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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

パシフィックコースト航空博物館~「911・ファーストレスポンダー」

2014-08-02 | 航空機

今年はどんなところを見学しようか、西海岸にいるときから
ネットで調べていたのですが、まずは着いて1週間経った今日、
サンフランシスコ郊外にある

The Pacific Coast Air Museum

に行ってみることにしました。
ぐぐるマップによると、2時間かかるとのこと。
息子をドロップオフしたあと、直接現地に向かうことにしました。

 

おそらく現地に着いたら昼ご飯どころではないでしょう。
わたしはいつも水とお茶だけ飲んで家を出、運動してから
帰って来るまで何も食べない習慣なのですが、
2時間のドライブに備え、ちゃんと朝ご飯を食べて行くことにしました。


というわけでスタンフォード大学の前にあるモールのベーカリーカフェ、
「メイフィールド・カフェ」へ。



オムレツを注文しました。
付け合わせの野菜はチャービルを炒めたもの。
全粒粉パンかサワドーか選べるトーストは全粒粉を選んで完璧。



さあ、出発です。
ナビによると、101でサンフランシスコ市内からベイブリッジを渡り
オークランド経由で博物館のあるサンタローザに行く模様。 

しかしナビを無視して(笑)I-280を走ります。
この高速道路沿いに、ベテランのための国立墓地があります。
車を走らせながらそちらを見ずに撮ってみました。
門の正面には星条旗の立つ小高い山があり、時々半旗になっていて、
今日誰か戦死か殉職した軍人のお葬式があるのだと良く思ったものです。

イラク侵攻の後はまさにしょっちゅう行われていた気がします。

こういうのや民家の庭に黄色いリボンが掛けられていたりするのを見ると、
この国では戦争をしているのだという感慨を持ったものです。



画像に写っているのはごくわずかの部分で、気の遠くなるほど広い敷地に
それこそ気が遠くなるほどたくさんの墓標が立てられていて、
これが全てアメリカのために命を捧げた軍人のものなのだとあらためて思います。

慰霊の方法は違いますが、日本の場合はそれが靖国神社であるわけで、
たとえどの地で身を朽ち果てさせてもその魂は靖国神社に戻るもの、
と日本人は信じてきたのですから、アメリカのこのような戦士の墓のように
当然のことながら靖国神社は彼らが命を捧げた国家が管理するべきだと
わたしは思うのですが・・。



墓地の横を通り過ぎたとたんこのような空になりました。
ここは我が家がかつて住んでいた地域なのですが、ほぼいつも、
特に朝は確実にこんな風に曇っていて気温も寒いのです。
これはこの辺だけに霧がかかりやすいからです。

今にして思えばなぜわざわざこんな地域に住んだかって感じですが、
(別に賃貸料も安くはないし)ある意味最もサンフランシスコらしい気候を
体験できたという気もします。



曇りの地域を1分で過ぎ(笑)ベイブリッジを渡ります。
となりのピンク色のバンはスシレストランのロゴが書いてありました。
ベイブリッジは1989年の地震のとき一部崩落し、その後大々的な工事で
どんな震度にも耐えられるような仕様に作り替えられ、
2013年にようやく完成しましたが、それがこれ。
SFから外に出る場合には無料ですが、市内に入るのには6ドル必要となります。

わたしはこの日、

サンフランシスコ→ベイブリッジ→オークランド→サンタローザ→
ゴールデンゲートブリッジ→
サンフランシスコ

というルートを選んだので、6ドルは払わなかったのですが、その代わり?

 

オークランドからサンタローザに行く途中のこの長い橋の手前で
やはり5ドル徴収されました。
今、なぜかGGブリッジは無料になっているのですが、いずれにしても
どこかで橋代を払わなくては帰って来ることは出来ないようです。



ワイナリーで有名なナパバレーのブドウ畑が見えて来ると
もうそこはソノマ郡サンタローザ市です。
我が家はお酒を飲めないのですが、在住中何度かナパに行きました。
ワイナリーはテイスティングとワインのおつまみを試食でき、
外でサンドイッチなどが食べられるので、別に買わなくても楽しめます。

ここにある高級ワイン、オーパスワンのワイナリーは他のと少し格が違うというか、
さすがに高級感あふれる佇まいで敷居が高い感じがしました。

自宅にセラーを持っている友人が日本から来たとき、ここに連れて行ったのですが、
オーパスワンを木箱買いして日本に送らせていたのでびっくりしました。

ワイン好きのワインにかける情熱の一端を見た気がしたものです。



という航空博物館とは全く関係ない話をしているうちに到着。
破棄する航空機の尾翼を廃物利用して目印に使っています。

ここソノマには空港があります。
その名称は

チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港

と言います。
だれだそのチャールズは、と思われた方、これですよ。



こういうイラストが、このエアミュージアムの案内板にも多用されていて、
このときなぜかには思いが至らなかったのですが、実はここサンタローザは
スヌーピーの生みの親、ピーナッツの作者であるシュルツの出身地。



かつてサンタローザ陸軍航空フィールドであったこの飛行場は、
終戦後の1946年に「戦争の遺跡」の一つとして市民空港となり、
その後地元に30年以上住んで名作を生み出したシュルツの名が冠されました。



エアポートのマークはしっかりスヌーピー。
スヌーピーのいでたち(といっても犬なのでゴーグルとマフラー)は
第一次世界大戦の「フライング・エース」のもので、
飛行機はソッピース・キャメル。(のつもりの犬小屋)

わたしはシュルツという名前からてっきり作者はヨーロッパ在住だと
思っていたのですが、父親がドイツ系のアメリカ人だったんですね。



映画「おかしなおかしなおかしな世界」にはこの空港が
登場しています。
5人の男たちが宝を追い求めて上を下へのドタバタ活劇、
という映画で、航空機を使用するシーンもあったようです。

駐車場に車を停めようとして、向かいのエプロン脇に
こんな飛行機が停められているのに気づきました。



あれー、どこかで見たことあるな。
この船底は二式大艇、じゃなくてU−2、でもなくて・・・

アルバトロス?

展示飛行機ではなく説明がないので推測ですが、これは見た目間違いなく
アメリカの救難飛行艇

HU-16 

でしょう。
昔、これがまだUFであった頃、海上自衛隊がUF−2の供与を受け、
その後US−1の開発を経て配備されるまでの間、日本でも使用されていました。

機体に911と書いてあるところを見ると、緊急発動用の救難艇ですね。

などと感心しながらいざ入って行こうとしたら、はて。
入り口らしきゲート状のものがない。
駐車場の前に建物があって、ドアは閉まっているし。
しかしよく見たら、ドアに「ここからお入り下さい」とあります。

どうやらここも、ヒラーなどのように特殊な財団となって
基金を持っている博物館とは違い、細々と企業の寄付を募って
退役軍人などが中心になって作った組織が維持している、
アメリカ特有の航空博物館である模様。

去年訪れたオークランド空港の

ウェスタン・エアロスペース航空博物館
Western Aerospace Musium

と同じような感じの博物館(というかそっくり)です。
小さなドアを開けて入って行くと、案の定そこはギフトショップと
料金徴収カウンターのある小さな部屋で、そこに座って
元男前みたいなアメリカンじーちゃんがサンドイッチを食べてました。

「こんちは。大人一枚お願いします」

じいちゃんはサンドイッチを置いて立ち上がり、無言で口を指差し

(今食ってるからちょっとまってくれ)

とわたしの脳内に語りかけました。
日本では口にものを入れたまま

「おいひー!」

と叫ぶCMがあったやに伺っておりますが、
これは欧米文化圏では大変行儀の悪いことなのです。
勿論日本でもそうなんですけどね。

立ったままもぐもぐしている人を眺める
何とも言えない気まずい時間の後、やっとのことで

「すまんかったね。大人一枚ね」

とじいちゃんからわたしはチケットとマップを受け取りました。
そしてシャキーン!とカメラを構え、飛行機の並ぶ展示場に。

 

・・・・向かう前に、まずはその辺に転がしてある展示から(笑)

ここサンタローザにあった陸軍航空基地の主力攻撃機は
P−38、あのめざしのような双胴の戦闘機でした。

P−38といえば、第2次世界大戦中、陸軍の撃墜王であった



リチャード・ボング(1920~1945)

が乗って、ラバウルで我が海軍航空隊に恐れられた機です、
これはそのP−38が搭載していた20mm機関銃とエンジン。

この部品はサンタローザで事故を起こしたP−38の部品で、
パイロットはパラシュートで脱出したものの、高度が低く
助からなかったとのことでした。

ところで、ボングのwikiページを見ると、かれが

ゴールデンゲートブリッジを僚機と共に低空飛行でくぐり、
通行人や車から多数の苦情を受け、上から叱られた

という話があるのですが、ボングが所属していたのって、
どうやらサンタローザ、つまりここだったみたいですね。

ついでに、ボングは若干25歳で、しかも1945年8月6日に亡くなっていますが、
これは戦争とは関係なく、シューティングスターのテストパイロットとしての
任務中の殉職でした。

彼は第一線を外されたのが不満で戦地に戻せと言っていたそうですが、
とにかく美人の婚約者マージと結婚もし、幸せの絶頂でのできごとです。

本人にしかわからないことですが、どうせ飛行機で死ぬのなら
戦線で華々しく散りたかった、などとは思わなかったでしょうか。



PITTS SPECIAL N17J

聞いたことも見たこともないと思ったら手作りです。
元NASAリサーチセンターのテストパイロットだったジョン・M・マンケ氏の作品。



なぜか月面探査機と同型のものが。
ちょうどこの日、この設備のメンテナンスの日だったらしく
いろいろと道具が周りに散らかしてありました。
ちょうどカウンターの人がそうだったように、お昼を食べていたようです。

スケールモデル、ということなので同じ大きさのものを
NASAのブループリントから起こした設計図で作った、とありました。
自由に座って写真を撮って頂けますのでどうぞ、とのことでしたが、
ごらんのようにお取り込み中だったので遠慮しました。

っていうか、一人で来てるから写真撮れないし。



slickというのは戦時中の俗語で「イケてる」みたいな感じでしょうか。
chickも「ひよこ」ではなくこの頃の俗語で「女の子」の意味です。
今はこういう言い方はしません。

日本で現在「ナウいギャル」とか「手荒くナイスなメッチェン」
とかいってもほとんど通じないのと同じようなものですね。

今回の訪問でまたわたしの「ノーズアートコレクション」が増えましたが、
未だに「む、これはやりおるな」と感心するほどのアートには
お目にかかったことがありません。

これなどは離れて見ているのでまあましな方ですが、
細部はともかくデッサンがかなり狂っているのが惜しい。



9月20、21日に航空ショーがあるというお知らせ。
この航空博物館が満を持してお送りする?エアーショー

・・・ん?

このポスターはオスプレイではないか!

イベント案内を見たところ、このショーはマリーンコーアから
オスプレイが飛来するほか、退役した戦闘機が「たくさん」、そして
ヘリコプターのアクロバットで有名なパイロットのソロ、
脚が不自由なハングライダーのショーマン、ダン・ブキャナンなど、
アメリカの航空界ではおなじみのメンバーによるショーが行われるようです。

アメリカにいたら見に行きたかったなあ・・・特にオスプレイ(笑) 



さて・・。

なんだかすごく見慣れたヘリコプターなんかもありますが、
後はおおむね久しぶり、というか一年ぶりのアメリカンな飛行機たち。

ざっと見回しても、その姿形にほとんど見覚えがあるぞ。

去年エアーミュージアムを、空母ホーネットも含めて散々見て回り、
後から調べたりした関係上、大抵の航空機は初見ではなくなったと、
そういうことなんですね。

継続は力なり、をこのとき実感したエリス中尉でございます。



さて、冒頭写真はご存知F−15イーグルですが、当ミュージアムでは
あの911のとき、最初に現場に到着したのと同型のイーグルを
911の犠牲者たちに弔意を表する意味で展示してあると書いてあります。



これによると、あの同時多発テロで175便(とされる航空機)がサウスタワーに
突っ込むのとほとんど同時刻に、超音速で15分飛んで現場にいたのですが、

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

何もしなかった、と書いてあるのです。
サウスタワーは最初に飛行機がヒットした方ですよね。
つまりこのデュフィー少佐とナッシュ曹長は、その後、

ノースタワーに飛行機がヒットするのも止めなかった

ことになるのですが・・。
なんで?

そこで世間に流布しているアメリカ陰謀説を信じたくなるんだな。
先日も、墜落した飛行機と共にこのF−15が目撃されていて
93便はF−15が撃墜したと言う仮説を証拠をあげて立てている文章を読みました。

そして、1年後の2002年9月11日に、

ある空軍パイロットが理由も明らかにされないまま叙勲された

というニュースを、これと関連づけています。
同時多発テロの様々な検証は、すでにあの事件を
ずさんすぎて証拠を残しまくりの自作自演と思わせるに十分なくらい
多角的かつ多面的にいろんな人々が行っていますが、
このF−15の「不思議な行動」もまた、それを疑わせるのに十分です。



「ワシントンDCを守った」とされるF−16。
彼らが93便を撃墜した、という説を唱えている弁護士もいますね。
この弁護士はブッシュ元大統領を訴えている訴訟団の弁護士です。


「ファーストレスポンダー」

は、実は現場に到着したとたん、無線連絡でもしかしたら
ビルにヒットする航空機を攻撃することを制止されたのかもしれません。

飛行機を撃墜することでもしそれが市街地に落ちたとしたら
被害は計り知れないものになるという理由で・・・?

もしあれが陰謀で、最初からビルには爆薬が仕掛けてあったとしたら
飛行機は何が何でもWTCビルに突っ込まなくてはいけなかったのですから。


そういうことがあって、このイーグルドライバーたちはあまり
世間的には「ヒーロー」として騒がれたりインタビューされたり
しなかったのではないかとわたしには思えます。

アメリカと言う国の底知れなさと言うか怖さというのは、
あの事件に限らず「何かを知っている」人たち、
墓場まで持って行く秘密を持たされている人たちがいて、
普通の一般市民として普通の生活を送っているということです。 


この「ファーストレスポンダー」や9月11日に叙勲されたパイロット、
まだ倒壊していないビルを「倒壊した」とフライングしてしまった
BBCのキャスターや、機内からかけられた(かかるはずのない携帯から)
電話の「通話記録」を隠蔽した携帯会社数社の責任者・・・・。

もしかしたら家族にも言えない「闇」を心に抱えたまま、今日もまた
仕事に行ったり、帰ってきて子供たちとディナーを囲んだり、
休みには裏庭でバーベキューをしているのかもしれません。

それはもしかしたらアメリカに限ったことではないのかもしれませんが。



見学しているのはわたしを入れて3組。
そのうち一組は、ちょうど

「グランパ!」

とこのおじいちゃんに呼びかけて帰るのを促していました。 
おじいちゃんは足元が覚束ない感じでしたが、それでも
誰よりも熱心に飛行機を見て歩いていたようです。



もう一組がこの2人組。
やはりかなりのお歳らしいじいちゃんと、東洋系の若い男性。
通りすがりに会話を聞くと、若い男性が説明をしてあげているようでした。
もしかしたら解説のボランティアなのかもしれません。

どちらにしても、スタッフの方が客より多い状態で、さらには
わたし以外は全員男性でした。
こんなマイナーな航空博物館に平日の昼間、東洋人の女性が一人でやってきて
熱心に写真を撮り、解説ももれなく読んだりしている・・・・

どうみても世界基準で「変わってますね」の一言により片付けられそうです。


しかしそんな視線を今更気にするエリス中尉ではありません。
そのうち二組の客は帰ってしまい、ソノマの強烈な陽射しの下、
たった一人でわたしは愛しの航空機たちと触れ合いまくったのでした(笑)


勿論続きます。 






 


ヒラー航空博物館~次世代型航空機

2014-07-26 | 航空機

去年の夏滞米したときに見学したヒラー航空博物館ですが、
あまりにネタを小出しにしすぎて、全部報告し終わらないうちに
またしてもアメリカに来てしまいました。
今はまだ東海岸ですが、西に移動したときにもう一度訪れて、
前回とは違ったアプローチでご報告していこうかなと思っています。



ヒラー博物館はアメリカの航空博物館の中でもそのアプローチが
非常に多角的で勝つユニークなものだというのが、いくつかこの手の
博物館を訪れてわたしが受けた感想です。

やはり科学革新という意味で先端のシリコンバレーを擁し、
航空機に関しても先端の技術が集結してくるせいか、
ただ従来の航空機をメモリアルとして展示するだけに留まらず、
現在進行形の航空技術のあり方を想起するような科学技術の一端を
このような展示で見せてくれていると感じました。



そのヒラー国空博物館の一隅にこのような航空機の模型がありました。 

一見かっこいいのですが、そのコクピットや窓から想像されうる大きさを 考えると、
わたしの場合、先に「キモチ悪い」という言葉が浮かんでしまいます。

これが例えばせめてステルスくらいの大きさなら何とかなるんですが、
どうして大きいとキモいのか。

「巨大な造形物恐怖症」というものがあります。
インターネット社会になって、今までなら人に話すことも憚られる
自分の中の「フォビア」について堂々と(匿名ですが)
語り合うことができるようになったため、
様々な「恐怖症持ち」がそれこそ仲間を求めてスレッドを立てたりしています。
そういうのを見ると決してこれが特殊なものではないと安心するのですが、 
この「大きな飛行機が怖い」というこの性癖を理解できる方はいませんか?

たとえば、わたしはキャッスル航空博物館で見た

 

これとか(ブラックバード)



特にこれとか(B−52)を見ると、かっこいいとかなんとかよりまず
水族館で巨大魚を見たときのような何とも言えない落ち着かなさを感じます。
怖い、とまではいかないのですが、なんというか・・・・・
やっぱり、キモチ悪い、というのが一番近い気持ちではないかと思います。
この冒頭写真の飛行機はどこからどう見ても「エイ」なのですが、
エイやイカ、タコ、マンボウ・・・巨大魚類に対する感覚に通じるものがあります。

というわけで冒頭の飛行体がもし巨大ならこんなキモいものはないのですが、
これは

BWB Blended Wing Body  

という次世代型といわれる航空機なのです。

貼ることはできませんでしたが、ボーイングのHPの映像を見ていただくと
いかにこの飛行体が「エイ」そのものであるかわかります。

スティングレイといわれるあのエイの尻尾までちゃんと再現されているんですよ。

このBWBはボーイング社がNASAとの共同開発を行っているものですが、
NASAは

「環境的責任 航空プロジェクト(Environmentally Responsible Aviation project)」

の一環として、20年後を視野においた航空機の研究をしており、
その具体的なモデルがこのブレンデッド・ウィング・ボディ型なのです。




研究段階なのでいきなり巨大な旅客機を作るわけにもいかなかったらしく、
まずは1:8.5スケールのものを作り、様々な研究が行なわれています。
ちなみにこのサイズが翼幅6mということなので、フルスケールとなると
約50m・・・・・・・・・・やっぱり怖い(笑)


風洞実験中。


バーチャルツアー。

ブレンデッドウィングボディ
というのは翼と胴体が一体型になっていることをいいます。
バーチャルツァーで内部を見ていただければわかりますが、客室が広いため、
全く窓に面していないコンパートメントが出て来る模様。
外が見えない乗り物、しかも航空機はおそらく受け入れられないと思うがどうか。

それだけが理由ではないと思いますが、
移動を目的とする一般人には、この飛行機、不評のようです。
今のところ旅客機の会社は、ほとんど興味を示していないようですね。

しかし「環境的責任」プロジェクトで、研究の結果この形が採用された、
ということに注目すると、このシェイプが
「省エネルギーの面で大きく意味を持っている」ということですから、
いずれはこういったタイプに航空機は移行していくということのようなんですね。
(やだなあ)

まず、このぬめっとした平たい形は空気抵抗がまず小さいので
省エネルギーであることはもちろん静音性が確保できます。
そして製造は簡単になるのかどうかはわかりませんが、
少なくともメンテナンスも楽そうです。
そして、貨物部が飛躍的に大きくなるので一度に輸送できる人員も増えます。

これは、万が一事故になったとき
それだけ被害も増えるということでもありますが。





OBLIQUE ALL-WING(オブリーク・オール・ウィング)

スタンフォード・テストモデル、と説明があります。
オブリーク、というのは「斜め」という意味で、オブリークウィングは例えば



こういう翼をいいます。
昔「斜め銃」を搭載した日本機がありましたが、あれだと
「オブリーク・ガン」なのかしら。
ついでに、「斜め上」は「Diagonally on」となります。関係ないけど。


All-wingという名称は、機体のすべてがこれ翼だからです。
これが飛ぶとこうなります。



怖いよこれ怖いよ。
だいたい、どっちに向かって飛んでるんですか。



と思ったら、飛んでる方向がわかる画像を見つけました。
斜に構えて進む飛行体だったんですね。
それでオブリーク、と。
なんかいろいろとツッコミどころの多い飛行体であるなあ。
どうやって着陸するの?とか、操縦席はどこ?とか。



ここにはこういった「普通でない形」の航空機のシェイプが
パネルで展示してあります。

ボーイング社のイメージカラーで塗装されているこの相胴の飛行機、
現代版のP−38か?と思ったのですが、これも「大変大きい」のだそうで、
相胴の片側はまるまる液体ガスかオイルのタンクになっていて、それらの
輸送を目的として作られたものです。

1970年のオイルショック後登場して来たコンセプトで、
その後代替燃料を模索する中、こういう輸送法も考案されました。



補助尾翼をつけた近未来的デザイン。
機能は向上すると思いますが、なんかかっこわるい。
なんだかバランスが悪いと思ったら、主翼にその機能を負わせるつもりだと思いますが、
水平尾翼が無いんですね。



ティルトローター式の飛行機。
オスプレイのテクノロジーをベースにしています。

ローターをティルトつまり機体側に傾けることによって垂直上昇が可能になるので、
都市間を結ぶの通勤用に使われることを期待しています。

これからのこのタイプの飛行機は、効率改善のために
翼の形がこのようになっていくだろう、ということです。

 
さて、ここで、わたしはどうしてもあの名前を出して来ざるを得ません。

 米国国防高等研究計画庁(DARPA)

の名前を(笑)

 

この、実にキモい飛行体は

ノースロップ・グラマン・スウィッチブレード

といい、アメリカがノースロップとグラマンに作らせた無人機ですが、
この飛行体のリスク軽減や 予備計画を公募したところ
DARPAの案が「受賞」し、
1030万ドルの「研究費」を獲得しました。

こういう形をしていますが、高速性、航続性、耐久性を求めた結果
このような形に行き着いたそうで、機体の下に付いているエンジン部分が
斜めに稼働し方向を変えるそうです。

斜め翼というのは
主翼全体を中心の一点を軸として斜めにある程度回転させるもので、
左右の片側は後退翼・もう一方は前進翼となるわけですが、
これは翼が回転しているのか、それとも下部が回転しているのか。

なんだか禅問答みたいですけど。


こういった変な、といってはなんですが、普通でないものを開発するとき、
そこに欠かせないのがこのDARPAだということがまた証明されましたね。

しかし途中経過はすべて省略しますが、案の定この計画は、

制御システムの難しさを理由にキャンセルされました。

負けるなDARPA。



これは解説の写真を撮り損ないました。

ボーイング2707SST


アメリカ初の超音速旅客機としてボーイングが1970年代に開発しました。
超音速旅客機といえば有名なのはコンコルドですね。

ところで私事ですが、アメリカにいる頃、ふと、
「コンコルドに乗ってみたいね」という話が出て、
まだその頃就航していたコンコルドの運賃を調べたことがありました。
答えは

「アメリカからパリまで普通運賃片道一人100万円」

ということで、その桁違いの高さに驚いたものですが、
コンコルドは、その非常識な価格と、滑走距離を要することがあだとなって
経営に苦境を来していたさなか、2000年7月5日の
シャルル・ドゴール空港での墜落事故
きっかけとなって事故の二十日後に運行停止になってしまいました。


コンコルド墜落事故

実はその事故が起こったのはわたしたちがたまたま値段を聞いた直後。
もしうちが家族三人往復600万の運賃がポンと払える富豪であったら、
丁度その日コンコルドに乗っていたかもしれない、くらいのタイミングでした。





さて、コンコルドもそうですが、超音速旅客機が発展しなかった理由の一つは、
ソニックブーム(超音速突破のときの衝撃)です。

なぜ次世代型航空機の話をしていてこの、少し古い話をするかというと、
このソニックブームの低減の技術は現在でも研究され続けており、
その研究を主導で行っているのが、DARPAでもあるからです。

わたしはこの組織を甘く見ていたかもしれない。
ちゃんとした研究もやっていたんですね。って失礼?

ちなみに日本でこのソニックブーム低減の研究をしているのはJAXAで、

低ソニックブーム設計概念実証プロジェクト(D-SENDプロジェクト)

と称するプロジェクトを持っているそうです。 


さて、20年後、世界の空にはどんな飛行機が舞っているのでしょう。

ブレンデッド・ウィングボディの実用化はおそらく疑いないところでしょう。
もしかしたらその20年後には葉巻のようなオールウィングの飛行体が
主流になる日が来るかもしれません。

ところで、この「葉巻型」でふと思ったのですが、UFOのシェイプって、
わりと今地球で開発されている次世代型航空機に通じるものがありますよね?

もし他の惑星から地球を訪ねて来るくらいの高い文明を持った生物がいるのなら、
彼らの乗っている飛行体はそのまま人類が将来的に持つはずの航空機と
そっくりであったとしても全く不思議はないわけですが・・。



 

 


ヒラー航空博物館~007「女王陛下のジェットパック」

2014-07-12 | 航空機

イアン・フレミング原作「007 サンダーボール作戦」は、
007シリーズの第4作で、ショーン・コネリーの主演によるものです。

原子爆弾2発を搭載したNATO空軍のヴァルカン爆撃機が犯罪組織
「スペクター」に奪われ、身代金として1億ポンドのダイヤモンドを要求。
英国諜報部は「サンダーボール作戦」を発令。
ボンドはバハマに飛び、(女にちょっかいかけながら)核爆弾を捜索する—

というストーリーなのですが、毎回話題になるボンドの秘密兵器のなかで
最も話題になったのが、画像でボンドが背負っている

ロケットベルト(ジェット・パック)

でした。




最初にジェットパックを考案したのはロシアの技術者チームです。
1919年のことと言いますから、航空機も実用化されたばかりの頃です。
しかしこれはアイデアが特許を取っただけで、実用化されませんでした。


時代は思いっきり飛んで1958年。
チオコール社(アメリカ)のエンジニアが、

「プロジェクト・グラスホッパー」

というジャンプベルトの開発を行いました。
推力は高圧圧縮によってくくられた窒素で、それを噴出する二つの小さなノズルが
垂直下方に向けられており、ベルトを着用してノズルの弁を開くと、
その噴出で7mのジャンプができ、前方には時速4~50キロの速さで進みました。
これは実験だけにとどまりそれ以上の開発はされていません。

そして1959年。

エアロジェットジェネラルコーポレーション

は、米軍との契約によりジェットパックの開発を始めました。

米軍はこの開発に非常な興味を寄せていました。
用途はまず偵察、そして山の斜面に空からアクセスしたり、川を横断したり。
あるいは地雷原を飛び越えることが可能になるからです。

ただ、研究はしたものの結局それは軍の運用には至りませんでした。
なぜかって・・・・危険だったからじゃないかなあ。



ロケットパックの稼働原理は過酸化水素駆動です。
当初は触媒との反応で高温ガスの放出が行われ、
それがノズルから噴射されるというものでしたが、
なんといっても過酸化系推進剤は事故のときに火災や爆発の危険を伴い、
人体にとっても大変危険です。

後にターボジェットエンジンが搭載されたタイプができ、
これは空気を排出するもので、
ロケットパックよりも性能と安全性は増したものと思われます。




いずれも初期の頃のジェットパックです。
上記写真右は

ベルテキストロン・ロケットベルト

これはジェットパックやロケットパックの最も古い、知られたタイプです。
過酸化水素によるもので、欠点も山積みと言えました。


◎飛行時間はわずか30秒以内(写真にも航続時間28秒とある)

◎噴射剤の過酸化物の高コスト

◎パラシュートを使える高度まであがらないので安全性に欠ける

◎コントロールの訓練でも安全性は保証できない

◎全て手動なのでとてつもなく難しい


これを開発したのは

ウェンデル・F・ムーア

チャック・イェーガーが超音速を突破した、あのXS−1の開発を行った技術者で、
ベルX−2の開発研究を行いながら(息抜きというやつだったのかもしれません)
ロケットベルトの開発も行っていたそうです。

左は航続時間2時間と飛躍的に機能が改善しています。
これが右の製品からわずか2年後のもので、

LTV Corporation社製

昔、コルセアやクルセダーを作ったこともある「ボート」社です。

 

LUNAR POGO(1965~68) Bell Textron

航続時間10分 過酸化水素方式 手動

小さなロケット推進のプラットフォーム型。
背景が真っ赤ですが、これはカリフォルニアでよく見かける植物です。
名前は知りませんが。

 

たまたま去年撮った写真が、同じヒラー航空博物館の同じフォルダに入っていました。


 

JET BELT    Bell/Williams Research(1969~1984)

バイプラスタービン式 ジェット燃料 

航続時間10~30分 手動



REACTION ROCKET  Martin Marretia 1973

窒素ガス デジタル フライバイワイヤ ジャイロ式

ジェットパックは宇宙開発が盛んだったころに現れたので、
宇宙で使うことを期待して開発されたものもありました。



重力がないのをいいことに、本来なら重すぎて持てないものも
こうやって担いでしまえるというわけです。
他のジェットパックより重そうですね。

無重力状態ではジェットを噴出すると宇宙の彼方に飛んでいってしまうので(多分)
おそらく人間の力では推進できない動きを補遺する仕組みなのだと思われます。
 




COMMERCIAL JET PACK  N.TYLER  POWER HOUSE
(1970~)

過酸化水素方式 航続時間30秒 手動




ここにはこの実物が展示されています。
これこそがボンドが「スペクター」のジャック・プヴァール大佐を殺害した後、
脱出用に背負って飛んだ、ジェットパックです。



実用的ではないけれど、衆目を集めるジェットパックは、コマーシャルや
映画の撮影等に大いに活躍しています。



エクソスケルトン・フライング・ビークル

ライ・バイ・ワイヤ方式で簡単に操作できまた安全だそうです。
非常時の電源も供給される仕組みなのだとか。
航続時間は2時間40分。燃料はガソリンです。

これだけの時間飛べるのなら、通勤通学くらいには十分使えますよね。

もしそうしようと思った場合、道交法はどうなっているのでしょうか。



さて、この黒装束は最近の映画に登場したものですが、
皆さん何の映画だかお分かりですか?



トムクルーズの「マイノリティレポート」なんですが、わたくし残念ながら
この映画を見ていないので何がどうでてきたのか全く知りません。

ところで、このジェットパック、映画やコマーシャルしか使われていないということは
かなりお値段もお高いはず。
ここで気になるコストをちょっと調べてみたところ、

Tecnologia Aeroespacial Mexicana (TAM)製の「ロケットベルト」
飛び方と手入れの講習込み価格は25万ドル、約2500万円

ジェットパック・インターナショナル社製のジェットパックH202
講習込みで15万5000ドル(約1600万円)

The Martin Jetpack社のサイトによると、個人用ジェットパック
50000ドル(500万円)


最後のマーチン社のは妙に安いですが、ちゃんとサイトを見ていないので
その理由は分かりません。
これくらいなら買える!と興味を持った方は調べてみて下さい。

しかしどれも、航続時間はだいたい30秒といったところです。
そう、過酸化水素で推進している限り、この30秒というのは絶対の壁なんですね。
まあ、ジェットパックH202は30秒の壁を破った!ということで、
33秒の世界最長航続時間を誇る過酸化水素式ジェットパックだそうですが。


ところで・・・・何に使うのよ、これ。(基本的な疑問)

どう考えてもこれは「遊び」くらいにしか用途はあるまい、と思ったのですが、
調べてみれば案の定・・・・。

Jet Pack Hawaii

過酸化水素とか墜落の危険とかが全く無い、それが水の上のジェットパック。
パックから吹き出すのは水です。
おそらく黒いホースはポンプに繋がっていて、そこから高圧の水を噴射するために
海水が供給されるのでしょう。
たとえ墜落しても水の上、ちゃんとヘルメットもしているし、よほどのことが無い限り
事故は起こらなさそうに見えます。

これは、ハワイに行ったときちょっとやってみてもいいかな、という気になりませんか?

そして、やはりアメリカにはこんな人もいます。



将来は通勤も可能に? 空飛ぶ「ジェットパック」一般販売へ

見られない場合は→https://www.youtube.com/watch?v=MyRe3CW6Dak


「10万ドルを払える裕福なアドレナリン中毒者」のために30年来の自分の夢、

ジェットパックの開発を個人でして、販売までこぎ着けた男。

この映像を見ていただければ、ジェットパックを背負ったとき
どのように飛ぶのか非常に分かりやすいと思います。


しかし、プーンと飛んでいるところを狙い撃ちされたり、風に煽られて墜落したり、
そんなリスクを考えてさすがのアメリカ軍も一旦費用は出してみたものの

「やっぱりこれ無理だわ」

と思って開発をあきらめたんだと思うんですが、そもそも軍が介入しなかったことが
結局開発がそこから全くと言っていいほど進まなかった理由だと思います。
航空技術のほとんどは軍の必要性によって発達してきましたからね。

しかし上のYouTubeの開発者グレン氏のもとには、

「国境周辺の警備に使うため5つの軍隊と6つの政府から問い合わせがきて」

いるのだそうで、「軍」組織が相変わらずこのジェットパックにかなりの
関心を持っていることも事実です。

人類は鳥のように飛ぶことに憧れたからこそ、今日まで航空技術を発展させてきました。
乗り物を使って飛ぶことが当たり前になっても、いやだからこそ

「自分の体を使ってまるで鳥になったように飛んでみたい」

という「アドレナリン中毒者」は後を絶たないと見えます。



「ジェットマン」、B17爆撃機と共に大空を舞う

ついにここまで来たか、という感があります。




ところで・・・・・。

ボンドの話に戻りますが、グレン氏の言う「興味を示している6つの政府」のなかに
「女王陛下の政府」は入っているのでしょうか。








 

 


パシフィックコースト航空博物館~「ファイナルカウントダウン」盗作問題

2014-07-05 | 航空機

サンフランシスコを北上、ワインカントリーであるナパ、ソノマ地域に
ある民間空港、チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港。

その一角にこの航空博物館はあります。

外に置きっぱなしの展示といい、寄付だけで賄われている感じといい、
いかにも退職老人の再就職先になっていそうな感じといい、
空港の片隅にある博物館にありがちな手作り感満載の小さなものですが、
いずれにせよわたしはキャリー・ブラッドショーが(今テレビでやってる)
マノロブラニクのバーゲン会場を目の前にしたような気持ちで
この宝の山に脚を踏み入れたのでした。



マクドネルダグラス F−15 イーグル

前回911現場であるNY上空に航空機突入の時間駆けつけていたとして

「彼らは英雄かもしれないが、却ってこれは陰謀説を裏付けないか」

と書いてみたのですが、まあ、この話は軽く受け流して下さい(笑)
それより、このイーグルがどこから飛んで来たかと言うと、
バージニア州のラングレー(ヒバリ)空軍基地。

F−15はその後退役が進んでおり、現在軍使用されているのは
ネバダ州のネリス空軍基地のみ。
そもそも高価すぎてサウジとか日本とか、お金持ちの国にしか
買ってもらえなかったという戦闘機なんですね。



元々のペイントがうっすらと透けて見えています。
「ケープコッド」とあるのですが、F−15イーグルの名前としては
あまりイメージが合っていないような・・・。

パイロットがボストンのこのペニンシュラ出身でしょうか。



 コクピット下にはパイロットの名前を書く慣習がありますが、
ここに書かれた名前には軍階級がありません。

F−15は過去の空戦で撃墜されたという記録がなく、
現地の説明によると「100以上の空戦に勝利している」そうです。 



実はこの航空機には案内板がありませんでした。
展示マップにも該当場所には何も書かれていないので、
おそらく最近導入した展示ではないでしょうか。

しかし、今のわたしには機種がわかってしまうのだった(笑)

まずこの無理矢理な翼のたたみ方。
これは間違いなく艦載機の特徴ですね。



海軍所属で、おまけにホーネットの艦載機、と書いてあります。
これは

Grumman S-2 TRACKER

だと思われます。
去年の夏空母「ホーネット」を見学し、ハンガーデッキにこのトラッカーが
非常に肩身の狭そうな様子で展示されていたのを思い出しました。

そのときも書いたのですが、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
このトラッカー、搭乗員たちからは不満続出だったということです。

ところでたった今画像を見て気づいたのですが、このトラッカー、

MADブームがついていません。



お尻の部分を拡大してみると取り外されたように見えないこともないのですが、
このトラッカーは対潜用に作られたので電子戦の装備があり、
必ずブームをつけているのだと思っていたのですが・・・。

もしかしたらこれ、トラッカーじゃないかも?


トラッカーの尾翼裏にあったスコードロンマーク。



Grumman A-6 IINTRUDER

これも実は説明看板がありませんでした。
しかしこの角ですぐ分かってしまいますね。



海兵隊の所属となっています。
このイントルーダーはベトナム戦争、湾岸戦争など、海軍の艦載機として
アメリカのかかわった戦争ほとんど全てに投入された、とされますが、
海兵隊については説明がないのでわかりません。



お腹の部分に突き出ていた透明のケースのなかの物体。
これはなんでしょうかね。
目標探知攻撃複合センサー、TRAMというものではないかと思ってみたのですが、
どこを探しても画像がありません。

たとえば、モデルメーカーのハセガワは1:72スケールのイントルーダーを
10000円(消費税別)で販売しています。
いまどきのプラモデルってこんなにするんですか!
それはともかく、その説明に

A-6Eは、A-6Aの電子機器の能力向上型で、
レーダーも強力なものに換装されています。
なかでもA-6E TRAMは、目標探知攻撃複合センサーを機首下面に装備して、
攻撃精度の向上がなされています」

とあったりするので、おそらくこれはTRAMではないかと思われます。
が、ハセガワのモデルイラストを見たところ、この部分には
レドームのようなこぶができているだけです。

この透明の部分がTRAM本体なのかどうか、どなたかご存じないですか。



スコードロンマークはバイキングと剣、そして稲妻。



Mk82にたくさんサインがあります。
AM2(AW)とか書いている人が多いのですが、これで検索すると
どうやら階級で、

 Petty Officer Second Class AD2 (AW)

などと表記するようです。

AWとは

Aviation Warfare System Operators

のことのようなのですが、いまいち確信がありません。




Sikorski H-34 CHOCTAW

アメリカ陸軍のカーキーグリーンは、自衛隊のOD色よりも
かなり明度が高いように自称「絶対音感と絶対色感」
を持っているところのエリス中尉には思われました。

このチョクトというのは何度も同じボケですみませんが、
菅直人のことではなく、北米ネイティブアメリカンの部族名です。

日本でも現地生産して調達されていた機種で、
世界的には2261機が生産され、この台数を持って
ベストセラーとされているようです。

というか、軍用ヘリってこの程度生産されればベストセラーなんですね。




こういう説明のボードがちゃんとついているとは限らないのですが、
このヘリに関してはスポンサーが大物(ヒルトンホテルとソノマワイン組合)
のせいか、ちゃんとした説明板があります。
このように、この博物館、地元企業が何社かで一機を受け持ち、
そのメンテナンスのお金をスポンサードして、企業イメージ
と共にこういうところで宣伝をするわけです。

これ、いいシステムだと思いませんか?

何度もしつこいですが、鹿屋の二式大艇、それからこの間お話しした
海洋大学の明治丸も、企業のスポンサーを募ればいいのでは?
その代わり、そのことを現地の案内やHPに明記するというのは?
匿名の篤志を募るより、効率がいいと思うんですがねえ。



陸軍ヘリのチョクトー部隊のマークは凶悪面のブルドッグ。
ご丁寧にイガイガの首輪までつけています。
頭と尻尾になにやらついているのですが、これは画力が残念で
何か分かり難いながら、どうやらローターらしいですね。

たしかにこのチョクトーはずんぐりしていてブルドッグのようなシェイプ。
みずから「ブルドッグ」と名乗るのはこの機体のイメージだったのです。



ここはテールが持ち上がる部分。
排気のためにメッシュの窓がはめ込まれています。


自衛隊にも17機が導入され、そのうち1機は海保に移譲されて
南極観測船「宗谷」の艦載機として昭和基地と宗谷の間の
輸送に活躍したそうです。




使われることがなかった爆薬の類いが、ケースごと。
手前のは完璧にさびています。



 NORTHROP F−5E "FREEDOM FIGHTER " TIGER II

トルコ空軍の曲技飛行隊はこの機種を使っています。
小型軽量で大変運用しやすかったので、このトルコ始め
発展途上国に大量に輸出されたそうです。


もともとアメリカ空軍では使用する予定がなかったのですが、
供与された国も

「アメリカで使ってその実績を教えてくれなきゃー」

とごもっともな要求をしてくるようになったため、(たぶん)
アメリカはこれをベトナム戦争に対地攻撃用として投入しました。

この際、F−5が参加する作戦は

「スコシ・タイガー・オペレーション」

と名付けられています。
「スコシ」って何だと思います?
そう、日本語の「少し」なんですよ。
なんだかすごく間抜けな響きがするような気がするのは
わたしが日本人だから?


なぜわざわざ日本語を投入したかと言うと、外国空軍への供与、
並びにその実績説明というのがその第1目的だったため、
何となく外国語を使ってみたようです。

供与先が日本ではなかったので、まさかの日本語だったみたいですね。 



そうと知ってみると、とたんに親近感が湧いて来るではないの。
やたら羽が短くて、こんなので大丈夫か、なあやすい雰囲気が漂ってますが。



これはアメリカ海軍所属なんですか?
この赤い星・・旧ソ連のマークのような気もするのですが・・。



グラマン F−14A トムキャット

グラマンの猫戦闘機、トムキャット。
冒頭の写真は正面から撮ったものですが、ウィングが可動式で
肩をすくめた状態になっているので、あまりかっこよくありません。
(感想には個人差があります)

なんだか変な色にペイントされてしまっていますが、これは
メインテナンスの途中なのだと思います。
毎日必ずどこかを補修しても、航空機が多いので一巡することには
最初の航空機はもうすでに補修が必要になっています。

サンタローザは夏の暑さは強烈ですし、雨も降りますから
外に置きっぱなしの展示は劣化しやすそうです。



オークランドのエアミュージアムではこの部分が旭日模様の

「サンダウナー仕様」

つまり「日本をやっつけ隊マーク」になっていたわけですが、
このトムキャットは第84戦闘機隊の所属マークがつけられています。



海軍第84戦闘機隊は、このスカル&クロスボーンのマークと共に、
1980年の映画

「ファイナル・カウントダウン」

に原子力空母「ニミッツ」と共にに出演したことで知名度の高い航空隊です。
航空隊のニックネームは

「ジョリーロジャース」。

英語圏では一般的に海賊旗をこう称することからです。



翼の下の配線もこのように展示してくれています。
ここの展示も手で触れることを禁止していません。


「ファイナル・カウントダウン」はこういう話です。

1980年、真珠湾を航行していた「ニミッツ」が竜巻に遭い、
それが去った後、偵察に出た艦載機トムキャットが発見したのは
日本海軍の零戦だった。
「ニミッツ」がタイムスリップしたのは1942年12月6日、
つまり真珠湾攻撃の全日であったー。




ちょっと待て、それはまるで「ジパング」ではないのか、
と思ったあなた、あなたは正しい。
残念ながらこの映画は「ジパング」に先立つこと20年前に
すでに公開されており、この「タイムスリップ戦史もしも物」の
原型においてはこちらがオリジナル、つまり「ジパング」は
アイデアにおいてはこちらの二番煎じだったんですねー。

おまけに、このテーマソング、聴いて頂けます?

The Final Countdown 1980 theme John Scott

お時間のない方は4分20秒からだけで結構です。

「こりゃーあれじゃん!」

と思った方、その通り。
業界では有名なパクリなんですね。
映画公開の2年後にヒットした曲なので、言い逃れできません。
今この曲のクレジットを見ると「ジョン・スコット」という名前が
「あれ」の作曲者「大森某」の名と共に併記されています。

これは、なんとファイナルカウントダウンの音楽担当、
ジョン・スコットが、わざわざ盗作を指摘するために来日し
さらに大森某も盗作であったと素直に認めたため、
作曲者として名前を連ねることにしたのでした。

うーん。恥ずかしい。
これは恥ずかしいぞ日本。

パクリがどうのこうのと某国や某国を日夜馬鹿にしていても、
実はわずか3~40年前にこんなことがあったというのは恥ずかしい。

このころはインターネットは勿論ビデオさえ一般的でなく、
従って映画は映画館かテレビで放映された物を見るしかなかったんですね。
ましてや映画音楽は、よほどヒットした場合を除き、
一般の耳にほとんど触れることなく終わってしまったのですから、
大森某はばれないだろうと思って盗作に走ってしまったのでしょう。

まあ「ジパング」はアイデアをパクりながら色々と展開させているので
著作権的にはセーフ(道義的にはアウト)なのかもしれませんが。

音楽といいストーリーといい、このファイナルカウントダウン、
日本人の「これをやってみたい!」という琴線に触れるものがあったみたいですね。






何の説明もなく展示されていたエンジン。
せめて包装を外そうよ・・・。



続きます。
 


キャッスル航空博物館~女王陛下のアブロ・バルカン

2014-05-05 | 航空機

キャッスル航空博物館には全部で56以上のレストアされた展示機があります。
なにより日本人としてうらやましいのが、まずそういう広い展示をするスペースがあること。
これは、もと空軍基地だったところがまるまる博物館になっているのですから、
当たり前と言えば当たり前なのですが。

そして、 なんといっても、これだけの航空博物館を運営していくのに、
必要なだけの資金がおそらく空軍からも出ていることです。

展示航空機は空軍海軍からそのままスライドしてきたものが多そうですが、
中には展示説明版に「どこそこの誰々が寄付したもの」と書いてあり、
個人あるいは団体の所有物であったことを示している機体もいくつかありました。

つまり集まってくる経緯や入手先
はさまざまだということですが、その中で、
アメリカ軍のものではない飛行機がここには2機ありました。


一つが冒頭写真の 



AVRO VULCAN B. Mk 2 (アブロ バルカン)

ヒラメのようなうっすーい機体を見る限りそうは見えませんが、こう見えて戦略爆撃機。
イギリス軍が、冷戦時代、ソ連への侵攻を想定し、スピードと高高度、
そして爆弾搭載機能を同時に兼ね備えた機体を開発したものです。

オペレーション開始は1952年のことです。
1980年代に引退するまで、R.A.F(Royal Air Force、イギリス空軍)の所属でした。

デビューの時は、大掛かりな宣伝と発揚を狙って、なんと世界一周飛行をしたそうです。
しかし。

世界一周後凱旋してきたヒースロー空港に着陸失敗して、破損したのはここだけの話(T∀T)


戦略爆撃機としては、ヨーロッパ製のトルネードに置き換えられての引退です。



このバージョンは第二世代で、1960年にオペレーション開始となりました。

このキャッスル航空博物館にやってきたのが引退してすぐの1981年ですから、
もう30年以上ここに展示されているわけです。

この塗装の禿具合からみて、国旗とグレーの部分しか塗り替えていないのではと思われます。




当博物館の特色として、平面からしか航空機を見る術がないので、
実はこの飛行機がこんなシェイプをしていると知った時には少し驚きました。

なんか蛾みたいで、しかもまだら模様が少しキモいと思うのはわたしだけであろうか。

このタイプの水平翼のことを「デルタ・ウィング」というのですが、
これが爆撃機としてデルタウィングを採用した最初の飛行機です。

ヒラメのように薄い機体は、翼抵抗を少なくして航続距離を見込んだ設計です。

運用当初の主目的は核搭載(抑止力のためですよ、左旋回のみなさん)で、
そのため核爆発の閃光から機体を護るため、白色に塗装されていました。
(抑止力のためなら、なぜ実際に落としたときの想定をするのかって?
本当に落とすつもりがないと思われたら、抑止効果にならないでしょ?左のみなさん)

しかし、その後、これは世界的な傾向でもあるのですが、核抑止力は
航空機から戦略原子力潜水艦に求めるようになったため、バルカンの任務は
「低空侵入による戦術核攻撃」と宗旨替えをされ、そのために迷彩柄になったというわけです。

こんなおおざっぱな迷彩が、ステルス性につながるものだろうか?

とついシロートは考えますが、こう見えてバルカン、 1960年に英米連合軍()合同で
行われたスカイシールド演習では、仮想敵機(つまりソ連機)役を務め、
見事ニューヨークの上空に侵入することに成功しています。


ふと思うんですけど、この演習の時の仮想敵機パイロットのメンタルって、 

「気分もすっかり敵国機」

なんではないでしょうか。
このときのバルカンの搭乗員たちが5人が、すっかりソ連軍パイロットになりきって、
ニューヨーク上空に侵入した時には思わず

「ハラショー!」「ウラー!」

と快哉を叫んだ、に1ルーブル5カペイカ。





ここでちいとばかり注目してみた、バルカンおなかの部分。
翼幅は30メートル以上あるらしいんですが、ウィキペディアの画像と比べても
少し幅が狭い気がしますね。

調べても分からなかったのですが、このデルタウィングは可動なんでしょうか。

柵の中までは入れないようになっていたので、
核爆弾を収納する部分を写真に撮れなくて、それが残念です。
半月型のウィンドウは、B-17みたいに、爆撃手がずっとここから下をにらむため?
と現地では思ったのですが、実はバルカンの乗員は5名で、

正副操縦士、航空電子士官、レーダー航法者、進路設定者

つまり爆撃手という専門の係はいないのです。
爆弾投下もボタン一つなので、この航空電子士官という係がやってしまうんでしょうか。




バルカンのノーズを下から撮ってみました。

ところで、このイギリス空軍の飛行機がなぜここにあるかというと、
イギリスから「好意で」「無期限貸与」されているのだとか。


ふーん。さすがはもと同盟国同士。仲良しですな。


ちなみに、この説明ですが、「
イギリスから」とかではなく、


「Her Majesty's Government」(女王陛下の政府、イギリス政府のこと)

とわざわざご丁寧に書いてあります。



エアインテークの蓋にもちゃんと手書きで文字が。
ちなみに英語読みだとこれは「ヴュルカン」となります。

余談ですが、英語で話していると一番困るのが「その国で認知されているところの発音」
を知らないと話が全く通じないことですね。

トム・クルーズの映画「ワルキューレ」、ワーグナーの「ワルキューレ」もですが、
英語読みだとそもそも単語が「 Valkyrie 」で、「バルキュリー」と発音します。
ドイツ語ではWalküreとつづりますが、これも発音すると「ヴァルキューレ」。
英語だと原語に近いスペルを当てはめてしまうんですね。

かと思えばKarl Zeissを、日本人はドイツ語発音に近い「ツァイス」と読みますが、
アメリカ人は「ザイス」と読んでしまうと言うようなこともあります。

と、アメリカ人と会話していて発音を直されたエリス中尉が言ってみる。




バルカンを撮っていたら、博物館の横にある線路を貨物列車が通りました。
最初なんとなく見ていたのですが、いつまでたっても最後尾がやってこないのです。

「え。これ、いったい何両編成なの」
「さっきからずっと連なってない?」

TOとこんなことを言いながら眺めていたのですが、写真のような普通のコンテナ、
ガソリンを積んだコンテナなど、優に100両はあったでしょうか。


「こんなのが通ったら、開かずの踏切だね」
「心配しなくても一日一回しか通らないんじゃ・・・」
「日本なら夜中走らすだろうけどなあ」


もっともそんなに早いスピードではありませんでしたが、全部通り過ぎるのに、
たっぷり10分以上はかかり、わたしたちはアメリカの広さをあらためて実感したものです。






 


ヒラー航空博物館・メッサーシュミットと「戦犯企業」

2014-05-02 | 航空機

サンフランシスコ空港近くのサンカルロスにあるヒラー航空博物館は、
勿論航空博物館なのですが、このような展示物もあります。

メッサーシュミット”キャビンスクーター”


昔、景山民夫のエッセイ(この人のエッセイ本、面白かったですよね)に
高速の車線内側に景山さんのスバル?とメッサーシュミットと忘れたけど
何かもう一台似たような車が信号待ちで並んでいて、そのとたんお互いの間に
瞬時に「やる気」が伝わり、青信号と同時に三台のレースがスタート、
息詰るようなデッドヒートが繰り広げられているその外側車線を他の車が
ブンブン追い抜いていった、という話を読んだことがあり、

「メッサーシュミットって、名前はかっこいいのにこんなに遅い車なんだ」

と、勿論その名前を持つ戦闘機があることなど、全く知らなかったわたしは
この逸話をその名前とともに印象深く刻んだものでした。

ここにはそのメッサーシュミットがあります。

なんだって航空博物館なのに車を展示しているのだろう、と思ったのですが、



ここにはこのようなアンティークカーも展示されていますし、
その理由をあまり深く考えませんでした。
この博物館の素晴らしい点は、時代が一目でわかるこのようなマネキンを置き、
ただ展示するだけでなく視覚に訴える演出がされていることです。
マネキンが来ている洋服も古着には見えず、このためにわざわざ作ったのかと思うくらいです。



ついでですので、わたしが一番好きなマネキン演出を。

映画の一シーンのようです。
もしかしたらカサブランカ?と思ったのですが、この男性の制服の正体が
まったく映画とは関係なさそうだし、ここにあるのは



BUHL AUTOGIRO 1931

1931年に制作されたオートジャイロなので、ヴィシー政権下のフランスを描いた
カサブランカとは縁もゆかりもないことになります。

写真が出たついでに説明しておくと、このオートジャイロ「ブール」は、
165馬力の「コンチネンタルA70」という7気筒空冷式エンジンを使った
世界最初の航空機です。

ここアメリカではなくスペイン飛行機会社がオートジャイロを最初に開発しました。
開発者はスペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバ

オートジャイロとヘリコプターは似ているようで別のものです。
その違いは回転翼に駆動装置がついているかいないかです。
簡単に言うと、オートジャイロはプロペラがまず回転し、そのプロペラの風や
推進時の風力によって回転翼が初めて回転して揚力を得るという仕組みです。
まあ、単純にその違いについては

「オートジャイロはホヴァリングできない」

ということだけ押さえていただければいいかと思います。

勿論ヘリコプターが発達したのでオートジャイロは実用性を失い、
今ではスポーツ競技用に使用されるのみとなっています。



機体の後ろに見えている木製のプロペラがまず回転し、
その推進力による気流で回転翼が回るという仕組みです。

この機種を当時の日本では朝日新聞社が購入して持っていました。
朝日はこのオートジャイロで空中遊覧のルポをし、

「空中道中膝栗毛」

というコーナーを連載していたそうです。



さて、メッサーシュミットの話に戻りましょう。
このメッサーシュミットもおそらくベイエリア在住の篤志家からの
寄付だと思われますが、航空博物館としてはこれが航空機製造会社の
メッサーシュミット製品であるというつながりからこれを受け、
このように



アルバトロス飛行艇(一番向こう)、アルバトロス練習機(その左)
そして手前の・・・何だっけ、まあその隣に展示されるという
「破格の扱い」を受けているものと思われます。

この”キャビンスクーター”は1958年製。

この車の前にある解説にはまずこのような出だしで説明が始まります。

”第二次世界大戦後、ドイツは荒廃しました。
メッサーシュミットのような会社は航空機の製造や、あるいは武器製造に
かかわるもの全てから、何年かもの間『忘れられ』 ていました”

 
へー、何だかとーっても他人事。
まるで自分の国が全くその荒廃の原因となった産業不振と関係ないかのようね。 
どうしてメッサーシュミットが「忘れられていた」のかって?
アメリカさんともあろう国がその理由を知らないはずないでしょ?
とぼけちゃって。


まず、この英語のwikiを見ていただけるかな?

Following World War II, Messerschmitt was tried by a denazification court
for using slave labor, and in 1948 was convicted of being a "fellow traveller."
After two years in prison, he was released and resumed his position
as head of his company.

メッサーシュミット社の創立者、ウィリー・メッサーシュミットの記事です。
日本語のwikiだと、上記の「非ナチ化」裁判、あるいはその下の
「同伴者」(戦犯とまではいかないが協力した者)という説明がなかったので
あえて英語wikiを載せました。

元々この非ナチ化は米英ソの三国によって決められ、アメリカは占領政府のもと、
ドイツの非ナチ化を行うべく、戦犯裁判において自らがナチ党員だけではなく、
ナチズムと軍国主義の支持者全員の公職、準公職から排除することとしました。
また、社会の要職につく人々とナチ党との関係を審査し、
その結果公務員の3分の1が解雇されたということです。

ところが日本に対する厳格なやり方とは違い、アメリカはここでドイツ人に対し
アンケートをしてその結果を裁定する、という甘々な方法をとったため、
誰も本当のことを答えませんでした。

そりゃま普通そうなりますわね。

そこでアメリカはドイツ政府にその「非ナチ化」をドイツの法律として制定させ、
それらをドイツ人の手に任せたわけです。

ここからが問題。

同胞がそれを決定するということになれば、今度は身内の庇い合い、
実力者のコネで無罪を勝ち取る、恨みを買うのを恐れて告発することをためらう、
こういったプチ暗黒社会化とでもいうべき当然の成り行きが待っています。
そもそもそんな告発委員会のメンバーになど誰もなりたがりません。

しかしさすがはドイツ人、そんなときにも組織はさくさく機能したため、
景気よく?ドイツもこいつも戦犯として牢屋に入ることになってしまい、
そのためドイツ社会は人手不足が深刻になってしまって当然産業は空洞化し、

「ドイツは荒廃し」ます。

つまり、アメリカが戦後日本にもやったように、戦時中の基幹産業を
すべて「戦犯」の名の下に駆逐してしまったこともまた、

「ドイツの荒廃を招いた」

ということだったんですよ。
というわけで、どこのドイツが直接この国を「ruined」させたか、
分かっていただけたかな?ヒラー博物館の人。


メッサーシュミットは強制労働をさせた罪でアイン・シュトリンケンデ・マールツァイト
(臭い飯)を2年間喰らって娑婆に出てきて再び社長になりましたが、
メッサーシュミット社は航空機の製造や研究を1955年まで禁止されていました。

それで、プレハブ住宅やこういった小型自動車を作って堪え難きを耐えていたわけです。
日本でも、戦時中に航空機を作っていた会社は殆どがその製造を禁止され、
例えば川西航空機はお菓子のあられまで作って耐えたという話がありましたが、
この会社の場合、転んでもただでは起きなかったので、このときの何でもやった経験が
戦後の事業にうまく結びつき、多角化に成功して今日に至ります。


さて、その頃メッサーシュミットが制作したのが、この「キャビンスクーター」でした。
低燃費で長距離を走ることのできる「バブルカー」キャノピーがバブルのようだから。
バブル時代に六本木カローラと言われたベンツやBMWのことではありません)
というカテゴリのミニカーです。

やはり戦時中、ユンカース、フォッケウルフのエンジンを製造して来たBMW社
(バイエルン・モトーレン・ウェルケ)も、戦時中に
捕虜収容所の囚人を3万人労働させたということで3年間操業停止処分を受けましたが、
解禁後まず二輪車、そして次は「イセッタ」という、やはりバブルカーの
ライセンス生産をしながら次第に生産を軌道に乗せていっています。

このイセッタ、わたしは今回初めて写真を見たのですが、ドアが前にあるんですね。
ハンドルがジャマで出られないような太った人は乗るな、というコンセプトですか。
かわいいというか・・・・キモカワイイ、って感じ?

しかし、BMWはこの「イセッタ」に、バイエルン州の州旗からとったブルーと白の
マークは付けても、1933年からシンボルデザインとしていた「キドニーグリル」
(フロントグリルの豚の鼻のような肝臓を象った窓)を使っていません。

BMWのプライドかな?と思ったのですが、この車にはフロントグリル要りませんよね。




実に愛らしい。こんな犬いますよね。

同じようなコンセプトだったフォルクスワーゲンほど一般的には
なりませんでしたが、今日でも蒐集家に取っては垂涎の一品となっています。

元々「雨を避けることのできるスクーター」というコンセプトなので、
名前も「カビネンローラー」(キャビンスクーター)と名乗ったりしていましたが、
これがこのバブルカーの総称にもなっています。

エンジンはコンパクトで、強制空冷単気筒の200cc。
バイクだとしても中型ですね。
4段階マニュアルトランスミッションで、バイクと違うのはバックもできること。
最高時速99キロ、(十分ですよね)
ガソリン1ガロン(3、79L)あたりの燃費は100マイル(160キロ)
つまり、リッター・・・・

42キロメートル・・・・・だと・・・・・。(愕然)




ブルーエンジェルスのコクピットもありますよ。


さて、「戦犯企業指名」なんですけどね。
どうしてもこういう言葉にこだわらずにはいられないエリス中尉としては、
「戦犯」って何なのよ、ってことをちょっとだけ書いてみます。


これつまりは「戦争に負けた」から負けただけのハンディを負わされただけなんですよ。
もしアメリカとイギリスが負けていたら、グラマンもシコルスキーもヴォートも
レイセオンも、ソッピースもスーパーマリンも戦犯企業として操業を停止され、
たとえばこんな玩具みたいな車を作って糊口をしのがなくてはならなかったってことですよね?


つまり「戦犯」という言葉は、戦争当事者同士の間にのみ存在するべきで、
しかもその「ペナルティ」を受け終われば、もう消滅すべきものなのです。

と こ ろ が 。

なぜか、日本と戦争していたわけでもなく、徴兵されたわけでもない国が、
戦後70年にもなっているのにいまだにこの言葉が大のお気に入り。
つい最近も「戦犯企業は戦時中の労働に対する賠償を云々」
などという案件を裁判沙汰にして、賠償金をむしり取ろうとしているんですね。

なんなんですかこれ。

日本を「戦犯」と呼んでいいのは、日本と戦って勝った国だけです。
日本と一緒になって戦っていた国にそれを言う資格はないのです。

しかもその「罪状」は、東京裁判の結果、国家指導者を首吊りにして生け贄にされ、
公職追放の嵐は吹き捲くってGHQの思想統制は国民を席巻し 、全ての価値観を変えられ
・・・・、しかし、そんな悪夢のときを経て曲がりなりにも独立に至った、
あの時点で法的には勿論歴史的にもすっかり消え失せていると思うんですがねえ。

だいたい反省せよというならばあの時期を反省期間と言わずして何というのか。
戦争に負けて反省する必要があるとはわたしはみじんも思いませんが、
あの時期、日本は占領下で「反省」の言葉と共に散々辛酸を嘗めたではありませんか。


何度も言いますが、戦争に善も悪もないのです。
あるのは、勝ち負けだけで、負ければ「罰ゲーム」が待っている、
それだけのことなんです。
罰ゲームで運が悪ければ国が無くなりますが、国さえ残れば、
罰ゲームをとっとと終えて、後は何の遠慮もなく国を復興隆盛させてもいいんですよ。
そして、それを引け目に思ったり、ましてや反省する必要などないのです。


かつて世界に「戦犯国」と呼ばれた国が二つあります。
どちらの国
も敗戦の痛手から立ち上がり、戦犯国としてのペナルティを受けた後も
工業技術の分野で世界のトップ集団に返り咲いて
戦後の繁栄を成し遂げました。
そして 

「世界にいい影響を与えている国」

のアンケート結果は、2012年・2013年とこの両国が占めています。
いまや(世界でただ一カ国を除いて)この二カ国を戦犯国などと呼ぶ国はありません。








チェコスロバキア製の高速ジェット練習機、

L−39アルバトロス

の前のおじいちゃんと孫。
この博物館で夏の間開催されているサマースクールの生徒で、
おじいちゃんはお迎えにきたみたいです。
今日やったプロジェクトをまず見せて報告をしているのでしょうか。


彼らが前に座っている飛行機はまだ現役で、ロシアでも運用されているそうですし、
フランスではアクロバットチームが運用したりしています。

チェコスロバキアはその後チェコとスロバキアに分かれましたが、
その際、仲良くこのアルバトロスをスロバキア14機、チェコ30機、と分けたようです。

ご存知かもしれませんが、チェコスロバキアはベルリンの壁崩壊をきっかけに
「ビロード革命」という流血の全くない(デモ隊と政府のぶつかり合いは勿論あった)
革命を経て二つに分かれた国ですから、こういう場合も遺恨を残すことなく
すんなりと分配が進んだのかもしれません。

少なくとも、独立戦争後どちらかが片方を「戦犯」としてマイルールで裁く、
などという支配被支配の歴史を作るようなことにならなかったのは
両国民に取って幸せなことであったに違いありません。


・・・と、無理矢理話を結びつけてみました。
ふう、落語の三題噺を終えた高座の気分。

 


 


キャッスル航空博物館~B-29「超天空の要塞」の搭乗員たち

2014-01-31 | 航空機

カリフォルニア内陸のアトウォーターにあるキャッスル航空博物館
何度かお伝えていますが、軍用機のコレクションにおいては全米でも有数のミュージアムです。
大型機から無人機まで、大小計50機以上の軍用機が一同に集まっている様子は壮観です。

日本人のわたしには、生まれて初めて実際に見る軍用機ばかりだったのですが、
その巨大な機体の前に立ったとき、わたしも連れ合いも、思わず一瞬息をのむように沈黙し、
その後、

「これが・・・・」
「うん」

と言ったきりなんとも言えない気持ちで機体のマークを眺めていました。

B−29 スーパーフォートレス

われわれ日本人にとってこの響きには特別の感慨が呼び起こされます。
戦争を知らない世代のわたしたちですら。
大東亜戦争末期の本土空襲を経験している者がまだそこここに健在であったときには、
空襲警報のサイレンの音、防空壕に防空頭巾、焼夷弾、
そしてB−29という言葉が彼らの口から必ず出てきたからでしょう。

B-29が画期的だったのはpressrized、与圧室を全面採用した最初の航空機だったことです。

高高度を飛ぶ場合、機内の気圧ないし気温は低下します。

B−29が登場する1942年までは乗員乗客全員が防寒着の着用と酸素マスクが必須でした。
この問題を、高度1キロと同等の空気圧に室内を保つ与圧室を装備することでクリアし、
機内でも苦痛無く快適に過ごすことができるようになったのです。



以前「頭上の敵機」という映画についてお話しする中で、
映画に登場するB−17爆撃機について触れたわけですが、このB−17は中型爆撃機として開発されました。
こちらは、最初から長距離渡洋爆撃を想定して設計してあります。

開発当時世界はすでにヨーロッパにおける戦争に突入していましたが、
真珠湾以前であったアメリカは「平時開発」となります。
しかし、渡洋攻撃がどういうシチュエーションを想定してのものであったかというと、
それは当然のことながら日本を視野に入れてのことであったのは間違いありません。

現に真珠湾以降、本土爆撃が始まってから、B-29はその卓越した能力を生かして
日本全国に総計147,000トンの爆弾をばらまきました。

本格的に爆撃が始まったのは昭和19年の11月からです。
マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムから8時間かけて飛来し、
そして日本の各主要都市に隈無く爆撃を加えました。

「頭上の敵機」についてお話ししたときには、アメリカがヨーロッパで行った
白昼ピンポイント攻撃について、

「それは決して人道的な観点からの戦闘行動ではなく、
単なる効率の問題である」


と位置づけてみたのですが、それが正しかった証拠に、B−29が本土爆撃開始後
一ヶ月も立たぬ間にアメリカはその目標を無差別爆撃に切り替えます。


このミュージアムのB−29の説明では、

「広島、長崎への原爆はこのB−29から落とされ、それによって日本は降伏した」

つまり原爆を落とすことによって戦争を終わらすことが出来た、という
つまり殆どのアメリカ人がそう思っているあのおなじみの解説が
当たり前のように書かれていて、日本人としては腹立たしい限りですが(笑)
実際は日本が戦意を喪失し、終戦工作が一部で模索されるなどという動きにつながったのには、
実は原子爆弾以前の、このB−29による無差別爆撃であったと言われています。

原子爆弾投下はいわばだめおしの無差別爆撃だったので、これがきっかけとなった、

とするのももっともですが、日本で降伏の動きがあるのを察知したアメリカは、

「なんとしても原爆を日本で実験したい」

という事情から放っておいても降伏する日本に原爆をわざわざ落としたのです。

許さん鬼畜米。


それはともかく、民間人攻撃についてはアメリカ軍内部でも国際法違反であるとして

当初反対の声が上がっていました。
しかしアメリカは、この問題をこのように独断(ちうかこじつけ)して解決したのです。

「日本では民間の家で軍服や簡単な軍需機材を作らせている。
つまり民家も軍需工場と見なされるから国際法には違反しない」

許さん鬼畜米。




この手のノーズペイントを今回たくさん見ましたが、
どれもこれも悲しくなるくらいヘタです。
プロ並みのノーズアートを施した飛行機を一度くらい見てみたいものです。
日本だと、例えばクラスが一つあれば必ずそのうち一人くらいは
人並み以上の絵を描く人間がいたりするものだと思いますが、
アメリカではよっぽど絵のうまい人が少ないと見えます。

それはともかく、この悪魔のお姉さんにつけられたネーム、
これどういう意味か分かります?
わたしもここで見たときには全く理解できなかったのですが、
これを音読みしてみると

「ラツン・ヘル」

この「ラツン」というのは全く意味はなく、つまり

「ラプンツェル」

のモジリなのではないでしょうか。
何回言っても語呂がいいとはとうてい思えませんが、
とにかく「ヘル」を使いたかったと見えます。



ここにある機体は、チャイナレイクに遺棄されていた三つの機体を使って組み立てられました。
上記マーキングは、朝鮮戦争で沖縄基地から発進していた第19爆撃隊のものを踏襲したのだそうです。

このノーズに記されたおびただしい投下爆弾が、日本本土に対するものではない、
と知って、なぜかほっとしてしまいました。
もちろん、これだけの爆弾が朝鮮戦争で奪った命の数について考えないないわけではありませんが、
「自国民の命が奪われた証拠」
に関しては、ただの「事象」として見ることがやはりどうしてもできないんですね。


B−29という機体に対する複雑な思いも、つまりはそういう小さな「ナショナリズム」
から発しているのかと、少し苦笑してしまいます。


 


この博物館には、同じスーパーフォートレスと言う名のB−50も展示されています。

B-50はB-29の改良型で、垂直尾翼が非常に大きくなっています。



「ラッキーレディ2」という名前のB-50が、1949年、空中給油を繰り返し、
世界初の無着陸地球一周飛行に成功しています。
テキサス州のキャスウェル空軍基地を西回りで94時間後、同基地に帰着しました。




この機体は、天候観察用としてカリフォルニアのマクレラン空軍基地の部隊で使用されていました。
しかしその前は、対ソ用の原子爆弾のテスト機であったそうです。




「薄気味悪いほどでかい・・・・」

確か戦記漫画で初めてB−29を見た搭乗員がつぶやくシーンがありました。
「紫電改のタカ」の久保一飛曹でしたっけ。

こうして見ると、側面から見ただけはわからない「異常なでかさ」が
改めて実感されます。
翼の端から端まで43メートル。
スーパーフォートレス、とは見ての通り「超要塞」の意ですが、
wikiによると

「超空の要塞」

誰なの?
こんな中二病かはたまたマンガ戦記シリーズのタイトルみたいな訳をしたのは。

さて、いつぞや映画「海と毒薬」を当ブログでご紹介しましたが、
この話で医学部の人体実験に使われ殺害されるアメリカ人捕虜は、
B−29でこの地方に飛来して、対空砲で撃墜され落下した乗員、という設定でした。

実際の「九大事件」で人体実験の末死んだ搭乗員も、やはりそうでした。
1945年5月、福岡県大刀洗飛行場を爆撃するために飛来したB−29は、
日本軍戦闘機の空中特攻によって撃墜され、女性を含む搭乗員12人が捕えられます。
特攻した飛行機のパイロットは、落下傘で脱出しますが、他のB−29の機銃掃射を浴び死亡。
12名のうち8名が死刑とされ、九大で実験台になったわけです。

B-29による高度精密攻撃を行っていた頃、たとえ搭乗員は不時着して捕らえられても
決して危害を加えられることが無い、とアメリカ軍では言われており実際そうでした。

しかし、その後、無差別爆撃で一般市民が犠牲になるようになると、事情は一変します。
つまり、降下してきたアメリカ兵に皆でリンチを加え、時には殺害してしまうことも起きました。

当初はB-29の搭乗員とて、安楽な気持ちで攻撃に来たのではありません。
当初サイパンやテニアンから飛んでくる途中で機体不調のため無帰還となった機体も多く、
米軍が多大な犠牲を払って硫黄島を奪取したのも、すべては、
B−29の発進基地を本土に少しでも近くにするためだったのです。

たとえ本土までたどり着くことが出来たとしても、そこには猛烈な対空砲が待ち受けていました。
対日戦争で米軍の喪失した航空機の、65%が、高射砲によるものだという記録もあります。
19年の夏頃には、陸軍の「屠竜戦隊」によって80機のうち29機が撃墜されていますし、
「雷電」や「鍾馗」など、B-29の天敵というべき危険な戦闘機も待ち構えていました。


去年の6月、静岡県で、静岡大空襲のときに空中衝突(つまり特攻でしょう)で
墜落死したB-29の搭乗員の慰霊祭が行われました。
日米の軍、自衛隊関係者と遺族会が出席し、共に戦死者の為に祈りを捧げ、
B−29搭乗員の遺品である、焼けこげた水筒を使って日本酒とバーボンが碑に注がれました。

この慰霊祭で、ジョン・ルース駐日大使と米軍横田基地司令官はこのような挨拶をしました。

「静岡空襲の生存者は米国人犠牲者も同じ人間として扱ってくれた」
「敬意と慈悲を持ってアメリカ人搭乗員と日本人犠牲者をともに埋葬していただいた」

このような「米軍兵士慰霊碑」は、静岡だけにあるのではありません。
丹沢や青梅の山中などにも、地元の人々の手による慰霊碑が現存しています。

生きたB-29搭乗員を目の当たりにすると、鬼となって復讐の殺戮をするのは、
戦争という異常な価値観の中で、さらに肉親を失った人々にとってある意味当然かもしれません。
救いは、そういったことが禁じられており、必ず憲兵や警察が阻止に入ったことです。
言い訳するわけではありませんが、これは世界の基準に照らしても、おそらく
スタンダードな群集心理の範疇であろうと思われます。


しかし、死んでしまえば「皆仏」として丁寧に弔い、死者を決して冒涜しないのは、
日本人の精神性の中でも美点と言っていいものではないでしょうか。

アメリカ兵はその点、復讐心からというよりは蔑む気持ちから、
日本兵の死体を加工して本国に「記念品」として送ったりしました。
人種差別と侮蔑が感じられ、とても感情的に受け入れられない事実ではありますが、
例えば戦艦ミズーリに特攻した日本兵の死体を丁重に、
しかも旭日旗で包んで礼砲を撃ち水葬させた司令官や、
あるいはシドニー湾に突入した潜水艇の犠牲者を儀仗付きで丁重に葬送を執り行った
オーストラリア軍の司令官もいました。

少なくともこういう人間としての「もののあわれ」を知ることの出来る国同士であれば、
戦争が終わってしまえば友好関係を築いていくことが可能でしょう。

日本人が、無学な民衆の末端に至るまで「死ねばほとけ」のあわれを知る
非常に希少な民族であることは、我田引水というものかもしれませんが、
戦った相手にとって大いなる驚きと慰めとなったでしょう。

お互いが自分の信じるもののために戦うのが戦争です。
そこで失われた命を悼み、恨みをすべて水に流し等しく慰霊することのできる、
惻隠の情、という「仁」を知る国に生まれたことを誇りに思います。



大戦中、日本本土の空襲に参加したB-29の死者、行方不明者は、
3041名。

この中には、収監されていた広島、長崎に落とされた原子爆弾、
そして各都市の捕虜収容所に収監されていてB-29の落とす爆撃で死亡した捕虜も含まれます。


 



 


米軍基地探訪記~耐Gスーツとコーヒーカップ

2014-01-27 | 航空機

岩国の海兵隊基地に、ホーネットのパイロットブラッドとアンジー(仮名)
の夫婦にご招待を受け、行って来た話の続きです。

実はこの後厳に写真を撮ることを禁じられたシュミレーター室に行きました。

自衛隊はどうか知りませんが、少なくともアメリカ海兵隊の装備している
ホーネットドライバー用のシュミレーターというのは恐ろしく精密で、
 当たり前ですがその操作は実物と「全く同じ」なのだそうです。

シミュレータールームに入ると、部屋はコクビットを模したシミュレーター部分と、
それを別のブースで監視するコーナーに別れています。
そちらにはいかにもIT系らしい眼鏡をかけたエンジニアが配備しており、
我々が入っていきブラッドが声を掛けると、前もって聴いていたらしく
我々に愛想良く挨拶をしました。

まず、シートには息子が座りました。
シートのまわりはパネルのようなもので囲まれており、
座ってからそのパネルを閉じると360度スクリーンとなります。

その空間に大人4人と(殆ど同じ大きさだけど)少年一人が入り込み、
一人のシュミレーター操縦を至近で鑑賞することになりました。 

アンジーに前もって「やったことある?」と聴いたところ、
「やったことあるけど、すぐに墜落した」という返事。
何となくわたしもすぐに墜落しそうな予感がしていたので少し安心しました。

息子の機はテイクオフ。
横でブラッドがあれこれ口頭で指示するのですが、さすが息子は
その指示をちゃんと聴いてその通りに操縦桿を操り、中々うまい。
墜落することなくちゃんと着地も決め、得意げにシートを降りました。

「じゃ、次」

ブラッドがわたしに座れ、といいます。
しかし、座ったとたんわたしにはかなり問題があることが自分で分かりました。
息子はブラッドの指示を瞬時に理解しその通り操縦する、
ということができる程度に英語を理解しますが、わたしの場合、
英語を日本語に頭で翻訳して、そのあとその通りに動かす、
という具合に命令が操縦に反映されるのに彼よりも確実に遅くなるのです。
しかも時々、普通にしゃべっていれば「パードン?」と聞き返すような状況でも
聞き返せず、そんなことをしているうちにホーネットはどんどん高度を下げ、という具合。

つまり英語力の無さが操縦のミスにつながり何度も墜落する始末。

山口湾?に浮かぶ船を攻撃するように指示が出たのですが、全くかすりもしませんでした。
まああれは民間船だから、攻撃しちゃいけないですけどね。

そのあとブラッドは「じゃ次」とTOに振ったのですが、TOは
「いや、いいです」となぜか遠慮モード。

わたしが墜落を繰り返したのを見て怖じ気をなしたのかもしれません。
するとブラッドは

「いいんですか?たぶんこんなチャンス一生に一度だけですよ」

うーん。そんなもんかな。そんなものかもしれない。
というか、結構貴重な体験をさせていただいたということなのね。
その一言で俄然やる気になったTO、わたしに続いて操縦席に。

息子ほどではないけど、なかなかやるではないの。
少なくともわたしよりブラッドの指示がちゃんと聴き取れているってことね。

皆で会話していると、一番よくしゃべるのがわたし、TO、息子の順で、
一見わたしが一番流暢なのですが、実は英語の理解力はこの反対。
シミュレーターの成績もきっちりその順番でした orz

さて、楽しくシュミレーター体験の後は、ブラッドのスコードロンルームなど、
本来ならば日本人の見学者には絶対に見せてもらえないところにご案内だ。
その目的というのが耐Gスーツを着てみること!

いや、わたしじゃございません。

息子にこれを着せてあげる、と案内のブラッド大尉の大盤振る舞い。
航空隊のロッカールームにまず案内してもらいました。



まずカーキ色の、釣りのときにすっぽりと履くようなズボンを一番下に。
このズボンは、背中のところに大きなベルクロがあるのでそこで固定。
これなら瞬時に脱ぎ着できて便利です。
太ってもサイズフリーだし。



ポケットやらなにやら、いろいろ付いているものを
まず床において、



脚を入れ上に立ち、



一気に肩まで引き上げる・・・・・と。
これはベストの部分だったのか。





お尻に耐Gを加える必要はないんでしょうか。
それともトイレとか、そういう関係でこの部分はオープンになっているんでしょうか。
・・・・たぶんそうだろうな。
これをトイレの度にいちいち外したり降ろしたりは、絶対に無理。



ネックの後ろには衝撃で膨らむ救命クッションが出そうな感じですね。





ヘルメットとゴーグルもつけてフル装備。
部屋が狭かったのでかっこよくアオリで撮ってやれなくてごめんよ息子。
ヘルメットも迷彩のカバーが付いていました。



ヘルメットには変な落書きをしている隊員もいます。
わたしが

「洗濯って、する?」

と聴いたら、よっぽど意外なことを聴いたのかブラッドは

「え?」

と聞き返し、その後笑って、

「No・・・匂い嗅がない方がいいよ」



映画に出てきそうなブリーフィング・ルーム。
飛行機のシートそっくりのチェアのカバーには、
偉い人だけ?名前が刺繍されて専用席になっています。 



ホワイトボードの下にはブリーフィングで使う模型に棒が付いたもの。
うーん、これミッションの説明なんかのとき便利そうですね。 


そして、さすがはアメリカの航空隊だなあと思ったのが、これ。



なんとポプコーン製造機が。
アメリカではホテルや、洗車場の待合室にこういうのが置いてあり、
自分で勝手にすくって食べるようになっていますが、
航空隊のブリーフィングルームにまであるとは知りませんでした。

どうも機械の下には瓶詰めの調味料やなんかが装備してある模様。

ケースの表面になにか貼ってあるので見たら・・・



警告!

「怒りのコーン」は、内出血や他の深刻な症状を引き起こします



いやー、わたしはアメリカ人のこういう

「どんなときにもジョークを言っていないと死ぬ体質」

って結構好きですね。
ハリウッド映画でよくぎりぎりの場面、冗談をかましているのを見るけど、
あれは決して映画的な表現だけでもないみたいです。

このどでかいポスター、どこに在ったと思います?
ブリーフィングルームの隣には会議室が二つあるのですが、
その一つ「中国の間」に飾ってありました。

「これ、意味わかる?」

とブラッドに尋ねると知らない、というので

「American invaders must lose」

と翻訳して差し上げると、ブラッドは

「Oh・・・・」



これは説明する自信がなかったので黙っていましたが、
「越南」はベトナム、美帝はアメリカ政府?
右側はアメリカに対抗するために軍部の力を支持しましょう、
ということを言っている・・・・のかもしれません。

漢字だから中国のものかと思いましたが、どうやら
全てベトナムの作ったものであるようです。
しかし、少なくともここのアメリカ人たちはこれを中国製だと思っているようでした。

その証拠。



とほほ。
二つある会議室の一つが「チャイナルーム」。
ドアに巨大な五☆旗が・・・・。

「米国侵略者は必ず負ける」


って、ベトナム戦争ではその通りになったからなあ・・・。
知らないでやっているんだとすれば痛い。

と思ったらもう一つの部屋は・・・ 

「イラクの間」

・・・・・・・・・・・・・・・・。

わざわざこんなジョークをかますために、こんな大きな
敵国?の旗をドアに貼り付けられるアメリカ人に嫉妬。

自衛隊では100年経ってもおそらく見られないジョークでしょう。
嫌味をいうわけではないけど、

「敵国から日本の島を奪還するという模擬訓練」

ですら、日本の旗を出せなかったくらいですからね・・・。
こんなダイレクトすぎて逆に三回転捻りで元の位置みたいなジョークは、
おそらく日本人、とくに自衛隊には逆立ちしても、無理。

さて、中国とイラクの間の外には、コーヒーを飲まないと
これまた死んでしまう体質のアメリカ人のために、会議のときに
使用する「マイカップ」置き場がありました、



皆でお揃いのカップを作ったらしく微笑ましいのですが、
一つづつ名前が入っているので「マイカップ」です。

コンソールの上に置いてあるのはおつまみのストリングチーズ。

全く会議とか大学の授業とか、アンタらアメリカ人はちょっとの間くらい
ものを飲み食いするのを我慢することができんのか。

しかも、このカップですが、信じられんことに皆「洗わない」ようなのです。
コーヒーを飲み干したらどうもそのまま掛けてしまうようなのです。



証拠写真。

「げー、汚い~」

内心わたしはつぶやきましたが、アンジーもこの光景にあきれかえって

「Boys・・・・・・」

ブラッドは

「いやぼくはちゃんと洗ってますよ」

と一生懸命言い訳しておりました。
アメリカ人、若い男、飛行機乗り。
とくればそういうことに構わなさそうなタイプ役満ってかんじです。

我が自衛隊の皆さんは世界でも傑出してキレイ好きな軍隊として有名なので、
まずこんなことにはならないと思いますが。 




もう一度ブリーフィングルームを通って外に出ました。



コクピットと同じシートがありました。

これもブリーフィングで必要になるのかもしれません。



廊下に飾ってあったコウモリの標本。
ブラッドのスコードロンはコウモリがトレードマーク。
彼らは自分たちのことを「Bats」と称します。
この標本には「Hairless bat」と種類が書かれています。 



そのコウモリを使ったスコードロンマークのグッズが廊下に並んでいました。

ここで購入することができるようです。
なんとわたしたちのためにブラッドはTシャツやカップホルダー、メダルなどと
ここでたくさん購入してお土産にくれました。



掲示板に見える様々なお知らせの中に


substance abuse

というポスターが。
何かと思ったらこれは「薬物乱用」を意味します。
そういえば「ひゅうが」に乗ったときに、食堂で薬物乱用に付いて
注意を促すポスターがあったな。

軍隊という組織の中では色々とストレスや鬱屈も在り、
こういった薬物の誘惑に抗し難い状況も、
人によっては数多く在るのかもしれません。



ところで、シミュレ−ターを我々が一通り体験し終わってから、

ぜひプロのシミュレーター操縦を見たいと思い、ブラッドに

「やってみせて」

と頼みました。
すると、モニター室にいたナビゲーターが出て来て、

「キンタイキョウ・ブリッジをくぐってよ」

とブラッドにリクエスト。

リアルな映像なので、錦帯橋に近づくと皆が息を飲み込んで見守ります。
一航過目・・・・・・失敗。

「やっぱり橋の下をくぐるって難しいんだね」
「複葉機でニューヨークのブルックリンブリッジの下をくぐった
女流飛行家がいたよ。名前は・・・エリノア・スミスとか」
「良く知ってるね~」

そのときエリノア・スミスについて書いたばかリ(未公開エントリ)だったんですよね。

しかし、見事に二航過目、三航過目とブラッドは錦帯橋の下をくぐることに成功。

「すごい!さすがは現役ドライバー」
「ブラッド、次はこのフネ攻撃して!」

民間船だから攻撃しちゃいけないんじゃなかったのかよ。


最初にも書きましたが、このシミュレーターはほぼ実物と同じリアクションなので、
錦帯橋の下を通る操作に成功したというのは本当にくぐれたということらしいです。
しかし実際に錦帯橋の写真を見る限り、橋桁が特殊で、桁と桁の間が狭いので 
おそらく実際にくぐるとなればブルックリンブリッジより難易度が高いのは間違いありません。 

にしても、ブラッド、すげー。



(続く)




 


オークランド航空博物館~タスキーギ・エアメン・ルーム

2013-10-11 | 航空機

決して日本の基準から見ると「設備が整っている」とは言いがたい、
ここオークランド航空博物館ですが、決して手を抜いている訳ではなく、
主にボランティアの助けと、一人あたり15ドルの入館料で、
出来るだけ展示の充実を図っている様子がよくわかります。

展示室の隣にはスタッフの作業室があるのですが、ここで、
各種作業や小さいものは塗装などもしているようでした。

そして、前回、「ドゥーリトル・ルーム」でもお話ししたように、
いくつかある小さい部屋にテーマごとの展示がされ、
それなりに航空史をわかりやすく学ぶことの出来るような配慮があります。

そして、やはりボランティアの解説係がどうも詰めているようでした。

ようでした、というのは、わたしが一人で殆ど人気のない館内に入り、
やっと出てきた料金徴収のおじさんに入館料を払い、順に展示を見ながら歩き
20分ほど経ったとき、話かけてきた比較的若い黒人の男性が、

「ボランティアです」

と言ったからなのですが、後から考えると、この男性は、料金を払ったおじさんが
わたしが入ってきたので、よかれと思って説明の人を呼び寄せてくれたのかもしれません。

呼び寄せてくれた、というのは、彼が「私はこの近くに住んでいて」と言っていたので、
後からそう思ったのですが。

おじさんの好意は大変ありがたかったのですが、残念ながらエリス中尉、
そこがたとえ日本の資料館であったとしても、いちいちマンツーマンで説明を受けるより、
じっくり説明を読みながらいろいろ納得したいタイプ。
話を聴いていると、目の前にあるものの中から自分の興味となるものをフォーカスするとか、
そういう「好き勝手」もできないのが単に窮屈なんですね。


しかも、ここでは当然説明は英語。

ただでさえ、ネイティブにもバイリンガルにもほど遠く、
いちいち頭の中で通訳しながら英語をしゃべるレベルの人が、
博物館の資料説明を英語で聴いても、労多くして知識残らずは火を見るより明らか。

というわけで、懸命に話しかけてくる彼に、

「すみません、一人で回りたいんです。お願いだからリーブミーアローン」

な電波を精一杯送って、ついにあきらめた彼は

「じゃ・・・・・ハバナイスデー」

と去っていきました。
心の中でご厚意に感謝しつつ、すまなさで恐縮していたエリス中尉でございます。





第15航空隊のモチーフが木彫りされたもの。
P-3が配備された対潜哨戒部隊ですね。



この力作?は、結構な大きさの航空母艦で、USSキャボットです。

どうしてタスキーギルームにあるのかはわかりません。
わりとこのあたりがいいかげんです。
というか、他に置くスペースがななかったのね。



キャボットのコーナーにあったコルセアの模型。



雑は雑なりにいろいろ細部が凝っています。
着艦したものの、被弾して負傷したパイロットを救急隊員が搬送しているの図。
ちゃんとカメラマンがいて一部始終を記録しているのが、リアルです。



砲座は臨戦態勢。
しかしその割に艦載機が甲板に満載。
これはどういう状況だろうか。

キャボットは、おもに太平洋で日本軍と戦闘をしていました。
甲板から離艦した艦載機は、日本軍の基地を攻撃しています。
あの「マリアナ海の七面鳥撃ち」にも参加し、第二次世界大戦を生き残り、
現在はニューオーリンズで博物館展示されているそうです。

しかしつくづくアメリカって、沈んだフネに冷たいというか、
「生き残ったら讃えるけど、やられてしまったフネにはろくに触れようともしない」。
この傾向に今回の滞米で気づいてしまったエリス中尉であった。



さて、ちょうど彼が話しかけてきたときにわたしはこの「タスキーギ・エアメン」コーナーにいて、
彼と話している間の展示については懸念通りろくに集中して写真が撮れなかったのですが、
とりあえず今日はそのコーナーについてお話しします。


この「黒人ばかりの飛行隊」、タスキーギ・エアメンで
もっとも最高位に出世した、

ベンジャミン・O・デイビス・Jr.准将。

1912年にワシントンD.C. に生まれ、ウェストポイントに1932年入学したときは
たった一人の黒人士官候補生でした。

ウェストポイントの学校生活は、デイビスにとって過酷なものであったようです。
4年間というもの、彼は殆どのクラスメートに無視され、わずかな者が
かろうじて義務感から彼と口をきくような有様で、ルームメイトもなく、
いつも一人で行動し食事をしていたそうです。

クラスメートは彼を追い出すことすら望んでいたと言います。

陸軍航空隊が黒人を受け入れなかったため、彼は志望した航空隊ではなく、
全員黒人で組織されたジョージア州のバッファロー大隊に配属されます。

戦争に向けてそのころ世論が待望した黒人の飛行ユニットを作ることにした陸軍は、
タスキーギ陸軍フィールドで結成された飛行隊に、黒人将校であるデイビスを中佐に昇格させて
初めての黒人指揮官に任命します。

その後、第二次世界大戦と朝鮮戦争を、全部で5つの部隊の指揮官として戦い、
空軍、陸軍から殊勲賞を7種類叙勲されました。

晩年はアルツハイマーで苦しみ、愛妻アガサ夫人が亡くなってわずか二ヶ月後、
後を追うようにデイビス准将は89歳の生涯を閉じました。

合掌。



左・ファーストクラスナビゲーターの皆さん

中・B−25ミッチェル爆撃機のクルー

右・爆撃機パイロットのクルー


敵国であった日本人の血を引く日系人を戦力にするくらいですから、
アメリカがアフリカ系を戦力に採用しないはずはありません。
そこには、「白人の子弟だけを死なすわけにはいかない」という、
ワスプの防御意識が当然根底にあったと思うのですが、社会的には「底辺」ともいえる
アフリカ系に、「喜んで死んでもらう」ためには、やはり彼らにも軍人として
アメリカのために戦うことに対し誇りを持ってもらう必要がありました。

デイビスのような黒人を、当然反発があることなど百も承知で白人と一緒に教育し、
正規の方法で士官に育て地位を与えたのも、つまりは戦いに投入する彼らに
死に見合うだけの名誉、すなわち軍人として建前だけでも白人と同じ地位を与える必要があった、
ということではないでしょうか。







B−25ミッチェル

447爆撃グループはこのノースアメリカンの爆撃機で訓練しましたが、
彼ら爆撃隊が実戦に投入されることは最後までありませんでした

彼らに実際課されたのは、あくまでも「白人の爆撃隊の護衛任務」です。



サミーデイビスJr.?グレゴリー・ハインツ?

いえ違います。
ロバート・ディエス中尉という説明はありますが、
英語で検索してもこの人物の記述らしきものは見つかりませんでした。



タスキーギをテーマにしたイメージ作品。
タイトルは

「孤独な鷲たち」(Lonely Eagles)



なんとなく中二・・・いやなんでもありません。





「フレッド・ヴァン・チェリー少佐」

朝鮮戦争、東西冷戦やベトナム戦争を通じて空軍に奉職しましたが、
ベトナム戦争の戦闘中、乗っていたF−105サンダーが撃墜され、
捕虜となり、厳しい尋問と繰り返し拷問を受けました。

7年間その過酷な捕虜生活に耐えた後解放されましたが、
そこでの友情(左図中右下の二人)などを著書に表し、トム・ハンクスがそれを
「名誉の帰還」というドキュメンタリーにし、テレビで放映されています。



右の写真は、ウィルソン中尉といって99戦闘機隊の所属ですが、
見ての通り、一生懸命パラシュートをたたんでいます。
彼の乗ったカーチスP−40は撃墜されましたが、彼は脱出し、
まさにこの落下傘で地上に生還することに成功しています。

ちゃんとたたんで開くようにしておいてよかったですね。(適当)


当たり前のように落下傘なしで出撃し、死ななくてもいい搭乗員をに死なせてしまっていた
日本の航空隊って、それにしても一体どういう思考だったんでしょうか。
必ずしも降下したら捕虜になる可能性ばかりではなかったはずなのに。

アメリカ人には少なくとも全く理解不能だったに違いありません。 


しかし、何をしても死ぬときは死ぬのが戦争というもの。
この三つの写真中、真ん中の写真が先ほどの「ディエス中尉」なのですが、
ディエス中尉は、この写真を撮ったまさにその翌日の1944年1月27日、
フォッケウルフに撃墜され戦死したそうです。


合掌。



ジェシー・ルロイ・ブラウン少尉

アメリカで史上初のアフリカ系飛行士と言われています。
苦労して海軍飛行将校となり、最初の航空士官となった彼は実地部隊で経験を積み、朝鮮戦争に参加します。
北朝鮮の貯水池上で、何人かの列機を率いて戦闘をしていたブラウン少尉は、
対空砲火を機に受け、黒人パイロットの初めてのこの戦争での戦死者となりました。
その功績と勇敢な死を讃えて、彼の名前は
駆逐艦「ジェシー・L・ブラウン」に残されることになりました。




 


スミソニアンには、タスキーギのファイターグループが乗っていた
「レッドテイルズ」
つまり、この写真のように尾翼を赤く塗ったP−51マスタングが展示されているそうです。



ここにも、一応模型ですがこんなものが。



さらに、レプリカで小型ではありますが、
マスタングのレッドテイルズ仕様が展示されています。



彼らの着用していた軍服も。





タスキーギの物語は誇らしげに今日も語られています。
しかし、残念ながら、戦った「黒人の側」からの賞賛が殆どであるという気もします。

それが証拠に、ルーカスが指揮した映画「レッドテイルズ」は、
「もし好評だったら続編、続々編もありうる」
というルーカスの言葉とは裏腹に、本編すらヒットに至りませんでした。
アメリカではヒットせず、日本では公開すらされていません。





ここには、シシリーにあったタスキーギ・エアメンの基地を再現した
ジオラマが飾られています。



シシリーから、これだけの地域に遠征したという、
タスキーギ航空隊の作戦経路。
最も遠い航路は、ドイツのマンハイム近くになります。



日系部隊においても言えることですが、国家がその命を「活用」するつもりであることを百も承知で、
彼らアフリカ系が、アメリカ軍の軍人として国のために命を賭けたことの根底には、
黒人の地位をアメリカ国内で獲得するという目的があったのは否定できないところでしょう。

つまり、嫌な祖国だが協力者となり、公民権を勝ち取ろう、という考えです。

映画「タスキーギ・エアメン」でも描かれていたように、当時の黒人社会でも
一握りのエリートとでも言うべき富裕層の子弟でもないと、
黒人部隊、しかも航空隊には入ることは出来なかったにもかかわらず、
やはり社会全体から見るとアフリカ系はあくまでも社会の最下層で、
つまり人間扱いすらされていませんでした。

日本が真珠湾を攻撃したとき、黒人たちは密かに快哉を叫び、
「俺たちのために白人をやっつけてくれ」
と少なくない者たちが内心喜んだといいます。

そして、自分たちが戦力に「投入」されるようになると、
白人のために同じ有色人種である日本人と戦わなければならない理由を、
彼らには見いだすことが難しかった、とさえ言われています。


アメリカという国の戦略に長けている部分は、こういった彼らの
「同じ有色人種に対するシンパシー」を察知して、
彼らを南方や、日本本土空襲に決して投入しなかったことでしょう。
同じ人種である日系人の部隊を、沖縄には通訳という形でしか配置しなかったのと同じです。


ところで、「人種問題」の根の深さは、実は白人対有色人種という構図ばかりにあるのではありません。
先ほど紹介した最初の黒人パイロットであるジェシー・ブラウン少尉がこんな告白をしています。


「飛行学校のクラスのみんなや教官はわたしを受け入れてくれた。
むしろ、アフリカ系のコックや守衛たちから堪え難い嫌がらせをされた。
これは、彼らの『選ばれた黒人』に対する嫉妬だったのだと思う」

 

 

 

 




空母ホーネット~「イオー・ジマ」艦載機に扮したシーキング

2013-09-29 | 航空機

SH-3 シーキング(SH-3 Sea King)

艦載することを重視しすぎて極限まで翼を折りたたみ、居住性を無視したため
搭乗員にはめっぽう評判の悪かった「チョクトー
(しつこいようだが菅直人ではなく、ネイティブインディアンの部族の名前)
の後継機で、対潜哨戒の役割を持ち、米海軍が配備したいちばん最初の全天候型ヘリコプター。

戦闘機に「全天候型」があるという話が少しばかりこのブログ的に話題になったところですが、
ヘリは戦闘機以上に天候に左右されるので、これは画期的な機種だったわけですね。

シーキングはアウトリガータイプ
(船舶用語で安定性をまし転覆を防止するために舷外に突き出して固定される浮き)
スポンソン(燃料やギアを収納する空間)を持ち、安定性が確保されています。

そして後続距離の長さもこのヘリの大きな特徴です。

1965年、シーキングはサンディエゴに停泊中のこのUSSホーネットから飛び立ち、
15時間52分で3400キロ離れたフロリダ・ジャクソンビルのUSSルーズベルトに到達し、
初めてこれだけの長距離を一挙に飛んだヘリコプターとなりました。

日本のウィキペディアで検索してもスペック程度の説明しか出てきませんが、
実はこのシーキングは、アメリカのヘリコプター史においてもっとも成功したヘリと言われています。
その性能を買われて対艦攻撃、捜索救難、兵員輸送、通信、要人輸送、そして早期警戒など、
実に様々な用途に活躍をしてきました。

「ファイヤーキング」という名前で民間爆撃機として任務を負っていたこともあります。



しかしその中でも最もシーキングが有名になったのは、何と言ってもアメリカ宇宙計画の
ジェミニ、アポロ、スカイラブのミッションに参加したクルーを揚収したことでしょう。



1969年、アポロ12号の揚収でゴムボートの上に載っているのがこのカプセル。
次々とパーツを切り離していき、最後にこの部分だけが大気圏に突入し、
海面にパラシュートで到達、彼らを揚収し移送するのがヘリコプターです。

このとき揚収の任務を負ったNo.66の機体は、1975年、サンディエゴ沖数百マイルの高度から
墜落し四散したため、この歴史的に貴重なシーキングは永遠に失われてしまいました。(-人-)

「この写真のヘリが墜落したって?
ここにある機体も同じ66をつけているんだが」

と気づいた方、あなたの洞察力はすばらしい。
しかし、写真のヘリとここにあるヘリは全く別物なのです。
その理由をお話ししましょう。


ここにある機体はNo.148999で、1965年のジェミニの揚収などで活躍したのち引退が決まり、
1995年、彼女にラストミッションが与えられました。


それが、モーションピクチャー制作の映画「アポロ13」への出演で、
帰還してきた飛行士たちを揚収する今は亡きヘリコプター「No.66」としての「演技」だったのです。

そこで、この機体、冒頭写真をもう一度見ていただきのですが、
機種にカプセルのマークが5つ描いてありますね。
これはどうやら揚収したカプセルの数だと思われます。

ちょいと余談ですが、今回アメリカで遭遇したたくさんの飛行機の中で
たとえば古い軍用機の機体に撃墜した敵機の数が誇らしげに描かれていると
この国と戦争した国民としては、何とも言えない複雑な気持ちになったものですが、
こういうマークならいいですね。
何のわだかまりもなく見られるといいますか。

それはともかく、この機体No.148999は5基ものカプセルを揚収しておりません。

さらにこれ。



USSイオー・ジマ。

もちろん硫黄島のことですが、アメリカ人が「いおうとう」と言えないもので、
勝手にイオージマ呼ばわりした結果、あそこは英語ではイオージマになってしまいました。

それはともかく、このウィキの写真をご覧ください。




アポロ13のジム・ラヴェル船長始め三人を揚収したのは揚陸艦イオー・ジマだったんですね。
No.66がもしこの時に健在であれば出演したのでしょうが、それがならなかったため、
引退予定のNo.148999に白羽の矢が立ったというわけです。


この機体はほかのものに比べて妙に塗装がきれいです。
つまり映画の出演時にイオージマ搭載のシーキングNo.66に扮するために塗り替えられて、
その塗装のまま展示されているというわけです。

ちょうど映画の計画があった時に引退が決まっていた、というのでこの機に白羽の矢が立ったのでしょう。



こういう部隊のマークもしっかりと描いてあります。
おそらく、というか絶対に画面には映らないと思うのですが、細かいですね。

映画「火垂るの墓」では、戦艦「摩耶」の舷窓やラッタルの数まで本物通りに作画したのに、
実際は黒く塗りつぶされていてこだわりの部分は全く見えなかった、という話を思い出します。

ちなみにこの映画、船長のジム・ラベルがトム・ハンクス、メンバーにケヴィン・ベーコン
病気が疑われて直前にメンバーから降ろされた飛行士にゲイリー・シニースが出ております。
管制室長のエド・ハリスビル・パクストンなど、良い俳優がたくさん出ているので
その内容もあってわたしの好きな映画の一つで、DVDも持っているのですが、
今度はこの揚収シーンのシーキングに気を付けて観てみようと思います。
 
 





キャッスル航空博物館~キャッスル准将のB17と「頭上の敵機」

2013-09-26 | 航空機

アメリカ、カリフォルニア州にあるキャッスル航空博物館は、
このあたりの航空博物館の中でももっとも軍用機の展示が充実しています。 

ここでは軍用機―英語ではwarbirdというのですが―第二次世界大戦以降の戦争鳥が、
なんと現在56機、いずれもレストアされて実に整然と展示されています。

ここを訪ねると、15ドルの入場料で一枚の紙のパンフレットがもらえますが、
さらに詳しい資料がほしければ、1ドル50セントで20ページの全航空機の写真(白黒ですが)に、
ちゃんとした説明が付けられた小冊子を購入することができます。

このパンフレットにはまず、

Brigater General Frederik W. Castle  1908~1944

つまりこのキャッスル基地の名前となったフレデリック・キャッスル准将の説明があります。 



フレデリック准将の海軍兵学校(ウェストポイント)時代ご尊顔。
うむ。激しく男前である。実によろしい。

もともとここ、アトウォーターにあったキャッスル空軍基地は、
このキャッスル准将を顕彰する意味で名づけられました。


フレデリック・ウォーカー・キャッスル准将は、1908年、フィリピンのマニラで生まれました。
ウェストポイント士官学校を卒業後、エアコーアに着任。

その後航空士官としてのトレーニングを済ませてから、
一端は軍籍を残したままニューヨークのナショナルガードに出向していましたが、
空軍に再び戻ってきたときに、あのアイラ・エーカー准将



この「空爆の神様」(今勝手に命名)がイギリスで組織し指揮する第8空軍のメンバー、
8人の士官のうちの一人に指名されます。
やたら8ににこだわっていますが、やはり八は末広がりで縁起がいいからですね、きっと。

この8人は「 エーカーのアマチュア」と呼ばれていたそうです。
なぜそう呼ぶのか意味は分かりませんでした。
おそらく、エーカーがプロフェッショナルなので、部下はアマチュアでいいという意味でしょう。(適当)

エーカーは、昼間「精密爆撃」をあくまでも主張する、どこぞのルメイに爪の垢でも
煎じて飲ませてやりたいような軍人だったようです。

まあ、エーカーならずとも当時のヨーロッパ戦線では「白昼精密爆撃」が基本だったそうで、
このことも別に書きますが、大戦末期になってくるとアメリカはそういった
「正義」をかなぐり捨てることになり、たとえば日本に対してあくまでも「精密攻撃」を主張した日には、
左遷させられてしまったりしたわけですけどね。(嫌味)




その後数多くのミッションに参加し、准将に昇進したキャッスルは、1944年12月、
―それはちょうど彼の30回目のミッションに当たる日だったのですが― 
ベルギーのリーニュ上空で乗っていたB-17が撃墜され、戦死しました。

彼の乗っていたB-17は目的地に向かう途中4つのうちのひとつのエンジンの出力を失い
編隊からはずれたところをドイツ軍のME‐147に攻撃されたのです。
運悪く、悪天候のため爆撃隊の掩護に当たるはずのP-51はまだ到着していませんでした。

機は失速していきましたが、そのとき友軍の上空を飛んでいたため、
彼は機体を軽くするために爆弾を投棄することを拒否しました。
全てのクルーはせめて准将が機が爆発する前に脱出してくれることを祈るしかありませんでした。

キャッスルが機を必死で立て直している間、B-17のクルーは9人のうち7人が
パラシュートで脱出を試みました、

パイロットは脱出したもののノーズにパラシュートが引っ掛かってしまいます。
最後までキャッスルは操縦席で機をコントロールし続けましたが、その時B-17は
右翼の燃料タンクが爆発をおこしてそのまま墜落しました。

結局9人の乗員のうち、生還できたのは5名でした。




ここキャッスル航空博物館に展示されているB-17フライングフォートレス

実際に見ると、あまりの大きさに言葉を失ってしまうくらいで、まず感想は

「よくこんなものが空を飛べるなあ」

でした(笑)
でも、よく考えたらこの飛行機が飛び回っている映画があったんですね。
しかも、白黒映画で当時まだ健在だったB-17が多数出演しており、
第二次世界大戦のルフトバッフェとの空戦と空爆の模様がばっちり観られる映画が。(←前振り)


しかしこのB-17は、ボーイングの爆撃機の中で最も有名なものでしょう。
B-17は、キャッスルの所属したエーカー准将の第8空軍が使用していたことからもわかるように
おもにイギリスに配備されて使用されました。

第15空軍には6機のフライングフォートレスが配備され、こちらはイタリアでの運用が主です。



このドームには上部旋回銃手兼航空機関士が配備されます。

冒頭写真の尾翼に描かれたAは、ABCという風に編隊のにつけられた認識文字です。

機体には、第8空軍の第3航空支隊、第94爆撃グループの印があります。
ペイントされているのは「ヴァージンのお楽しみ」みたいな?
意味わかりませんけど。



ところで、もう一度キャッスル准将が「エーカーのアマチュア」として
第8空軍に赴任したところに話を戻します。

選ばれたほかのメンバーと同じく、キャッスルは戦闘指揮を望んでいましたし、
彼自身のためにも、エーカー准将のためにも昇進を希望していました。

1943年6月、キャッスルは94爆敵隊の指揮を任せられるのですが、
ここではある種の「モラル崩壊」がおきていたそうです。
それも不運とと度重なる出撃がもたらす戦死の多さからデスペレートに陥り、
やる気と戦意が著しく低下していることからくるものだったのですが、
キャッスルは隊長としてこの事態を何とかしようとします。

本質的にキャッスルという人間は孤高のタイプで、他の士官に仕事をまかせてしまうような
そういう指揮官としては「弱点」と呼ぶべき部分がないでもなかったようで、
こういう部隊を任されて部下の士気を高めることの難しさを実感したとと思われますが、
自分が嫌われても部下を強いリーダーシップで引っ張っていこうとする姿は
次第にいい結果につながっていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


はて、どこかでこの話を聞いたことがあるぞ、と思われた方。
いるでしょ?そこのあなたとか、あなたとか。

そう、グレゴリー・ペックの主演した「頭上の敵機」Tweleve O'clock highですね。
いかにも戦後の「アメリカバンザイ」みたいな国威発揚映画なら観る気がしない、といったわたしに

「そうではなく、これは学級ならぬ部隊崩壊を起こしている軍隊に来た、
 熱血教師ならぬ熱血隊長の涙と感動の(ただし暗い)映画である」

と観ることをお勧めくださった婆沙羅大将としんさん、ありがとうございました。
これを見ていたおかげで、キャッスル准将の話とこの映画が見事につながりました。



もともと「Tweleve O'clock high」は実在の第306爆撃隊を指揮した、
フランク・A・アームストロング少佐が経験したことが ベースになっています。
キャッスル准将の体験した第94爆撃隊のモラル崩壊はこれほどひどくはなかったそうですが。

アームストロングの話はこれより少し早い時期の話ですが、つまりは
それもこれもヨーロッパ戦線での戦況と、いわば「アメリカの良心」、つまり、
前述の「メンフィス・ベル」でも「頭上の敵機」でも描かれた、「白昼ピンポイント攻撃」、
不必要な市民殺害を避けようとするこの方法が逆手に取られて、
ドイツ軍には非常に「撃退しやすい」攻撃法だったことが関係していると思われます。

このことについて、少しお話ししたくなったので、別エントリで「頭上の敵機」を取り上げます。


そんなある日、キャッスルはドイツのオシャースレーベンにあるフォッケウルフ製造工場を
重爆撃するという任務を指揮します。
気象条件が悪く、爆撃隊の編隊を組むことすらできない状態で、ごく少数の落伍機を残し、
キャッスルの爆撃隊は、目標の工場だけをピンポイント爆撃することに成功し、
この戦果を以てキャッスルにはシルバースター勲章を授与されています。

そして、この作戦が、サイ・バートレットの手による「Tweleve O'clock high」
の中で、グレゴリー・ペック率いる918爆撃隊が行った重爆撃として描かれているというわけです。

 

30回目のミッションで戦死したキャッスル准将は名誉勲章を与えられ、その名は
アトウォーターの空軍基地に彼の栄誉をたたえて残されました。
准将は、撃墜されたベルギーのリエージュにあるアメリカ人墓地に今も眠っています。







 


空母ホーネット~F-8「ラスト・チャンス、ラスト・ザ・ガンファイター」

2013-09-24 | 航空機

生まれて初めて空母の甲板に立ったエリス中尉、何よりもまずその広さに驚きました。
空母らしきものとしては護衛艦「ひゅうが」に昨年乗ったわけですが、
それは観艦式で甲板には大勢の人が林立していたため広さがわからなかったんですね。

ホーネットはなんといっても現在ただの浮かぶ博物館。
平日ともなると人が少ないので、甲板上の視野に人っ子一人入らない、
という状態で、その広さを心行くまで実感した次第です。



どうよこの広さ。
甲板の一番端に立って撮ったものですが、あの大きな艦橋が・・・・小さいです・・・・。 
まるでアンテナのように見えますね。
しかし、これくらいでないと艦載機が甲板に着陸することはできないのだろうと思われます。

甲板には全部で4機の艦載機が展示されているのですが、どこにあるのかわからないくらいですね。



Vought F-8 Crusader

クルセイダーは艦上機としては世界初の超音速戦闘機で、
海兵隊と米海軍のためにヴォート社が製作しました。

「最後のガンファイター」"Last the Gunfighters"

まずこのような呼び名が与えられました。
しかし「最後の」というのは、逆翻訳すれば「The last Gunfighter」という意味ですね。
しかしよく見てください。
"Last the GunfighterS"
とは、
「多くのガンファイター(複数形)の最後」
となり、つまり

「ガンファイターの最終形」

という訳が最もふさわしいと思われます。


20ミリ機関銃を4丁搭載し、機動性に優れたクルセイダーは、ヴェトナム戦争に投入され、
ここでまたもや

「ミグ・マスター」(Mig Master)

というあだ名が与えられます。
日本のウィキだとどういうわけかこれが「ミグ・バスター」となっているのが可笑しいですね。
語呂だけ合っているって言う。

「マスター」ではたいていの日本人はぴんと来ないのですが、この「マスター」、
英語だと「He is master」(彼が勝者だ)というように、「相手に勝てる者」 の意味があります。
その名が表す通り、ヴェトナムでは機動性を生かしてミグ17を多く撃墜しています。

ratioというのは比率という意味で、さらにKill Ratioというと、軍事用語で
空戦の際の「勝率」、つまり「撃墜対比撃墜比率」となりますが、
このクルセイダーのキル・レシオはヴェトナム戦争において最も高く19:3。
19機のうち3機がミグ21、16機がミグ17ということです。

いや、よく言われることですが、アメリカンってこのあたり全くスポーツ感覚ですね。
撃墜した飛行機の数を挙げただけで、不謹慎だの人が死んでるだの、
はては戦争に行った方はそんなもの見るのもいやだからやめろの命懸けの戦いを語って欲しくないだの、
事象を事象として見られずヒステリックに大騒ぎする日本の「自称良識派」にもいい加減うんざりですが、
撃墜を「キル」として比率順位をやっちゃうアメリカというのもなかなか突き抜けてます。

(この一文、どうも説明っぽいな)

しかし、この際だから、ちょこっとこういうことについて話しておきますか。

たとえ「人を殺した」というとんでもない業績であっても、
彼らアメリカ軍のパイロットは、かつての旧日本軍のパイロットがそうであったように
敵機撃墜したことを称揚され、彼もまた軍人としてそれを生涯の誇りにするんですよ。

なぜなら彼らは軍人で、戦闘機パイロットなんですから。

広島に原子爆弾を落とした「エノラ・ゲイ」の機長が

「(あの結果を知っても)もしもう一度同じ命令を受けたら
わたしはもう一度原子爆弾を落とすだろう。
なぜならわたしは軍人だからだ」

と言ったのと同じことですね。

もちろんのこと原爆を落とされた日本人からすれば、とんでもなく許しがたい発言ですが、
東京空襲を敢行したドゥーリトルがいまだにアメリカ人にとっての英雄であるように、
あるい彼らが、日本の「撃墜王」、坂井三郎を「エース・サカイ」と呼んだように、
「なぜなら軍人だからだ」
というのがつまりこの問題における最終結論だと思います。

いったん戦争が始まってしまったら、ミグを一機でも多く「殺す」のも、
原子爆弾を投下するのも、すべて命令通りにするのが軍人というものです。

軍人として義務を果たすのは当然であり、その成果は称揚されるべきである。
さらに翻って、それでもし命を落としたものがいれば顕彰されるのは当然ではないですか。

戦争が間違っていたから、それを戦う軍人までもが間違っていた、などという理由で
戦死者の慰霊(たとえば靖国参拝)を反対する人種と、この
「戦果を称揚するなど不謹慎」とかいう人種って、ベクトルは同じですよね。
戦ったものたちの「遺志」や「業績」を認めようとしないという意味で。


こういうことを言うと「右寄り」なんていう人がいそうですけれども、

お断りしておきますがわたしは戦争は絶対に反対ですよ。絶対にね。
いかなる場合も、国際紛争の解決手段としての戦争は断じて選択するべきではありません。



さて、このF-8E、まだ「キャッチフレーズ」があります。
ヴォートという会社の営業戦略的観点からはこのように呼ばれていました。

"Vought's Last Chance"(ヴォート最後の頼みの綱)


ラストはラストでも、こちらは当初こんな背水の陣という意味のラストだったのです。
切羽詰まった感じを出すために「ラスト・チャンス」を「頼みの綱」としてみましたが、
このネーミングには、ヴォート社が先代のF7U「カットラス」(CUTLASS、長剣の意)
で、テスト飛行で4人、配備されてから21人もの殉職者をだし、安全性の点で
大失敗であったことが反映されているのです。

しかもF7Uはエンジンが弱く

「ヴォート社製のトースターの方がよっぽど熱が出せる」とか、

「カマキリ」(蟷螂の斧って感じですか)とか、

「CUTLASS(長剣)じゃなくてGUTSLESS (根性なし)」だとか、

特に最後の「誰がうまいこと言えと」感は半端ないのですが、
世界共通で口の悪いパイロットにはさんざんな評判だったので、ヴォート社としては文字通り
今回の新型機は「社運を賭けた戦闘機」だったというわけです。

社運を賭けた甲斐がありました。
この「クルセイダー」は、ヴォート社自身にとっても「救世軍」(誰がうま略)となったのですから。



実はハンガーデッキにも、「クレメンタイン」というネームのF8のノーズだけがありました。

これは、先日もお話しした「サンダウナーズ」ペイントを施されたレストアです。
フロリダのジャクソンビルで墜落したまま長年放置されていた機体を回収し、 
このホーネット上でボランティアの手によってこのように生まれ変わりました。

この機はサンダウナーとしてヴェトナム戦争に参加したものです。
ここにあった説明版にも誇らしげに

「ヴェトナム戦争では6機のミグ撃墜がクレジットされている」

「サンダウナーズのトニー・ナージ大尉は最後にミグを公式に撃墜した」

と書いてあります。
そして、



この星は、つまり撃墜したミグの数ですよね。
レストアしたボランティアが、ヴェトナム戦争でクルセイダーが公式に撃墜した18の星を
(実数は19機なので、もしかしたら最後の一機はなにか数のうちに入らない理由があるのかも)
わざわざ修復にあたって描きいれたというわけです。



F-8乗りのパイロット記章。

「F-8を降りた時が戦闘機を降りる時だ」
=「俺はF-8にしか乗らない」

かれらの気概と誇りが感じられます。




 


空母ホーネット~「F-14のグローブベーン=DAR-SOCK」

2013-09-08 | 航空機

前回冒頭にトムキャットのメンテ中の写真を挙げたのですが、
今日のはもうちゃんと直っている、と気づいた方、あなたは鋭い。

実は、あれからもう一度行ってまいりました。
休暇でうちの所帯主が一週間来たときにホーネットのことを話すと
「ぜひ行ってみたい」
と言ったから・・・・・ではありません。

「今日、ホーネットにもう一度行きたいんだけど。
この間はツァーに参加できずに艦橋が見られなかったから。
あ、それとあのとき売店で見たDVDやっぱり欲しくなったから買いに行きたい」

我が家唯一の国際免許保持者のこのような有無を言わさぬごり押しによって、
その日の観光はいつの間にかホーネットになったのでございます。

そして、念願の「艦橋ツァー」に、途中まででしたがとりあえず参加できました。
このペースではいつになるかわかりませんが、そのうちアップしますのでお楽しみに。

ただ「欲しかったDVD」というのが・・・・・・・・。

実は、こちらのテレビ番組で「ゴーストハンターズ」という、廃墟や噂の霊スポットに
「ゴーストハンターズ」を名乗る数人の男たちが(女もいたかな)乗り込み、
ビデオを撮ったり音声を録音してあれが見えたのこれが聞こえたのと、
本当かウソかわからない幽霊探しをするという番組があるのですが、そのホーネット版があったんですよ。

前々回、
「でるんですよ。あれが」
と思わせぶりに予告したのは、これを見ていっちょうエントリをでっちあげてやろう、
とそのときに思いついたからで、そのためにもホーネットの売店にあったこのDVDを
なんとしてでも手に入れる必要があったのです。

が。

たしか最初に訪れた時には三枚はあったと思うのですが、一週間後にTOと行くと、
それらは売り切れてしまったのか棚には無くなっていました。

ほかのまともな(?)ホーネットものや、ヒストリーチャンネルのDVDなどは全部そのままで
どうしてこんなものが(それを買おうとしていたわけですが)真っ先にに売れてしまうのか。

仕方なくアマゾンでホテルに配達させようと検索したら売り切れ。

しかも、その動画が観られるというサイトでダウンロードのクリックをした途端、
コンジットという「ブラウザハイジャッカー」にコンピュータを乗っ取られ。
グーグルを出そうとしたら変なコマーシャル付きの聞いたことのない検索エンジンが出てきて、
おまけにブラウザが異常に重くなり、字が打てなくなり・・・・・。

息子が「ヒットマン」と「アンチ・マルウェア」を入れて3時間かけて退治してくれましたが、
「これ有名なマルウェアだよ。なんでも気軽にダウンロードしちゃダメじゃない」と叱られ、
これが本当の負うた子に教えられってやつか?

それもこれもすべてホーネットの売店のDVDが売り切れていたのが悪い。

しかしこの「ホーネットの霊現象」。
観光客的には人気ありそうなネタですよね。
そのうちお話ししますがわたしも実際に少し「?」な体験をしたので、見てみたかったのに・・・。

さて、というわけで最初に見たときのトムキャット。



もいちど改装後。



黒のペイントだけ塗りなおしたみたいですね。

最初の時にボランティアの解説係のおじさんが話しかけてくれて、
「何か聞きたいことがあったら何でも聞いてね」

と言ってくれたのですが、専門用語の聞き取りに甚だ自信のないエリス中尉、
このトムキャットの稼働翼についてくらいしか質問できませんでした。
まあ、それも予備知識があって大体のことがわかっていたから聞けたんですけどね。

そのときに、「メンテナンスはどれくらいに行われるのですか」と聞くと、
「いつもどれかしら必ずメンテしています」という返事。

ついでにおじさんは戦争に行ったのか、つまり「ベテランですか」と聞いたのですが、
とてもきまり悪そうに「行ってません」と答えました。
艦橋ツァーの解説員はかつてホーネットに乗っていた元海軍さんだったので、
ベテランでないということはこのおじさんにとって引け目だったりするのかな、
とこの反応に少し驚き、聞かなきゃよかったと思ったものです。



それではお約束、トムキャットF14のエアー・インテイク。

トムキャットはエンジン二つ搭載した「双発エンジン」ですが、このエンジンが離れており、
エアーインテイクから取り入れた流入空気を整流するのが容易でした。



ご覧のとおりのTF-30エンジン。

また、エンジンが離れていると一方が欠損してももう一つが影響を受けにくい、
という物理的な利点もありますよね。

しかし、もし一発が停止したとしたら、推力軸線と機体軸線とのずれが大きくなるため、
それを操縦するのはより困難なことになってしまいます。

ETOPS 120と言って、一般に双発機はエンジン1基が停止すれば操縦ができなくなるので、
最寄の空港から120分以上離れたところ、ましてや大洋を飛ぶことは許されなかったくらいです。

F-14は二基のエンジンの場所を離して、この間にはミサイルの搭載場所を確保しています。



エンジンノズル。
TF-30は、故障や事故が多く10億ドルを超える損害被害が出るほどの気難しいエンジンで、
このためF401-PW-400が開発されましたが、こちらも開発中に技術的な問題が噴出。
おまけにこのF-14、機体が高価なので、そのせいでこのAに続くF-14Bの計画はお流れになってしまいました。

先日お話しした「サンダウナーズ」はVF‐111でしたね。
このVF-101Grim Reapers 
つまり「死神」というニックネームを持つ
朝鮮戦争から続く要撃航空隊の使用機です。

いや、読者のリュウTさんのお話にもありますが、アメリカの軍用機軍艦船のネーミングは、
こういう「中二病」、あるいはD.Q.N?なセンスのものが多いとは思っていましたが、
これもまた思いっきりですね(笑)

翻って我が日本軍は、たとえば同じ想像上の存在でも「鐘馗」ですものね。
格が違う。格が。

それはともかく、彼ら「死神部隊」がこのトムキャットを採用していたのは1976年からのことです。
この隊とトムキャットの相性はきわめてよく、機体の燃費を向上させ、
さらには事故を起こさなかったことで安全章という賞を表彰もされていたようです。 



ミサイルもちょっとだけ搭載して見せてくれています。
F-14は最大でAIM‐54を6発搭載できるということですが、この状態では離艦はできても着艦できません。

「離艦はできても着艦はできません!」

映画「連合艦隊」で瑞鶴から出撃する幼い搭乗員のセリフみたいですね。
・・・・というのはこのブログを長年読んでくださっている方にならわかる話ですがそれはともかく、
この場合は瑞鶴搭乗員の「着艦訓練していないから」という理由ではなく、着艦重量のオーバーです。



ははあ。

ミサイルに「レイセオン」とあるから、これは中距離空対空ミサイルである
AIM-7 スパローのようですね。
自衛隊でも使われていたミサイルです。

調べていたら、このF-14が機体試験中のことですが、スパローミサイルを発射した時に

自分に当たって墜落した

という話を知ってしまいました。
自分で自分を撃墜してしまったと。
サッカーでいうとオウンゴールだけど、戦闘機でこれははめったにないことなのでは・・・。

というか、これどういう状況だったのかご存知の方いますか?
ディズニーシーの「ストームライダー」のように発射したミサイルが途中で向きを変え、
「ウソだろ~!」(by キャプテン・デイビス)という間もなくヒットしてしまった、とか?


このミサイルはベトナム戦争、湾岸戦争にも使用されています。

ところで、これ見ていただけます?



修理中のトム猫さんですが、翼をたたんでいるので、
なんか肩をすぼめたみたいに見えますね。

このF-14の大きな特徴が可変翼といって翼の角度を変えられるのですが、



この写真の左上、スリットのところから、グローブベーンという小さな翼が、
どうやら速度にに呼応して出てくるそうなのです。

マッハ1.4以上になると自動的に主翼付け根前縁から出てきて、
超音速飛行で揚力中心が後退するのを打ち消す目的でつけられたのだとか。

マッハ1.0~1.4では手動で(ぐるぐるハンドルを回すのか?)出すことができ、
また、空戦モードにしておくと空戦フラップと連動して迎角とマッハ数に応じて作動、
つまり「出たり入ったり」?

それは面白い。

さらには後退角55度の爆撃モードでは全開。


まあ、いろいろ考えて付けたわけですが、このグローブベーン、

実はあまり意味がない

実は意味がない

意味がない

ことが

そのうちわかってきて、後続の飛行機からは廃止されています。

理論上役に立つはずだから良かれと思って形にしたけど、
実はあまり役に立たなかった、ってものは世の中にたくさんありますよね。


役に立ちそうにない20世紀始めのころの発明

射出装置付きヘリコプター(ロシア陸軍用)など

作ったけど実は意味なかった、つまり「蛇足」というやつです。
作るにも至らなかったものも多いですけどね。

ただまあ、

役に立たなかったということが分かったということが、

次の開発に役に立った

ということもできますからね。


人類の科学の進歩というのはグローブベーンのような蛇足の集合体の上に
成り立っているといっても過言ではないでしょう。(適当)





 


空母ホーネット探訪~「怒りのフューリー」

2013-09-05 | 航空機

航空機に興味を持ち出したのがここ三年で、おそらくこれを見ておられる方々の誰より
航空機の知識にかけては未熟者であるエリス中尉ですが、
アメリカでこうやって歴史的な飛行機を生で見ることができる、という強みだけはございます。

自衛隊機についてはとりあえず一通りは実際に観たかな、というところでアメリカに来て、
いちどきに大量の米軍機、自衛隊で運用されているもの以外もかなりの数見ることができました。

自衛隊機はほとんどがアメリカ製なので知っている機体も多かったのですが、
日本では決して見ることのできない、かつて日本軍と戦った航空機などを見ると
ひとしおならぬ感慨を持ちます。

いや、本当に平和っていいですね。

さて、USS「ホーネット」には、空母ですから各種艦載機が展示されています。



U.S.S. ホーネット CVS-12 航空隊

これらの航空機は、かつてそれらが製造されたような方法で復元されているが、
それはパイロットがそれらを飛ばし、整備士がそれらを整備し、
かれらクルーがひび一つないまでにしており、
並はずれて優秀な作業であったとしかとしか言いようがない。
それはかつての乗員が残したままである。
純粋にこれは尊敬に値し、これらを顕彰するものである。

って感じでしょうかね。ちょっとこの翻訳自信ないんですけど。
まあ、意味は間違ってないと思うので細かいところは見逃してください。

母艦乗りの日高盛康少佐が戦後残した手記では、自分が事故を免れたり
戦後まで生き残ったことを幾度となく

「天佑神助と整備員のおかげ」

と言い切っていましたが、飛行機乗りは自分の命を乗せて飛ぶ飛行機を
整備してくれる整備員に常に感謝し、畏敬せずにはいられないものです。

整備員が自分の整備した飛行機にかなしいまでに責任を感じるのは今も昔も同じで、
たとえばその機が整備不良で事故を起こしパイロットが死亡した場合には、
自殺してしまう者すらいるものだそうです。

T-33の入間での墜落事故の際も、射出高度が足りないのにもかかわらず
乗員の二人が最後にベイルアウトしたのは、整備員に気を遣ってのことだったのではないか、
(故障で射出できなかったからではないかと彼らが気に病むから)という話もあるくらいです。

この大きな垂れ幕は、ここに展示するための飛行機を整備したクルーを
改めてねぎらっているのですね。



UH-34 SEA HORSE

おにぎりのようなシェイプがかわいらしいシーホースですが、
ベトナム戦争時代に活躍した飛行機です。
シコルスキーのS-8のアメリカでの運用名の一つで、もともと
「チョクトー」という名前だとか。
チョクトーはチヌークやアパッチ、シャイアン、イロコイと同じく、
ネイティブアメリカンの部族の名前です。

「菅直人」が「カンチョクト」と呼ばれていたのを思い出してしまいましたわ。
どうでもいい話ですが。

アメリカ軍がネイティブ・アメリカンにまつわる単語を機種や部隊名にするのは
かつて殺戮した種族でもこのころは彼らもアメリカ国民として戦争に貢献しており
また、航空機産業の発祥の地がたまたまネイティブアメリカンの居住地に囲まれていた、
という経緯も若干は関係しているようです。

「ブラックホーク」というのも実は有名なソーク族の酋長の名前だそうです。




ホーネットにエントランスから入っていくと、そこはハンガーデッキです。
かつてのように航空機が並べられて展示してあります。

展示飛行機はレストアされたり増えたりしていつも同じではない、ということでした。



管制室には黄色い制服を着た乗員のマネキン
がいます。

ホーネットでは乗員の持ち場に応じてユニフォームの色を変えていました。
赤、黄色、白、青、緑、茶色、紫で、黄色は「ハンドリング」つまり飛行機の誘導をする部門です。



これが全部ホーネットの搭載機?

あまりにも多くて驚いてしまうのですが、
左上から縦に(面倒なので愛称だけ)

ヘルダイバー、トムキャット、ドーントレス、ディバステイター、ミッチェル。

コルセア、ベアキャット、ヘルキャット、ヘルダイバー、アベンジャー、スカイレイダー。

スカイホーク、フューリー、バンシー、パンサー、サベージ。

トラッカー(E1B)、トラッカー(S2F)、シースプライト、シーキング、シーホース。

浜松の航空博物館などに比べると、実に素朴というか、プロにはない
この何とも言えない手作り感が微笑ましく感じます。
絵の得意な関係者がボランティアで描いたという感じですね。



米軍艦船のマークもこのように。
このドナルドダックはきっと軍需産業ウォルトディズニーの篤志でもらったデザインに違いない。
だからディズニー、てめーは(略)

レキシントンは、昔ボストンに住んでいた時に近かったので何度か立ち寄りました。
あ、レキシントンという町のことですね。
ここは独立戦争の時に大きな戦闘があったところなんですよ。
だからマークも、独立戦争時の兵士がモチーフでしょ?



いちばん右の「Bon Homme Richard」ですが、なぜかフランス語で、
ボノム・リシャール」と読みます。
直訳すれば「善人リシャール」ですが、実は「お人よしのリシャール」ってとこですかね。

超余談ですが大学時代音楽学(そんなもんがあるんですよ音大というところは)の授業で
フランスの古典の民族的歌謡の講義を受けたんですね。
その時に教授が使った資料に確か
「うちの亭主はお人よし」(Mon mari es bon homme)という戯れ歌がありましてね。
もちろんフランス語の歌詞なんですが、最後に
「うちのニワトリが鳴いている、コキュ、コキュ、コキュ(COCUE)」という一文。

そこで教授、
「フランス語専攻している学生、手を挙げて・・・はい君COCUEとは何か」 
「知りません」
「それでは君」(エリス中尉に)

「はい、それは妻を寝取られた夫のことです!」(きっぱり)

ええ、高校時代にフランソワーズ・サガンをとりあえず全部読んだわたしですもの、こんなの即答ですわ。

教室は静まりかえり、ややあって教授、(この教授の専攻はドイツ語だった)

「・・・・・・・・・・・よう知っとる・・・・・・・・・・」 

知っていると思って聞いたんじゃないのかよ。
ともかくこの「ボノミ」にはどちらかというと「お人良し・間抜け」という揶揄が含まれています。


閑話休題。

モットーの「I Have Not Yet To Fight」、これは単にわたしの想像ですが、
You ain't heard nothin' yet!」から来ているのではないかと思います。
つまり、「お楽しみはこれからだ」ならぬ、

「戦いはこれからだ!」

Don't Tread  On Me」は「私を踏みつけるな」ですから、おそらく

「わたしをあんまり怒らせない方がいい」(AA省略)

でしょうか。
艦名はお人よしだが、なめてもらっちゃ困るぜ!みたいな言い訳感満載のシンボルです。




下段真ん中の「キアサージ」にご注目。

もともと「キアサージ」だったCV-12を、日本に沈められた「ホーネット」の名に変え、
その後新しく生まれたCVS33を「キアサージ」にした、という話をしましたが、
そのキアサージの観光地の看板風の艦章があります。

IN OMNIBUS PINNACULUM

この意味はよくわかりませんでしたが、艦の後ろに三つそびえる「ピーク」が、
オムニバス、つまり連なっていて「連山」ということだと勝手に理解しました。
キアサージとはカリフォルニアのシエラネバダ山脈にある山の名前なので、
このように連なっているのでしょう。


上真ん中のWASPもこのHORNETと同じく、ハチさんですね。
ワスプはスズメバチで、ホーネットもなぜかスズメバチです。

よく見ると、ハチが敵艦船を刺している。
ハチは一刺しするとその後死んでしまうんだけどそれはいいんだろうか。



US-2B TRACKER

2000年からこのホーネットに展示されているトラッカーです。

うーん・・翼のたたみ方が、雑だ(笑)

 

トラッカーは読んで字の通り「追跡者」。

しかし、この「無理やり機体をたたんでいる感」はすさまじいですね。

と思ったら案の定、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
搭乗員たちからは不満続出だったということです。



ん?お尻に見えている突起はMADブームかな?
これが伸びるんだろうか・・・・・・。

そういえば、ニコラス・ケイジの映画に「コンエアー」ってありましたけど、
あれ、囚人が飛行機で搬送中反乱を起こして、って話でしたよね。
「コンエアー」って、もしかしてこの機種の派生型「コンエアー」のことだったんだろうか。


それにしても、作業が途中のような雑然とした感じでしょう。
これは、しょっちゅうどれかの飛行機に手を入れてメンテナンスを続けているからなんですよ。


 

こちらもメンテ中でございます。
航空博物館といっても裏手に持っていくわけでに行かないので、展示スペースで
すべてをやってしまおうとすると、どうしてもこういうお見苦しいところを
見学者に見せてしまうことになるのですねわかります。

こういうのも興味のある人間にはありがたい眺めなので歓迎ですが、
日本の施設ならもう少しこぎれいにして展示すると思うんですけどね。
いずれにしてもアメリカ人というのは良くも悪くも雑駁な国民性であるなあと思います。

このコブラさん、鼻の下にバンソウコウを貼っています。
あれ?もしかして、ローターありませんか?



FJ-2 FURY

この「フューリー」って、

激怒, 猛威, 激情, 憤激, 怒気, 鬱憤, 腹立ち, 加害, 立腹, 余憤, 欝憤

っていう意味なんですよね。
なんだってこんなネガティブな名前を付けたんだろうノースアメリカン、いやアメリカ海軍。
だから本日のタイトルは単に語呂がいいからちょっとやってみました。
意味はありません。反省してます。

同じフューリーでも、FJ-1とこのFJ-2は翼の角度からして全く別物で、
というのもこちらはF-86セイバーの派生形なんですね。
なんですかね、ご予算的に新型飛行機じゃなくて改良型ですよ、と言い訳する必要があったのかしら。

そしてこの製造の影にも実はアメリカ海軍の悪い癖、

「空軍が持ってるならおいらも」

があったのだった(笑)

実はこの前にF-86が空軍において素晴らしい性能を発揮したのを見て、
海軍も艦載機としてこれが欲しい!空軍が持ってるんだからうちも欲しい!
というわけでセイバーに改造を施しさらに機銃を搭載したものを採用したんですね。
後退翼になっていることからしてFJ-2とは全く別系統の飛行機を作らせたのです。

ところがこの型は離着艦性能に難があるということがわかってしまいました。

アメリカ海軍、人と同じものを欲しがる前にちゃんと自分とこで運用できるかどうか調べろよっていう。
それで海軍はこれを全て海兵隊で使用することに決めたというわけ。
この機体に「マリーンズ」と大きく書いてありますね。




インテークの穴は展示の時だけふさぐのだと思いますが、この「蓋」、
ちゃんとカラーコーディネートがされていておしゃれです。

このように翼をたたんだ状態で展示してくれる方が、特性がよくわかっていいですね。
さきほどのトラッカーの無理無理感とは違って、実にスマートに羽をたたんで(立てて)います。

このフューリーが海兵隊の所属でどのように実戦に投入されたのか、今回はわかりませんでした。


というわけで、またもや寄り道が多くて冒頭のトム猫さんの話にたどり着けませんでした。
次回に続く。






オークランド航空博物館~ドゥーリトル・ルーム「我が敵ドイツ」

2013-09-03 | 航空機

オークランド航空博物館の「ドゥーリトル・ルーム」について、続きです。

せっかくですからドゥーリトル空襲について少し補足しておきますと、
空母ホーネットから

横須賀・・・・・・7機、
東京・・・・・・・・3機
横浜・・・・・・・・3機 
名古屋・・・・・・2機
神戸・・・・・・・・1機

 計16機が爆撃に飛来しました。
このうち1機を除く15機が曲がりなりにも空襲に成功。
その1機は、陸軍の要撃機に多数取り囲まれ、爆弾を捨てて離脱しました。

この時の日本の被害はというと。

死者87名、重軽傷者466名、家屋消失262戸。

ドゥーリトル隊長機は陸軍造兵廠を目標にするも、攻撃場所を間違えて一般人を2名死亡させ、
学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認し、
日本機だと勘違いして手を振った小学生に掃射を加えたり、あるいは
陸軍施設を狙ったつもりが隣の?病院に爆撃してしまった機もあります。

このことから日本側はこの攻撃を「悪逆非道の振る舞い」とし、中国大陸に逃げたものの
間違えて日本軍基地に降下してしまった機の搭乗員のうち三名は
「国際法違反」として処刑し、残りのメンバーは捕虜として収監しますが、彼らは獄死します。


しかし彼らを庇うわけではありませんが、民間人とわかって意図的に攻撃した機は16機のうち
16番機の一機だけであったようです。

生まれて初めて戦闘行動で上空を飛ぶ異国の、どれが軍事施設でどれが学校なのか、
はっきりいってテンパっている彼らにはわかりかねたのかもしれません。

このときに間違えて日本軍基地に降下し、捕虜になった爆撃手ジェイコブ・ディシェイザー
1945年8月20日に
解放されたあとキリスト教の伝道者となり、来日して布教活動を行っています

真珠湾攻撃の飛行隊総隊長を務めた淵田美津雄
中佐が、戦後キリスト教伝道者となったのは、
ディシェイザーの冊子を読んで、キリスト教に興味を持ったからだと淵田本人がその著書で述べています。




 ここに展示してあるので「む、これで東京空襲を行ったのか?」
と思ったのですが、惜しいところで違いました。

これはB‐24、コンソリデーテッドのリベレーター
後ろにあるのはパイロット用の無線マニュアルです。

光ってしまってちゃんと写っていませんが、左上はP‐51搭載の
マーリン・エンジンのなぜかバルブだけ。

で。それが何か、って感じの展示ですね。



すっかり退役軍人の趣味のプラモ発表の場となっているここドゥーリトル・ルームです。
飛行機が傾いているじゃないか!と思ったら、これは

「P‐47がクラッシュ・ランディングしたの図」

ほう、それで地面がえぐれてプロペラがねじ曲がっていると。
力作ですな。



このB‐17フライングフォートレスもクラッシュランディングして翼が曲がったんですねわかります。
・・・・・え?塗装の途中だって?

向こうにあるのは、ラッパの先です。(嘘)



P‐38ライトニング

日本軍の搭乗員からは「ぺロハチ」とか「メザシ」とか呼ばれていました。
ぺロハチは、「3」を「ろ」と読んで、また最初のころは海軍航空隊にとって
「ペロッと食える」というところからつけられたようです。

 

B‐26マローダーによる1944年3月3日のローマ空襲の様子。

この爆撃について調べましたがインターネットでは何もわかりませんでした。
しかし、この空襲でもたくさんのローマに住む民間人が亡くなり、たくさんの民間家屋が 
爆撃によって焼失倒壊したんですねわかります。

つまりここはドゥーリトルに限らず、アメリカが行った空爆の功績を称えるコーナーであると。

この一連の展示からそのように理解しました。



左上から

「ミッション・ブリーフィング」
「爆弾投棄用地」
「爆弾の積み込み」
「B‐24のターゲットに向けたフォーメーション」

左下から

「軍医とフライトメディックが負傷者救護のために待機」
「負傷した搭乗員が搬送される」
「敵機の20ミリ砲による被害」
「赤十字の看護婦が負傷者の手当てをする」

む、この、「20ミリ」とはまさしく零式戦闘機の弾痕?
ちょっとこの写真だけアップにしてみましょうか。



弾痕ではなく、破裂している感じですね。
20ミリは破孔が大きいので、いったん当たるとこのようになってしまうのです。

機体の下方にも弾痕があることから(こちらは小さい)、この機は
空中戦で零戦と会敵してこれだけ銃弾を受けたものと思われますが、
はたして搭乗員は無事だったのでしょうか。

ところで、前回エントリでも少し言ってみましたが、全体的にここはドイツ軍については
やたら細かくいろいろと資料を用意して説明するくせに、当初結構な脅威であったはずの
日本機については全く触れようとしないんですよ。
全く、ここの展示だけ見ていたら、あんたらいったいどこと戦争してたの?
と思わず聞きたくなるくらい見事に「スルー」なんですよ。

この弾痕の残る機体もどこにやられたとか全く書いていないんですが、
このスルーっぷりを見る限り、もしかしたらこれはフォッケウルフにやられた痕だったのかも。


まあ、戦争ですから相手のことまで言い出したら展示にもきりがないとは思いますが、
少なくともドイツ空軍くらいの扱いはあってもいいんじゃなーい?



ドゥーリトル中将からブロンズ・スター・メダルを受ける、
メアリー・ディクソン中佐

この名前を検索してみましたが全く見つかりませんでした。
ブロンズスターとはアメリカの戦功章で、

「英雄的あるいは価値のある功績をあげたもの」

に対して与えられる勲章です。 




メアリー・ディクソン中佐、すべての写真に登場しています。
真中はエリザベス女王をアテンドしているのがディクソン中佐。
どんな戦功を立てたのかはわかりませんが、たまたまそれが美人だったので
当時は陸軍の「顔」としてもてはやされていたようですね。

しかし、今日ではアメリカのインターネットサイトでも全く名前が上がらないという・・・。



アイゼンハワー・ジャケット、というやつですね。
陸軍戦闘服で、アイゼンハワーが着用したことからこの名が付きました。

しかし、これを日本語で画像検索すると、比較的、というかかなりもっさりした、
着こなしと着る人によっては。平日の昼間に馬券売り場にいるよな人種に見えてしまう、
非常に危険なデザインのジャケットが出てきました。

いわゆる「アイゼンハワージャケット」と、日本でそういわれているところの「ジャンパー」
にはずいぶんデザイン的に違いがあるような気がするのですが・・・。



P-38 設計図。

関係ないですが、わたしが所蔵している戦艦大和の設計図もこのように黒地に白抜きです。
もともと白地だったのを、印刷の時に逆にしていただいたのです。

この大和設計図、額装して部屋に飾るつもりだったのですが、あまりにも巨大で、
しかも俯瞰と側面の二枚があり、それを飾ろうと思ったら廊下の壁をくりぬかないといけない、
というくらいなので、いつかこれを飾る豪邸を建てたときのために大事に保存してあります。



双眼鏡は第二次大戦と朝鮮戦争でも使われたものだそうです。
奥にあるのが六分儀。
手前の帽子は、航空兵のキャップ。



BOMBS AWAYとあります。
といえば「爆弾投下」だと思うのですが・・・・。
この黒い部分には

「希釈型酸素調節器」

と書いてあります。
これが何をするものかはこれだけではわかりませんでした。



増槽ですが、グラファイト(黒鉛)がしみこませてあるので塗装しないように
と表面に書いてあります。

グラファイトは燃料パッキンに使われるくらいですから、もしかしたら
引火性を抑えた仕様なのかもしれません。



 右は無線のダイヤルセッティングの数値表。



ダイアルと周波数の早見表のようです。



ノルデン爆撃照準器

 映画「メンフィス・ベル」で、雲間から見える軍需工場をこれで覗きながら
That's it! That's it!」(あれだ!あれだ!)
とヴァルという名の爆撃手がつぶやくシーンがありました。
 

これは陸軍航空隊(USAAF)にて採用されていた当時の最高機密で、
爆撃機のの搭乗員が正確に爆弾を投下するために補助する照準器です。

本土を空襲したB‐29や広島、長崎に原子爆弾をを投下した「エノラ・ゲイ」「ボックスカー」には
もれなくこれが取り付けられていました。

爆撃照準器が無いそれ以前の高高度爆撃の目標物の破壊率はとても低く、
簡易爆撃照準器もまた同じだったのですが、問題のドゥーリトル隊の機には、
当初つける予定だったのが直前にはずされて簡易照準器に変えられてしまったそうです。

そうか・・・・それで、目標を外しまくったのか・・・・あいつらは。(嫌味)


それはともかくその理由とは、万が一同隊の飛行機が撃墜されたときに
この照準器が敵の手に渡ることを懸念したから、だったそうで・・・・・

うーん・・・。


これってさ。

つまり、わたしがかねがね言っているように、ドゥーリトル隊ってやっぱり、

あまり生還の見込みはないと見られていた

ってことでOK?

やっぱり「スケープゴート」だったのよね。
まあ、成果はともかく生きて帰ってきて一躍ヒーロー扱い、ご本人たちも
アメリカのために命を賭して任務を果たし自分を誇りに思ってるわけで、
誰もこの構図に疑問を感じていなかったからには、今更何をか言わんやですが。
 


それはともかく、このノルデン照準器。
機密を守るために、隊員は必ず秘密の守秘を宣誓させられ、さらには
いざという時に破壊するための特別の武器を持たされていましたし、
これを持って移動するときには、ご丁寧にもカギ付きの箱に入れ銃を携帯したそうです。


君ら、誰を相手に戦ってると思ってる?

この厳重な警戒にも関わらず、しっかり日本軍はB-25から現物回収し、同じものを作っていました。
全く同じ試作品も、昭和19年の2月には完成していたといいます。
さすがはコピーと改良にかけては世界一の国民、日本人。

だがしかし、技術はあってもお金がない、この悲しい事情のため、
量産できず、そうこうするうちに戦争は終わってしまいました。

とほほほ。




火を噴くMe262のコクピットからは搭乗員が脱出しようとしています。
横に貼られた絵の解説の写真を撮り忘れたので、詳細はわかりませんが、
有名な空戦だったのでしょうか。

そして、今回はどうしてもこのような考えに至ってしまうのですが、この脱出したドイツ人に対し、
この米軍機は機銃掃射などは加えなかったのではないだろうか、と、
何の根拠もなく思ってしまいました。


広島と長崎に二種類の原子爆弾を落とすことをためらわなかったアメリカが、
同じ対戦相手のドイツとイタリアにそれをすることを全く考えなかった、その同じ理由から。