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殿下クラス

2010-12-29 | 海軍




36、37、45、46、49、52、53、54、62、71、75、77期。

海軍兵学校において上記のクラスは「殿下クラス」と呼ばれました。
一人あるいは二人の皇族が在籍なさっていたクラスです。


徴兵制施行以降、ノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)として、皇族の方々が軍に籍を置くことが明治天皇の「皇族は自今海陸軍に従軍すべし」という御沙汰により定められました。
帝国海軍の時代には、海軍は「天皇の海軍」であったからです。
巡洋艦以上の艦艇には英語で

HMIS      His Majesutic Imperial Ship

その後に艦名―Mikasa などと書かれ、艦首には菊の御紋章が付けられたのです。

明治6年から終戦までに兵学校に学ばれた皇族は一九名。

今日はこの兵学校における皇族についてお話します。

基本的に皇族の男子子弟は、その年齢に達するとその宮家当主から天皇に
「○○を海兵に(陸幼に)入校させたいと思いますが如何でしょうか」
との趣旨の文書が送られ、それを受けて宮内大臣が
「然るべく取り計らってくれ」と海軍大臣(陸軍大臣)に文書で伝えます。
その後海軍大臣は宮内大臣に承諾の文書を送るという手順で皇族の入校が決まりました。


入学は無試験で認められました。
しかし、唯一の例外が
北白川宮輝久王
が一般受験で入学したということです。
この一般受験には、海軍当局が前例になると困る、と反対したのにもかかわらず、母親の富子妃が強くそれを主張したのだそうです。

母親がそう言うだけあって、王は学習院では成績は常にトップクラスだったそうですが、それでも一般受験に備えて二年間の猛勉強をし37期の合格者180人中160番で合格しました。

学力的に自信のあった王でさえこの順位に甘んじなければならないほど、兵学校は俊秀の精鋭集団であったことが分かりますが、無試験でその中に入った皇族の子弟は、学力はもちろん、体力的にもみんなについていくのは大変なことであったようです。

そういうことも踏まえて、まさに腫れものを扱うように兵学校では皇族の子弟を扱わなくてはいけませんでした。
特に体力面での問題は、一般生徒と同じ扱いにすることは本人の希望であっても不可能でした。
特別の宿舎で起居し、特に虚弱であった東伏見宮依仁親王(明治8年兵学寮通学)は半熟卵を二個供されていましたし、伏見宮博恭王(明治一八年兵学校予科通学)はあの有名な医師のエルウィン・フォン・ベルツに診断され「体力不十分」の結果を受けてドイツ留学が遅らされています。


ここで全くどうでもいい自慢話ですが、エリス中尉はこのベルツ医師の子孫と知り合いで、彼に『毎日が地獄です』と書かれた別府地獄温泉のTシャツをプレゼントしました。
(拙ブログ『大学の神様』参照)

さて、賀陽宮治憲王かやのみやはるのり(兵七五期)が入学時、校長はあの井上成美校長でした。
「殿下は決して一般の海軍将校にお成り遊ばすのではございません。『皇族のお生まれである海軍将校』にお成り遊ばすのでございます」
高貴な身分にはそれ相応の責任が付随するとの達示をし、厳しくその立場を説いたわけですが、テニス、ピアノ、ビリヤード、ブリッジ、英語を職員の中から選抜された教師に習うことも広い教養をつけるためで「遊びや慰みのつもりでやってもらっては困ります」
とくぎを刺されます。

因みに、ピアノは技術中尉からバイエル教本を習ったそうです。
全くの初心者だったということですが、ピアノも海軍将校皇族の教養の一環と考えたのが井上校長らしいですね。

ある日指導部官との江田内セイリングで突風にあおられた舟から王は海に転落してずぶぬれになりますが、井上校長の言ったのは
「たまには海水を飲ませて潮気をつけ、うんとお鍛え申し上げたほうがいい」
この治憲王は体力的にもそこそこのレベルだったようで、ついてこれると判断したのでしょう。

義務として兵学校に入ってくる少年皇族たちが、普通レベル以上の体力、知力を備えているとは限らない。
ここに悩ましい問題がありました。

素行面でも中には「悪い友達と付き合われる」皇族もいたようです。
これはあの高松宮宣仁殿下の日記に「後輩のこと」として書かれていたそうで、当時宮と同時期に在学していた殿下は伏見宮博信王と山階宮萩麿王です。

殿下生徒の扱いについてはときとして宮家からの干渉を免れませんでした。
たとえば博恭王が、他の生徒がしているようにライスカレーやシチューをご飯とぐちゃぐちゃに混ぜてお食べになったところ、
「お躾け上よろしくない」と学校に抗議が来ました。

「どうしろっていうんだ」
きっと学校当局はうんざりしたことと思われます。

先ほどの治憲王ですが、レンコンを見たことがなかったらしく、学友に
「これは何かね」とお聞きになり
「レンコンです」というと、しばらく見つめて
「気味が悪いね」
とお食べにならなかったとのこと。


さて、殿下のクラスメート「ご学友」はどうだったでしょうか。
(四元)志賀淑雄生徒(六二期、後の志賀少佐)はクラスメートの殿下の「面倒見係」を任されていました。
やはりご学友の選定には学校側も頭を悩ませたようで、学習院出身者を混ぜたり、成績は必ずしも優秀というわけではなくとも良家の出で穏やかで上品な雰囲気の生徒が選ばれていた傾向にあるようです。
同級生なら付き合い方にそう悩むこともなかったと思いますが、困ったのは上級生。
鉄拳制裁を是とするクラスにとって、下級生に殿下がいるということは何かと気を使うことだったでしょう。

七三期の一号が、指を丸めたまま(歩くときに背を丸めたり指を伸ばさないと指導が入った)通り過ぎた三号を見咎めました。
「そこの三号、指を伸ばせ」
と言っているのにしれっとして歩いている。
一号は問答無用と後ろから突き飛ばし

「貴様はー!」

と前に回って名札を見れば、それはよもや自分が一号から怒鳴られているとは夢にも思っていなかった殿下。
(賀陽宮治憲王、七五期)
おまけに王はカッター訓練で手の皮をむいてしまい指が伸ばせなかったのです。

しかし、そこですぐにお達示を撤回しては将校生徒の名折れ。
歯切れも悪くお達示をし、翌日

「殿下の指がそのような状態とは知らず修正してしまいすみませんでした」

と謝りに行きました。
今までおそらく人に怒鳴られたり突き飛ばされたりしたことなど一度もなかったであろう殿下、このときはこの一号生徒が深々と頭を下げている間、ずっと敬礼をなさっておられたそうです。



さて、殿下をどの程度兵学校の荒々しい行事に参加させるか。
この辺りも学校側には頭の痛い問題であったようです。
普通の生徒なら問答無用でスパルタ式訓練を施せても、入学の段階で体力的にそのレベルに達していないような殿下は、様々配慮がなされていました。

そもそも「地獄の姓名申告」「起床動作訓練」すらさせられません。

起床動作については、近隣の特別宿舎で起居していた殿下がある日
「誰が(起床動作が)早いか、わかったよ」
とおっしゃったそうで、これは動作終了とともに名前を申告するのを聞いておられたのだそうです。

そして、皆さん、思いませんか?
「荒っぽい棒倒しに殿下が参加できたのか?」と。


そう、本日画像は実話。
棒倒しに参加する殿下も何人かおられました。
おそらく、殿下の周りは何となく真空状態であったのではと想像されるのですが、実は棒倒しで怪我をした殿下もいたそうなので、案外夢中でやってるうちに
「俺殿下殴っちゃった」
となり、怯える生徒もいたのかもしれません。

この分隊監事は後の猪口力平大佐で、兵学校に奉職していたのが鴛渕孝大尉や大野竹好中尉がいた六八期在学中のことですから、この殿下は久慈宮徳彦王(七一期)のことと思われます。

徳彦王の御尊顔を存知あげないままお描きしてしまいました。
全く似ていなかったら申し訳ありません。って烏帽子被せてるし。

行き足のある分隊監事であった猪口監事、生徒に交じって棒倒しにも積極的に参加、果敢に敵チームの生徒を殴りつつ突進していました。
当時猪口監事は三六歳ですが、そのファイトに免じて若づくりな画像になってしまいました。
こちらも全く似ていないのですみません。
っていうか、これじゃまるで生徒ですね。

さて驀進しながら目前の生徒を殴ろうとしてはっと気付くと、
それは殿下。
慌てて隣の生徒に矛先を変えたそうです。


たとえ無礼講の棒倒しであっても監事が殿下を殴ったとあってはやはり問題になったのでしょうか。



参考:回想のネービーブルー 海軍兵学校連合クラス会編 元就出版社
   皇族と帝国陸海軍 浅見雅男 文春新書
   海軍おもしろ話 生出寿 徳間文庫
   海軍兵学校よもやま物語 生出寿 徳間文庫
   井上成美 阿川弘之 講談社
   江田島海軍兵学校 新人物往来社