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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

キャッスル航空博物館~WAFと「アメリカの正義」

2014-12-07 | 航空機

今日はアメリカ時間での真珠湾攻撃の日なので、
アメリカ軍とアメリカについてお話しします。(なんでだ) 



キャッスル航空博物館のHPでは「現在のプロジェクト」というページで
今レストアして展示準備をしている航空機の写真が見られたり、
「未来のプロジェクト」として、これから展示する予定の機を紹介していたり、
さらには今後のハンガー(格納庫)設置予定キャンペーンとして、
現在屋外展示されている航空機のほとんどを屋内に、天井から吊るしたりして
劇的に展示するという計画があります。

ページを見ていただいた方は、そのどのページにもドネート、つまり
寄付をするための窓口が設けられているのがお分かりでしょう。
こういった博物館が個人大口のスポンサーによる寄付で成り立っているのは
アメリカでは当たり前の現象なのです。

 先日はニューギニアで取得された零戦のレストア、里帰り、日本での維持、
これ全て篤志による寄附を募るもその進捗状態ははかばかしくない 、
ということを話題としましたが、 そのときにも少し触れた、
鹿屋の航空基地にある、世界でたった一機現存する二式大艇は、
アメリカから引き取るときに金銭面で難航し、
船舶振興会の笹川良一が乗り出して何とか引き取ることができたものです。
(引き取らなければ廃棄処分になるところだった)

その後も「船の博物館」が民主党の仕分けで機体の管理をできなくなり、
現在の鹿屋で安住の地を得たのはいいのだけど、
屋外展示のため劣化する一方。

ここに展示してある全ての航空機は雨ざらしで、
どういうわけかメンテナンスも海上自衛隊がやっているらしいのです。

アメリカのように大々的に寄付を募り、大口の法人寄付に対しては
スポンサーを明記して宣伝するようにすれば企業としても広告となる、
とわたしはかねがねここでも何度か語ってきたのですが、
先日の里帰り零戦に対する世間の動きを見て、
たとえそういうことができるようになったとしても、おそらく
維持に足るほどの喜捨?は集まらないような気がしました。

アメリカの民間団体が保持している零戦などの旧日本軍機も、今までの例から

「日本に帰したらサビだらけに放置して屑にしてしまうから」

という理由で日本には決して戻ってこなかったと言います。




これは、おそらくレイテ湾海戦を描いているのではないかと思うのですが、
うっかり説明を撮り損なったのでわかりません。
地形から見てスリガオ海峡の海戦かな、と。(適当です)

「頭上の敵機」ですっかりおなじみのB-25ミッチェルが、
今弾薬庫をぱかっと開いて投弾した瞬間。



ノーズのこれでもかな搭載銃が実に下品な飛行機ですね。(偏見)

この絵、勿論アメリカ人が描いたわけですが、だからといって
やられている飛行機が皆日本機、というような小さい印象操作はしません。
このあたりがどこかの国とは違うところです。
下で火を吹いているB-25はあきらかに冒頭の零戦にやられています。

まあ、下の方で撃沈されているのは間違いなく日本のフネですが。



これもうっかり説明文を確かめるのを忘れたので、詳細はわかりません。
わざわざマネキンまで置いて再現したいくらい大事なことに違いありません。
ラバウルとか、南洋に侵攻したアメリカ軍かな?
あんなところに行かされる将兵もたまったもんじゃありませんが、
あなたたちアメリカ人はまだ補給が途絶えなかっただけましだったのよ?



「サバイバル・オン・ランド・アンド・シー」

僻地に駐留する予定の米海軍の皆さんには、このようなサバイバルブックが
わざわざスミソニアン協会から手渡されていたことでもあるし。

ちなみにこの「エスノジオグラフィック」というのは
「エスノグラフィー」(民俗学)と「ジオグラフィー」(地理)の造語でしょう。



いわゆる「ヴェテラン」のちょっとした懐古コーナー。
第二次世界大戦と朝鮮戦争のヴェテランであるミラーさんの遺品と、
当時乗っていた航空機(トムキャット、コルセアなど)の写真の展示です。

 

軍人グッズも寄付した人の写真付きで飾ってあります。
映画でおなじみの「軍帽の上からヘッドフォン」ですが、
このヘッドフォンを「クラッシャー・キャップ」(帽潰し)
といったそうで。

ダレスバッグはW.S.L.の頭文字入りです。



ヴェトナムからの手紙・・?

 

サンダーバード、というとアメリカのエアアクロバットチームですが、
このスティーブ・ドゥエル大尉は、ヴェトナム戦争のヴェテランで、かつ
チームのソロポジションを47フライト務めました。

ここに展示してあるのはドゥエル大尉のサンダーバード時代の装備品で、
バッグには

「キャプテン ドゥエル ソロ」

と描いてあります。

サンダーバードは2004年、百里基地と浜松基地の航空祭に来日しましたが、
いずれも雨が降って飛行展示をせず帰ったというので語り種となっているそうです。
サンダーバードのモットーは

「Once a Thunderbird, Always a Thunderbird」

ん?どこかで聞きましたねこの台詞。




第一次世界大戦二三戦したヴェテランの遺品が本人の遺族によって
寄贈されたようです。



この手榴弾はピンを抜いたら使える?
ガスマスクは「塹壕」とともに、第一次世界大戦の象徴です。



この鉄兜は左イギリス軍、右ドイツ軍のものだと思います。



J.R.Pearson Jr.と書かれたトランクには、まだゴーグルや下着が納められたまま。
靴下は官品ではないようですが、黄色がカーキのアクセントとしてはイケてます。



この色をカーキ、と何の疑いもなく読んでいたわたしですが、ある日、
「それは新鮮だ」(つまり全くの間違い)と言われました。
言われて初めて気づいたのですが、我が自衛隊ではこの色をカーキと言わず、
オリーブドラブ色、略してOD色と呼んでいることを知りました。

この「カーキ セット」は、カミソリのジレット社が、戦地の将兵用に
グルーミングセットをカーキ、つまり軍服の色に合わせたケースに内蔵し、
軍に調達したものと思われます。
分解できるカミソリに、ケースはおそらく替え刃入れだと思われます。
ジレット社も戦争に参加してたんですね。

向こうにちらっと見えるのはソーイングセットです。
自衛隊でも入隊して最初にするのがお裁縫、つまり自分の階級だの名前を
縫い付ける仕事なのだそうですが、アメリカでも事情は同じ。



写真はLST703というタンカーで、左はライフベスト。
このフネについて調べていて知ったのですが、アメリカではこういった
艦船に乗っていた生存者がアクセスして、自分で連絡先を書き込む、
「同窓会ページ」のようなサイトが存在します。
このタンカーの場合、生存していてかつこのサイトを見つけることができ、
名前を登録したのはわずか6人だけのようですが(そのうちeメール記載は二人)
こういうページがきっかけで再会するということもきっとあるのに違いありません。



この一角は、W.A.S.P、つまり

Woman's Air Force Servise

のコーナーです。
当ブログでは、最初の女子飛行隊を作ったジャクリーン・コクランと、
ナンシー・ハークネス・ラブについて別々に語った後、

まずコクランがエレノア・ルーズベルトの助力を得て

WAC  陸軍婦人部隊 (Women's Army Corps)

を創設し、その後、それとは別にハークネス・ラブが隊長である

WAFS 女性補助輸送部隊(Women's Auxiliary Ferrying Squadron)

と、コクランの

WFTD 女性飛行練習支隊(Women's Flying Training Detachment)

を統合して、

WASP 空軍女性サービス・パイロット(Women Airforce Service Pilots)

になった、という話を延々と?したのですが、今WASPで検索すると、
案外あっさりと「コクランが作った」ということになってしまっています。
これはコクランの方が政治的権力があり、押しも強かったってことでOK?



現地の説明によるとコクランもラブも全く名前が出ておらず、
ただ、ラブが渡洋輸送をしようとしたときにギリギリにしゃしゃり出て
それを止めさせたということで当ブログ的には有名になった(?)
ハップ・アーノルド少将が司令官だったことしか掲載されていません。

日本のように「何かあったときに女が参加していたと知られるのは恥だから」
という理由で女子の飛行隊参加を絶対に認めなかったというほどではないにせよ、
彼女らが関わったのはあくまでも輸送業務、しかも国内だけで、
まあいわばハワード・ミラーの描いたあの有名な絵、

「ロージー・ザ・リペッター」

のような、国民の士気高揚のための象徴的存在だったのではないでしょうか。



アイコンですから、やはり制服はお洒落でかっこ良くないとね。
なにしろ仕掛人は富豪の後妻で元エステティシャン、
現在は化粧品会社の社長だったりしますから、この辺ぬかりはありません。




WASP隊舎での和気藹々とした生活が、ライフを始めあらゆる媒体で
お洒落に、かっこ良く報じられ、若い女性の憧れを誘います。

女性の航空隊に所属した隊員はおよそ1100人いたということです。

男子選手が皆戦地に行ってしまったのでその代わりにと創設された
女子野球リーグなどを見ても思いますが、アメリカとて
ドイツや日本と戦争するのに片手間でやっていたわけではなく、
それなりに「国民総動員」であたっていたんですね。



編み上げ靴ですが、わずかに踵を高くしてあるあたりが
「ちょっとお洒落」を意識しています。
しかしこのデザインは今日でも普通に通用しますね。
皮の質もいいし、今すぐの使用に差し支えないという感じです。
(というか、これ欲しい)





MAAF Merced Army Airfield

WACとWASPをまとめた総称をMAAFと言います。
あくまで男性パイロットのカウンターとして、補助の仕事をしました。
航空機の輸送、ターゲット・ドローン(無人機)の曳航、そして
新型機のテスト飛行などが彼女らの仕事でした。

ここでもB-24リベレーターが活躍していた模様。
上の写真はB-25ミッチェルかな?



どこの航空博物館にもある模型コーナー。
TBM/TBFアベンジャー



同じくグラマンのF−14 トムキャット



そして必ずこういうところにはある、旧日本軍機。
本当にどこの博物館にもありますが、
使用模型はきっとハセガワのものだと思います。(個人的思い込み)

水上機は「瑞雲」、右側「隼1型」(だそうです)。



一式陸攻だと思っていたのですが、「連山」(だそうです)。
これはハセガワ1/72モデルである可能性大。(だそうです)



キャッスル航空基地所属の空中給油機。
B−29が給油機仕様にされていたんでしょうか。(でかいから)

とおもったらこれはBー36の改造機。(だそうです)
給油ノズルを延ばしていっております。



ガッチャ!

小動物を爪で引っ掴んで飛んでいく鷲みたいな図ですね。 



ノズルは後方にもあるということでしょうか。
べつの写真では上にノズルを伸ばし、下方にタンク口のある飛行機に給油していました。

というか、ご指摘があって気づいたのですが、
1、2枚目と3枚目、飛行機が別ですね。(い、いつの間に!)
プロペラの向きがいつの間にかうしろになってるぜい!

えーとこちらがB-29改であることは間違いなさそうです。



ヴェトナム戦争で使用された銃など。



こういうのを見ると、ヘリからヴェトナム人の女子供、年寄りを狙って撃ちまくり、

「なぜかって?逃げるのが遅いからな」

とうそぶいた兵士が描かれていた映画「フルメタルジャケット」を思い出しますね。
いやいや、あのときのアメリカさんもなかなか皆さん鬼畜でしたなあ。
それ以上に恐れられていたのは韓国軍の兵士だったそうですね。
必ず女性を残虐に強姦して殺してしまう部隊としてヴェトナム人は米兵より恐れたとか。

フォンニィ・フォンニャットの虐殺

タイヴィン虐殺

ゴダイの虐殺


今、この韓国がアメリカの議員を買収してあちこちに旧日本軍を糾弾する
「慰安婦の像」を建てていますが、
日本軍は組織的に売春婦を拉致したわけでもないのに、
どうしてこんな鬼畜野郎どもに、
しかもヴェトナム戦争より前のことを責められんといかんわけ?

だれか論理的に説明できる人がいたら教えてほしいもんだわ。





という話はともかく、この銃を見ていただきたい。
台座のところに斬り込まれたスリット、ここに分解した他のパーツを
収納して一本で持って歩くことができる便利グッズです。

これでヴェトナム人の虐殺も捗りますね。

 

勿論彼らだって軍人として命令されたからヴェトナムに行き、
どこからかは知らないけど「女子供、老人も殺せ」という命令を受けたから
ソンミ虐殺で糾弾されたウィリアム・カリー中尉は裁判でそう言った)
そうしただけで、結局戦争という異常現象の中では仕方なかった、ということで
納められてしまっているんですね。

つまりアメリカという国は歴史上「戦争犯罪で裁かれたことがない」国なんですよ。

だからこそ、国民のほとんどが

「アメリカは正しい、日本は悪かったから原爆を落とされた」

などということを平気で言って憚らない傲慢な国になってしまったわけです。




これらの写真はヴェトナムをB−52で絨毯爆撃したときに不時着したかなんかで
捕虜になっていたアメリカ人たちのもの。

勿論、彼ら一人一人は悪くありません。



だからこそ解放されて帰国したときには愛する父であり夫である彼らを
こうやって涙ながらに迎える家族がいるというのはよーくわかります。




こうやってヴェトナム戦争に参加した軍人に勲章を与えて顕彰するのも
戦争に行かせた国としては当然のことでしょう。

ただ、その一家の父や夫、それどころか女子供、赤ん坊に至るまで
まるで虫けらのように殺したアメリカ兵が何のとがめもなく、
ソンミの指導者であるカリー中尉ですら終身刑で、
しかもすぐに釈放されて市民生活を送ることが許されるというような国に、
果たしてアメリカ以外の国は正義があると思うか、って話ですね。

しかもこの事件を政府は反戦運動に繋がるのを恐れて隠蔽し続けました。


しかしながら、アメリカ人の名誉のために、これが全てではなかったことを
最後に説明してこの項を終わりにしましょう。
あの戦争の中、人間の良心に従って行動する者が確かにいたことを。

ヒュー・トンプソン・ジュニア准尉は、ソンミ村虐殺の真っ最中、
OH-23偵察ヘリコプターで村落上空をたまたま通過したため、
眼下に多数の死者と民間人への「オーバーキル」を目撃しました。

彼はただちに上官への報告・救助ヘリの派遣要請・生存者の救出を行い、
さらには中隊の虐殺行為を止めさせようと妨害を試みたそうです。

トンプソン准尉はソンミ虐殺の裁判で証言しましたが、この行為に対する
アメリカからの顕彰がなされたという話はどこにも残っていません。






パシフィックコースト航空博物館~オペレーション・ハブ「イチバン」

2014-12-02 | 航空機

パシフィックコースト博物館シリーズ、
今日でようやく展示機の全紹介となります。

このフィールドの写真の空の色をご覧になっても分かるように、
この日のサンタローザは焼けるような陽射しが容赦なく照りつけ、 
帽子とサングラスなしには数分と立っていられないくらいでした。





T-33A SHOOTING STAR  T-BIRD (LOCKHEED)

この辺りになって来ると写真の撮り方も適当になってきて、
サングラスを外さずにファインダーを見ていたりしたので、
ノーズの先が欠けてしまっています。

ロッキードのT−33については、入間基地の自衛隊機墜落事故を

「入間T−33A墜落事故~流星になった男たち」

というエントリに書いたこともあり、
どうしてもそれを思い出さずにいられないのですが、
あの事故を想起しつつ機体を眺めると、まずその小ささが目につきます。
搭乗者はほとんどゴーカートに乗っているような感覚でしょう。

大きければ恐ろしくないなどとは思いませんが、それにしても
生身の人間が全く保護されていない感覚のまま、その機体が
暴走し出したとき、一刻も早く機を捨ててベイルアウトしたい、
そう思うのが人間の本能だろうと思います。

しかし彼らはそれをしませんでした。
住民の巻き添えを防ぐために、機を完全に立て直しきるまで・・。

話で聴くだけでは実感できない搭乗者のそのときの視点、
そして何より恐怖というものが、実際の機体を見ると
あらためて感覚として真に迫って来るのを感じ、
わたしは入間から遠く離れたサンタローザで厳粛な気持ちに見舞われ、
彼らを思うと、いつのまにか頭を垂れずに入られませんでした。




表示の「Tバード」ですが、これも米軍でのあだなだったようです。
日本ではむしろ「サンサン」と呼ばれることが多かったとか。
これも防衛省は「若鷹」という愛称を公式に制定したのですが、
現場には使ってもらえなかったようです。

「わかたか」・・・・・いいにくいよね(´・ω・`)



翼端に黒い増槽(燃料タンク)がついているのが
デザイン上の大きな特色になっています。

今気づいたのですが、この写真もノーズが欠けていますね。
どうしてこの機体の写真はことごとく同じ部分が写っていないのか、
不思議で仕方ありません。



Tー38 TALON  (NORTHROP)

ノースロップ社は、航空軍事支援プログラムを通じて
西側同盟国に機体を供給するため、操作性に優れた高性能の
軽量戦闘機を製造することにし、1950年半ばに、
民間のベンチャー開発プログラムを開始しました。

米空軍はノースロップNー156Tとして開発された練習機に
興味を示し、YT−38へと発展させて採用することになります。

ちなみにこのときに同時に開発された戦闘機型のNー156Fは、
その後ノースロップF−5の原型となります。




この機体にはステップが掛けられていたので、
上に登ってコクピットの写真を撮ってみました。

 

シート右手に黄色と黒のストライプのレバーがありますが、
これがイジェクトシートの作動レバーだと思われます。

座席になぜか木切れが置いてありますが、これは意味不明。



この機体もトップガンではアグレッサーを務めています。
後ろから突き出したものはマイクでしょうか。

名称の「タロン」というのは猛禽類のカギツメのことです。
双発ジェット練習機としては大変優秀だったため、1000機以上が
生産され、数カ国の軍隊で使用されている他、アメリカでは
NASAが宇宙飛行士の訓練用や連絡用の飛行機として採用しています。

なお、空軍の模擬格闘戦では。最新鋭のF−22に勝ったこともある模様。



UH-1H IROQUOIS  (HEUY)

ヒューイヒューイと呼んでいますが、実はこれも
正式名称は「イロコイ」といいます。

ヒューイというのは最初のタイプ「HU-1」の「1」を「I」と呼んで
「ヒューイ」と呼び出したのが始まりだそうです。
日本軍がP−38を「ぺろはち」(3を”ろ”と読んだ)と呼んだみたいですね。 

この機体は1967年に米軍がベルヘリコプター社から購入したもので、
ベトナムでも配備されたことがあります。
が、ピックアップのときにメインローターが大破するという事故を
2回起こしています。
のみならず、敵の攻撃により、ホバリング中メインローターを2度破損。

もうメインローターのお払いをしてもらった方がいいんじゃないか?
というくらい同じような事故を繰り返しているヘリコプターなんです。

というか、メインローターってそんなに破損し易いんですかね。 



ベトナム戦争終結後は、カンボジアでの作戦に参加。
71年に帰還し、テキサス・ナショナルガード(州兵)の所属に。

その後陸軍に行ったりウェストバージニアのナショナルガードに行ったり、
ローターが何度もやられた割には丈夫であちらこちらたらい回し。

最後にはなんと落雷による損傷まで受けたというのですが、
その後も修理してしれっとカリフォルニア州兵の所属となり、
現在ここで余生を送っています。

まさに百戦錬磨の古兵として引退をしたヴェテランと言っていいでしょう。




背中にスペードをつけた蜘蛛をノーズにペイントしたのは
このうちどの部隊だったのでしょうか。



さらにこれ。
ビートルズの曲、

「Lucy In The Sky With The Diamond」

と、当時の「サイケデリック」なロゴで書かれています。
このロゴを見てもおわかりかとおもいますが、
この曲は「LSD」(幻覚剤)によるイリュージョンを描いた、
といわれており、このヒューイの当時の乗員たちも
悪ノリしてこれをわざわざ機体に描いたのかと思われます。

アメリカの若者のヒッピー文化はベトナム戦争への反対運動として生まれ、
高揚や悟りや覚醒を求めるという手段に薬を用いましたが、
現にベトナムにいる兵士たちがこの曲をシンボルにしていたというのは
戦争に参加している当の兵士たちの間にも「反戦」「抵抗(レジスタンス)」
の空気があったということでしょうか。

現在、アメリカはベトナム戦争でベトナムに負けたのではなく
国内の反戦に負けたとする説もあります。



FIGHTING FALCON  F−16N VIPER

かっこいい飛行機!と思ったら名前もかっこよかったでござる。

ファイティングファルコン!
ヴァイパー!

なんとなく中二病的な匂いさえしてくるわけですが、この名称、
空軍士官学校のマスコットが鷹(ファルコン)であることから
ファルコンにしたかったのだけど、すでにビジネスジェットに
同じ名称が使われていたことから、「ファイティング」をつけ加えました。

ヴァイパーというのはこちらは非公式な愛称、あだ名で、
ヘビの総称のように使われる言葉です。

フライバイワイヤを採用し、軽量の戦闘機として開発されましたが、
対地攻撃にも優れており、「マルチロール機」の走りとも言えるでしょう。

NATO諸国の空軍の「ホットロッド」の海軍版、とあだ名されます。



キャノピーの形状を見て頂ければおわかりかもしれませんが、
全周が視界良好であるため、初めて他の機から乗ったパイロットは、
加速時にまるで振り落とされそうな気がするのだそうです。



ヴァイパーはMig-29にその性能が酷似していたそうです。
もともとこのN型は、アグレッサー部隊の異機種戦闘機訓練用に作られ、
訓練用ということで空対空ミサイルなどは搭載しません。

ぱっと見たときに妙にすっきりしたシェイプだと感じたのは
どうやらこのせいではないかと思われます。

当博物館はF−16Nを所有するたった3つの民間博物館のひとつで、
それというのも米軍、特に海軍からは

非常に高い評価を受けているからである

とHPには誇らしげに記されています。 



F−5E TIGERII

前にも一度ご紹介していますが、真正面から見た
このフェイスがウーパールーパーみたいなのでもう一度。



Tー37B TWEET  (CESNA)

セスナエアクラフトは、ターボジェット駆動の練習機として
軍用規格に対応したこのTー37を開発しました。
「ツィート」とはご存知のように鳥のさえずりですが、
このあだ名は実際にこれを練習機に使用した搭乗員から賜りました。



パイロットとインストラクターが並んで乗る並列複座式。
これは全体から見ると少数派になります。



ノーズ先の尖った部分にはテニスボールが差してありました。



空軍で運用されていた機体ですが、練習機であるせいか、
クッションカバーの選択にのんびりしたものが感じられます。




さて、というわけでフィールドの航空機を全て紹介し終わりました。

滞在時間をできるだけ短縮するため、説明はほとんど読まず、
機械的に写真だけを撮りまくったのですが、それだけでも
たっぷり1時間は要しました。
この建物は、ボランティアのメカニックたちの詰め所のようです。



おじさんたちが4人くらいで昼食中。

 

帰りも売店と資料コーナーのある建物を通ります。
ガレージのようなところには、展示なんだか整備中だかわからないものが。

これはただの箱に見えますが、なんとSR−71ブラックバードの搭載していた

ASTORO-INERTIAL  NAVIGATION SYSTEM (ANS)

つまりナビゲーションシステムです。
下の方に「レーダー」と書いてありますね。
「NO STEP」がなんだかシュールです。



ブラックバードの「おむつ着用問題」について前お話ししたのですが、
どんなスタイルで乗員が乗っていたかwikiで見つけました。
これではまるで、宇宙の旅・・・。



さらに、嘉手納基地に配備されていた頃の

「ハブ作戦」(Oparation Habu)

のポスター。
右下には「ICHIBAN」と書かれています(笑)

いやー、何かと話題の多い機体ですね。ブラックバード。
航空機とその周辺のネーミングについて語ることの多かった本稿ですが、
これをして話題性における優勝としたいと思います。




最後に、当博物館渾身の手作り飛行機。
隣に犬小屋がありますが、これとあわせて

「スヌーピーセット」 

であると思われます。
(ここはソノマカウンティ・チャールズ・シュルツ空港ともいう)


この博物館については、またいずれ館内の資料室について
あと一回お話しして、おしまいにしたいと思います。


続く。




 


パシフィックコースト航空博物館~スカイホークとハリアーの「難度」

2014-12-01 | 航空機

サンフランシスコの北に面するソノマ地方にある、
パシフィックコースト航空博物館。
残りの航空展示を一気にご紹介して行きます。



A−4E SKYHAWK   McDonnel Douglas

マクドネル・ダグラス社のこのA−4Eタイプの機体が見られるのは
どうやらここだけのようで、wikiのページにはこの写真が載っています。

それはいいのですが、写真につけられた説明が
「太平洋岸航空博物館」て・・・・。
確かに直訳すればこうなるんですが、そもそもなんで訳すのか。



大きな特性として、「アビオニクスパック」を胴体上部に備えたことがあります。
それまでのスカイホークにはなかった仕様です。
このスカイホークは海兵隊所有のものだったのですが、
アビオニクスパックの部分には

「ダイヤモンドバックス」

とわざわざ大書してありますね。

Diamondbackというのは背中にダイヤ模様のある蛇とか、
あるいはダイヤ柄の甲羅を持つ亀のことなのですが、
航空機に搭載する電子機器、つまりアビオニクスを亀の甲羅のように
背中に背負ったことから名乗った飛行隊のニックネームなのだと思われます。


なお、2001年宇宙の旅の原作者であるSF作家、アーサー・C・クラーク
このアビオニクスパックのことを、まるで男性の股間だと言ったとか言わないとか、
怪しげな情報もありますが、調べても分かりませんでした。(調べるなw)



またこのスカイホークE型は、ハードポイントを5カ所に増やしました。
(それまでいくつだったのかはわかりません。いずれにしても
スカイホーク自体は最初から完成度の高い機体だったといわれます)

ハードポイントは読んで字の通り重量強化点ですが、同時に

「機外兵装ステーション」

のことでもあります。
その一つがこれ。
wikiには搭載できるとは書いていなかったのですが、
これはAH−1コブラが積んでいるハイドラ70ロケット弾ですよね?



緑色のは汎用爆弾Mk82ではないかと思われますが、

黒いのはちょっとよくわかりません。
Mk81の方かな。



機体の影にあったなにやら面白そうな記号解説。

ホイスティング・ポイントとか、給油口とか、
酸素取り込み口とか?そういったあたりです。

機体性能が安定していて使い易いのでこの機体は
「ブルーエンジェルス」 の使用機種となっていますし、トップガン
(戦闘機兵器学校)ではアグレッサー(他国の航空戦術を模倣する教官)

によって仮想的役を務めることもありました。

スカイホークは映画の「トップガン」にも教官機として出演し、
映画「ライト・スタッフ」では、



スコット・グレン扮する海軍のテストパイロット、アラン・シェパードが、
空母に着陸するシーンにこのスカイホークが使われていました。

 
「ホセ・ヒメネス」は シェパードお気に入りの「ネタ」です(笑)



AV-8B( Harrier )


フロリダはペンサコーラにある海軍航空博物館から貸与された機体です。
アリゾナ州のツーソンで現役を引退しました。

ハリアーという名前はトヨタの車にも使われていますが、
オスプレイと同じくこれもタカ科の猛禽類です。(チュウヒ) 
ネーミングとしては航空機の方が合っていますね。

なぜなら、鳥のオスプレイとハリアーには 、

「向かい風でホバリングすることが出来る」

というイメージだけではない「名前を採用された理由」があるからで、
空中でホバリングできるVTOL機にはこれ以上ないネーミングといえます。
 

1962年頃からNATOは垂直離発着戦闘機の研究を始めましたが、
実際にはその2年後にイギリスのホーカー・シドレー社が、
実験機である「ケストレル」を製造しました。

この「ケストレル」というのもハヤブサ科の『チョウゲンボウ』
の英名で、この鳥もホバリングすることが出来ます。


このケストレルの実用型は英空軍に「ハリアー」の名で配備されました。 
アメリカでは海兵隊がAV-8A」の名前
で採用したためか、
この博物館の表示には「ハリアー」という文字は見えません。

米軍も「ハリアー」と呼んでいたと思うのですが。


ついでに、スペイン空軍ではこれを
「マタドール」(闘牛士)という名称で配備していました。
なんで闘牛士なのか。




1982年に起こったフォークランド戦争に、AV-8Aは英空軍機として
出撃し、自己無損失に対しアルゼンチン空軍の戦闘機を20機撃墜し、
その優秀さを世界に知らしめることになりました。 

現在は後継機のハリアーIIに移行され、殆どが姿を消しましたが、
「マタドール」だったスペインのハリアーはタイ空軍に譲渡され、
またインド海軍でも練習機としての使用が行われているのだそうです。 



エアインテークのカバーには・・・・・

ロールスロイス?!

どうやらロゴは本物のロールスロイス社のものらしい・・。
当機はなんとエンジンはロールスロイス社製
ペガサス Mk.103 推力偏向ターボファン・エンジンを搭載しています。





ハリアーは機体側面に合計4つのエンジンノズルを装備しています。

これがそうなのですが、ノズルの周囲には、「0」「10」「55」
等と書かれたメモリがつけられていますね。

この目盛りはエンジンノズルの角度を測定するためのもので、
角度を変えることによって、VTOLを可能とします。

角度は0度(普通の推進)から98,5度までの可動域があり、
(写真の目盛りも90度の次は98度となっている)
98,5度のときにはノズルは真下よりも若干前を向くため、
わずかながらバックすることも出来る仕組みとなっています。 


ハリアーはVTOL機のため、固定翼機とは操縦の方法が全く異なり、
修練者は、必ず回転翼機の操縦を並行して学ぶことを義務づけられています。

操作はしかも大変複雑なもので、垂直離着陸のためにボタンを30個、
常に操作していなければならないのだそうです。

この煩雑さが仇となって、何と45人もが操縦ミスで死亡しています。

もしかしたら、「オスプレイは危険だ!」と騒いでいる連中は、
実はたいしたことがないオスプレイの事故比率ではなく、
こちらの事故をオスプレイだと思って騒いでいるのではないかと思うくらいです。

あるいは「同じ垂直離着陸機なのでオスプレイも危険なんだろう!」
と決めつけているような気がしますね。

じゃオスプレイの操縦は簡単なのか?といいますと・・・

難しいんです(きっぱり)

どれくらい難しいかというと、人間には操縦不可能なくらいです。
しかし、だからソフトウェアで飛ばすんですね。ええ。
フライバイワイヤといいまして、飛行制御コンピュータが計算して
複雑な操作を皆やってくれるんです。

だから30個のボタンをいつも脂汗垂らして操作しなくてもいいのです。

この方式が採用されるようになってから、飛行性能が良くても、
操作性や安定性が悪くて乗れなかった航空機が、簡単に乗れるようになりました。

勿論、停電の危険や、操作に対する応力(手応え?)がないため、

戦闘機などではとくに限界Gを越してしまう、などの欠点はありますが、
いずれにしても反対派が騒ぐほど「難しい航空機」ではないのです。

元海幕長の赤☆氏もおっしゃってました。


「オスプレイは絶対に安全です」 



バックギャモンを思い出す尾翼の模様。




ハリアーの機体に駐機中の「ハニービー」。

武器は尾翼に搭載されていますが、一度だけしか使用できません。
しかし垂直離着陸、ホバリングが可能で、事故知らずの制御装置付きです。



続く。






「里帰り零戦」に思うこと

2014-11-27 | 航空機



さいたまアリーナで先週末連休に公開された「里帰り零戦」を
見学してきたことについてお話ししています。



さて、いずれにせよ、パプアニューギニアでこの零戦に乗っ
て出撃し、

この座席で戦死した海軍搭乗員がいたというのは確かなことです。

その零戦がここにあるということは大変意味のあることだと思います。




計器板研究家の協力を得た、と控室に書いてありましたが、
ということは、この部分は
完璧に作り変えたということらしいですね。
計器そのものと「加速」「回転」「過荷」などのプレートは
元の機体から取って付けているようですが。



後ろから計器類がよく見えるようにシートは取り外され、
さらにランディングホイールも立った高さから中が見られるように
たたんだ状態で床に置かれています。




これが三分割の最後尾。




水平尾翼は取り外されています。
小隊長機の赤い線を一本巻いていますが、
取得した零戦のペイントに残っていたのでしょうか。





尾翼の部分をこんな風に展示していたのは興味深いです。
4枚の錘が見えますが、これによって後輪が下がるのでしょうか。



NX553TTというナンバーは、当時のものではなく
たとえばアメリカで飛ばす時に必要な機体の番号として
あらたに与えられたものではないかと思うのですが、
詳しいことはわかりません。
もしかしたらエンジンなどに刻まれていた識別番号かもしれません。



こういう外側も、ほとんど作り直されているように見えます。
一体どの部分がオリジナルだったのか詳しく知りたいと思ったのは
わたしだけではありますまい。



アップして思ったのだけど、この部分はおそらく本物でしょう。



来場者はやはりほとんどが男性でしたが、子供を連れたお母さん、
ボーイフレンドや連れ合いと一緒に来たらしい女性も
ごく僅かでしたがいることはいました。
主催者の報告によると、

「12.3歳の頃、零戦の部品を勤労動員で作っていた」


というおばあちゃんたちが訪れ、感激したそうです。


女性一人で来ている人は・・・あまり意識しなかったけど
ほとんどいなかったかも・・。



翼端灯。
今まで復元零戦をいくつか見てきましたが、
ここにライトがあるのには初めて気が付きました。



翼端灯を下から撮ってみました。
向こうにずらりと並んでいるのは、翼の上でオンステージしている
主催者のスピーチを聞いている人たち。
別に前に立たなくても、言っていることはもれなく聞こえるので、
耳をそちらに向けながらせっせと撮影を続けます。



会場の外側ではこういう復刻ボマージャケットを販売していました。
「フクチャン」という部隊があったらしいのにはびっくり。
赤城の艦載部隊がこんなの着ていたんですかね。



主催者はもともとフライトジャケットのメーカーのオーナーで、
その関係から世界の航空関係者、米空海軍、英国空軍、
ハリウッド映画の製作衣装製作などを行ってきたのだそうですが、
8年前から、会社経営の傍ら、零戦の日本里帰りの活動を進めて来ました。

真ん中にあるポスターで零戦と写っているのがオーナーです。



なんと中華民国軍(フライングタイガースかな)の
フライトジャケットまであります。
日本でこれを買う人は・・・さすがにいなさそうだなあ。



演説が終わって零戦を降りる主催者。
いわばこの人の一念でこのプロジェクトはここまできたと、
まあそういうことなのです。

日本政府というのは、特にこういうことには一切関わりたがりたがらず、
歴史的な航空機を保存することすら、実際には惨憺たる状態なのは、
わたしがかねがね嘆くところの鹿屋の二式大艇の例を出すまでもなく
明らかです。

だから、この人が私財を投げ打ってニューギニアの零戦を
里帰りさせてくれたことには素直に感動し、さらには
ありがたいことだとは思うのです。

これらのプロジェクトがこの人にとって金儲けでも売名でもなく、
純粋に一人の日本人としての義務や責任感、誰かがそれをやらねば、
という使命感から生ずる情熱だけでここまでやってきたらしいのも、
会場に来てみて初めてそれがよくわかりました。



しかし、それに共鳴する人間はあまりに少ないというのも事実です。

HPによると、2015年2月4日までに2000万、という集金目標に対し、

現在の達成額は257万、まだ8分の1といったところです。

主催者によると、最終目標はこの零戦を「日本の空で飛ばすこと」
なのですが、たとえばその操縦を誰がするかということひとつ取っても、
日本国内ではパイロットがおらず養成も不可能であるため、
アメリカから零戦パイロットを呼んでこないといけないのだそうです。

故坂井三郎氏は戦後アメリカで零戦の操縦席に座ったことがあるそうですが、
たとえば3~40年前なら、こういうイベントを行うことは、沢山生存していた
零戦搭乗員たちのためにも行う意義は大きかったと思われます。

パイロットも・・・・免許のない坂井氏は無理だったとしても、
当時の自衛隊に零戦の元搭乗員は沢山いたのですから。


しかし、彼らのほとんどが鬼籍に入ってしまった今、前項でも言ったように

「零戦のレプリカをアメリカ人に操縦させて飛ばせる」

ということにすべての日本人が意味を見出すかというと、そう思わない人も多い、

という現状がこの寄付金の集まり方の悪さに現れているような気もします。

しかもそのその零戦は・・・・、会場に来てみて初めてわかったのですが、

それを「本物」と呼ぶのかというと

「飛べるようになった時点でもう元の零戦とは言えない」

という二律背反の命題みたいな状態にあるわけです。



会場ではスタッフによる翼端の跳ね上げが行われています。
艦載機ですので、空母のエレベーターに乗るのにギリギリの
この部分が跳ねあげられればよかったみたいです。



オーナーの説明によると、この零戦はロシアのキエフで
ほとんどの工程を仕上げたということでした。
アメリカからロシアに渡ったというわけです。

うろ覚えなのですが、翼にあるネジのマイナスをきっちりと合わせて
仕様してくれたのは、おそらくロシアの技術者が

「日本人はこういうところをきっちりするものだから」

という考えでそこまでやってくれたのだと思い、
『やるなあ』と感謝している、というようなことを言っていました。

この写真に写っているのはガソリン注入口?(適当)



これも翼の中央に付けられた翼灯。



エルロンを動かす実演もしてくれました。



会場ではその場で急募して、一人5000円出せばコクピットに乗れる、
というサービスをしていました。
兄妹まとめて5000円かどうかはわかりません。



乗りたい!と思った人は、このおじさんに申し込めば、
その場でお金を払い(領収書なし)座って写真を撮ってもらえました。
(もちろん自分のカメラやデバイスで)

「コクピットに乗れるのはここだけです!」
「今回だけです!」

とスタッフは強調していました。
愛知県の三菱でも機会があれば乗れるような気がしたけど・・まあいいや。
確かに風防を閉めてもらえるのはここだけかもしれない。

というわけで、躯体のどういった部分がオリジナルなのかわからないので
わたしにはこの零戦をどう評価していいのかいまひとつ
立つべき位置が定まらない、というのが正直なところです。

あの戦争で、そのとき操縦していた海軍搭乗員と共に南洋の地で果て、
命を終えた零戦は「里帰り」させるだけで以って冥すべしで、
ましてや発動機から何から新しく作り上げてそれを「飛ばす」のは
後世の人間の思い入れが先走りした「余計なお世話」であり、
コメントのように「もう休ませてあげるのが一番」という考え方もあります。 

これとは全く逆に、とにかくも零戦の形を保った機体が日本の空を飛翔する、
その姿を眺めてせめて往時の姿を偲びたい、と熱望する人も多いでしょう。

確かに博物館で静かに余生を送らせることを決めた途端、
その零戦が空を飛ぶ可能性は永遠になくなるわけですから、
それは一回でも空を飛ばせてからでも遅くない、というのもわかります。


ただ、そのために三菱の技術者が作ったエンジンを外し、
12、3歳の女の子が勤労動員で作った部品のほとんどは取り替えて、
新しくジュラルミンで外装を作り上げ、上から鮮やかな緑を塗った時点で、
このプロジェクトはニューギニアで何十年もそこにあった零戦の
元の姿を、永遠に消し去ってしまったという言い方もできるのです。


というと否定的な意見を持っているかのように思われるかもしれませんが、
しかしとりあえずわたし自身は、気持ちだけでも寄付をさせていただくつもりです。


日本の空にそれを飛ばせたいという一念で、
私財を投げ打ってまで
零戦に熱情を傾ける人々の
意気に「心情的には」大いに共鳴するという意味で。




 







「里帰り零戦」を見てきた

2014-11-26 | 航空機

読者の佳太郎さんから情報をいただき、さらにkyari3さんからも
公開の詳細を教えていただいた「里帰り零戦」を見に行ってきました。


前売りは教えていただいたように、どの時間枠も売り切れるどころか
最後まで「残り少ない△」にすらなっていなかったため、
わたしは最終日に安心して当日券で入ることにしたのですが、
やはり1時間見学するのに2500円、前売りでも2000円というのは
高いと考える人が多かったということでしょうか。

それなら「ファン」と言われる人であれば安い安くないに関わらず
何をおいても駆けつけたのか?
というと、その辺は微妙な「ファン心理」とでもいうのか、
必ずしもそうではなさそうだ、とわたしは感じました。

今回の見学はつまり、その理由について考えることでもあったのです。

お断りしておきますが、わたし自身は元々「零戦」そのものを、
当時の日本の技術力の象徴とか、
歴史的な航空機であり、
海軍の使用機であるという観点でのみ関心を持っている
と言ってよく、
決して「零戦ファン」
と呼べる範疇に自分がいないのを自覚しています。

それが証拠に?スペックや性能についての薀蓄を全く持ちませんし、
また、零戦の他の機体への優位性についての興味もあまりありません。 

 


今回わたしがわざわざ現場に行ったのは、むしろかつて
実在した「零式艦上戦闘機」と今回公開される「里帰り零戦」の間には
いわゆる「隔絶」があるらしいとその反響から察し、
それを確かめるためだったとも言えます。



さいたまアリーナというのは、都心から続く高速を降りてすぐのところにあり、
今までこの方向に車を走らせたことのなかったわたしは、今回
あまりの便利さに驚いたのですが、他のイベント(アイドルコンサート)
があるにもかかわらず、地下の駐車場に簡単に車を止めることができ、
見るつもりだった回の30分前には、チケットを買うことができました。

時間制で、予定の時間までは隣の部屋で展示物などを見ながら
待つという仕組みです。

まず、この零戦のかどうかはわかりませんが、動的展示できる
ゼロファイターのポスター、そして日本公開されなかった映画、
「レッドテイルズ」のポスターが貼ってありました。

「レッドテイルズ」は黒人だけの飛行部隊、「タスキーギ・エアメン」を
主人公にしたルーカス監督作品で、わたしもエントリに書いたことがあります。

タスキーギ・エアメン」と「レッドテイルズ」



ここにある零戦の復元前の写真がパネルで展示されています。



全く無塗装の零戦。
テスト飛行ということは塗装は一番最後に行うものなのですね。
しかし・・・ジュラルミンであたらしく成型された機体は

新品のようにピカピカです。(←伏線)



来場者は皆こういった写真を手持ちのカメラに収めていましたが、
これらの写真もすべて販売しており、一枚7,000円也だそうです。



ジュラルミンの機体主翼外板は、持ったり触ったりできます。
裏面には当時の工員が記した鉛筆の跡が確認できるそうです。
(が、写真を見て初めて知ったので確認してません)
厚みはなんと0.8ミリ。厚紙くらいしかありません。

本プロジェクトに協力した中村泰三という「計器板製作者」
の名前が記された紙があります。
この人の名前をググってみると、どうも「計器板研究家」のようです。



隔壁部分。
実際の機体から取り外された部品の数々が展示されています。



ステンシルの機体番号が書き込まれた部分には、
マジックインキで「Thank you」とか「Best wishes」などの
アメリカ人名による書き込みがあります。 
アメリカでレストアに関わった技術者たちでしょうか。 



22型用の第二隔壁部計器部分。
さすがは計器研究家のコレクションだけのことはあります。



中島62型用の計器盤。
木でできていることに注意。
金属の計器盤で計器の位置を確定する前の試作だそうです。



こちらが本番?の計器盤。

計器盤のコレクションには他に「雷電」のものが展示してありました。



水平衡目盛りがついていますが、車のハンドルのように
手を離せば真っ直ぐに戻るという機能はなかったのでしょうか。



尾翼部の外板。
下の写真で、ブルーの線で囲まれた部分です。



陸軍の97式戦闘機用のフラップだけが。
倉庫に未使用で保存されていたものだそうです。

さて、そうこうするうちに時間になり、待合室にいた客は
自室のホールに移動しました。



今回のエキシビジョンは「画期的かつ史上最初で最後」と主催者のいうところの
三分割展示が売りとなっていました。

冒頭写真は見学が始まってしばらくしたら今回の企画をした
会社の社長という人が零戦の上でマイクを握って
これまでの経緯と経過、ここまで来た苦労とこれからへの
支持を熱く訴えているところなのですが、その説明によると、
この零戦は非常に前から日本に里帰りさせ、日本の空を飛ばす、
という執念を持ったこの社長が「3億5千万の私財を投じて」
ここまでこぎつけたのこと。

しかし、リーマンショックに始まり東日本大震災と、実現も危ぶまれるほどの
アクシデントのせいで思ったようにことは進まず、
やっとのことで横浜に着いてからも手続きのいろいろで倉庫で3ヶ月間、
組み立て前の状況で留め置かれていたということでした。

ちなみに取得から今日までの間に7年間が費やされています。

「三分割で展示するということは初めての試みであり、
今後も決してないと思われますが、内部の様子を多くの人に
見ていただくためにはこの方法が一番いいと思いました」

と語っていましたが、わたしは組み立て前の状態でやってきたので、
組み立ててしまう前に一度展示会をするべきだと判断したのではないか、
と穿ったことを考えていました。 



というわけで、三分割のひとつはプロペラと発動機部分。



この零戦はパプアニューギニアで発見されたものだそうです。
ということは、ラバウル航空隊と称される海軍航空隊のうち

「251空」「204空」「261空」「582空」「201空」

のいずれかの所属ということになろうかと思われます。



これが発見当初機体に付いていた発動機とプロペラ。



まあ、戦後何十年もジャングルにあったエンジンが
そのまま作動させられるわけがないとはいえ、この零戦は
要するに「当時の機構で飛ぶわけではない」ということです。
残骸のほとんどを作り変え、痕跡だけを残して飛べるようにする、
ということなのです。



これをどう考えるかですね。

実は、当ブログに頂いた里帰り零戦への裏コメントの中には

「もう零戦は休ませてあげてもいいのではないかと思う」

といった意味の、この企画に対する否定的な意見もありました。

もし何から何まで発見時のまま、最小限のレストアで飛ばすつもりなら、
わたしはそれはそれで価値のあることだと思います。(無理だと思いますけど)
しかし、現場でこの外された栄型を見た瞬間にこのように感じました。

「中身を全部取り替え、外装も作り直して、形骸だけを飛ばしたとして、
それは果たして本当にかつての零戦が飛んだと言うのだろうか」


資産を投じてこの零戦を飛ばせるという一念でこの事業を立ち上げた
この方には大変冷たい言い方になるのかもしれませんが、
それはすでにかつての零戦ではなく、動物でいうと剥製みたいなものです。
零戦を零戦たらしめていた駆動部分がこうやって取り出されてしまった以上、
それは「飛ばせるべきもの」ではなく博物館に収められるべきものではないのか、と。



ただ、簡単に「博物館に収める」ということにならないのは理由があって、

この機体の維持費というのが、こうなってしまった以上常にかかってくるので、
こうやって展示をし、寄付を募り、「実際に飛ばす」という目標を設け、
関心を持ってもらうことを恒常的に続けなくてはならなくなっているようです。



こちらが現行の発動機部分、横から見たところ。




見たところパーツの一つとして元の零戦のものはありません。

当たり前ですね。



これが三分割の真ん中部分、主翼とコクピット。
わたしたちが入って行った時、誰かがコクピットに
乗らせてもらっていました。

周りの人たちが

「乗れるのこれ?」

と囁いていましたが、この時に乗ることができたのは
プロジェクトへの大口スポンサーだったようです。



翼の上には弱いところがあり、足を乗せるところが
決まっていて、そこにステップして乗り込んでいました。



石塚政秀さんというのが、この零戦のオーナーです。
現在、飛行可能な零戦を所有している唯一の日本人ということです。



どこからどこまでが本物でどこがレストアなのかわかりませんが、
隔壁やフットレバーはそのままであろうかと思われました。


長くなってしまったので明日に続けます。




 


パシフィックコースト航空博物館~カール・ノルデンの憂鬱

2014-11-12 | 航空機

ソノマカウンティにあるパシフィックコースト博物館、
先日展示航空機を全て紹介し終わったわけですが、
この博物館には建物内にも資料展示コーナーがありました。


売店のところにいる受付兼任のおじさんに、撮影していいか聞き、
勿論いいよと許可を得たので例によって残らず写真を撮ってきました。



まずは、ジョセフ・アーサー・グラッソという、サンフランシスコの

航空黎明期の飛行家のコーナーがあります。

グラッソは1900年に生まれ、30年代から40年代にかけて
スタントなどで大変活躍した飛行家だったそうですが、
残念ながら歴史的に有名な飛行家ではなかったらしく、
詳しい資料を見つけることはできませんでした。

この博物館がグラッソに「感謝」しているのは、
ここの展示の多くが彼の所蔵していた写真によるものだからです。

グラッソ自身の飛行機の操縦免許や、飛行機と一緒の
貴重な写真も彼自身の寄付によるものだそうですが、
博物館のオープンは1989年。
グラッソさん、一体どれくらい長生きしたのか・・・。



動力飛行機の発明家、ウィルバーとオービル・ライト兄弟。


ここに、彼らの父親の証言として、

Neither could have mastered the problem alone.
As inseparable as twins, they are indispensable to each other.

『彼らはどちらも一人では問題を解決できませんでした。
まるで分ちがたい双子のように、彼らはお互いが不可欠だったのです』

と書いてあるのですが、実はこの部分、
inseperableとか、 indespensableとか、スペリングのミスが二つも・・。
アメリカ人もこういう場所で間違いをやってしまうのだなあと、
少し安心?しました。




初めて海軍の船を飛行機で発艦したのが誰かを
ご存知ですか?

その歴史的瞬間がこれ。
飛行家、ユージーン・イーリー(1886~1911)
1910年、USSバーミンガムからカーティス・プッシャーで
離艦することに成功した瞬間の写真です。




冒頭写真は、その一年後、離艦に引き続いて着艦を成功させた
後のユージーン・イーリーの勇姿。

周りの人物と比べて、かなり長身であったことが分かります。

スーツを着ているのが時代を感じさせますね。
この頃は「飛行服」なんてものはありませんし、靴も普通の革靴です。
せめてもの衝撃吸収のつもりか、スーツの上に上着を着て、
身体に自転車のチューブを巻き付けています。
そして頭には皮のヘルメット。

今日の目で見ると、その後ろにある飛行機の、
まるで自転車のようなコクピット(と呼べるなら)といい、
この装備といい、あまりにも無防備で危険なものにしか見えません。


現に、イーリーはこの直後、着艦に失敗し、
自分で飛行機から甲板に飛び降りた際、首の骨を折って死亡しています。



史上初の発艦から一年後、イーリーは史上初の着艦に成功たときの写真。
この連続写真で甲板の両脇に見えているたくさんの砂袋は、
このとき初めて使われた降着装置、つまり着艦ロープです。

飛行機にフックを付け、そのフックがロープにかかるようにして着艦する、
という今日も使われている仕組みが、人類史上最初に使われた瞬間でした。



こちらは、イーリーと同年代の海軍軍人、
セオドア・ゴードン・エリソン中尉が、カタパルト発進に成功した瞬間。
1912年のことでした。

イーリーとエリソン中尉のことについては、別項、
「天空に投錨せよ」というエントリを設けてお話しする予定です。
どうかお楽しみに(予告)



1942年4月18日、東京空襲を行うため、
USSホーネットを離艦するドゥーリトル飛行隊のB−25。



ベトナム戦争で墜落した飛行機を発見した米艦艇でしょうか。

この横には、

Modern Adverseries(近代のライバル関係)として、

朝鮮戦争時代
   F−86 セイバー
   ミグ15 ファゴット

ポスト朝鮮戦争時代
   F−104 スターファイター
   ミグ21 フィッシュベッド

ポストベトナム戦争時代
   F−15 イーグル
   ミグ25 フォックスバッド

と書かれたパネルがありました。



前にも一度説明したことがありますね。

ノルデン爆撃照準器
ドーリットル隊の飛行機にも搭載されていました。

情報を入力するといつ爆撃すればいいかを器械が教えてくれる、
というもので、当時のこの最高機密には、15億ドル相当の
国家予算がつぎ込まれたそうです。

この最高機密に関わる人間は、極秘の扱いとともに、決して

この器械について何人にも情報を漏らさないことを、
末端の搭乗員や兵員までが宣誓させられ、運搬の際には
基地の中であってもそれとわからないように布をかけました。

宣誓の内容には、

 ”機体外への脱出など緊急時には
自らの命を代償にしてまでも処分を優先させること”

が含まれていたということです。 


アメリカ政府はこの器械に大枚を投じて9基購入しています。



発明者のカール・ノルデンはスイス人で、熱心なクリスチャンでした。

彼によるとこの発明は

「ピンポイントで爆弾を落とし、

できるだけ人の命を救うための人道的な装置」

だったそうです。


しかし、この期待の装備はアナログコンピュータだったので、
使う方にも大変な熟練が必要とされました。
爆撃手任せの精度、しょっちゅう故障する機械。
ノルデンの計算通りに戦況が展開する筈もなく、
たとえば雲が出ただけでお手上げ、という代物だったのです。

おまけに、ノルデンの弟子は買収されてナチスに設計図を渡してしまったため、
ドイツでは早々に同じものを作ることに成功していました。

まあ、ドイツにとっても役立たずの代物だったわけですが(笑)


ちなみに、日本軍も鹵獲した飛行機からこの照準器を見つけ、
しっかり同じものを作っています(笑)
日本軍は使わないうちに終戦になってしまいましたが、
実際にどんな精度かわかったら、きっと使わなかっただろうと思われます。


最後に。


あの「エノラゲイ」の爆撃手は、ノルデン照準器を使って
1945年8月6日、広島に原子爆弾を落としました。


しかし皆さん、考えていただきたいのですが、
そもそも原子爆弾投下に正確な「照準」など必要あったのでしょうか?


「不要の殺人を防ぐための平和的な発明だ」

と胸を張っていたカール・ノルデンにとって、
街の上空で炸裂しさえすれば、何十万人を一瞬にして殺すことのできる
原子爆弾の投下に
自分の発明品が使われたのは、
あまりにも痛烈な皮肉だったと言えはしませんでしょうか。 


しかもこのとき、エノラ・ゲイの爆撃手が爆弾投下した地点は
相変わらず目標から250m照準がずれていたと言われています。



 

続く。


キャッスル航空博物館~アブロ・カヌック「グレート・ズラの木の葉落し」

2014-10-21 | 航空機

以前この「キャッスル航空博物館」シリーズで、
アブロ・バルカンをご紹介したことがあります。

このアブロ・カナダは、カナダにできたアブロ社ということのようです。

ロングレンジの全天候型ジェット戦闘機。
このCF-100は、カナダ国内で設計から生産まで、全行程生産されたものとしては
初めてで最後の戦闘機となりました。 


この機種を装備しているのはカナダとベルギーだけなので、本来なら
よっぽどのチャンスがないと目にすることはできないと思われますが、
1981年に退役して、これもキャッスル航空博物館所蔵のアブロ・バルカンと同じく、
1982年に、カナダから飛んできて以来、ここにずっと展示されています。

バルカンはイギリス政府からの「無期限貸与」ですが。この機体は 

カナダ政府からの贈り物(a gift of the Canadian government)

であるとのこと。
退役した飛行機を、スクラップにするならどうぞ、と寄付してくれたんですね。



カナダというのは地域にもよりますが、フランス語とのバイリンガル国です。
フランスとイギリスがほぼ同時に入植し、戦争してイギリスが勝ったのですが、
ケベック州などにフランス人の入植が集中したので、
ここだけは公用語はフランス語ということになっています。

あとは英語ですが、どちらもしゃべれるバイリンガルが多いのです。

モントリオールに行ったことがありますが、かの地では
英語でしゃべっていた人が横を向いた途端、
同じくらい流暢なフランス語でしゃべりだし、びっくりさせられたものです。

カナダという国自体が、裕福で文化的でG7にも入っているのに、
国際的には、実はどんな国だかわからないようなところがあるのですが、
実際に行ってみると、英語圏でもフランス語圏でもない、
独特の雰囲気があるのに気づくでしょう。

あの混沌とした空気が、カナダと言う国なのだと肌で感じたものです。

それはともかく、こういうバイリンガル国家では、国として何かを行う際、
さぞ言語の違う同志でモメたりするのだろうなと思うわけですが、
軍隊もまたどちらの言語でも対応せねばならないため、
機体にはこのように、楓の両側に、わざわざ英語とフランス語で

「統合軍」

と表示してあるのです。
どちらのスピーカーも、もちろんフランス語も英語も分かるのですが、
要するに

「なんでフランス語が(あるいは英語が)無いんだ!」

などとモメルことになるので、このような仕様になっているのかと思われます。


いやー、どちらも立てなくてはならず、なかなか大変そうな社会ですね。




このアブロ・カヌックの「カナック」ですが、
「カナダ人」という意味があります。

この機体には「Clack」というあだ名もあり、
これは「ドスン」とかいう擬音の意味です。

図体がでかいことからつけられたあだ名かもしれません。

名は体を表すという言葉通り、カナックは、
今まで地球上に存在した戦闘機の中で、最も大型の種類に属します。

全長16.5メートル、全幅17.4メートル。

なみに、零戦21型の全長は9.05m、全幅は12mですから、

カナックのほぼ3分の2スケールしかないということになります。



冷戦時代、カナダはソ連に対する「最前線」という地勢上の関係で、


NORAD,(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)

という、
まるでSFアニメのような名前の組織を作り、
アメリカとの防衛体制をとって、前線で敵と対峙していました。


このCF-100は、ソ連の「トランス‐ポーラー」
つまり極圏航路からの核爆撃に
備えて、
ロイヤルカナディアン・エアフォースが使用していました。


「カナック部隊」は、場所柄、非常に視界の悪く、
しかも悪天候の状況下で飛ばなければならないことが多かったそうです。



 

1950年代に生産が始まり、70年までの間に、
仮想敵としてのシミュレーション飛行に使われるほかは、
カナックはNORAD
のテスト機として活躍していました。




ところで、カナダのアブロ社には、

ヤーノシュ・ズラコウスキー

というテストパイロットがいました。
技量抜群の凄腕であったと誉れ高かったそうです。

ズラコウスキーは、ただでさえ大きな戦闘機(二人乗り)に乗って、
アブロ社のテストパイロットとして航空ショーに出場したのですが、

そこで見せたマニューバの

木の葉落し」(Falling leaves)

は、満場の観衆を唸らせました。


木の葉落し、というのは、航空機のマニューバの中でもおそらく、
「インメルマンターン」についで、日本人にはよく知られているのではないでしょうか。

機動性に優れ、機体の小さな零式艦上機ならではの「得意技」だったからです。


御存じない方のために一応説明しておくと、「木の葉落し」とは、

敵に後ろを追随されている状態で急上昇し、直後にストールをする
敵機はそれを追うことによって、半径がより大きな弧を描くことになる
機体を失速させた機を、自機を追い越した敵機の後ろで失速から回復させ、
いつの間にか後ろに回り込んで優勢な位置を占める

というもので、繰り返しますが、これを零戦が得意としていたのは、
駆動性に優れ機体が小さいという特性をもっていたからこそです。

その「木の葉落し」を、零戦より二回り大きなこのカナックでやってしまう、
というのが、
このズラコウスキーのすごいところで、観衆はもちろんのこと、
この大技を
目の当たりにした航空ショー出席の航空関係者、技術関係者は、
一様に彼を


「グレート・ズラ」と

「グレート・ズラ」と

「グレート・ズラ」と

褒め称えたと言われています。

なぜ三度繰り返したかと言うと、別に大事なことというわけではないのですが、
単にズラコウスキーの通称が「ズラ」というのにウケたからです。

「ズラコウスキ」という名前の人がいれば、日本人ならほぼ間違いなく
「ズラ」とあだ名をつけるのだと思いますが、カナダでもそうだったんですね。

こんな名前なら日本でもたちまち話題になるでしょうに、
かれは「アブロ社」という一企業の
チーフパイロットに過ぎない身。

活動がカナダ国内だけにとどまった、というのが残念でたまりません。


って、全然カヌックの話と関係ありませんが。






パシフィックコースト航空博物館~MADE IN JAPANのRF-86Fセイバー

2014-09-19 | 航空機

     The Pacific Coast Air Museum


今時の航空博物館はどこも大変充実したHPを持っていて、
展示航空機についての詳細もこれを見れば一目瞭然。

なのですが、やはりここパシフィックコースト航空博物館のように
動的展示可能な機体が多く、しかもしょっちゅうメンテナンスをし、
企業のスポンサーを集めて来れるようなある意味「実力のある」
ミュージアムは、その所有並びに展示機もしょっちゅう変わります。

先日問題になったA6の件も、つまりはあの機体が来たばかりで
まだ情報の書き換えがされていないために起こった当方の勘違いでした。

HPの機体情報には

「展示航空機の何か新しい情報が入れば随時更新します」

と書いてあり、正しい情報を常に発信しようという姿勢は窺えるものの、
やはり追いつかないことも多いのかと思われます。

冒頭のYouTubeは、HPの紹介ビデオを誰かが上げてくれていたので
拝借してみました。
おじさんたちがしゃべっている合間に館内の映像が入りますので
アメリカの航空博物館の雰囲気を味わいたい方はどうぞ。



NORTH AMERICAN SABRE JET

F−86は1940年代の後半に開発されたアメリカ初の後退翼機です。

ノースアメリカン社は、1944年の初頭、日本海軍に対抗するための艦載機を
海軍に提案(というか売り込み)していたのですが、それを受けてノ社は
のFJ−1フューリー(怒り)である試作機を開発します。

こちらは皆さんもご存知のように直線翼の飛行機ですが、
この開発の最中降伏したドイツの占領地で、アメリカ軍は大量の
後退翼についての研究資料を手に入れます。
その資料から、ノ社は開発中の戦闘機に後退翼を導入することを決め、
陸軍にその許可を得て後退翼戦闘機を受注することに成功します。

(海軍はそのままだったのでそれがFJ−1になるわけですね)

そうこうしているうちに戦争は終わり、アメリカ陸軍航空軍は
陸軍から独立してアメリカ空軍となったため、
それに伴い航空機の名称も変わって来ることになります。

それまで戦闘機はPursuit(追撃)の”P”がつく番号が割り振られましたが、
Fighter(戦闘機)の”F” がつくようになったのはこのときからです。



この機体はCalifornia Air National Guard、即ち
米軍の空軍民兵であるカリフォルニア州陸軍修州兵のユニットである州軍の
所属であったことがわかります。

州兵は日本の予備自衛官と同じような位置づけで、任務は、
アメリカ国内における災害救援、暴動鎮圧などの治安維持のほか、
アメリカ軍の予備部隊としての機能を果たすことです。

州兵は、大統領命令において戦闘任務を含む各種任務を担当します。
このセイバーを使っての戦闘任務もまた当然行われていたということです。



塗装は青の部分だけが残り、あとは剥落してしまっています。
つなぎ目にシルバーのダクト用テープが貼られているのが
なんだかしみじみとした風情を感じさせますね。



ご存知のようにセイバーのエアインテークはノズルインテーク。
覗いてみるとまさにその部分はインテークそのものです。
当たり前か。

セイバーが活躍したのは朝鮮戦争です。
当時金日成が率いた北朝鮮空軍には空軍力はなく、

F-51D
F4U コルセア

なども投入されていたといいます。
F−51もコルセアも第二次世界大戦の航空機です。
ところが中国人民解放軍の後退翼機MiGが登場し出すと、
直線翼の航空機では対抗できないと判断したアメリカ軍は、
ここに同じ後退翼を持つF−86が投入されることになり、
ここに史上初の後退翼同士の戦闘機対決が幕を切って落とされます。

基本性能ではMiGが一枚上手だったといわれていますが、
根性、ではなくパイロットの技量ではセイバーが勝ることもあり、
加えてレーダー照準器などの性能が優れていたため、
キルレシオ(撃墜対被撃墜比率。
空中戦を行った際に、彼我に発生した損害比率を示す)では10、
具体的には78機損失に対して800機以上を撃墜するという結果を上げました。



NORTHAMERICAN RF-86F SABRE

F-86でWikipediaを検索するとこれと同じ機体が掲載されています。
ここにある機体ナンバー24913が空を飛んでいるところなのですが、
これはおそらくワインカントリーエアショーでの一こまでしょう。

それにしてもいつも思うのですが、こういうエアショーで
引退したウォー・バードを操縦し、実際に飛ばすパイロットというのは
一体どのような資格で、しかもトレーニングもままならない機体の
操縦を行うのでしょうか。




さて、このセイバーは、南カリフォルニアにあるチャイナレイクの
装備倉庫からここサンタローザにやってきました。
当ミュージアムが引き取ることになるまで、
ミサイルのターゲットドローンとして使用されることが決まっていたそうです。

R(reconnaissance)と頭につくこの偵察用のセイバーですが、

「工場ではなくエアフィールドで開発された」

といわれています。
朝鮮戦争で偵察機はその速度の遅さからMiG15の危険にさらされるようになり
その役目を果たすために偵察に飛ぶことすら不安な状態でした。
金浦に基地のあった第15戦術偵察隊にとってそれは死活問題でしたが、
誰も他人事として注意を払ってくれません。

そこで第15偵察隊は同じ航空基地にあった第4戦闘機隊の司令官を説得し、
基地内にスクラップとして廃棄所に放置してあったF−86の胴体を
自分たちの「遊び」のために使わせてもらう許可を取りました。

まず本体についていたいくつかのガンを取り外し、
カメラを設置する場所をいくつか発見します。
そののち、当時日本にあった極東航空本部の司令に
F−86Aにカメラをインストールすることを納得させ、
偵察仕様のRF−88Aは(なんと)

立川基地で初飛行を行ったのでした。

このHPの説明も、また英語でのRF−88のWikipediaにも
このときに「日本で作られた」ということにしか言及していませんが、

日本のwikiによるとこの計画は

「ヘイメーカー計画」(oparation haymaker)

つまり米俗語で 「強力なグーパン計画」という名称のもと、

1953年当時、アメリカ軍立川基地兵站部に勤務する日本人技師チームに、
F-86Fをベースとした写真偵察機の製作の設計を命じたもの

であったことが書かれています。
ところがHPにも 

It was done at Tachikawa in Japan and
the first RF-86A’s flew in the winter of 1951.

と書かれてはいるのに、それが日本人技師による設計・施行であった
とは全く書かれていないのです。

確かにそれを思いついたのは偵察隊のメンバーかもしれませんが、
これだけの仕事をさせておいて、全く日本人の手によるもの、
ということに触れないのはアメリカさんもなんだか大人げなくない? 



試験成功した偵察機セイバーはF−86戦闘機の中に一機だけ、
つまり混成編隊で飛び、司令が何より欲していた敵基地内の
捕虜収容施設の写真を撮って来ることに成功し、味方を喜ばせました。

この結果、偵察仕様のセイバー、F−86Aが6機追加制作され、
これまでのF−80と併用で偵察任務に投入されることになります。 

 


この「ほっぺたの膨らみ」を、アメリカのサイトでは
「チップスマンクビューグル」(リスの膨らんだほっぺた)と呼びます。
朝鮮戦争に投入された少なくとも最初の3ヶ月間のRF−88Aにはこれはありません。
より精密な写真を要する偵察に投入するため、ここには
40インチのスプリット・ヴァーティカル・カメラが搭載されました。

いつからこの「りすのほっぺた」が投入されたのかは、実は
あまり明らかにされていないのだそうです。
少なくとも小牧基地から朝鮮半島に機体が運ばれた1954年、
このバージョンはまだ導入されていなかったという証言もありますが、
つまりこれはまだ当事者が語ることをしないため明らかになっていません。

国家安全保障局(NSA)によって情報がクリアになるまで
軍人は公に任務、特に偵察任務について語ることを自重するものなのか・・。




ここにある24913について、博物館のスタッフは空軍の
個体認識情報を所持しているそうですが、少なくともそれによると
この機体は朝鮮戦争では全く使われた形跡はなく、
偵察機に改装された時期も明らかではないそうです。

しかし、確かなことはこのRF−86Fは

日本国航空自衛隊が

配備していたことで、その証拠は米軍のペイントの下に
明らかな空自時代のペイントが光の加減で確認できることです。
(上の写真でそれが分かる方がおられませんでしょうか。
わたしにはわかりませんでしたが)

航空自衛隊には主力戦闘機としてF−86F、Dを合わせて557機、
そのうち18機がこの偵察機として配備されています。

空自ではこの機体に「旭光」と正式名称をつけ、
また東京オリンピックではプルーインパルスの初代機体として
開会式の五輪を空に描いたことで有名になりました。
現場での愛称は「ハチロク」

このセイバーは朝鮮戦争という舞台に置いても殆ど
未知の飛行機とされてきました。
唯一つの偵察飛行隊、第15飛行隊によって飛ばされましたが、
それも運用の実態は秘匿され、マーキングも戦闘機のセイバーと
全く同じようになされ、第4戦闘機隊と行動を共にしていたそうです。

偵察機ということで慎重を期したのだと思いますが、
だからこそ日本の技術者に搭載を任せたのでしょうか。

いずれにしても、偵察機セイバーは全部日本で作られていました。
つまりここにあるのは「メイドインジャパン」なのです。




 

 

 


パシフィックコースト航空博物館~サンダーストリーク「世界最速の三輪車」

2014-09-11 | 航空機

RERPUBLIC F-84F THUNDERSTREAK

ジェット機が登場して初期の機体にはこのような
ノーズインテーク(ノーズがそのままエアインテーク)が多いのですが、
これもまた典型的なノーズインテーク型。
豚さんの蚊取り線香と同じですね。



これが当機のエアインテークでございます。
うーん・・・・これはさぞバードストライクが多かったのではないか。 

パイロットたちにはこの形状から

“a hole sucking air"(空気吸引穴)


などというあだ名を奉られていたようです。
 
それにしてもこのインテークの中など、妙にピカピカで綺麗です。
まだレストアしたばかりなのに違いない、と思って調べると、
1997年にチャイナレークの武器庫から引き取られたあと、
当博物館に引き取られ、2004年に復元されたということです。

機体そのものは1954年に製造され、まずイギリス空軍の装備となりました。
この後1958年から61年にかけてヨーロッパでは、

「ベルリン危機」

が起こります。

「ベルリン危機」とは東ドイツから西に亡命するインテリ層が増え、
危機感を感じた東ドイツ政府が、物理的にこれを阻止することを考え
「ベルリンの壁」を築くまでの一連のシーケンスを指しますが、
このときにフランスのシャンブレー空軍基地に所属していた当機は
この動きに呼応して出動したそうです。

説明がないのでどういう立場で出動したのかはわからなかったのですが。

その後、米海軍に返還された当機は、いくつかの基地配属を経て、
その役目を終え、チャイナレイクで訓練標的になろうとしていたところ、
身柄をこの博物館に引き取られたというわけです。



先日F−86についてのエントリで、元々このF−84サンダーストリークは

MiGに対抗するには余りにも速度が遅く、空戦で勝てなかったため、
それに対抗するためにF−86が生まれた、とお話ししました。

速度の遅い原因はエンジン出力の問題でした。

そのためMiGに対抗できるどころか、離陸にすら困難をきたし、


"The world's Fastest Tricycle"(世界最速の三輪車)

とか

”The Lead Sled"(錫のソリ)

とか、最も酷いのになると

"Ground Loving Whore"(地面大好きな娼婦)

などというありがたくないあだ名で呼ばれていたようです。



そこでこの機体に描かれているノーズペイントをご覧下さい。

この話を知って見ると、まるでこの「ミス・マリア」が、
「地面を離れようとしないあばずれ」なのか、と思われてしまいそうですが。
どう見ても地面に寝っ転がってるし。


しかし、ここまでいいところなしみたいな飛行機であっても

乗員にすれば可愛い愛機であることには違いなかったようですね。

あれかしら、「馬鹿な子供ほど親は可愛い」というやつかしら。(失礼?)


F−84を「ホアー」と自虐したのも、勿論当のパイロット達だと思うのですが、

この機体の搭乗員は自分たちの愛機に「マリア」という名前を付けたのです。
酷いあだ名に対する精一杯の抵抗だったのではと思うのは考え過ぎでしょうか。


というわけでこのマリア嬢ですが、

それにしても下手である。

マリアさん、しかも最初は右手も左と同じように体の下に垂らしていたようです。
一体どういう状況でポーズしてるんだよ!と描いた人がいわれたのか、

右手の位置を描きなおしたあとが見えていますが、それを考慮しても下手。

先日たまたま

「迷彩塗装機は塗料により機体重量、空力的な抵抗、それにかける時間が増加」

するため、無塗装派が増えたにもかかわらず、ノーズペイントは減らなかった、

というコメントを頂いたわけですが、アメリカ人は本当にこういうの好きですね。


まあ、最近では痛車とか、場合によっては痛戦闘機などが存在したことのある

我が国ですので、これを「国民性」で片付けるのはやめておきましょう(笑)

ただ、日本にはこんな素人臭いノーズペイントを人目に曝して
平気でいる搭乗員も、メカニックもいません。(断言)




ところで、機体そのものの機能についてはさんざんなことを言われた

このサンダーストリークですが、改良に次ぐ改良が重ねられた結果、
最終型は信頼するに足る機動性を持ち、同盟国に多数供給されました。

そして、このF−84、初期の頃からこんな特技を持っていました。



海外のwikiからお借りしてきました。

早い時期から空中給油能力をもっており、1950年には
ターボジェット単座戦闘機として、初めて空中給油による
北大西洋の無着陸横断に成功しているのです。

給油する方はおそらくB−52かなんかだと思いますが、

給油の様子はまるでコバンザメみたいですね。



 

さて、ところでこのブログの一年前からの読者の方であれば、
もしかしたらこの画像に見覚えがあるかもしれません。

これは、ここベイエリア、サンフランシスコからベイブリッジを渡って
向かい側にあるオークランド空港の片隅にある

 Western Aerospace Airmuseum

のさらに片隅にあったレストア前の残骸。
このとき、この残骸が放置されたまま少なくとも3年は経っているらしい、
と偶然アメリカのサイトを発見して知ったのですが、これは
F−84の偵察機バージョンである

RF-84Fサンダーフラッシュ(Thunderflash

だったんですね。
残骸なりに元の姿を想像して頂きたいのですが、まずこれは
同じF−84の機体でありながら、ノーズインテークがありません。
これは、その部分にカメラが埋め込まれたためで、
ノーズインテークは翼の根元の三角形の部分になります。

埋め込まれたカメラの数はなんと計6台にもなりました。

この角度からは分かりませんが、機体をひっくり返すと
ノーズ下部に穴が計6個確認できます。

本当にひっくり返したのではなく、プラモをテーマにしている
あるブログの模型写真で確認したんですけどね。



ところで模型が出たついでに全く本テーマのF−84とは関係ないのですが、
少し気になったのでお断りしておきます。

先日、ハセガワ製1:72スケールのイントルーダーの模型が
ネットのサイトで10000円であることに心から驚いてそれを書いたのですが、
その後、それはなんと

1000円を0を一つ多く記載したための

間違いであることが判明しました。

訂正後のページはこちら

モデラーの費用対効果についての常識というものに全く不案内である
わたしとしては、

「お好きな方ならそれくらいでも金に厭目はつけん状態」

なのね、と納得していたのですがそうじゃなかったんですね。
そこで改めて1:72という数字について調べてみると(何調べてんだ)
実はモデラーに取ってこの数字は

1:72スケールは飛行機モデルの原点であり、
国際的にも幅広く認められ、世界各国で親しまれています。

というモデルの基本となるスケールで、メジャー3メーカーのこのスケールの
モデルの値段設定はだいたい800円から1500円といったところ。

いくらプレミアがついたとしても10000円は

「そんな値段で売れてくれたら模型メーカーはホクホクです」

というくらい非常識な?値段であった模様。


でも、1:72で検索していたら、そのスケールのモデルになんと

2万5000円というとんでもない値段がついている商品を発見しました。

なんだなんだ、と見てみるとそれは

1/72 
STARWARS ミレニアム・ファルコン

でしたとさ。
何となく興味を持って切り離し前の部品(専門用語知りません)
の画像を開けただけでめまいを覚えた、
プラモデル製作系が実は苦手のエリス中尉でございます。



もうひとつついでに、先日から当ブログコメント欄で話題となっていた

「自衛隊仕様のオスプレイ」

ですが、ちゃんと限定生産されていました。
海自、陸自塗装も作ってほしいと思います。(リクエスト)

 

 


パシフィックコースト航空博物館~「ツチブタが鷲を生む」

2014-09-01 | 航空機

カリフォルニアはサンタローザにあるパシフィックコースト航空博物館。
この日も何人かのリタイア再就職組らしい年配の人たちが
展示航空機のメンテナンスの仕事に来ていましたが、ここ

常にスポンサーの出資を受け、
展示機体にペイントや展示の工夫
(胴体に穴をあけて見やすくしたり)
を順番に施しているらしいことがわかりました。

ところで前回お話ししたこのクルセーダー。



公園に置かれてお遊具になるという辱めを20年受け続けた後、
(サンフランシスコに住んでいた頃、家の近くにあった公園らしいのですが、
わたしは全く知りませんでした)

当博物館に引き取られ、塗装を全部はがしてゼロからやりなおした、
というこの機体の経緯を前回お話ししました。

ゼロから塗装しなおすにあたって、修復に当たった人々が
そのモデルにしたのが、これです。



トナム戦争に参加したときのF−8クルセイダー。
以前もお話しした「サンダウナーズ」VF−111使用機です。
攻撃母艦CVSイントレピッドの甲板から離陸しているところです。


VF−111部隊愛称サンダウナーズについては日本語の資料がなく、

当ブログの記事がwikiの「F−14」の次に出てくるくらいなのですが(笑)
英語版で調べると、サンダウナーズの使用機は

F4F ワイルドキャット
F6F ヘルキャット
F9F-2 パンサージェット 
F11F-1 タイガー
F-4B ファントムII 
F-14 トムキャット

そしてF−8クルセイダーと、グラマンの猫戦闘機を中心に
次々と変わって行っているんですね。
クルセイダーを部隊使用機としていたときにはノーズはシャークペイントでした。
公園の遊具として朽ち果てていたF−8をレストアすることに決まったとき、
関係者一同が

「それならVF−111のサンダウナーズ仕様にしたい!」

と一決したのも旭日模様がかっこよかったからに違いありません。

 

博物館のホームページにはサンダウナーズペイントについては
特に言及していません。
ただ、この写真を見て気づいたのですが、ちょうど「111」が
わざと塗装をはがして(上から塗ったのではない)見えなくなっています。

VF−111は1993年の「レストアホープ作戦」に参加後、1995年の
「サザンウォッチ作戦を最後に解散となったのでもう存在しませんが、
仕様を復刻させることについてもしかしたら
元サンダウナーズとのあいだに何かあったのかな、などと
お節介な心配をこんなところからもしてしまうわたしです。



GRUMMAN H-16E ARBATROS

「アホウドリ」の意であるアルバトロス。

1951年から1983年まで、沿岸警備隊に配備されていました。
飛行機や船の捜索に、水上でのプラットフォームとして使用されたり、
要請に応じて排水ポンプを投下するなどの任務に当たりました。



道路を隔てた向かい側の駐機場には現役のアルバトロスがいましたが、
基本的にシェイプは全く変わっていません。



ノーズの先のミッキーマウスの鼻のような部分は違いますね。


水陸両用であることから「アンフィビアン」(両生類)などと
いわれることもあるこの水上艇、旅客機が墜落したときの捜索や
キューバやハイチからのボートピープルを発見したとき、
または漁業パトロールにも投入されます。

1970年後半からは度重なる麻薬密輸に対し、まさに水際作戦で
マイアミ・フロリダ・カリブ海での監視も行いました。



ここに展示されているアルバトロスは,1980年まで
沿岸警備隊の艦隊に所属していました。

当機は1999年に博物館に寄贈されたものですが、その際、
視認性が高いことから採用されていた大変眼を引く
鮮やかな「沿岸警備隊ペイント」に塗装されました。

ちなみにこの博物館のレストアチーフであるコポック氏は
(HPにはクルーチーフとある)元沿岸警備隊で、
「7245」のパイロットであったと書かれています。

もしかしたらわたしに声をかけてきた偉そうな人が
この元パイロットのチーフかもしれません。



しかし、この機体は7245そのものではなく、単に
このペイントはコポック氏に敬意を表してなされたようです。




HPでは

「もしこれをご覧になっている中に、かつて沿岸警備隊で7245機の搭乗員だった、
という方がおられましたら、オペレーションディレクターに是非連絡をください」

というメッセージが書かれています。
もしそうであればコポック氏の同僚ということになりますが、
呼びかけはあったのでしょうか。



翼の下に切り取られたコクピットが置いてありました。
おそらく「コクピットデー」には乗れるのでしょう。



 GRNERAL DINAMICS F−111 AARDVARK

イジェクションシート、つまり射出席だけが展示されています。
この「アアドバーク」というのは変わった単語ですが、

「ツチブタ」

 といってアフリカに生息するアリクイに似た動物です。
何だってこんな変な動物を名称に選んだかね、と思ったら



イメージ的にわからないでもない、
というか誰が言い出したかそっくりですよね。

「これツチブタに似てねえ?」
「似てる似てる!」
「誰がうまいこと言えとw」

という感じで現場から発生した愛称らしく、
アメリカ空軍では1998年に当機が退役する日、
初めてこの名称を公式採用することを発表したそうです。

この機体があまり有名でないのにはそれなりの理由があって、
このツチブタ、戦闘爆撃機という区分で開発されたのにもかかわらず、
コストカットのために空軍と海軍で統合運用しようとし、

空軍・・・低空を音速で駆け抜けることができる機体

海軍・・・大型レーダー
を装備する並列複座の機体

という両軍の要求を無理矢理飲まされたため、
請け負ったジェネラルダイナミクス社の機体は重量が重くなり、
その時点で海軍はやる気がなくなって(笑)採用を拒否します。

(あの・・・重くなったのは海軍の要求のせいなんですけど)

結局空軍だけで運用されることになったのですが、重量が災いして、
運動能力が敵機のミグにかなり劣ることになってしまいました。

(あの・・空軍じゃなくてこれは海軍で運用するべきだったのでは)

しかしご安心下さい。
ひょうたんから駒、転んでもタダで起きない、藍より青し出藍の誉れ。

これをはっきりと「失敗」として空軍がその轍を踏まぬよう
開発したのが
あの!F−15戦闘機イーグルだったのです。

まあ、戦闘機と思わなければ優秀な爆撃機だったといいますから
失敗とまではちょっと言い過ぎのような気もしますが。
いずれにせよこれを「鳶が鷹を生んだ」ならぬ

「ツチブタが鷲を生んだ」

といいます。

さて、ここにある射出席はモジュール式脱出装置といい、
コクピットごと機体から切り離されるシステムです。
パイロットだけを射出する方法は、特に高高度を超音速で飛行しているときには
大変危険なので考案されました。

しかしこんな大きな物なので落下速度も増しますし、
レーダーの発達で敵地への侵入は低空飛行するというのが常識となり、
今ではこのモジュール式脱出装置は使われていません。
 

安全のためには、高度0・速度0の状態からでも
パラシュートが充分に開く高度までパイロットを打ち上げられること、
というのが安全性の目安である「ゼロ・ゼロ射出」ですが、
モジュール式ではそれが難しいということでもあったのです。



BLUE ANGELS COCKPIT

フロリダのペンサコーラにある国立海軍航空博物館から
貸与されているブルーエンジェルスのコクピット。
ここに来た当初ははしごを二つつけて、前後のシートに
よじ上るようになっていましたが、それでは乗れない!
と泣くお子様がいたらしく(たぶん)、はしごははずされ、
そのかわりステップから乗り移ることにしたようです。



もともとは実際にヴェトナム戦争に参加したF−4Bのコクピットです。
数年間機体は砂漠地帯に放置されていたもので、
スタッフはこれをレストアしペイントするのに数ヶ月を要したということです。






ダグラスDC−6は、レシプロ旅客機の傑作とされています。
まず何がすごいと言って、このエンジン。
新型である大型エンジン「ダブルワスプ」を採用したことにより
北大西洋を無着陸横断が可能になったのです。

1927年、チャールズリンドバーグ、そして女性では1932年、
アメリアイヤハートが大西洋無着陸横断を果たしたものの、
それはあくまでも小型機での記録であって、大型旅客機は
不可能であるされていた頃でこれは画期的でした。

これで旅客は皆航空機に流れることになり、おかげで
大西洋、太平洋を航行する航路は全て敗退に追い込まれました。


・・・という罪深い、じゃなくて時代を代えた航空機、
それがこのDCー6なんですね。

このノーズ部分はDC−6Bのもので、これは民間の旅客タイプ。
信頼性があるため、何度かエアフォースワンとしても採用されています。
日本航空が最初に導入しようとしたのもこのタイプですが、
ダグラス社に「2年後でないと引渡できない」と(嫌がらせ?)され、
元フライングタイガーの構成員が創業した

「フライングタイガーライン」

のために造られていた貨物用の機体を高いプレミア込みで買い、
わざわざ改造して東京札幌間の運行にこぎつけました。

・・・・なんか、いいように足元をみられてたような・・。
敗戦国の悲哀という奴でしょうか。


ところで、このDCー6Bのノーズ部分展示ですが、
賛助企業がやたら多いです。

たかがノーズ部分に、と言う気がしますが、これはおそらく
スポンサーが皆「小口」であるためでしょう。

不動産、伐採業者、クレーン業者、肉屋、レストラン、
法律事務所、カメラショップ・・・・・。

そういった小売業者や個人事務所からの篤志を
ある程度まとめて修復に使っているのです。


何度もいうようですが、日本でもこういうのできませんか?
たとえば具体的に二式大艇の補修と雨よけの屋根のため、とならば
わたしは当ブログ運営者として喜んで寄付させて頂くのですが。

 



 


パシフィックコースト航空博物館~ファントムIIの星

2014-08-13 | 航空機

話が横にそれて論議になったり、本人が間違えたりで、
こういうエントリになるとなかなか波瀾万丈の進行になり、

それはそれでまた(本人が)面白いなどと思うエアミュージアム訪問記。
今日ご紹介する飛行機は?

まずは

IL-14 CRATE(イリューシン14;Ил-14イール・チトィーリナツァチ)

イリューシンとは正確には公開株式会社「S・V・イリユーシン記念航空複合体」
といい、ロシア連邦の航空機メーカーです。

クレイトというのはNATO(北大西洋条約機構)が東西対立の頃
東側の装備に対して付けたコードネーム。
零戦を「ジーク」紫電改を「ジョージ」彗星を「ジュディ」という風に、
日本軍の装備を米軍が勝手に名付けて呼んだのがコードネームの始まりです。

このイリューシンの制作したイリューシン Il-2は「襲撃機」という意味の
「シュトルモヴィーク」という名で呼ばれていた決定的な武器の一つでしたが、
第二次世界大戦中ドイツ軍には「空飛ぶコンクリートトーチカ」などと呼ばれ
恐れられたものだそうです。

イリューシンはまだ存在し、現在は「IL-76」を造っているとか。

この航空機は大変貴重なもので、元々はソ連で造られ、その後
ポーランド空軍で使用されていました。
この機体がいつ、いかなる事情でアメリカに来たかはわからないそうです。

ところでこのイリューシン、内部がまだ生きている、つまり飛行可能です。
エアショーなどで飛行させる計画をしているのですが、問題は

英語の操縦マニュアルがない
(ので飛ばせない)

ということだそうです。
IL-14が配備されていたインドとエジプトでは英語のマニュアルが配られていた、
ということなのですが、それが現存しているかどうかも分からない状態。

というわけですので、これをお読みの方の中でもし英語のマニュアルを
持っている方があれば当博物館に連絡してあげて下さい。 



F-4C Phantom II

1995年に当スタッフがこの機体をシエラ陸軍デポ
発見したとき、もう少しで砲術訓練の標的にされる運命でした。


カリフォルニアの北部にレノという街があります。
タホ湖という、冬にはスキーも出来る湖の近くにあるカジノの街で、
このあたりは普通のホテルであってもロビーがカジノだったりします。
わたしは一度カリフォルニアとネバダの州境に立っているため
「カルネバ」とまるでレバニラのような名前をつけられたホテルに
泊まったことがありますが、そのことを先日知り合った
トルコ人のエンジニアに話したところ、おじさんは

「そこはJFKとマリリンモンローの密会の場所だったんだよ」

と実にどうでもいいことを教えてくれました。
ちなみにこのおじさんはホールフーズのイートインで近くに座ったときに
声をかけてきたのでお話ししたというだけの人なのですが、
やたら懐いてきて、やれディナーをとか
やれ週末にサンフランシスコに連れて行ってあげるとか(知ってるのに)
盛んに誘いをかけてきたり、スシの話になったときわたしが

「日本に今度仕事で来ることがあったらわたしと夫が
世界で一番おいしいスシをごちそうしますよ」

とお愛想でいったところ、

「いや、わしゃあんたの旦那には別に会いたくないから
あんた一人で案内してくれ」

と言ったり、落馬の話になって手首をちらっと見せたら
いきなり怒濤の勢いで手を握ってきてものすごく気持ち悪かったので
それっきり連絡先を教えていません(笑)

せっかく前半トルコ航空の話とサビハギョクチェンの話で盛り上がったのに・・。



話がそれましたが、なにしろそのレノにある陸軍基地に
この機体は
もう一機のファントムIIとともに放置されていました。
軍当局者はそれを処分することにし、その受け入れ先を探していたところで、
そこにこのミュージアムが立候補し、そのうち一機を獲得したということです。


ベトナム戦争の主力戦闘機はF−4ファントムIIでした。

冷戦期の代表的な戦闘機で、ベトナム以降西側諸国で使用され、

我が自衛隊でもライセンス生産による導入がなされました。

「野生のイタチ」とあだ名されたファントムIIも、より高速で
より機敏で、より優れたアビオニクスが搭載されたF−16sやF/A-18s
その座をゆずって行くことになります。



コクピットの下に書かれたパイロットの名前は、この機体823の
最後のクルーであろうと思われます。



ミュージアムのクルーは、精魂込めてこの機体をレストアしました。
エアインテークのカバーに描かれたこの絵を見よ。

スナフキン?のような爆弾人間は、その旨に「II」と描かれ、
これがファントム (怪人)であることを表わしています。

ちょっとやり過ぎ、と思われるくらい、レストアクルーが
このペイントに力を注いだ様子が見て取れますね。 



説明プレートの下に


「ここはファントム専用駐車場」

というお知らせが(笑)



ところでこの823ファントム、つまり標的にされそうになる前には

こんなこともありました。



これ、どこで撮られた写真だと思います?
横田基地なんですよ。
1969~70年に駐留していた「405TFW」として、ということですが、
この「TFW」って、戦闘機パイロットのトレーニング、
「トレーニング・フォー・ウォリアー」のことですか?

ちなみに超余談ですが。

アメリカの2ちゃんねるに相当する4channelのミームでは、
「tfw」=「that feeling when」
「tfw no gf」だと「彼女がいないこの気持ち」となります。
何かのご参考になさって下さい。


それはともかく、いまここサンタローザで観ているファントムIIは、
かつて日本にいたことがあったというわけです。



後ろから見ると、きっかり垂直尾翼と水平尾翼が・・・・・、

いや、これは水平尾翼ではないですね。
何しろ、120度で三分されているように見えます。

こういう尾翼を「逆V字尾翼」とでも呼ぶのでしょうか。
八の字に曲げられた尾翼のは旋回する方向にローリングさせるため、
空力特性、ステルス性の両面で有利であるとされますが、
また同時に離着陸時に尾翼を損傷する恐れが高い、と言われます。

そのため尾翼が主翼よりも高い位置にありますね。

もしこの位置の尾翼が水平だった場合、迎え角を大きく取ると主翼の後流が
尾翼の効果を打ち消して急激な機体の頭上げ(ピッチアップ)を生むため、
尾翼には大きな下反角をつけることで対処しています。




エアインテークの前にあるこの部分を

「スプリッターベーン」

といいます。
ファントムIIに使用されたエンジンは当時最新鋭の

ゼネラル・エレクトリック J79」。

当時としては強力な推進力を生むものでしたが、それがため
エアインテーク周辺にマッハ越えのときに生じる衝撃波が、
エアインテークへの空気の吸引を妨げるという弊害を起こしました。

つまり機体表面に流れている境界層と呼ばれるごく薄い空気の層
通常の空気と共にエンジンに吸い込んでしまうと、
エンジンの効率が下がり性能低下を引き起こすのです。


そこでスプリッターベーンという細かい穴の開いた板を
エアインテークの直前に置き、ここから境界層気流を
吸い込んで裏に流してしまう、ということが考えられました。



上の写真の一部を拡大してみました。
この無数の穴から境界層のインテークへの侵入を防ぎます。

それで衝撃波を緩和することをも防ぐことができるというわけ。



スプリッターベーンの内側に隙間があるのがお分かりでしょうか。
この隙間は50mmとされており、インテークへの境界層の進入防止とともに
境界層の吸入による振動(バズ)を防ぎます。



ミュージアムのHPを見ると、スタッフは機体の発見、獲得から始まって
渾身のレストアを施したこのファントムIIを「our baby」と呼んでいます。

さて、もう一度最後にスプリッターベーンをご覧下さい。
赤に黄色で縁取られた星が4つ描かれています。

これは元々823機に付けられていたものを、レストアクルーが
ペイントする際に復刻させました。
オリジナル塗装ではおのおのの星に年月日が書かれ
星の下部には

「於べトナム 第8TFW ロビン・オールズ少佐」

と記されています。
これはオールズ少佐が撃墜した北ベトナム空軍機の撃墜マークなのです。

撃墜マークを復活させておきながら、具体的に敵機を「いつ墜としたのか」を
機体に残すことをしなかったのはなぜでしょうか。






 


パシフィックコースト航空博物館~デルタダートとサンダーチーフ

2014-08-11 | 航空機

昨日、テレビのHDチャンネルをつけていたら、

「ウルヴァリン SAMURAI」

が始まりました。
今年の公開で日本が舞台であるため劇場に見に行った映画ですが、
導入部は、ウルヴァリンが1945年の長崎に生きていた当時、
陸軍の青年将校であったヤシダを身を挺して原爆の爆風から守る、
というものです。

そのことから息子に長崎に投下された原爆の話をしているとき、
ふと、その日が8月9日であることに気がつきました。

この日この放映を見た人のうち、どれくらいがそれに気づいたか
わかりませんが、そういうことを意図して企画した「中のアメリカ人」
もいるのだなあと、小さなことですがなぜか少し安心しました。 


さて、先日訪れたサンタローザのパシフィックコースト博物館見学記、
続きと参ります。
 

Convair F-106 Delta Dart


1950年初頭、空軍がコンベア社に開発を依頼した要撃機は

計画が遅れ、1954年の期限までに納入される見込みはないということから、
空軍は同社から暫定的な要撃機を導入することにしました。
それが

F−102A デルタダガー

といいますが、これが最終的にF-106 デルタ・ダート
と命名されました。

空軍のこの機体への要求性能は 

最大速度マッハ2以上、
上昇限度2万1300m以上、
戦闘行動半径378nm以上

というたいへん厳しいものでした。

しかし最初のプロトタイプはたいへん残念なパフォーマンスで、
速度はマッハ1.9、上昇限度1万7370m

しかもマッハ1を超えてから最高速度にたどりつくのに
4分30秒もかかることが判明したのです。
これではとても要撃機の役目を果たすことはできません。

というわけで、その後継続的なエアインテークの開発を重ねたのち、
完成した277機の単座、63機の複座の機体が空軍に調達されました。



少しこの写真では分かり難いですが、翼の前縁には

コニカル・キャンパー

といわれるわずかな垂れ下がりがつけられています。
これは迎え角の大きいときに飛行機の失速を防ぐ仕組みです。

このコニカル・キャンパーを大きくした高揚力装置を
スラット(英語ではslats)といいます。

スラットといえば、ここスタンフォードにはコメント欄で少しだけ話題にした
Linear Accelerator研究所がありましたね。



わざわざ写真を出してきてまでボケてみる。
それスラット違うスラックや。
しかしボケついでに少し余談をしておきます。

この入り口の表示には

NATIONAL ACCELERATOR LAVORATORY

OPARATED BY STANFORD UNIVERCITY FOR THE
U.S. DEPARTMENT OF ENERGY

とあります。
SLACというのは

Stanford Linear Accelerator Center

という最初の名称の略なのですが、名称が変わった今も
最初のこの略称が使われているそうです。

で、雷蔵さんのコメント後、あらためて気がついたのですが、
何と、いつも使っていた高速道路の出口付近には何カ所にも

「SLACは次の出口」
「SLACは次を左」「SLACは→」

というような案内が緑に白地の表示(大学や野球場など、
人がたくさん集まるようなところの案内)でされていたんですよ。



今まで何回もそこを通ってきているのに、SLACを意識したとたん
今まで全く見えてなかったそれが急に見えてきたんですね。


これは認識と知覚のメカニズムについての面白い実験結果です。
人はいかに自分の関心事以外には認知する働きを停止しているか、
ということを表わしているのではないかと思った次第です。

そこで俄然我田引水です。

A−6とEA−6Bの機種判定が問題になったとき、

パンフ等で展示機の(せめても)機名・型式名を
確認してきてくれさえすれば、毎年繰り返されずに済む
喜劇もとい悲劇(^^)ではなかろうか」


と「うろうろするあれあれさん」に言われてしまったわけですが、
わたし、どちらもちゃんとやっているつもりなんですよ。

ただ、現地にいるときにはだいたい時間が限られているので、
とにかく確認より何より写真を的確に分かりやすい順番で撮ることだけ
心がけ、照合は後で写真を見て行う、ということにしているのです。

まあ、「うろうろするあれあれさん」のおっしゃるとおり、

現物を見る時点で機種がわかっていれば避けられる間違いなんですが、
案外いい加減な現地のパンフやHPに判定を惑わされてしまうと、
間違いを認識するのに大変困難を要するということなんですね。



と、こじつけの余談でいいわけをするエリス中尉でしたが次に参ります。

先が尖っているので赤いカバー(のようなもの)
を付けたノーズは、地上管制システムとデータリンクするための仕組み。
ドローンの先が親の敵のように尖っていたのと同じような理由です。



なぜ「デルタ」「ダート」なのか、上から見ると分かりやすいですね。
これはどう見てもダーツです(笑)
ちなみに、当機を改良後、さらに戦術航法装置などを書き換えるなどの
手直し作戦を

「ダートボード作戦」

と言ったそうです。
こういう作戦の名前には中の人が楽しんでつけたような
シャレの効いたものが時々ありますね。 


胴体の真ん中にくびれがあるのがお分かりですか。
これを

「エリア・ルール」

といい、音速を超えて飛ぶ飛行機の抵抗を軽減する仕組みです。
ちょうど翼があるところで断面積が急増することによって空気の抵抗が生まれるため、
これを緩和するのが目的です。

そしてコクピットの風防をご覧下さい。
完璧に三角です。



横から見ると窓が三角形。
しかしこれは・・・もしかしたらコクピットに座ったら

正面が見られないのではないだろうか。

三角形のフレームがちょうど前にあるわけですから。
いやー、現地では全く不思議に思わなかったけど、こうして見ると
実に不可思議な構造の風防ですね。
座席に座ってどんな風に外界が見えるのか、是非「コクピットデー」
には試してみたいものです。アメリカに住んでないと無理ですが。

スプリッターベーンの無数の穴といい、黎明期の超音速機というのは
今にしてみればとんでもない仕様をあれこれと工夫している様子がよくわかります。
技術革新と共に素材の発明でそれらは全て解決されていったわけですが、
こんなところに先人の努力の跡が窺えます。



ARMAMENTとは軍装や装備のことですが、何も描かれていません。
この角を生やした毛むくじゃらの部隊マスコットの装備を
乗員がいろいろと面白がって書く欄だったのではないでしょうか。

ところで、この機体の説明板には、

IN HONOR OF AND REMEMBRANCE OF
Major General Jimmy J. Jumper


と書かれています。
メイジャー・ジェネラルは米陸軍における少将で、海軍では
少将をリア・アドミラルといいます。
ついでに、海軍では上から

アドミラル・オブ・ザ・フリート(元帥)のもとに
アドミラル(大将)
バイス・アドミラル(中将)
リア・アドミラル(少将)

となります。
海自はアドミラルが幕僚長に相当するので元帥のカウンターはありません。
陸軍でも元帥はなく、

ジェネラル(大将)
ルテナン・ジェネラル(中将)

そしてジミー・ジャンパーのメイジャー・ジェネラルとなります。
ジャンパー少将は統合任務功績章を授与された軍人で、
その息子のジミー・ジャンパー少将は現在統合参謀本部のチーフ。

おそらく、とう博物館にも深く関与しているのだと思われます。

当機は、ラングレー空軍基地にあったジャンパー少将の要撃隊、
第405飛行隊に敬意を表しています。




この隣には次に説明するF−105サンダーチーフが置いてあります。
実はデルタダートとサンダーチーフは同じエンジンを積んでいるのですが、
デルタダートの翼面積はサンダーチーフの2倍くらい大きなものです。

にもかかわらず、重量は若干こちらの方が軽かったそうで、従って
格闘能力は当初の予想を上回るほど優秀。
MiG-21 と同じような特性を持ち、ベトナムに派遣されていた
ファントムII
の仮想敵機として訓練に使用されたほどでした。

wikiによると

”F-106 の加速力と低翼面荷重による高空での高い運動性能は
F-4 パイロットをてこずらせたといわれている”

とのことです。



デルタ・ダートは冷戦時代の防衛を目的に生まれ、
20年間その任に当たり、1988年に退役しました。
翌年の1989年、ゴルバチョフとブッシュ両大統領の間で
冷戦終結の宣言が採択されています。

冷戦時代を象徴するような戦闘機と言えましょう。




REPUBLIC F-105 THUNDERCHIEF

先ほどお話ししたようにF−106とは同じエンジンを積んでいますが、
翼の形や全体のシェイプが全く異なります。
見た目は全く戦闘機=ファイターですが、軽爆撃機仕様で
この細い機体に爆弾槽を備えており、

「FとB(爆撃機)を付け間違えたのでは」

という軽口が奉られたりした、マルチロールのさきがけ的存在です。



サンダーチーフ、というのは雷の部隊の大将という意味なので、
いわば雷王ということにでもなりましょうか。
どうもチーフという言葉のイメージが軽い気がする日本ではイマイチの
ネーミングである気がしますが、それはともかく、このサンダーチーフ、
あまりにもニックネームが多いことでも有名です。

Thud 「どさっ」 “雷が轟音を立てて落ちる”(大量の爆弾を投下することから)
Thunderthud  「落雷」(同じ)

Hyper-Hog 地面を掘り返すもの”(“凄い豚(猪)”)
Ultra-Hog (同じ)

Squash Bomber ”握りつぶす(ように爆撃する)爆撃機”
Iron Butterfly ”鉄の蝶”
The Nickel ”5セント硬貨”(機体の平たいこととセンチュリーシリーズの5番目だから)
One-Man Air Force ”一人(で全部やってしまう)空軍”
Triple Threat ”3つの脅威”(戦闘、爆撃、核攻撃をこなす多用途性から)
Republic Iron ”リパブリック社製鉄鋼製品”“リパブリック鉄工所”(頑丈だから)

どれもこれもこの飛行機に対する敬意と驚嘆が含まれているものばかりです。
いかにパイロットたちに評価が高かったのかがわかりますね。




ベトナム戦争に投入されたしょっぱなに、たまたまMiG-17に撃墜されたため、
これはだめかもわからんね、と思われてF−100(マッハ1)に護衛される、
という屈辱的な時期もありましたが、その後その雪辱を果たすという気概に燃え
彼らは果敢にMiG−17に立ち向かい、撃墜記録をあげることに成功しました。 

しかし空戦のときには爆弾を棄てねばならなかったため、
撃墜記録にこだわって爆撃を二の次にしたきらいがないでもありません。

北ベトナム空軍は結果として米軍の空爆を阻止することが出来たわけで、
むしろそれが目的で出撃していたという話もあります。 

先日お話しした陸上自衛隊の広報館には、ヘリや戦車、自走砲
などの装備が展示してあって、これはおそらくどれも動的展示ですが、
歴史的な航空機、特に戦闘機でまだ飛行が可能であるものがあるのは
アメリカならではかもしれません。

このサンダーチーフは、2011年の航空ショーのときに動的展示され、
ワインカントリーの上空にその翼を翻し飛翔しています。



レッドリバーショウボート
レッドリバーバレーなんて曲がありましたね。
キャプテンがテキサス出身なのでしょう。



otter(カワウソ)1とA Mean Bear(意地悪クマー)
かつてこのサンダーチーフに乗ってベトナム戦争を生き抜いた
パイロットたちのタックネームでしょうか。


サンダーチーフは北爆の主力として使用されたD/F型総生産数751機のうち、
385機、つまり半分が戦闘や作戦中のトラブルで失われています。

まさに、ベトナム戦争に殉じた戦闘機といっていいでしょう。



 


キャッスル航空博物館~B-24リベレーター「ロンサムレディ」の乗員

2014-08-09 | 航空機

キャッスル航空博物館に到着して車を停めると、駐車場に向けて
フェンス越しにノーズを向けているので最初に目につくのがこのリベレーターです。

B-24リベレーター LIBERATOR

このリベレータ―とは、最初のLIBERが自由の意である「Liberty」からきていることから
分かるように、「解放者」という意味を持っています。
「(自由に向けて)解き放ってくれる人」というところですか。


前回キャッスル航空爆物官のB‐17からご紹介を始めたのですが、実はこの博物館、
展示コースの一番初めがこのリベレーターからになっています。

米国コンソリデーテッド社による開発で、B‐17の後継のような形で1939年に初飛行をしました。

もともと、コンソリデーテッドには、B‐17のライセンス生産が持ち込まれたのですが、
コンソリ社が「だが断る」として、新型の爆撃機開発にこだわった結果、
このリベレーターが生産されることになりました。

B‐17が航続距離が短いという欠点を補う仕様にしたため、後継機として
オーストラリアなどから投入され始め、日本軍とはその後ニューギニアで運用されるようになってから
交戦され始めています。

以前「パンツ一枚で初撃墜」というエントリで、海軍搭乗員の小高登貫氏が
このコンソリデーテッドを撃墜したという話を書いたことがあります。 
小高飛曹が照準を向けたそのコンソリデーテッドB-24は

「シルバーの機体に、赤、白、青の米軍のマークが浮き出ていた。
こんなにきれいな機体に機銃を打ち込んでいいものか迷った」

というものだったようです。
この「シルバーの機体」というのは、どうやらここにある陸軍の運用していたカーキとは
違う塗装のされた、 PB4Y-1リベレーターだったのでしょうか。

さて、当ブログではほかにもリベレーターが登場しているエントリがありまして、

 敵機に帽を振れ」より

この機体を見たときに、「あれ、どこかですごく見たことがあるぞ」
と思ったのは、この時に漫画に描いたからだったんですね~。

しかし、このときにまるでパイロットが一人であるかのように

敵機に帽を振れ」より

こんな操縦桿で描いてしまったのですが、もしリベレーターだとしたら



操縦席これですからね。
この場合、板倉艦長以下伊潜の乗員に帽子を振られて爆撃を中止したのは
操縦員ではなく、爆撃手だったということになりますね。
だって10人も乗っているわけですから。

この厳然たる事実を突き付けられて、この時の様子が
このように訂正されなければならないことがわかりました。

機長「ジャップノサブダ!バクゲキシュ、ダンヤクソウトビラアケ!」
爆撃手「イエッサー!」
機長「 ジャップメッ!パールハーバーノカタキヲトッテヤル!」(ここ一緒)

機長「ッテ・・・・アレ?」
コパイ「キャプテン!テヲフッテマス!」
機長「デイブ!ストップ!ストーーーップ!バクゲキチュウシ!」
デイブ「イエッサー!・・・・テカアレジャップデスガ、サー」

機長「ワ・・・・・・ワット?」
デイブ「ジャップガボウシフッテルンデアリマス、サー」

機長、副機長「・・・・・テヘペロ」

デイブ 「テヘペロジャネエ!サッサトUターンセンカイ!サー!」

こうだったんですね。ええ。
マンガがややこしくなるので訂正はしませんが。

・・・・・・・・・・・・・・・。

さて。

ここにあるバージョンは、コンソリデーテッドが最後に作った機体だそうです。
わたしのブログでさえもこれだけ活躍しているくらいですから(笑)
実際にもこのB-24は第二次世界大戦のいろんな場面で使われました。

生産された台数も膨大なもので、アメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の
18,431機が終戦直前まで生産され、これに海軍向けの1,000機近くが加わります。

ちなみに先ほどのB-17は約13,000機で、B-29の生産機数は約4,000機。
第二次世界大戦中に生産された米国爆撃機の中で最多ととなっています。


この量産体制に大きく寄与したのが自動車会社のフォード社

当時、普通の航空機会社がこれを一日に一機作れるところを、
フォード社は一時間に一機のペース、しかも24時間体制でB-24の生産に当たりました。
全生産数のうち半分弱の8000機以上がウィロー・ラムのフォード社で作られています。



この無茶な体制で工場を稼働させたせいで、
フォード社社長であったヘンリー・フォードの息子、エドセル・フォードは、
心労のため胃をやられ、せっかく大企業の御曹司に生まれたイケメンだというのに、
わずか49歳の若さで胃癌のため急逝しています。
これも一種の戦死、というやつでしょうか。

合掌。



機体に爆弾を積むときに牽引する車まで展示されていて親切です。

さて、コンソリデーテッドはもともと水上機を研究していた会社なので、
このフォルムがなんとなく飛行艇のように見えてしまうのですが、
どういうわけか、水上に不時着したリベレーターの様子を撮影した映像が
残されているのを発見しました。




 

模型実験

コンソリが作ったせいか、不時着水がごく自然に・・・・・。
しかしそれでも微妙に後ろから着水した結果、機首が上を向き、
次の瞬間それが水面に叩きつけられて機首部分、つまりコクピットのところが
ぽっきりと折れてしまっています。

しかし、二人のパイロットはそこから全くぬれずに出てきて、
しかもそのうちのスカした一人はポケットから櫛を出して髪の毛を撫でつけているのが見物です。
(4分05秒の部分)

二つ目のは模型で実験しているのですが、模型の着水の様子と
実際の着水の様子が寸分違わず同じで、ノーズが折れるところまで予測できていたということです。

うーん。

この実験はもしかしたら、
「実験の結果は信用できる」
ということを証明するための実験?

 


ノーズが折れるところまで予測しているなら、
折れないようにしてからフルスケールで実験しろよっちう。 






爆撃のミッションが19回。
撃沈した敵艦船、2隻、
そしてハーケンクロイツが4つというのは撃墜したルフトバッフェの機体数でしょうか。

当初は航続距離が短いので日本の本土空襲には使えなかったとされるB‐24ですが、
硫黄島で日本軍が玉砕して以降、この機体でも本土に空襲することが可能になりました。

昭和20年7月28日には、沖縄から飛び立ったB-24リベレーターのうち2機、
「ロンサムレディ」と「タロア」は、戦艦「榛名」を攻撃中に被弾して墜落、
乗組員は捕虜になりました。

彼らが収監されていたのは、一週間後には原子爆弾が落とされた広島でした。


そして今日からちょうど69年前の1945年8月6日。

広島に彼らの同僚であるアメリカ軍のパイロットによって原子爆弾が落とされます。
たまたま尋問のため東京に移送されていた隊長はじめ三人以外は、全員が死亡しました。


実はアメリカは原爆投下前にイギリス軍から「広島には米軍捕虜がいる」という報告を受けていましたが、
投下予定をそれで変えることは全く考えなかったようです。




あと、リベレーターが高射砲によって翼がやられ撃墜される瞬間の映像を見つけました。



B−24が日本軍の高射砲で撃墜される瞬間


このような瞬間を見るとどこの国の飛行機であっても胸が詰まります。



上記の広島での被爆した米軍兵ですが、なぜか橋のたもとに、
死体が全裸で放置されていたという証言があります。

それをみた通りがかりの人が棍棒を振り上げて殴ろうとしたのですが、
最後の瞬間でひるんでしまってどうしても強く叩けなかったそうです。

自国の容赦ない爆弾によって殺されてしまった米兵に対し、
ただ敵として憎むには忍びない「憐れ」がさせたことだったのでしょうか。


本日は8月9日。
広島と長崎に原子爆弾が投下されてから69年が経ちます。








パシフィックコースト航空博物館~ブラックバード乗員の憂鬱

2014-08-07 | 航空機

ワイナリーの集中するここサンタローザは、ワイン製造に適した気候で
ワイン好きにも評価の高いワイナリーを生み出しています。
どういう気候がそれでは適しているのかと言うと、地中海性気候、
年間の降雨量が多すぎず日照量が十分であること。

たしかにカリフォルニアは夏の間雨が降りませんし、日照量に関しては
外を歩くだけで火傷しそうな暑さからも十分だと思われます。

湿度は少ない方が良し。
なぜならワインに適した土壌はそこそこ痩せているものだからです。
この辺りは湿度が低く昼間の暑さとは打って変わって夜になると
温度ががっくりと落ち、外では火のそばにいたいくらいになります。

湿度を「不快指数」ともいうように、夏は特に湿度が低い方が
人間にとって体は楽に感じますし、わたしもここでは
その気候を楽しんではいますが、あるとき

「日本人の肌の美しさはその湿度の多い気候にある」

と聴いて、悪いことばかりではないのかなと思った次第です。
湿度だけではなく水質も要因なのでこれも一概には言えませんが。


さて、そんな気候のもと、ちゃんと帽子で日よけをして
わたしはミュージアムフィールドを回って行きました。

ちょうどお昼の時間で、機体のメンテをしていた人たちは
(5人くらい)日陰でサンドイッチなどを食べ出し、わたし一人です。




Grumman A-6 IINTRUDER

これは説明を見なくてもこの触角ですぐ分かってしまいますね。



イントルーダーのスポンサーは「クローバー」という乳業。
カリフォルニアではこの牛のイラストと共に有名な企業です。
特にこのメーカーを選んだつもりはなくても、冷蔵庫には
一つはこの牛さんのパッケージが入っている、という感じ。

因みに今部屋の冷蔵庫にはクローバーのカッテージチーズがあります。



さいしょこれをイントルーダーだと言い張っていたわたしですが、
雷蔵さんの信じられない眼力とその指摘により
これが

The EA-6B Prowler

であることが判明しました。
謹んでこれまでの間違いをお詫びいたしますと共に
雷蔵さんに心から感謝する次第です。

プラウラーというのは「うろうろする人」という意味で、
あまり強そうに聞こえないのが問題ですが、上の
EA−6の搭載量の大きさを利用するため、電子戦に使えるように
改良したのがこの機体だったのでした。



海兵隊所属です。
イントルーダーと同じように、海軍と海兵隊が運用しました。
海軍においてイントルーダーはベトナム戦争、湾岸戦争など、艦載機として
アメリカのかかわった戦争ほとんど全てに投入された、とされますが、
海兵隊の実戦投入については説明がないのでわかりません。



お腹の部分に突き出ていた透明のケースのなかの物体。

これはなんでしょうかね。
目標探知攻撃複合センサー、TRAMというものではないかと思ってみたのですが、
どこを探してもこのトラムの画像が見つかりません。

ところで、モデルメーカーのハセガワは1:72スケールのこのイントルーダーを
10000円(消費税別)で販売しています。
いまどきのプラモデルってこんなにするんですか!
それはともかく、その説明に

A-6Eは、A-6Aの電子機器の能力向上型で、
レーダーも強力なものに換装されています。
なかでもA-6E TRAMは、目標探知攻撃複合センサーを
機首下面に装備して、

攻撃精度の向上がなされています」

とあったりするのを見ても、おそらくこれがTRAMではないかと思われます。
が、ハセガワのモデルイラストを見たところ、この部分には
レドームのようなこぶができているだけなのです。

この透明の部分がTRAM本体なのかどうか、どなたかご存じないですか。



スコードロンマークはバイキングと剣、そして稲妻。



Mk82にたくさんサインがあります。
AM2(AW)とか書いている人が多いのですが、これで検索すると
どうやら階級で、

 Petty Officer Second Class AD2 (AW)

などと表記するようです。

AWとは

Aviation Warfare System Operators

のことのようなのですが、いまいち確信がありません。





飛行時に必ず取り外さなくてはいけない部分には、このような
赤いタグ(ストリーマーというらしい)をつけますが、
栓?を外さなければ作動しない爆弾なのでしょうか。

ストリーマーが新しく最近つけられたようなのでただの安全対策?



翼の下に抱え込まれているので先端が危険という感じはしませんが、
何しろここの特色として、航空機にはどんな近くで見ても、
翼や機体の下にもぐりこんでもOKという展示方法なので、
(そのため翼の下部ハッチなどを開けっ放しにしてある)
やはり万が一のことを考えて安全対策をとっているのでしょう。







足元は舗装していないしこういう危険物もありますが、
アメリカらしく全ての危険回避は自己責任でお願いしているようです。

くねくねした山中の道路も、自然公園の山の斜面のトレイルも、
ほとんどの池や湖、河に至るまで、自然環境を破壊してまで
安全のための無粋な柵など作らないのがアメリカ人。
航空機も「触って減るもんでなし、好きにやってくれ」という態度です。

しかしさすがにこの針のようなドローンのノーズは、
そのままにしておくと転倒などでとんでもない事故になりかねないので
先端にアクリルの板を設置してあります。
それでも触ろうと思えばその恐ろしいほど尖った先端に触れます。

どうしてこの先端がここまで偏執狂的に鋭くないといけないのか、
それに関しては全く説明がないのでわかりませんでした。



Dー21 DRONE SPECIFICATIONS

こちらの度ローンの先端にはゴムのカバーがつけられています。
ロッキード製のマッハ+3偵察無人機です。

この無人機、A−12の背面からの射出が想定されてCIAの要請で開発されました。
高解像度のカメラを1台搭載しており、あらかじめプログラミングされた
地点での撮影後、洋上にカメラモジュールごと投下するシステムです。



翼の下に牽引されているドローン2機。

実戦では、中国の核実験場の偵察を目的に1969年から2年の間、
4次に亘る偵察作戦、

「シニアボウル作戦」

に投入されましたが、4度とも違った理由で失敗しています。

いずれも行方不明になったり帰ってきても回収できなかったり。
後で分かったのですがそのうち1機はシベリアに落ちており、
4機のうち2機は旧ソ連が鹵獲してそれをもとに似たような物を
作ろうとしたが失敗したとか何とか。

そうこうしているうちに写真偵察衛星が開発され、またニクソンが
中国に歩み寄り政策を取るようになったため、計画は白紙撤回されました。

全部で38機のDー21を含むドローンが製造され、そのうち21機が使用されています。
作戦中止後、残りは全て博物館の展示用に譲渡されましたが、
ここにあるのもその一つというわけです。



この内部にもありますね。すっかり色褪せたストリーマーが。
これ、何の輪切りだと思います?



このまるでエイのようなぬめっとした感じは・・・。

 

 LOCKHEED SR−71 BLACKBIRD 

そこで即座にヒラー航空博物館の写真を出して来る。

沖縄の嘉手納基地に最初に配備され、ベトナムでの偵察を行いました。
沖縄の人々はこれをその形状から

「ハブ」

と呼んでいたそうです。
夜しか出撃しないし、さぞ気味悪がられたんだろうな(笑) 

こんな凶悪な?風体をしていますが、こう見えて偵察機。
ステルス性もマッハ3の高速も、ブレンデッドウイングボディも、
ミサイル攻撃を回避することに目的が置かれています。

与圧が十分でなかったため高高度飛行に備えて乗員は
まるで宇宙服のような与圧スーツを着用しましたが、これは
自分でシートベルトを締めることも出来ず、そもそも脱げないので
なんと、常に紙おむつを着用していたそうです。

黒光りする異様な威容を湛える最新式のステルス偵察機。
実は乗員全員ダイアパー着用、という現実が泣かせます。 


これ・・・・搭乗員の士気が落ちる原因にならなかったんでしょうか。




VOUGHT F−8U CRUSADER

このクルセイダーについては、

ラスト・チャンス、ラスト・ザ・ガンファイター」

というエントリでかなり入れこんで?お話ししましたが、
そのとき書きそびれたのは、この「ラストチャンス」、つまり
ダメダメ航空機カットラスの後に社運をかけて開発したこの飛行機のあだ名は
文字通りの「ラストチャンス」であったとともに、ヴォート社の創始者
Chance M.Vought の名前に引っ掛けてあったということです。

ヴォート社の当時の正式社名は「チャンス・ヴォート」だったんですね。

ここにあるクルセイダーは、20年もの間サンフランシスコ市内の
児童公園で遊具となっていたそうです。

まじか。
戦闘機を玩具に払い下げてしまうとはさすがアメリカ。




しかしながらそんなところにあるゆえに落書きだらけにされ、
近所の人々から目障りだと文句が出る始末。
写真はそのときのおいたわしい様子です。
これは酷い。

そこで当博物館が引き取り、レストアして展示することにしました。



19thストリートの公園からやってきた経緯が
写真で説明されています。
この塗装も内装も、当博物館の修復チームの渾身の仕事。

だから、シャークの眼の位置が少し変だとかいうツッコミはなしね。



実は、このときクルセイダー、修復中だったのです。
何をしているのかさっぱり分かりませんでしたが、
機体脇にはいろいろな装備が置かれ、しかもモーターは
ブイーンという音をさせたままでした。



わたしがちょうどこの近辺の写真を撮りつつ歩いていたとき、
修復作業をしていたらしい何人かのアメリカおじさんたち(60代かな)
がお昼休憩を取ることにしたのか、クルセイダーの作業をやめて
引き揚げて行くところでした。

その中の一人がわたしに

「熱心に写真撮ってるね!」

とニコニコしながら声をかけてきたのですが、何と返事していいか分からず
ジャパニーズスマイルを返しておきました。



S−2TRACKER

トラッカーの説明をするのは2度目だったような気が・・。



いや、入り口近くに置いてあったこれはトラッカーではなかったんですね。
でも似てるなあ。



スコードロンマーク・・と思いきや、このトラッカーは
カリフォルニアの森林管理局が運用していたようです。
こちらにくるとしょっちゅう森林火災のニュースが流れますが、
昼間のまるで着火しそうな暑さに加え、植物がまるで干し藁のようなので
火事が起こりやすいようです。

実は昨日、ミルピタスというところに行ったのですが、その帰り、
サンノゼに向かう高速の脇の草地が事故でもないのに燃えていました。
その直前に追突でほとんど車体がくの字に曲がってしまう事故があり、
ただでさえ酷い週末渋滞で5車線の道路が酷いことになっていたのに、
さらにこの火事で追い討ちをかけるように・・・。

関係ありませんでしたね。

とにかく、そんな感じで専門の部署を設けなければならないほど、
カリフォルニアに取って森林火災は深刻な問題なのです。

トラッカーがどんな運用をされていたのかわかりませんが、おそらくこれは
軍から引き渡され、偵察機として二次利用されていたのではないかと思われます。

 

さて、この日、そこここで見たストリーマー、
ギフトショップでミュージアム名をプリントしたものを見つけたので
記念に買って帰りました。

とりあえず、家の中の危険箇所に使ってみようっと。ってどこだよそれ。




続く。


 


パシフィックコースト航空博物館~「ファイナルカウントダウン」と「スコシ作戦」

2014-08-05 | 航空機

サンフランシスコを北上、ワインカントリーであるナパ、ソノマ地域に
ある民間空港、チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港。

その一角にこの航空博物館はあります。

外に置きっぱなしの展示といい、寄付だけで賄われている感じといい、
いかにも退職老人の再就職先になっていそうな感じといい、
空港の片隅にある博物館にありがちな手作り感満載の小さなものですが、
いずれにせよわたしはキャリー・ブラッドショーが(今テレビでやってる)
マノロ・ブラニクのバーゲン会場を目の前にしたような気持ちで
この宝の山に脚を踏み入れたのでした。



マクドネルダグラス F−15 イーグル

前回911現場であるNY上空に航空機突入の時間駆けつけていたとして

「彼らは英雄かもしれないが、却ってこれは陰謀説を裏付けないか」

と書いてみたのですが、まあ、この話は軽く受け流して下さい(笑)
それより、このイーグルがどこから飛んで来たかと言うと、
バージニア州のラングレー空軍基地。
約600キロで、ちょうど東京大阪間くらいです。

確かに車なら7時間の距離ですが超音速戦闘機なら15分で来れますよね(棒)
2機目の突入のときだって、たぶん軍は捕捉していたはずですよね(棒)

それはともかく。


F−15はその後退役が進んでおり、現在軍使用されているのは
ネバダ州のネリス空軍基地のみです。

そもそも高価すぎてサウジとか日本とか、お金持ちの国にしか
買ってもらえなかったという戦闘機なんですね。



元々のペイントがうっすらと透けて見えています。
「ケープコッド」とあるのですが、F−15イーグルの名前としては
あまりイメージが合っていないような・・・。

パイロットがボストンのこのペニンシュラ出身でしょうか。



 コクピット下にはパイロットの名前を書く慣習がありますが、
ここに書かれた名前には軍階級がありません。

F−15は過去の空戦で撃墜されたという記録がなく、
現地の説明によると「100以上の空戦に勝利している」そうです。 



実はこの航空機には案内板がありませんでした。
展示マップにも該当場所には何も書かれていないので、
おそらく最近導入した展示ではないでしょうか。

しかし、今のわたしにはたちどころに機種がわかってしまうのだった(笑)

まずこの無理矢理な翼のたたみ方。
これは間違いなく艦載機の特徴ですね。



海軍所属で、おまけにホーネットの艦載機、と書いてあります。
これは

Grumman S-2 TRACKER

だと思われます。
去年の夏空母「ホーネット」を見学し、ハンガーデッキにこのトラッカーが
非常に肩身の狭そうな様子で展示されていたのを思い出しました。

そのときも書いたのですが、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
このトラッカー、搭乗員たちからは不満続出だったということです。

ところでたった今画像を見て気づいたのですが、このトラッカー、

MADブームがついていません。



お尻の部分を拡大してみると取り外されたように見えないこともありません。
このトラッカーは対潜用に作られたので電子戦の装備があり、
必ずブームをつけているのだと思っていたのですが・・・。

(追記:
その後読者諸氏のご指摘によりこれは

S-2 の機体を改造したC-1トレーダー

で、 
共通の機体として 他に

E-1トレーサー 

と言う早期警戒機が製作されているらしいことがわかりました。


ここにあらためて訂正します。
ちょーっとわかったつもりで調子こいたらこれ。
まだまだ修行が足りませんorz) 



Sikorski H-34 CHOCTAW

アメリカ陸軍のカーキーグリーンは、自衛隊のOD色よりも
かなり明度が高いように自称「絶対音感と絶対色感」
を持っているところのエリス中尉には思われました。

このチョクトというのは何度も同じボケですみませんが、
菅直人のことではなく、北米ネイティブアメリカンの部族名です。

日本でも現地生産して調達されていた機種で、
世界的には2261機が生産され、この台数を以て
この業界ではベストセラーとされているようです。

というか、軍用ヘリってこの程度生産されればベストセラーなんですね。




こういう説明のボードが全ての展示に付けられているとは限りません。

が、このヘリに関してはスポンサーが大物(ヒルトンホテルとソノマワイン組合)
のせいか、ちゃんとした説明板があります。
このように、この博物館、地元企業が何社かで一機を受け持ち、
そのメンテナンスのお金をスポンサードして、企業イメージ
と共にこういうところで宣伝をするわけです。

これ、いいシステムだと思いませんか?

これも何度もしつこいですが、鹿屋の二式大艇、それからこの間お話しした
海洋大学の明治丸も、企業のスポンサーを募ればいいのでは?
その代わり、そのことを現地の案内やHPに明記するというのは?
匿名の篤志を募るより、効率がいいと思うんですが、いかがなものでしょう。



陸軍ヘリのチョクトー部隊のマークは凶悪面のブルドッグ。
ご丁寧にイガイガの首輪までつけています。
頭と尻尾になにやらついているのですが、これは画力が残念なため
何かは分かり難いながら、どうやらヘリのローターのつもりらしいですね。

たしかにこのチョクトーはずんぐりしていてブルドッグのようなシェイプ。
機体のイメージから「ブルドッグ」を自称しているいるのです。



ここはテールが持ち上がる部分。
排気のためにメッシュの窓がはめ込まれています。


自衛隊にも17機が導入され、そのうち1機は海保に移譲されて
南極観測船「宗谷」の艦載機として昭和基地と宗谷の間の
輸送に活躍したそうです。




使われることがなかった爆薬の類いが、ケースごと。
手前のは完璧にさびています。



 NORTHROP F−5E "FREEDOM FIGHTER " TIGER II

トルコ空軍の曲技飛行隊はこの機種を使っています。
小型軽量で大変運用しやすかったので、このトルコ始め
発展途上国に大量に輸出されたそうです。


もともとアメリカ空軍では使用する予定がなかったのですが、
供与された国が

「困るなーアメリカ空軍でも使ってその実績を教えてくれなきゃー。
あんたんとこ、今戦争してるじゃん?
それともなに?
自分とこで使わないような商品を売りつけようっての?」


とごもっともな要求をしてくるようになったため、(たぶん)
アメリカはこれをベトナム戦争に対地攻撃用として投入しました。

この際、F−5が参加する作戦は

「スコシ・タイガー・オペレーション」

と名付けられています。
「スコシ」って何だと思います?
そう、日本語の「少し」なんですよ。
なんだかすごく間抜けな響きがするような気がするのはわたしが日本人だから?


なぜわざわざ日本語を投入したかと言うと、外国空軍への供与、
並びにその実績説明というのがその第1目的だったため、
何となく雰囲気で外国語を使ってみたようです。
しかも「ガチ投入」ではありませんよ~、というのがこの
「少し」に現れている、と・・・。

供与先が日本ではなかったのが逆に日本語使用の理由かもしれません。
(日本相手だとふざけてんのかと思われるから・・・たぶん) 



そうと知ってみると、とたんに親近感が湧いて来るではないの。
やたら羽が短くて、こんなので大丈夫か、って気もしますが、
アクロバットに使われるくらいですからきっと制動性もいいのでしょう。



これはどこ海軍所属なんですか?
この赤い星・・共産系国のマークのような気もするのですが、
これがスコシタイガー参加機なんでしょうか。



グラマン F−14A トムキャット

グラマンの猫戦闘機、トムキャット。
冒頭の写真は正面から撮ったものですが、ウィングが可動式で
肩をすくめた状態になっているので、あまりかっこよくありません。
(感想には個人差があります)

なんだか変な色にペイントされてしまっていますが、これは
メインテナンスの途中なのだと思います。

・・・・途中ですよね・・・?

毎日必ずどこかを補修しても、航空機が多いので一巡することには
最初の航空機はもうすでに補修が必要になっています。

サンタローザは夏の暑さは強烈ですし、雨も降りますから
外に置きっぱなしの展示は劣化しやすそうです。



オークランドのエアミュージアムではこの部分が旭日模様の

「サンダウナー仕様」

つまり「日本をやっつけ隊マーク」になっていたわけですが、
このトムキャットは第84戦闘機隊の所属マークがつけられています。



海軍第84戦闘機隊は、このスカル&クロスボーンのマークと共に、
1980年の映画

「ファイナル・カウントダウン」

に原子力空母「ニミッツ」と共にに出演したことで知名度の高い航空隊です。
航空隊のニックネームは

「ジョリーロジャース」。

英語圏では一般的に海賊旗をこう称することからです。



翼の下の配線もこのように展示してくれています。
ここの展示も手で触れることを禁止していません。


ところで映画「ファイナル・カウントダウン」はこういう話です。

1980年、真珠湾を航行していた「ニミッツ」が竜巻に遭い、
それが去った後、偵察に出た艦載機トムキャットが発見したのは
日本海軍の零戦だった。
「ニミッツ」がタイムスリップしたのは1942年12月6日、
つまり真珠湾攻撃の前日であったー。




ちょっと待て、それはまるで「ジパング」ではないのか、
と思ったあなた、あなたは正しい。
残念ながらこの映画は「ジパング」に先立つこと20年前に
すでに公開されており、この「タイムスリップ戦史もしも物」の
原型においてはこちらがオリジナル、つまり「ジパング」は
アイデアにおいてはこちらの二番煎じだったんですねー。

おまけに、このテーマソング、聴いて頂けます?


The Final Countdown 1980 theme John Scott

お時間のない方は4分20秒からだけで結構です。

「こりゃー”あれ”じゃん!」

と思った方、その通り。
業界では有名なパクリなんですね。
映画公開の2年後にヒットした曲なので、言い逃れできません。
今この曲のクレジットを見ると「ジョン・スコット」という名前が
作曲者「大森某」の名と共に併記されています。

これは、なんとファイナルカウントダウンの音楽担当、
ジョン・スコットが、わざわざ盗作を指摘するために来日し
さらに大森某も盗作であったと素直に認めたため、
作曲者として名前を連ねることにしたのでした。

うーん。恥ずかしい。
これは恥ずかしいぞ日本。

パクリがどうのこうのと某国や某国を日夜馬鹿にしていても、
実はわずか3~40年前にこんなことがあったというのは恥ずかしい。
まあ、しらばっくれずに盗作を認めて対処した、というところに
潔さと言うか日本人らしい気の弱さを見て少し安心しますが。

このころはインターネットは勿論ビデオさえ一般的でなく、
従って映画は映画館かテレビで放映された物を見るしかなかったんですね。
ましてや映画音楽は、よほどヒットした場合を除き、
一般の耳にほとんど触れることなく終わってしまったのですから、
ばれないだろうと思ってつい盗作に走ってしまったのでしょう。

「ジパング」の方はアイデアをパクりながらも色々と展開させているので
著作権的にはセーフなのかもしれませんが・・。

音楽といいストーリーといい、このファイナルカウントダウン、
日本人の「これをやってみたい!」という琴線に触れるもの満載だったようです。
そこそこ無名だったのがパクられる原因だったとも言えますが、
それにしてもこれはどちらもアウトだろっていう。






何の説明もなく展示されていたエンジン。
せめて包装を外してほしいと思ったエリス中尉でした。


ところで大森さんを庇うつもりはありませんが、
メロディが既存の曲に似てしまうということは
音楽家の立場から言っても、特に「歌もの」ではよくあることです。
音列に限りがあり、コード進行もパターンがある限り
これはある意味避けられないことなんですね。

以前お話しした「ライトスタッフ」のテーマがチャイコフスキーの
バイオリンコンチェルトに瓜二つ、という件に関しては

「宇宙開発でロシアと張り合っていたという映画の内容に合わせたシャレではないか」

と、1000歩譲って理解しようとしてみたわけですが、
もしそうであればこれは「故意犯」しかもそれを隠していないパターン。

たまたま知らずに似せてしまった、という確信犯と違い
「ララバイ」は完全に故意犯だったのがアイタタタでした。

世の中には

「青い影」(プロコル・ハルム)と「青春の影」(チューリップ)

の関係のように、聴く人が聴けばああパクったな、と思えても
コード進行が全く同じという程度では一般にはお咎めもなし、
という実例があります。

しかもこの件では「青春の影」はどこからも非難されておりません。
わたしの知る限り。
これは「ジパング」のシチュエーション類似と共に

「スコシ・パクリ作戦」

の成功例といえましょう。







続きます。