ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海へと続く階段〜呉・旧呉鎮守府庁舎

2017-03-31 | 海軍

いやいやいや、幹部候補生学校での卒業式、わたしは今回ランチが出港する時、
ずっとカメラのファインダーをのぞいていたため、最初に離れていったランチを
追いかけている間に、曳船がこんなことになっていたのに気づきませんでした。

お節介船屋さんが送ってくださった、ロンエミさんという方が挙げておられる
youtubeを今一度共有させていただきますと、

わたしがファインダーを桟橋に戻した時、ちょうどこの混乱の後だったわけです。

・・・・あーこれ、端っこに候補生が乗るタイプの船なら落ちてたかもですね。
海軍時代から多分史上初、通船から卒業生が落ち、目の前で救助活動が繰り広げられ、
海自の海難救助における機動力を目の当たりにする事態にならなくてよかったです(棒)

そういえばこんな写真もあったので載せておきます。
グラウンドで国旗を掲揚するポールは赤煉瓦から見て海側にありますが、
これにも旗が挙げられることがあるのでしょうか。

これも何か艦船で使用されていた部分なのでしょうか。

校長先生が立つような指揮台はがこちらにもあります。
この戦後の学校組織にはありえないほどの装飾の凝った壇は、
絶対に兵学校時代からのものだとわたしは信じているのですが、
本当のところがどうかはわかりません。

 

海友舎の見学をを諦め、大尉殿の車(ちな国産高級車)に乗って帰路につきました。

江田島内はもちろん、呉まで続く道はほぼ全て対面二車線なので、
ところどころ渋滞しているのですが、大尉殿は前が詰まっていると見るや、
ひょいと裏道をに入り、
こんな島の漁港の細い道を通り抜けていきます。

この辺りは周りを囲まれた内海で牡蠣の養殖が行われています。
沖にはたくさんの牡蠣筏が浮いています。

江田島の牡蠣の出荷量はさりげに全国一なんだそうで、 その歴史は古く、
400年前にはもう養殖(養殖ですよ)が始められていたといいます。

牡蠣筏は稚貝のついたワイヤーをぶらさげて牡蠣を海中で肥育するもので、
これを「垂下法」というそうですが、この方法は戦後開発されたものです。

戦前、戦時中はそもそもここで養殖筏を浮かべることはできなかったようですね。

朝にも見た輸送艦「くにさき」がまた見えてきました。

「岸壁が空いていないからあそこに投錨しています」

写真を撮ろうとするのですが、色々邪魔なものが出てきて撮れません。

「あー撮れない」

なんとなく呟いただけなのに、大尉殿は直後に「ひまねきテラス」という
見晴らし台に車を停めてくれました。 

お待たせしないように、急いで一枚撮るために車を降りて走っていったら、
そこでタバコを吸っていたおじさんがぎょっとして振り返りました。

脅かしてごめんよおじさん。
まあ普通こんなところに息急き切って走ってくる人がいるとは思わないよね。

さて、無事車は呉に帰ってきました。
おなじみの「大和のふるさと」と書かれた大屋根の横のドックに通りかかった時、

「ここについ最近まで『いせ』がいました」

あー知ってますよー。
わたしの知り合いが猫艦長とのツーショット写真をここで撮って送ってきてましたわ。

さて、車はなぜか呉地方総監部にやってきました。

実はこの日いただくはずだった、神戸で村川海幕長と撮ってもらった写真を
大尉殿が職場に忘れてくるというグッドジョブをやらかしてくれまして、

「写真を忘れて来たのであとで取りに行ってもいいですか」

と言われたとき、思わず心の中でガッツポーズをしたもんですよ。


そして地方総監部に到着。
昨年慰霊祭が行われた埠頭に近いゲートを通過する前に
車の中で正帽を被る大尉。

「あ、やっぱりちゃんと被って通りますかー」

「本当はいつも被っていなければならないということになってます」

海自迷彩の警衛隊員が二人番をしている入り口を通ると、
制服とダッシュボードの許可証だけであっさり通過が許されました。

わたしは全くの部外者だけど、こういう場合は誰何されないのね。

車は埠頭側から坂道を登り、地方総監庁舎の向かって右側に入りました。
ここがあの庁舎のサイド部分になります。
何度か呉地方総監部に訪れていますが、ここを見るのは初めてです。

呉地方総監庁舎は、江田島の第一術科学校の赤煉瓦とともに、
この建築様式のものとしては
西日本でも特に有名で、呉のシンボルともなっているものです。

建築は1907年。

前にも書きましたが、最初はもともとこの隣に平屋の庁舎が経っていたのですが
明治38(1905)年の芸予地震で半壊してしまったので新しく建て替えられ、現在に至ります。 

オリジナルの建築に、その後、両端部分が増築されました。
この写真でもはっきりとわかる、建物の継ぎ目から右側が増築部分です。

平面に繋がず、あえて段差をつけて、デザインであるかのように処理しています。

階段の下に喫煙所発見。
 

そしてこの鉄製の階段ですが、これは戦前にはありませんでした。
建築基準法に対応するようにこれも増設されたものです。 

日本で最初に建築基準法が制定されたのは昭和25年ですから、まだここに
進駐軍(イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス領インドなどで
構成されたイギリス連邦占領軍)がいた頃(1945〜1952)のことになります。

この際法律で二階からの避難路を設置することを義務付けられたため、
建物の両側に、二階からも脱出するための外付けの階段が作られたということです。  

そのときにヨーロッパ人がここを使用していたことが(もしかしたら)幸いして、
このようなアブストラクトな装飾を施した非常階段となったと思われます。

もし日本人だけでこの増設を行なっていたら、きっとこうではなかったでしょう。
無機質でお役所仕事的な実用オンリーのものであったことは想像にかたくありません。

わたしは戦後日本人の役所がらみの建築物における美的センスにほぼ絶望していますので。

兵学校の赤煉瓦の入り口はこれと同じようなレンガを積んだ意匠で装飾されていましたね。

はめ殺しの空気抜きは経年劣化で一部が剥落していますが、それにしても
細部まで凝ったデザインが施されているものだと感心します。

庁舎の隣にも、同年代に建てられたらしい煉瓦造りの建物があります。
もちろん今現在も海上自衛隊が使っているのですが、この建物が
昔なんだったかについては、今回どこを探してもわかりませんでした。

窓の脇には、昔ストーブの煙突が出ていた穴の跡があります。 

簡単に木で埋めてしまっているストーブ穴もあります。

薄く切ったレンガをアーチ状に組んで窓の上側にカーブを作るのは
このころのレンガ建築の基本だったんですね。

鎮守府庁舎の部分を設計した人物は櫻井小太郎であったという説もありますが、
櫻井の経歴には、入船山の長官庁舎を作ったということはあっても
ここを手がけたという記述が見られません。

兵学校の赤煉瓦も、実は誰が造ったのかはっきりしていないようですが、
いずれも海軍の所有だったということから、呉鎮守府の建築を請け負う
海軍の部署が
造ったので個人名が残っていないのではという説もあるようです。

この写真に見えている避難階段も建築基準法に基づいて設置されたと思いますが、
踊り場からまっすぐハシゴを降りてくるタイプで、日常は使われていません。

最初に呉鎮守府がここに置かれた時に建てられ、最古の建物であるといわれています。
現在は警務隊が使用しているようです。

車はこんなところにバックで入って行きました。
右側が古い煉瓦造りの建物、左はこれも古いけど、戦後建てたものでしょうか。
レンガの建物と色を合わせるためエンジに塗ったのかもしれません。 

建物の二階は渡り廊下でつながっています。

大尉殿が忘れ物を取りに行っている間に、ここぞと車を降りて写真を撮るわたし。
この左が庁舎、右の下に行くと海となります。 

この階段を降りて行くと、殉職隊員の慰霊碑があり、その前で
昨年自衛隊員慰霊式が行われたということになります。


階段は日頃全く使われていないらしく、
手前には通行を禁止するための鎖までがっつりと立てられています。
写真ではわかりませんが、とにかく斜面が急で、しかも何か変だと思ったら、
こういう階段には必ずあるはずの手すりが全くありません。

階段を見下ろすところから後ろを振り向いて見える景色。
刈り込まれた立派な木ががありますが、きっと鎮守府時代からあるに違いありません。

そして長官庁舎。
普通に言えば、こちらのファサードが「裏」となるのですが、ところがどっこい、
ここは海軍の建物ですから、海に面したこちらを実は「表」玄関と言います。

兵学校、現在は第一術科学校も、海に面した表桟橋が「正面玄関」であるように、
鎮守府庁舎も海に面したこちらが実は「表玄関」だとされているんですね。

ということを踏まえてたった今気づいたのですが、階段をこの手前に作ったわけは、
こちらが表玄関であるとする海軍的考えからいうと、

「海から上がりまっすぐ階段を登ればそこに表玄関がある」

逆にいうと、いや、こっちが本来だと思うのですが、

「表玄関をでて階段からまっすぐ海に向かう」 

という海軍ならではのこだわりというかストーリーというか・・・
つまりここには、海へと続く階段がなければいけなかったのです。

しかしながらあくまで「海軍精神を表すため」のものなので、急斜面に設えられた
大理石に切り込みまで入れて作った階段は、実際には使われることはなく、

ただ常に心は海にある海軍軍人の心象的風景として存在し続けてきた・・・・。


これらはあくまでもわたし個人の推理にすぎませんが、
あながち的外れではないのでは、と実は少しだけ自負しています。
 

古びた自然石の石碑のようなものがありますが、
単なる置石か意味があるものかはわかりません。 


庁舎の向かって左側と並んでいる建物とは、こちらもまた
渡り廊下(渡り階段?)で繋がっています。
左側の庁舎ができる前は、ここにも反対側と同じ階段があったのかもしれません。 


そして車寄せの前には旗を掲揚する竿が三本あります。
真ん中に国旗、そして右側に海将旗を揚げるのが通例のようです。
海上自衛隊旗はここには揚げているのを見たことがありません。


写真が見切れてしまって確認できないのですが、右端に通常はあるはずの海将旗、
このときには海将は江田島で女王陛下と共に
海の上におられたはずなので、
おそらくこのときは揚がっていなかったものと思われます。

 

続く。(えっ)