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海上自衛隊資料館〜厚木航空基地見学記

2017-03-12 | 自衛隊

在日米軍基地見学記、最終回です。

在日米海軍基地見学は午前中で終わり、基地内で昼食後は
海上自衛隊のターミナルにある資料館を見学させていただきました。

 

資料館に入ると、大きな当基地の俯瞰模型がまず現れます。
赤いプレートの部分が海自の建物で、先ほどエプロンに出たのは
この写真でいうと赤い印より下の建物からです。

案内の人は、これを見ながらまず基地の全容について説明をしてくれました。

赤い線で囲まれたところが基地の敷地となります。
この基地は大和市と綾瀬市にまたがっており、その名の厚木市とは
全く接していないので、なぜこうなったかにも諸説あるのですが、
案内の自衛官(喋るのが得意でこの仕事一筋みたいな人)によると、

完成当時、飛行場は

「高座郡大和村・綾瀬村・渋谷村」

の境にあったが、「大和」「綾瀬」「渋谷」どれを取っても
他に「本場」が存在する地名だったため、いっそどれでもなく
他に有名な地名と重ならないのが無難だということになって

厚木村の厚木が採用された、ということでした。

ところで、この日のアレンジをしてくれた防衛省の方が、

「あくまでも都市伝説ですが」

と断った上で、厚木基地の地下には坑道と地下工廠がかなりの規模であって、
どこか遠くまでつながっているということをおっしゃっていました。

その「どこか」については諸説あり、横須賀だったり皇居だったり。
(ちょっとそれは遠すぎるだろうという気もしますが)
実際に地下に通路があったのだけは間違いないようです。 

厚木航空基地は昭和17年に海軍が建設した飛行基地です。
昭和19年に第302海軍航空部隊が横須賀から移転してきて、
「本土防衛における日本最強の戦闘部隊」と言われていました。


第302空は、首都圏を主に夜間爆撃に来る爆撃機に挑み、
各地に隊員の派遣も行なっていました。

本土を防衛する主力である陸軍にも、第302空ほどの戦力、
そして威力を発揮した部隊はなく、最後まで戦意は衰えることはありませんでした。

しかしながら、南方から物量に任せて次々と飛来し、
1万mの高高度から爆撃を繰り返す米軍の前に、
自らの操縦技術だけで立ち向かわなければいけなかった彼らは
重責に苦しみながら終戦を迎えることになりました。

彼らの後ろにいるのは、雷電21型であろうかと思われます。

その雷電のモデルがガラスケースの中にあったのですが、どうもこれ、戦時中のものみたいです。
説明がないので由来はわかりませんでした。 

第302空の零戦隊長、森岡寛(ゆたか)大尉についての記事。
森岡大尉については「わたしたちは負けていない」という題で
左手の義手でスロットルを握るその姿を絵に描いて記事にしたことがあります。

第302航空隊の夜間戦闘機隊「月光」隊。

ご存知(ご存知ですよね?)小園安名中佐が発案した「斜め銃」
搭載の夜間戦闘機、「月光」を乗機とする夜戦部隊で、
高高度の敵には苦戦しましたが、ルメイが照準爆撃のために低空で
Bー29を飛行させるようになってからは、
この斜め銃によってかなりの戦果を上げることができました。 

現存している「月光」は案の定日本ではなくスミソニアンにあるそうですが、
ここに部品だけが残されて展示してあります。 

前縁(ぜんえん)スラットと言われましてもどこのことかよくわからんですが、

主翼の前縁に張り出しを設け、キャンバーを大きくして揚力を確保する一方、
翼との隙間(スロット)によって大迎え角時の失速を防ぐもの。(航空辞典)

だそうです。
つまり主翼の前縁の張り出し、ってことだと思います(いい加減) 

写真展示の下にはガラスケースがあり、パラシュートや物入れが納めてあります。

スチール製の行李のような作り。
金属部品を入れていたのでしょうか。 

プロペラのマークが入っているので、航空部品が入っていたのだと思いますが、
その名も「火星内部用具」。

「火星」って、なんか他に意味ありましたっけ。 

パラシュートの横の木には墨でなにやら書かれていますが、
経年劣化と写真のピンボケのせいで()「第八分隊」がかろうじて読めるだけです。 

金属の腐食が進んでいる爆弾。
こちら側の航空機の写真は紛失しました(´・ω・`) 

第302空は何人もの伝説のパイロットを生みました。
遠藤幸雄大尉は「月光」で一晩に5機のB29を撃墜したこともありました。

迎撃待機中の第302航空隊。雷電みたいですね。

そして終戦。
この厚木に降りて来る瞬間の自分の姿を、マッカーサーは
計算しつくしていたと言います。

ところが、こんな有名なシーンなのに、ここが実際にどこだったのか、
今の基地のどこに当たるのかははっきりとしていないのだそうです。 

敗戦となり、全て処分された海軍基地の飛行機。
「零戦燃ゆ」という映画を思い出しますね。 

そして海上自衛隊が生まれ、自衛隊旗が採用された時の写真。
この写真は有名ですが、この人物が誰かがわかりません。

彼の足元(靴を脱いでいる)には、「防衛大學校」「防衛廳」と
いずれも旧字体で書かれた紙があり、これらは
それぞれの門に掲げる表札のための書ではないかと思われます。 

ここから先は、自衛隊の活動についての写真が掲示されていましたが、
見学時間のほとんどを入ったところの説明で終わってしまい、
あとは急いで行くつか写真を撮るだけに留まったのは残念でした。

これは南鳥島のヤシの実。

南鳥島は戦前からアメリカと領有を巡って事件があったりしましたが、
戦時中は何度も空襲を受け、戦後はアメリカの軍政下にあり、
その後返還されて、現在は 飛行場施設を管理する海上自衛隊硫黄島航空基地隊の
南鳥島航空派遣隊や気象庁(南鳥島気象観測所)、
関東地方整備局(南鳥島港湾保全管理所)の職員が交代で常駐しています。

最近は高濃度のレアアースが発見されたことでもニュースになりましたね。 

海自の救命装備品。

包帯、ガーゼや止血帯はもちろん、右側の緑のものは航空機用の救命糧食5食分、
その左の銀色パックのものは一食分ずつの救命糧食です。
カロリーメイトみたいなものでしょうか。 

展示場には大きなパネルを引き出すようになっていて、そこに海上自衛隊の
各制服が一体ずつ展示されていました。

制服の展示というと、マネキンを置くしか見たことがありませんが、
これなら場所を取らずに全ての制服を見ることができます。 

やっぱり夏の水兵さんの制服はいいですねえ。
デザインとして完成されきっているという感があります。

ところで、冒頭の写真は、この坂井三郎氏の揮毫した書が米海軍から
海上自衛隊に寄贈された時のものです。

零戦パイロットとして戦後日米に有名だった坂井三郎氏が、
2000年に米軍に訪れた時に寄贈した「努力は勝利なり」の書を、

「我々が持っているよりも多くの日本人に見てもらうべきである」

と考えた前基地司令パーカー大佐が、海自に書を譲渡しました。

坂井氏はこの書を寄贈した米軍主催の夕食会の直後、体調に異変を感じ、
運ばれた病院先で死亡しているので、おそらくは氏がこの世で書いた
最後の文字ではないかと言われています。
 

 

かと思えばこのカオスなポスターも健在。
サンダーバードと自衛隊のコラボシリーズ。

サンダーバードが戦っていたのは災害というよりは地球の敵、
地球外生物のミステロンだったんすけどね。 

というわけで、全ての行程を終えて海自を後にしました。

左は米軍との連絡係をしているという1等海尉、右側は
自他共に認める「しゃべくりのうまい」資料館で解説してくれた海曹。

お二人のおかげで、大変楽しく充実した見学をすることができました。
ありがとうございます。

 

米軍基地シリーズ終わり