意味するのかちょっとわからないのですが、日本の統治後、
「巴里風の」都市建設を計画していたのが何かの理由でダメになった、
という事情か何かがあったのでしょうか。

現在の鎮海は市の中心部にあるロータリーをはじめ、随所に
往時の日本の都市計画の姿を見ることができ、また、
地名には末尾が「町」となる、日本式の地名が付与されたということなので、
ある程度の都市開発は出来たのではなかったかと思うのですが・・・。

水運び

藁葺きの家に石を積み重ねただけの壁、
水道などもちろんないので水運びを子供も行います。

洗濯は井戸の周りで。

忠烈詞というと台湾の衛兵交代のあれしか検索しても出てきません。
統営(トンヨン)の忠烈詞李舜臣を祀っている廟です。

かつて朝鮮水軍の李舜臣がここに統制営を置いたことから、この地の名前は
統営になったという言い伝えがあります。

李舜臣は文禄、慶長の役で日本と戦って朝鮮の英雄となりましたが、
統治後の日本では、李舜臣を「水軍の名将」として敬意を表していたため、
こうやって海軍軍人が忠烈詞を参拝しているわけです。

 

ちなみに、現在でも自衛隊は外国に赴くと、その国を護って亡くなった
軍人の慰霊碑や墓に慰霊訪問を行うことが慣例となっています。

例えば2013年には韓国海軍哨戒艦「天安」沈没事件で犠牲になった46人に
幹部候補生学校の学生が黙祷を捧げるために訪問していますし、
練習艦隊ハワイ寄港時にはでアリゾナ記念館で必ず慰霊を行っています。

今年も顕忠院で「リース・レイイング」を行なったという報告がありました。

 

国際関係は、合意の履行を巡って最近さらに不穏になりつつある日韓ですが、
平成29年度の練習艦隊報告会ではそれを受け、最後の質疑応答の時に初老の男性が

「韓国に行って何か反日を感じるようなことはなかったのか」

と質問されました。
真鍋海将補のお答えは「全くそのようなことはなかった」というものでした。

HPに発表された各地における活動記録を見れば、少なくとも自衛隊と
韓国海軍の間には不穏不快な夾雑物はないものとわかります。

これはスクリーンを撮影したものですが、両手を振っている韓国海軍の軍人たちの
後ろのバナーには、「歓迎 日本練習艦隊訪問」として日韓の国旗が描かれています。



自衛隊寄港の際旭日旗が大騒ぎされたとか寄港を断わられたとか聞きますが、
少なくとも韓国海軍はそのようなことに関わっていないはずです。

 


さて、冒頭に挙げた写真ですが、もう一度ご覧ください。

キャプションには練習艦隊寄港中、「斎藤総督」が訪問した、とあります。
真ん中の海軍軍人、第3代朝鮮総督の斎藤実(まこと)大将のことです。

斎藤は兵学校での中でも「天才」と言われるほど特に優秀な生徒だったそうで、
海軍大将、のちに総理大臣にまで登りつめますが、内大臣だった時に起こった
二・二六事件で坂井直率いる蹶起将校に殺害されることになります。

天皇を誑かす者として、青年将校たちの目の敵にされていたためでした。

 

そして皆さん!お待たせしました。

わたしは皆様に謝らなければなりません。

前回「古川中将はこのアルバムに写っていない」と

きっぱりと言い切ったのですが、申し訳ありません!

斎藤総督の左側・・・古川中将が写っています!

参考画像

これは何を意味すると思いますか?

最初は斎藤大将の右側に座っている人物を百武中将だと思い込んでいましたが、
どう考えても艦隊司令が二人、大将の両脇に座るなんて変ですよね。
そもそも右に座っている人、百武中将に似ているけど少し雰囲気が違う・・・・。

もしやと思って、当時の当時鎮海要港部司令官だった犬塚太郎中将の写真を確認すると・・・、

犬塚太郎中将

ね?

何がね?だ、って話ですが、斎藤大将の右は要港部司令犬塚に間違いありません。
つまり国内巡航の司令官は最初の予定通り古川中将が務めてるってことなんです。

念のため目を皿のようにして国内巡航の写真全て確認したところ、
豆粒のようなものしかありませんが、司令官は百武ではなく
古川中将のような体型顔型をして見えるんですよね。


・・・つ  ま  り  。

練習艦隊出航直前に百武中将は

「同級生の墓参りに北米行きたいから司令官代われ」

と言ったものの、当時舞鶴要港部の司令官という仕事がまだ残っていたので、

国内巡航は古川中将が当初の予定通り行なった

11月からの遠洋航海から司令官が百武中将に交代した

という可能性が出てきました。
これなら書類を書き換える必要は・・・あるけど、まあなんとかセーフ?


ちなみに百武中将は舞鶴要港部司令を

10月3日に退職しています。

そして遠洋航海練習艦隊司令官として、

11月10日に横須賀を出港。(゚д゚)ウマー


そして、遠洋練習艦隊は翌年、大正14年4月4日に帰国
百武は帰国から11日後の

4月15日に佐世保鎮守府長官に着任。(゚д゚)ウマー


かたや古川中将はというと。
当初の辞令通りに、7月末から11月まで13年度練習艦隊国内巡航に参加。

(それでアルバムには両者の写真が掲載されているというわけです)

練習艦隊司令を百武に交代した11月から何をしていたかというと、

軍令部出仕

という謎の配置(なこたーない)で忍び難きを忍び、翌年、
身分は軍令部に置いたまま、百武の代わりに

大正14年練習艦隊司令として国内巡航(2度目)を行い(笑)

そして遠洋航海を最後まで恙無く終えて、4月帰国。

大正14年6月、舞鶴要港部司令官に着任

わずか半年後、百武の後任として(百武からの”御礼”だった可能性あり)

佐世保鎮守府長官に就任(゚д゚)ウマー


どうですか?

これで二人のこの2年の行動が矛盾なく綺麗にトレースできました。

 

つまり、百武中将がなんとしてでも級友の墓参りをするために、
遠洋航海の部分だけ
いいとこ取りした可能性が限りなく高くなったのです。


百武中将の佐世保鎮守府長官の赴任期間は大正14年4月から15年の12月。
結論をいいますと、海軍にはこの1世紀近く、百武中将の

練習艦隊司令官(大正14年〜15年)

佐世保鎮守府長官(大正14年〜15年)

という一人の人物に同時に起こりえない経歴が公式に残されてきたことになります。
どうしてこの矛盾に突っ込んだ人がこれまでいなかったのか。

歴史の些事といえばこんなどうでもいいこともありませんが、
それでもその一つがこうやって明らかになったことで、
今のわたしは、まるで金鉱でも掘り当てたようにワクワクしているのです。


というわけで、最新の結論が出ましたが、今後も
写真を解説しながらハードエビデンスを探していきたいと思います。

エビデンス?ねーよそんなもん、と思ってしまったらそこで終わりです。
(虚構じゃなくて某自称大
新聞に対する嫌味です)

 

最後におまけ。

この有名な、東郷元帥、秋山真之、加藤友三郎が写っている三笠艦上での写真の
後列右上の清河純一という士官の名前を見つけるたびに、
ここで紙面?を割いてせっせとご報告しているわけですが(笑)
今回扱った鎮海要港部大正14年度の司令長官に、この清河さんが就任しています。

若い時に連合艦隊参謀だった清河純一大尉(この頃)、
ちょうどこの練習艦隊の頃には百武、古川と同じ中将になっていたのですね。

 

ちなみに、米内光政も清河中将の二期後に鎮海要港部長官を務めました。

 

さて、大正13年度練習艦隊、順序が逆になりましたが、
もう一度江田島出港直後から外地巡航についてお話ししたいと思います。

 

続く。



 



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1 Comments

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さすがです (Unknown)
2018-01-11 01:05:46
よくここまで調べられましたね。さすがです。本を書けそうですね。

日露戦争当時、予備役だった東郷大将を現役復帰させたりしているので、海軍は人事に関しては大らかだったんでしょうね。

自衛隊の感覚で語っても意味がない気がしますが、自衛隊だと、次の配置への異動の際は、意図的な左遷でない限り、格上の配置に就けるのが普通です。離任した人より序列の低い人(例えば後輩)が自分の後に就くので、同じ配置に一年後に戻って来るというのは、いわば格下の配置に就くことになり、極めて異例です。

本人の立っての希望で納得ずくだったのでしょう。そのために何人かの方が割を食っているので、これくらい仕方ないでしょうね。

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