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オペラ格下指揮者事件

2010-12-12 | 音楽




9月にNHKホールで行われたロイヤル・オペラの主演歌手が急遽キャンセルしたので、
その代役が一幕で不調のため降板し、代役の代役が務めた、という記事を書きました。

この場合、主演予定の歌手が超有名であったため、
5万円にも及ぶチケットを購入した聴衆の大半がこの措置に不満を覚えたものと思われます。

しかし、このコンサートについてチケット代の返還を求めたり、
訴えた、という話は聴きませんから、皆が
「まあいいか」
と不満を感じながらも事を荒立てる人は一人もいなかったようですね。

主演予定のゲオルギューの休演理由が
「娘の難病」
という理由だったせいもあるでしょう。

このコンサートについてこのブログに時々登場する「身内の法曹関係者」
にこのことを話したところ、
法律関係者の間では有名な、本日タイトルの
「オペラ格下指揮者事件」
がある、ということを教えてくれました。

判例をそのまま送ってくれたのですが、著作権は判例データベース社にあるそうなので、
エリス中尉が要約します。


★東京地裁平成20-07-29 
オペラ格下指揮者事件海外歌劇団のオペラ鑑賞契約において、
公演主催者が当初の告知通りの指揮者を出演させることができなくなったことにつき、
観客から債務不履行責任を争われた。
対象事件:東京地裁平19(ワ)第7637号 
 事件名:損害賠償請求事件 
年月日等:平20.7.29民事第25部判決 
裁判内容:請求棄却・控訴 
弁論終結:平成20年5月27日


ローマ歌劇場日本公演におけるオペラ上演において、オーケストラの指揮者が
ジャンルイージ・ジェルメッティであると宣伝されていたにもかかわらず、
当日指揮したのは同人とは別の格下の指揮者であったため、
この公演の公演主催者及び公演協賛者を訴えたものです。

なぜこの観客が、わざわざ裁判を起こしたか。

それは、ジェルメッティの休演理由が急病や災難によるものではなく
「当日別のところで別の公演に出演していた」
ということに対する不満だったのだそうです。

まあ、よくある、とは言いませんがダブルブッキングですね。

この公演がどの程度のランクのものだったかはわからないのですが、
大変失礼ながら行われたホールの規模から考えると
、ジェルメッティにとってもっと「美味しい」仕事が契約後に入ってきたものでしょう。

つまりこの公演自体が「なめられていた」ということはほとんど疑いようも無く、
訴えた人の怒りは当然のように思います。



ここで、クイズです。
皆さん、演奏会の最中に、指揮者が急に倒れたらどうなると思いますか?

答・・・演奏会は中止になる。

これでは話が終わってしまうのでもう一問。
指揮者が明らかに落っこちてしまったら
(譜面を見失ってどこをやっているかわからなくなること)?

答・・・皆コンサートマスターに注目する。

「のだめ」などがヒットしたのでもしかしたらご存知かもしれませんが、
コンマスというのは、ただ一番前の席に座って一番高い給料をもらっているわけではないのです。

オーケストラの席順というのはみごとに給料と合致していて、
後ろになるほど、そして二人並んでいれば客席に近い方がたくさんもらっているのですが、
コンマスや首席奏者というのは入団試験を受けて入ってくるのではなく、
大抵はソリストとしても活動しているような音楽家を「招聘」するものなのです。

このたびベルリンフィルのコンサートマスターに日本人の樫本大進氏が就任しました。
ベルリンフィルのコンマスになるというのは、物凄い快挙で、しかも日本人は二人目なのです。
はやぶさレベルのニュースだと思うのですが、あまり大きく報道しませんね。


さて、コンサートマスターの責任と仕事は計り知れないほど大きなもので、
たとえば指揮者が若くてアガってしまい、音楽があさってに行ってしまったときには
(あるいは頼りない指揮者なら最初から)
オケのみんなは指揮者ではなく、コンサートマスターの弓を見るのです。

つまり、いざという時にでも大崩壊をすることなく演奏会を進行させる、
これがコンマスのお仕事なんですね。

たとえば今日のマンガですが、お掃除のじいちゃんを一応指揮台に立たせておいて、
オケピットの中では皆コンマスの指揮を見ていた、という顛末。

そこでもう一度「格下指揮者事件」に戻ります。

もし、もしですよ。
この訴えをした人がこの漫画のように「代振り」
(マンガは厳密には違いますが)を知らなければ、
コンサートのクォリティが落ちたという感想を持ったかどうか?

エリス中尉は、もう自信をもって
「代理になったという報せをしなければ最後まで気付かなかった」と言いきります。
言いきりますとも。



覚えておられますか?
ブーイングの起きたあの日のホール。
ゲオルギューの代理歌手のとんでもないすっぽ抜けアリアに、
おそらく会場の半数くらいは気付いていなかった、
というあの事実。

日本の聴衆の音楽的レベルは世界的に見ても非常に高いものです。
しかし、あの日の聴衆の対応を考えても、ジェルメッティでなかったから演奏の価値が明らかに
(訴えなくてはいけないほど)
ダウングレードしたと言いきれる耳を持った客が、
ましてや失礼ながらびわ湖ホールくんだりにそうたくさんいたとは信じられないのです。


さて、この判決は冒頭にもある通り、控訴棄却となりました。
格下指揮者の指揮によるものでは元々のチケット代の価値はない、
という訴えは退けられたのです。

エリス中尉がこの話を聞いて、その判例を見たい!
と思いわざわざデータを送ってもらった、その理由は

「その格下指揮者って誰?」

という大いなる興味だったのですが、この判例には悲しいことにその名前は出ていません。
おかしくないですか?
だいたい、ジェルメッティだって、アバドや小澤なんかに比べると
ネームバリューだって大したことはありません。
オペラファンでもなければ聞いたことも無い方がほとんどではないでしょうか。
おそらくカラヤンの予定がつくば市民オーケストラの常任指揮者に変わった、
ってほどの落差でもないと思われます。

どの程度格下だったのか、そのへんを音楽的な評判を加味して判決を出せば、
きっと瞬殺で控訴却下だったと思うんですが。

それにしても、この代振り指揮者、
裁判が起こされたことを聞いてさぞかし気分悪かっただろうなあ・・・・。