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キャッスル航空博物館~B-24リベレーター「ロンサムレディ」の乗員

2014-08-09 | 航空機

キャッスル航空博物館に到着して車を停めると、駐車場に向けて
フェンス越しにノーズを向けているので最初に目につくのがこのリベレーターです。

B-24リベレーター LIBERATOR

このリベレータ―とは、最初のLIBERが自由の意である「Liberty」からきていることから
分かるように、「解放者」という意味を持っています。
「(自由に向けて)解き放ってくれる人」というところですか。


前回キャッスル航空爆物官のB‐17からご紹介を始めたのですが、実はこの博物館、
展示コースの一番初めがこのリベレーターからになっています。

米国コンソリデーテッド社による開発で、B‐17の後継のような形で1939年に初飛行をしました。

もともと、コンソリデーテッドには、B‐17のライセンス生産が持ち込まれたのですが、
コンソリ社が「だが断る」として、新型の爆撃機開発にこだわった結果、
このリベレーターが生産されることになりました。

B‐17が航続距離が短いという欠点を補う仕様にしたため、後継機として
オーストラリアなどから投入され始め、日本軍とはその後ニューギニアで運用されるようになってから
交戦され始めています。

以前「パンツ一枚で初撃墜」というエントリで、海軍搭乗員の小高登貫氏が
このコンソリデーテッドを撃墜したという話を書いたことがあります。 
小高飛曹が照準を向けたそのコンソリデーテッドB-24は

「シルバーの機体に、赤、白、青の米軍のマークが浮き出ていた。
こんなにきれいな機体に機銃を打ち込んでいいものか迷った」

というものだったようです。
この「シルバーの機体」というのは、どうやらここにある陸軍の運用していたカーキとは
違う塗装のされた、 PB4Y-1リベレーターだったのでしょうか。

さて、当ブログではほかにもリベレーターが登場しているエントリがありまして、

 敵機に帽を振れ」より

この機体を見たときに、「あれ、どこかですごく見たことがあるぞ」
と思ったのは、この時に漫画に描いたからだったんですね~。

しかし、このときにまるでパイロットが一人であるかのように

敵機に帽を振れ」より

こんな操縦桿で描いてしまったのですが、もしリベレーターだとしたら



操縦席これですからね。
この場合、板倉艦長以下伊潜の乗員に帽子を振られて爆撃を中止したのは
操縦員ではなく、爆撃手だったということになりますね。
だって10人も乗っているわけですから。

この厳然たる事実を突き付けられて、この時の様子が
このように訂正されなければならないことがわかりました。

機長「ジャップノサブダ!バクゲキシュ、ダンヤクソウトビラアケ!」
爆撃手「イエッサー!」
機長「 ジャップメッ!パールハーバーノカタキヲトッテヤル!」(ここ一緒)

機長「ッテ・・・・アレ?」
コパイ「キャプテン!テヲフッテマス!」
機長「デイブ!ストップ!ストーーーップ!バクゲキチュウシ!」
デイブ「イエッサー!・・・・テカアレジャップデスガ、サー」

機長「ワ・・・・・・ワット?」
デイブ「ジャップガボウシフッテルンデアリマス、サー」

機長、副機長「・・・・・テヘペロ」

デイブ 「テヘペロジャネエ!サッサトUターンセンカイ!サー!」

こうだったんですね。ええ。
マンガがややこしくなるので訂正はしませんが。

・・・・・・・・・・・・・・・。

さて。

ここにあるバージョンは、コンソリデーテッドが最後に作った機体だそうです。
わたしのブログでさえもこれだけ活躍しているくらいですから(笑)
実際にもこのB-24は第二次世界大戦のいろんな場面で使われました。

生産された台数も膨大なもので、アメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の
18,431機が終戦直前まで生産され、これに海軍向けの1,000機近くが加わります。

ちなみに先ほどのB-17は約13,000機で、B-29の生産機数は約4,000機。
第二次世界大戦中に生産された米国爆撃機の中で最多ととなっています。


この量産体制に大きく寄与したのが自動車会社のフォード社

当時、普通の航空機会社がこれを一日に一機作れるところを、
フォード社は一時間に一機のペース、しかも24時間体制でB-24の生産に当たりました。
全生産数のうち半分弱の8000機以上がウィロー・ラムのフォード社で作られています。



この無茶な体制で工場を稼働させたせいで、
フォード社社長であったヘンリー・フォードの息子、エドセル・フォードは、
心労のため胃をやられ、せっかく大企業の御曹司に生まれたイケメンだというのに、
わずか49歳の若さで胃癌のため急逝しています。
これも一種の戦死、というやつでしょうか。

合掌。



機体に爆弾を積むときに牽引する車まで展示されていて親切です。

さて、コンソリデーテッドはもともと水上機を研究していた会社なので、
このフォルムがなんとなく飛行艇のように見えてしまうのですが、
どういうわけか、水上に不時着したリベレーターの様子を撮影した映像が
残されているのを発見しました。




 

模型実験

コンソリが作ったせいか、不時着水がごく自然に・・・・・。
しかしそれでも微妙に後ろから着水した結果、機首が上を向き、
次の瞬間それが水面に叩きつけられて機首部分、つまりコクピットのところが
ぽっきりと折れてしまっています。

しかし、二人のパイロットはそこから全くぬれずに出てきて、
しかもそのうちのスカした一人はポケットから櫛を出して髪の毛を撫でつけているのが見物です。
(4分05秒の部分)

二つ目のは模型で実験しているのですが、模型の着水の様子と
実際の着水の様子が寸分違わず同じで、ノーズが折れるところまで予測できていたということです。

うーん。

この実験はもしかしたら、
「実験の結果は信用できる」
ということを証明するための実験?

 


ノーズが折れるところまで予測しているなら、
折れないようにしてからフルスケールで実験しろよっちう。 






爆撃のミッションが19回。
撃沈した敵艦船、2隻、
そしてハーケンクロイツが4つというのは撃墜したルフトバッフェの機体数でしょうか。

当初は航続距離が短いので日本の本土空襲には使えなかったとされるB‐24ですが、
硫黄島で日本軍が玉砕して以降、この機体でも本土に空襲することが可能になりました。

昭和20年7月28日には、沖縄から飛び立ったB-24リベレーターのうち2機、
「ロンサムレディ」と「タロア」は、戦艦「榛名」を攻撃中に被弾して墜落、
乗組員は捕虜になりました。

彼らが収監されていたのは、一週間後には原子爆弾が落とされた広島でした。


そして今日からちょうど69年前の1945年8月6日。

広島に彼らの同僚であるアメリカ軍のパイロットによって原子爆弾が落とされます。
たまたま尋問のため東京に移送されていた隊長はじめ三人以外は、全員が死亡しました。


実はアメリカは原爆投下前にイギリス軍から「広島には米軍捕虜がいる」という報告を受けていましたが、
投下予定をそれで変えることは全く考えなかったようです。




あと、リベレーターが高射砲によって翼がやられ撃墜される瞬間の映像を見つけました。



B−24が日本軍の高射砲で撃墜される瞬間


このような瞬間を見るとどこの国の飛行機であっても胸が詰まります。



上記の広島での被爆した米軍兵ですが、なぜか橋のたもとに、
死体が全裸で放置されていたという証言があります。

それをみた通りがかりの人が棍棒を振り上げて殴ろうとしたのですが、
最後の瞬間でひるんでしまってどうしても強く叩けなかったそうです。

自国の容赦ない爆弾によって殺されてしまった米兵に対し、
ただ敵として憎むには忍びない「憐れ」がさせたことだったのでしょうか。


本日は8月9日。
広島と長崎に原子爆弾が投下されてから69年が経ちます。









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5 Comments

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P-2みたいだ! (雷蔵)
2014-08-09 05:42:38
全体的なカッコがなんとなくP-2に似てるなと思いました。B-24を調べると海軍で哨戒機としても使われたとのこと。さもありなん。P-3まで直線翼で4発というスタイルは貫かれていますもんね。

コンソリデーテッドのサンディエゴ工場で作っていたそうですね。なんとなくピンと来るものがあったので、調べてみたら、コンソリデーテッドは後にジェネラルダイナミクスに吸収されたんですね。私がいた1990年頃、空港の山側にはジェネラルダイナミクスの工場としてありました。

昔は水上機を作っていたようで、工場から水上に飛行機を回すには、空港と国道を通るのですが、まだ当時の名残の遮断機(飛行機を水上に回す時に国道の交通を遮断する)がありました。当時でさえ、水上機は沿岸警備隊(Coast Guard)にしか残っていなかったので、今でもあるのかなと思いました。

遮断機が下りて、水上機が国道を横切って行くのを何度か見ましたが、不思議な光景でした。

長崎県の学校は、今日は登校日です。
返信する
時刊重爆撃機… (佳太郎)
2014-08-09 11:57:33
やはり物量というのはすさまじいですね…
こんな爆撃機を一時間に一機…
二次大戦中のアメリカの物量のすさまじさには驚くばかりですね。
日刊リバティ船、週刊護衛空母、月刊正規空母、さらに時刊重爆撃機、すさまじいですね。
日本ではせいぜい、松型駆逐艦で5ヶ月、戦時標準船2E型で一ヶ月だったようです。
ちなみに、リバティ船、松型駆逐艦、戦時標準船は両国に多くの知見や造船の基礎を残したようです。
日本が造船に強くなったのは松型、戦時標準船のおかげだそうです。戦争はこういったものも残すんですね…テフロン加工のフライパンも原爆の副産物のようですし…

ゲーム、映画ならともかく現実の画像での飛行機の撃墜はどこの国であってもつらいですね。
返信する
B24の後ろはB29改造の給油機型ですね。 (うろうろするひと。)
2014-08-10 09:47:18
エリス中尉様
ブログ内の「ダンヤクソウ」とは「バクダンソウ」かな?B24の場合は、その開口部はシャッター式ですよね。機体画像2枚目のエンジンカウリングの下の胴体最下部に少し見えております。
小高上飛曹が見た「銀色の機体」とは、ブログの機体と同じく米陸軍の単なる無塗装機だったのでは? PB4Y-1だとB24の哨戒機型で、名称も「シーリベレーター」となり、海軍のみで運用されたと思いますが、無塗装機は無く迷彩塗装をされていた様です。
WW2後期の米陸軍爆撃機・戦闘機には無塗装機が増えてきます。連合国側が優勢となり機体性能も上がり、只でさえ劣勢の日本・ドイツ機に対し、迷彩塗装までして戦場でコソコソする必要が無くなって来た為らしいです。迷彩塗装機は塗料により機体重量、空力的な抵抗、それに掛ける時間が「増加」したそうでよ。戦闘機などは逆に速度を増すために、機体を磨いていた(ワックスなどで?)とも。「ヒカリモノ」も好きそうな国民性?ですし✨✨する訳ですね。言っている割にはノーズアートやパーソナル塗装に必要以上に手間掛けていて・・・。やはり国民性?
話が脱線に継ぐ脱線ですが、ご存じの如く「マスコミ・人権」の国ですから、大戦後期や朝鮮戦争時には、報道写真に写る機体のノーズアートが「余りにもアレ」過ぎて、婦人関連・各種団体からクレームが入ったり、批判されるなどで、米國本土に帰還・配置換えになる部隊、機体はその塗装をオトナシイものに換えさえられたりしたそうです。
米海軍機は、塗装に関しては大分まとも(?)だった様です。日本にしても、陸軍機の方が
派手(凝っている)のは、何故だったのでしょうか?
日本側の無塗装機(主に陸軍機)の場合は、物資・時間の「不足」が主たる事情だったとか・・・。海軍機でも、実機写真の鮮明なものは少ないですが紫電、紫電改、雷電、彩雲、など戦争後期に登場してくる機体ほど、その下部は無塗装が多かったらしいです。同じ無塗装で鮮明なものでも、くすんでいてとても✨ ✨には見えないのは、写真技術の差以外に機体そのものの材質の差もあったのでしょうか?
我ながら、「8月」を感じてしまいました・・・。
返信する
爆弾槽 (エリス中尉)
2014-08-12 02:42:05
映画「メンフィスベル」はB-17爆撃機でしたが、爆撃手が爆弾槽を開けてスコープをのぞき、
爆撃目的地を発見して
『That's it!』というシーンがありました。
B-24も同じような機構だったのでしょうかね。

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→佳太郎さん (エリス中尉)
2014-08-12 02:48:04
何のことかと思った(笑)時刊爆撃機。

今日これから「日刊リバティ船」で現存するJeremiah O-brienを見学してきます。
どんな雑駁な仕様か、とくとカメラに収めてきますのでお楽しみに!
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