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海軍兵学校の平賀源内先生 

2010-12-05 | 海軍人物伝

若き日の昭和天皇のお姿ですか?
と思われたあなた、違います。
これは(しかし似てるな)海軍兵学校の名物英語教授平賀源内先生。
七十一期生徒の卒業式でのフロックコート姿です。

と、ナチュラルに言ってみましたが、もちろんこれはあだ名。
本名は平賀春二先生といいます。

ある日、兵学校生徒がどこぞの名所に課外授業で訪れたとき、
「ここにはあの平賀源内が」
という係の説明がありました。
生徒がそのときどっと笑い出したのです。
謹厳で決して笑わないと言われていた将校生徒が笑いだしたので係は「
この理由は彼らの英語教授が親しみをこめて「源内先生」と言われていたことにありました。

源内先生は明治三十七年、江田島のお膝元広島に生まれました。

海軍が好きで好きで、もともと兵学校に入りたかった源内先生。
視力が悪かったのでそれは当初から断念せざるを得なかったのですが、
広島師範学校卒業、大阪四条畷中学に奉職した後、京都帝大を経て念願の兵学校教授になります。
昭和七年のことでした。
以来、昭和二〇年の終戦のその日まで源内先生は海軍兵学校の名物教授として生徒に親しまれるのです。

前職の四条畷中学では自らを「源内」と名乗っていた先生。
兵学校においては威圧させられる校風に緊張する毎日、そんな余裕をかますどころではありません。

しかし、誰が言うともなく、同僚教師が、そして学生が、平賀先生を
「源内先生」
と呼びだしたのだそうです。

先生も
「天下粒よりの秀才、人格高潔身体強健、まさに紅顔純潔のサラブレッド」
たる兵学校生徒を教えるのに掛け値なしに充実した日々を送ったようです。


私は四十年あまりも教員をしておりますが、あの頃のような授業ができましたのも
後にも先にも兵学校においてだけでした。
教師の気持ちが直ちに生徒に通じ、生徒の疑問がすぐ生徒の眼に読めて、
敵味方火花を散らすような授業でございました。


火花を散らすのは学業のみならず。
打てば響くような彼らのユーモアとノリの良さに源内先生すっかり魅了されます。


先生「そんな下手な質問をするようでよくもまあこの兵学校に受かったもんだな」
生徒「教官、私も不思議に思っとります」
先生「・・・・・」

先生「貴様たちの訳文は冗漫でしかも文がなってない。
オレが電報を打つと誰でも言うぞ。
『平賀さんの電報は語呂が良くて明確で短くて・・』」
生徒「やすあがりで」
先生「・・・・・」

先生「貴様たちの小銃射撃の練習ぶりを見るといかにもなってない。
   今から射撃術を授ける!」(源内先生は京大の射撃部キャプテンだった)
  「(射撃法のなんたらかんたら)つまり照準点の他はなにも見なくてよろしい」
生徒「教官は近眼(ちかめ)のようですが、それでもそんなに当たるのですか」
先生「貴様たちは今まで眼で撃っていたのか―道理であたらないはずだ。
   腹で撃つのだよ、腹で」
生徒「実際!実際!」
生徒「先日貴様たちに取られた一本、ただ今完全に取り返したぞ!!」



この「実際!」は、今では聴きませんが、当時の「ムカつく」「笑える」状態のときに言う
流行り言葉だったようです。
上級生に不当な修正を受けた生徒たちが口々にこう言っていた、という記述を見たことがあります。
そういえば私の父親も言っていたことがあるような・・・?


海軍兵学校について書かれたものの中には、この源内先生がよく登場します。
手許にありませんが、学生時代の野中五郎少佐と一緒に写っている写真を見たことがあります。
野中少佐は昭和八年海兵を卒業していますから、源内先生の見送った最初の一号生徒ということですね。

源内先生はまた現役引退して江田内で兵学校の教材として余生を送っていた軍艦「平戸」に居住していました。
夫人が結核で闘病しており、単身赴任していたのですが、艦長室を宿舎として使用していたのです。
艦長こそいませんが教材といえどちゃんと先任下士官以下二十名の艦船(フネ)。
先生、内心「艦長気取り」でもあったようです。
ある日舷門のあたりで「平賀」「艦長」と聞こえます。

「さっきおれのことを言っていたようだが」

源内先生が尋ねると水兵が当たり前のように

「『艦長在艦』と前の当番兵が申し送っただけであります」

これを聴いて源内先生、小躍りせんばかりに喜びます。
海軍兵学校にに入らずして「艦長」の称号で扱われたわけですからね。

海軍に憧れ、兵学校の生徒が好きで好きで仕方なかった源内先生、海軍式の敬礼も堂にいったものでした。
兵学校では文官教官は敬礼をしないのですが、源内先生だけは
「海軍中佐にも本物ですねと褒められた」自慢の敬礼で生徒にパッと挙手します。


生徒たちはこの源内式答礼を好んでいたようで、各自の思い出にはこのことが必ず書かれています。
「平賀教授には早めに敬礼しないと向こうから先にやられるぞ」
という申し送りもあったとか。

しかし、源内先生は文官ならではの心配りも忘れませんでした。
教官に敬礼するときはどんなに急いでいても、駆け足から速足、
「頭―右!」―「なおれ!」
をして、威を正して敬礼後、もとの駆け足に戻るわけですが、それを知っている源内先生、
次の課業に間に合うために隊伍を組んで駆け足で急いでいる生徒を認めるやいなや、
物陰に姿を隠して生徒をやり過ごすのだそうです。

生徒はそれを眼の端に認めていて、戦後先生に会う機会があると
「あれは本当にありがたかった」
と当時は言えなかった感謝を述べるのでした。



戦後、先生は、海上幕僚長も務めた兵学校卒の内田一臣氏にこのように語りました。

「生徒館の廊下などを歩いていると、戦死してしまったあの頃の生徒が、そこの柱の陰からとび出してきて、
教官!と呼ぶような気がすることがあります」


そしてどっと涙をこぼしたということです。




平賀源内、本名春二海軍兵学校教授。
晩年広島大学名誉教授を務め、1984年、八十五歳で亡くなりました。




元海軍教授の郷愁 源内師匠 講談十席 平賀春二著 海上自衛新聞社
写真集 江田島 海軍兵学校 
海軍兵学校よもやま話 生出寿 徳間文庫