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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

F-14トムキャットと映画「トップ・ガン」〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-06-29 | 航空機

 さて、久しぶりですが、空母「ミッドウェイ」の話題に戻ります。
ちょうど八戸航空基地の話題が終わった後ですが、「ミッドウェイ」も
艦内の説明を終わり、ちょうどフライトデッキに出てきたところ。

ここからの「ミッドウェイ」の話題は、フライトデッキに展示されている
多くの航空機に焦点を絞っていこうと思います。

艦載機といっても、実際に「ミッドウェイ」に艦載されていたものもあれば、
時期的に合わなかったり、また規格が違ったりで、
ここから発艦したことがない機体も多いですが、「ミッドウェイ」は
その存在価値を「海軍歴史博物館」と自認しているので、
集まってくる機体は拒まずきちんと展示し、紹介しているのです。


これから説明という時に結論めいたことをいうと、わたしはこの展示で
アメリカの底知れない軍事技術のある時期までの集大成を見た気がしました。

固定翼出身の元海将がよくおっしゃることですが、軍艦、特に空母は
その国の科学技術と海事文化の粋を集めたものです。

近い将来に、日本が空母を持つという計画が世界の軍事ウォッチャーの間で
関心を集めていますが、もしそれが「オンゴーイング情報収拾」の段階なら、
関係者は過去の遺産と決めつけず、ぜひ「ミッドウェイ」に脚を運び、
アメリカの空母文化というものをリサーチしていただきたいと思いました。

 

今までアメリカ国内でいろんな旧軍艦利用型博物館を見てきましたが、
展示が充実し、そして観客が多く、メインテナンスが行き届いているのは
いずれも空母で、西の「ミッドウェイ」、そして
東では「イントレピッド」でした。

特に「ミッドウェイ」はサンディエゴという海軍のお膝元にあって、
海軍からの直接援助や、ベテラン含む一般の大口賛助が集まりやすいのが大きいでしょう。
艦内スペースを海軍関係のイベントにしょっちゅう解放し、退役した軍人たちが
何かと集まるコミュニティの役割をしていることも、隆盛の理由だと思います。


そしてその結果、いたるところに観覧者のための工夫が凝らされ、
さらに大人から子供まで、楽しく過ごせるアミューズメントパークとして
人々を惹きつけることに成功しています。


たとえばフライトデッキでは、この写真のように、あちらこちらに乗員の等身大の人形や
パネルがあり、かつての雰囲気を伝えると同時に、観客の目を楽しませ、
「インスタ映え」のお手伝いもしてくれます。

ここにいるのは「トムキャット」から降りてきたという設定の搭乗員。
平面パネルの写真は実際の現役空母乗組員を撮影したものらしいですが、
この立体模型の人にモデルはいるのでしょうか。

子供が「はえ〜〜」って感じでその威容に見とれていますが、
デパートのマネキンのように嘘くさいイケメンなどではなく、
ガタイはいいけど額が妙に後退しているあたり、実にリアルです。

Grumman F-14 トムキャット Tomcat 戦闘機

コクピットにちゃんと二人パイロットが搭乗しています。
写真を見て初めて気がつきました。

この二人は、実在のF-14パイロットをデディケート(顕彰)していて、
前席のパイロットには、

ジェイ・”スプーク”・テイクリー少佐
VF-114 コマンディング・オフィサー 1983−1984

後席には

テッド・”スラップショット”・カーター少佐
VF-114 コマンディング・オフィサー 1998-1999

とその下の窓枠にペイントされています。

「スプーク」は幽霊、「スラップショット」はホッケーのステイックの
小さくて力強いスイングによる速いシュートを意味する言葉で、
いずれもパイロットの「
タックネーム」(あだ名)です。

ちなみに、映画「トップガン」の「マーヴェリック」「グース」
そして「アイスマン」などの名前も皆タックネームです。

この二人はいずれも114戦闘機部隊にいた司令官で、よく見ると
このトムキャットの尾翼には、部隊
ニックネームの
「アアドバーク(aardvark)」(ツチブタのイラストが描かれています。

わたしツチブタを見たことがないので、調べてみました。

あー、確かに。
アリクイに似ていると思ったら、やはり主食はアリだそうです。

アフリカにしか生息しない動物なのに、なぜアメリカ海軍の航空隊が
シンボルにしているのかは謎です。


ところで、不思議に思ったのは、VF-114は1993年に閉隊しているのに、
後席の司令官の任期が1998〜1999となっていることです。

不思議に思ってこの”スラップショット”司令官の経歴を少し調べてみると、

ウォルター・E・カーター・Jr.

スラップショットというだけあって本当にアイスホッケーの選手でした。
確かに海軍のパイロットとして各飛行隊の司令を歴任していますが、

VF-114ではなくVA-14、トップハッター

の司令官であったらしい・・・・・

つまり結論を言うとこの機体のペイント、間違っているのです

2018年現在、アナポリスのスクールヘッドであり、ヴァイス・アドミラルでもある
偉い人の経歴を
間違ってこんなところに堂々と書いてあるって、これ、まずくない?

F-14の裏側に回ると、内蔵している20ミリ砲の部分が透明になっていました。

こちらのコクピットには、

デイブ・”ブッシュワッカー”・ビョーク(北欧系かな?)

ニール・”カウボーイ”・ザーブ

とネーミングされています。
ブッシュワッカーとは「藪を切り開く人」という感じでしょうか。


ところで先ほど「トップガン」の話が出ましたが、
トップガンといえば何と言っても主役はこのF-14ですよね!

とかなんとか言いながら、正直わたしはこの映画、劇場で見たわけでもなく、
マーヴェリックの搭乗機がなんであるかなど、全く興味もなければ
今日に至るまで、記憶の端っこにも引っ掛けていなかったわけですが。


この撮影で、制作側は海軍に2億円という機材使用料を払っています。
しかし、宣伝料という意味でお金を払ってもよかったのは、
むしろ海軍の方だったかもしれません。

ご存知の通りこの映画は大ヒットし、海軍は機材使用料で儲けたのみならず、
映画を観てその気になった若者を海軍に呼び込むための「〇〇者ホイホイ」を設け、
(〇〇には心に浮かんだ言葉をそのまま当てはめてください)
〇〇者を海軍に取り込みにかかりました。

「ホイホイ」つまり映画館の出口に設けたリクルートブースです。

まさか映画館の出口で自分の人生を変えようなどという人がいるわけない、
と思ったあなた、アメリカ人を甘く見てはいけません。

映画を観た直後、文字通りホイホイと入隊申し込みをした〇〇者は
海軍がホクホクするくらいたくさんいたと言いますから驚きます。


今度「空母いぶき」が実写映画化されるそうですが、映画館の外に
海上および航空自衛隊の地本がブースを出してはどうでしょう?(提案)


もちろん、皆マーヴェリックのようなパイロットに憧れて入隊したのですが、
実際全海軍の中のたった12人の超トップクラスエリートである
トップガンどころか、航空に行けた人がそのうち一人でもいたかどうか・・。


実はこの時海軍、制作にあたりペンタゴンとも協力して、映画をヒットさせ、
海軍への入隊増加につなげようと最初から目論んでいたということだったので、
全ては

「計画通り」

だったのです。

しかも海軍にとどまらず、ペンタゴンまでが映画制作に介入し、
制作段階から幾度となくチェックを入れてきたということですから、
「トップガン」って実は「国策映画」でもあったということなんですね。


単純なところで「トップガン」という言葉を世の中に広めたというだけでも
映画の効果は大で、
わたしは思うのですが、空の専門を自認するエアフォースは
「トップガン」=「パイロット」を世界中に刷り込んだこの映画に対し、
面白くない、というか苦い顔をしていたのではなかったでしょうか。


ともかく「トップガン」はヒットしました。
繰り返しますがその一因に、このF14のかっこよさがあったに違いありません。

なんの機体を使っているのか全く興味がなかったわたしがいうのもなんですが、
最初に見たときもあれが戦闘機のカタチとして、非常に洗練されているというか、
見た目が
とにかく美しいとなんとなく感じていた気がします

なんでも

映画の「もう一つの主役」はF-14トムキャットである

というのが制作サイドの宣伝文句の一つだったそうですね。


トップガンつながりで今回知ったことですが、トム・クルーズの演じた
タックネーム「マーヴェリック」役には、当初、

ショーン・ペン、マシュー・モディーン、ニコラス・ケイジ、
ジョン・キューザック、マイケル・J・フォックス、トム・ハンクス

という俳優たちが候補に挙がっていたそうです。

誰がやっていてもヒットはしたと思いますが、一つ言えるのは誰がなっても
マーヴェリックのイメージはトム・クルーズとは随分変わっていたことです。

個人的には無理と知りつつマシュー・モディーンを推しますが(笑)。
まずニコラスとマイケルって、あんまり海軍のドライバーって感じしないんだよな。

マイケル・J・フォックスは当時まだ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の
イメージが強すぎてシリアス感に欠けたと思うし、ニコラスは陰気なところはいいけど
どちらかというと役柄的にグースのイメージだと思います。

そしてトム・ハンクスははっきりいって陸軍の制服しかイメージできません。
(感想は個人のものです)


ある英語の映画蘊蓄サイトによると、実際の撮影は、ジンバルを備えた操縦席を作り、
そのセットで行われたそうですが、それとは別に俳優は役作りのため
複座のF-14に搭乗させられ、
その駆動を実際に体験することになりました。

出演者がトム・クルーズも含めてゲロゲロに酔ってしまった中、

「トップガンには見えない」

とわたしが酷評していた「ERのグリーン先生」こと、グース役の
アンソニー・エドワーズだけは、
一度も吐かなかったということです。

うーん、この話を知ると、彼が一番トップガンらしい気がしてきた(いい加減)



撮影には実際の海軍パイロットを使っていたのだと思っていたのですが、
飛行シーンはスタントマンが行なっており、しかも映画撮影中に
機体が太平洋に墜落するという事故があり、結果スタントマンは亡くなっています。
 
その突っ込んだ機体というのはまさか本当のF-14だったのでしょうか。
だとすると映画会社はこの機体をどうやって弁償したのでしょう。
 
 

さて、噂によると、トップガン2の制作は近々行われるようです。

なぜ今まで2の制作がなかったのかというと、トム・クルーズ本人が

「下手な続編でこの映画の評判を落としたくない」

という理由で、続編の制作権を買い取ってしまったからだそうです。

最近になってどういう心境の変化か、本人がその気になったため、
ついに待望の続編が誕生する運びになったわけですが、この作品で

トム・クルーズは前作の「マーヴェリック」のその後として登場し、
教官として女性パイロットを育てるというプロットだとか。

もうこの時点で話の筋が見えてしまう気がするのはわたしだけ?

ただ、前作で人気の高かった「アイスマン」」ヴァル・キルマーも
なんかの役で(海軍バーのマスターとかかな)出演するそうなので、
名悪役キャラ好きのわたしとしては、公開されたらぜひ観てみたいです。

もちろん「今回の主役」であるはずのF-18「ホーネット」にも
今度はちゃんと注目するつもり。

 


 
 
 
続く。
 
 
 

コークスクリュー〜平成29年度入間航空祭

2017-11-25 | 航空機

さて、色々と間に挟まってしまいましたが、入間航空祭のブルーインパルス演技、
何としても最終回にこぎつけたいと思います。

入間上空にはよく鳥が飛来します。
何年か前のブルーの演技がバードストライクで中止になったことがありましたが、
このときも三機編隊の飛行を目撃し、大丈夫かとちょっと心配になりました。

ちなみに、先日知ったところによると、中国空軍のある飛行基地は、
周辺にその鳥の天敵である猿を放逐して解消にこれ努めているそうです。

入間は対策してなさそうだなあ・・・。

さて、ブルーインパルスの演技、蒼空に見事にハートとそれを射抜く矢が描かれ、
会場の興奮はますます高まって来ました。

1、2、3番機で行うライン・アブレスト・ロール

アブレスト隊形で左から進入してくるフォーメーションです。
アブレスト、あるいはラインアブレストとは、2機以上の機が
横一列に並んだ編隊のことを言います。

フォーメーションというのは日本語で編隊ですが、そもそも編隊の定義とは

2機以上の機が、相互の位置関係を一定に保ったまま飛行すること

となっています。
日本語では編隊を組んで行動する航空部隊自体も「編隊」と称します。

4機以上の編隊を「フライト」といい、ブルーインパルスの隊長を
フライトリーダーと称するのはここから来ています。

ちなみに2機だけだとこれが「エレメント」となるそうです。

このラインアブレストロールや、ファンブレイクなどもそうですが、
エアショーのフライトはフォーメーションを組むとき見栄え重視で
必要以上に機体の間を狭くして密集形になります。

しかし実戦を想定したフライトではこんな飛び方は決してしません。
もし何か起こったとき、回避機動するだけのスペースが最低限必要なためで、
下手すると僚機との間が数マイル離れることも決して珍しくないそうです。

もちろん、こんな密集形で飛ぶ技量があってこその実戦なのですが。

ライン・アブレスト・ロールでは三機がまるでめざし状態、つまり
芯で連なっているように正確に隊形を維持したままバレルロールを行います。

バレルロールとは文字通り「バレル」(たる)の外側をなぞるような動きです。

続いてソロ機である5番機が行う360°&ループ
読んで字のごとく、360度水平飛行と宙返りです。

ちなみにこれは「さんびゃくろくじゅうどアンドループ」ではなく
「スリーハンドレッド・シクスディ・エンド・ループ」と読みます。

ループの後、急降下してもう一度ループ。
ターンとループは同じ位置で開始し、同じ位置で終了。
ターンもループも同じ大きさの円なので、つまり丸くリボンを描く
eをくっつけた状態)ような感じです。

続いては今ソロを行なった5番機以外の全機で行うワイド・トゥー・デルタ・ループ
ワイド、つまり広い状態からデルタの隊形に飛びながら移行していきます。

会場の後方から幅の広いデルタ隊形で進入してきて、ループを行ううちに
だんだんそのデルタを小さくしていくという素人目にも難しそうな技。

会場の正面で宙返りを行いますが、この時点でデルタは最小になっています。
収束されたスモークが彼らの航跡に美しく五線を描きます。

それに5番機が加わって、6機全部で変則デルタ隊形で進入して来ます。

デルタループは6機でデルタ隊形を保ったまま今度は横に回転する技です。

アナウンスによると、そもそもこの隊形を保ち続けること自体が
高い技術がないと行うことができないくらい難しいことみたいですね。

しかもこのデルタループでは、まるで一枚の薄い板のように陣形を崩さず、
きっちりと回転していくというマックスの難度が要求されるのです。

フォーメーションの位置を決定するのは1番機ですが、外側の僚機は
一ミリの狂いもなく難しい機動をそれぞれ駆使しながら1番機についていきます。

ここからクライマックスへと向かっていきます。

ここだけ写真を撮り損ねたのですが、スモークを出しながらた全機が、
スモークを切った瞬間、一斉に回転を行うボントンロールが行われました。

ボントンロールが終わった瞬間。
やっぱり「レディ〜ナウ!」が合図だったんでしょうか。

続いては上向き空中開花です。
会場後方からデルタ隊形で進入した5機は、会場正面で上昇を行います。

全機が上昇し真上を向いたところでいよいよ・・・

ブレイクが始まります。

5機がそれぞれの方向にスモークを描きながら飛び、空中に花を咲かせます。

この「上向き空中開花」という演技名、少し不思議に思われたことはありませんか?
花は普通上を向いて咲くものです。(一部を除く)


かつてブルー演技に「下向き空中開花」というフォーメーションが存在していました。

1982年、浜松基地で行われたエアショーで4番機がこの演技中に墜落、
パイロットが殉職すると共に周辺住民に12名もの負傷者を出す大事故が起き、
それ以来、演目から「下向き空中開花」は削除され実施されることはなくなりました。

現在、「レインフォール」が下向き空中開花の改善形として残されていますが、
明らかに「上向き」とつける必要のないこのフォーメーションを未だにこう呼ぶのは
「下向き空中開花」への鎮魂の意が込められているというのは考えすぎでしょうか。

五方向に散っていった機が遠くでターンして帰って来て、
また再び会場上空に集結し、スモークで星を描きます。

スタークロスです。

ただこれを描くだけならともかく、(それでも十分難しいと思いますが)
上向き空中開花のブレイクの後、遠方から集まって来てこれだけ正確に描けるとは。

5番機、6番機によるタッククロスです。

二機は揃って背面飛行に入り、その姿勢から旋回を開始します

ただいま旋回中。
やや機首をあげて、右か左いっぱいにエルロンを当てて横転する
マニューバ、エルロンロールを行なっています。

そんな近くで旋回したら危ないってば。

という警告の言葉に聞く耳持たず、5番機と6番機はこの後
機体が交差するように内側に切り返すクロスターンを行い、そのまま
左右に分かれて上昇していきます。

上昇が終わると同時にスモークを切り、ループを描いて下降、そして・・・

スモークオンの背面飛行で会場に帰って来て中央でクロス!

1、2、3、4番機によるローリング・コンバット・ピッチ

エシュロンという、右肩上がりの斜め隊形で進入して来た4機が、
上昇横転しながらブレイクします。

その後、4機でスモークによる半円をそれぞれが描いていきます。

1、2、3、4番機にとってはこれが最後の演目となります。
この後は解散し、着陸態勢に入っていきます。

最後のトリとなるのが、コークスクリュー
5番機と6番機のソロ機で行うブルーインパルスだけのオリジナルです。

背面飛行をする5番機の周りを6番機が螺旋を描きながら追いかけ、
まるでコークスクリューのような形を作るものなのですが・・・・。

この演目は、正面から見ていないとちょっとよくわからないことになります。

両機の機動はよくわかるのですが、「コークスクリュー」には見えないというか・・・。

もし今度コークスクリューを撮ることがあれば、飛行機を追いかけず、
スモークを含めた全体を狙うべきであるという教訓を得ました。

コークスクリューが終わった頃には1から4番機までが着陸態勢に入っています。
今滑走路の上にオンしている2番機と、帰ってくるブルーたちの整備のために
エプロンを行進してくるドルフィンキーパーズ。

ドルフィンキーパーは全自衛隊の中でももっとも派手な?
ハレを味わえるメカニック軍団であることは間違いありません。

1番機無事着陸。

続いて2番機。
この時にすぐ会場を離脱していればあれほどの混雑に巻き込まれなかったかも・・。

この日はブルーインパルスは帰投しないというアナウンスが行われました。
告知しないと、帰投シーンを見るために待ち続ける人がいるからに違いありません。

空中であんなに華やかに、激しく機動を繰り返した6機が、
しずしずといった感じで
駐機場に戻っていくのを見るのもいとおかし。

6機が全てエプロンに機首を並べ、キャノピーを開けたところを見届けて、
わたしは会場を離脱しました。

ちなみに、入間市駅付近の駐車場から出た途端激しい渋滞に巻き込まれ、
家に着いたのは夕方6時半でした。
ブルーインパルスの演技が終了したのは2時過ぎです(笑)

ちなみにこの日航空自衛隊からいただいた記念品はフリースのひざ掛けでした。
「IRUMA AIR BASE」と白で刺繍されたそれは、今現在もわたしの膝にあって
この冬のお役立ちとなってくれることと思われます。
音楽まつりの車の中の仮眠にも大変重宝いたしました。

招待券を手配くださった方、航空自衛隊の皆様、ありがとうございました。
また来年もいくぞー!(えっ)

 

入間航空祭シリーズ終わり




ダム・バスターズ〜空母「ミッドウェイ」博物艦

2017-10-22 | 航空機

行くつもりをしていた方ならご存知ですが、
今日は本来なら航空観閲式の予行が行われていたはずでした。

しかし、中止になってしまったのです。

台風が来ているという予報があったので、わたしが知り合いに

「中止になることなんてあるんですか」

と聞くと、その返事は

「よほどのことがないと中止になりません」

そこでわたしはNIKOND810専用のレインコートを買って(笑)
苦行に耐える心の準備をしていたのですが、なんと防衛省の方から
なぜか直々に電話がかかって来て、中止になったと知ったのが金曜日。

やはり台風直撃が予想されるというのは「よほどのこと」だったのでしょう。

もしかしたら百里基地でファントムさんが炎上したこともちょっと
中止になった原因だったかもしれないなあなどと思ったり。

それにしても、今回のチケットを闇で買った人、泣くに泣けませんね。
来週は晴れますように。



さて、博物艦「ミッドウェイ」のハンガーデッキは、見学者がここからツァーに出発する
スタート地点として、ターミナルのようになっています。

飛行甲板、船首上甲板、各甲板、艦橋、機関室

わたしはこの2016年の訪問で船首上甲板とCAGエリアを見学し、
今年の訪問で飛行甲板と居住区でもある第2、第3甲板を見ました。

しかし、まだ肝心の艦橋と機械室は見られないまま終わりましたので、
最低でもあと一回は行かねば全制覇できません。

いつになるかはわかりませんが、必ずみなさんにディティールを
ここでご報告することをここで一人勝手に誓いたいと思います。

さて、今日はハンガーデッキの展示をご紹介していきます。

ちゃんとした丸ごとの航空機の他には、このように操縦席だけ
切り取って、コクピットに座ることのできる展示もあります。
これは

A-7コルセアII

ノーズを切り落として丸いドームに変え、特徴的なインテイクは
塞いでしまっているので、5年くらい前のわたしなら

これが何か特定することは不可能だったと思われます。

「ミッドウェイ」には1970年代から1985年まで、
ヴォートのFー8
「クルセイダー」とともに配備されていました。

ヘリコプターH2「シースプライト」のコクピット部分。

「ミッドウェイ」など空母に搭載される汎用ヘリとしてデビューしましたが、
多目的戦闘システムを組み込むことで対潜、対地戦闘、対艦ミサイルからの防衛、
監視の他、救難、輸送、援護、訓練支援など幅広く活用されることになりました。

アメリカでは「スーパーシースプライト」を最終形として2001年に除籍になりましたが、
他国海軍ではまだまだ現役でその姿を見ることができます。

ハンガーデッキは人の往来が激しく、人が写り込まない写真はまず撮れません。

この黄色い機体を見たとたん、「テキサン」とわかってしまったのは、

Tー6 SNJ ノースアメリカン社

が歴代の戦争映画に「零戦役」で数多く出演し、それについて語ってきたからです。
空母着艦の練習をするために、着艦フックをつけたものも存在しました。

「テキサン」というあだ名は大量に作るための工場がテキサスにあったからで、
アメリカ海軍ではここの案内板にも書いてあるように「SNJ」、陸軍ではAT-6、
イギリス連邦諸国では「ハーバード」の名称で認識されていました。

静浜基地のTー6を見学した時、操縦資格のある隊員が少なくなっていくにもかかわらず、
エンジンにはオイルを入れて年に何回か稼働させ、飛べる状態を保っている、と聞いて
空自のロマンみたいなのを感じたものですが、今でもそうなのかしら。

かつて艦載機部隊として所属した航空隊のマークが入った航空魚雷も、
天井からつった状態でこのように展示してあります。

紫ジャケットの航空燃料係が立っている上にある

「FREELANCERS」とは、VF(戦闘飛行隊)21

のニックネームです。
飛行機が三つ描かれていますが、これは撃墜マーク。
同航空隊はベトナム戦争中にMiG17を3機撃墜した、と
パイロット名が刻まれているというわけです。

白い眉毛付き目玉マークの魚雷は、

VMFP-3 (Marine  Tactical Reconnaissance Squadron 3 )

つまり偵察舞台の所有です。

偵察部隊→見張り→目玉→\( ˆoˆ )/

というわかりやすいマーク。

手前こちらの魚雷のマークの部隊、

VFA-195 「ダムバスターズ」

は今厚木にいる第5空母航空集団で「ロナルド・レーガン」に乗ってます。

ところで、陸自音楽隊のCDに、調子のいい出だしにかっこいい中間部を持つ
「ダムバスターズ・マーチ」というのがあって、てっきりわたしは
この航空隊の讃歌だと思っていたのですが、こちらではなく、第二次世界大戦時
ドイツのルール地方の貯水池(つまりダム)を破壊した(つまりバスター)

英国空軍第617中隊、通常ダムバスターズ

のことだったと知りました。

ダム・バスターズ・マーチ(The Dam Busters)

同盟国にあやかったのかなと思ったのですが、アメリカ海軍のは
朝鮮戦争中に北朝鮮のダムを壊した部隊という意味の「ダムバスター」です。

ぜひこの勇ましいマーチを一度聞いて見てください。


1965年といいますから、「ダムバスターズ」戦闘機隊がMiGを撃墜していた頃の
空母「ミッドウェイ」ハンガーデッキの写真。

「あなたはここにいます」というところに飾ってあります。

ハンガーデッキの床がほとんど見えないくらいの航空弾薬、
扱う水兵たちはTシャツか上半身裸で作業しています。

画面右奥には大きな扇風機が回っていますが、ベトナム湾の
「ヤンキーステーション」における艦内の気温はさぞものすごかったことと思われます。


続く。




アメリカ海軍ヘリコプター史〜ミッドウェイ博物館

2017-10-15 | 航空機

 

サンディエゴにある「ミッドウェイ」博物館、空母艦載機の整備や
指令をだす部署の見学の見学が終わりました。

ここに、空母艦載機の一つである米海軍ヘリコプターの歴史コーナーがありました。

 

人類最初のヘリコプターが空を飛んだのは1940年5月24日。
この時には不安定で振動も多く、パイロットがテスト飛行で
縄をつないだヘリをかろうじて「持ち上げた」というものですが、
その後、技術は急速に進化していきました。

この技術進歩の歴史の中には、多くの勇敢な勇者たちの、
理想を追求した技術者たちの、そして計り知れない危険を承知で
戦いに挑んだセイラーの物語があります。

この展示では、過去七十年間にわたりアメリカ海軍のミッションの可能性を
大きく広げてきたヘリコプターの歴史についてを紹介しています。

ところで、皆さんは「ヘリコプター」というものを誰が発明したかご存知ですか?
去年の夏、ボストン郊外にある「シコルスキー」本社の写真を高速から撮ろうとして
失敗したということがありましたが、シコルスキー社を作った

イーゴリ・イヴァノビッチ・シコルスキー(1889−1972)

です。

自らが操縦することもでき、フランスで航空機の研究を重ねた彼は、
ロシアで飛行機開発に携わり、当時すでにのちのヘリコプターとなる
機体のアイデアを持っていたといいます。

ロシア革命の後アメリカに亡命したシコルスキーは、まず
商業空輸の会社

「シコルスキー・エアロ・エンジニアリング・コーポレーション」

を設立。

その後会社はのちにユナイテッド航空となったユナイテッド・エアクラフト
ヴォート・シコルスキ部門として吸収され、そこの部長であった彼は
自らがパイロットとして飛びながら開発を行い、
1939年9月、ほんの数フィートではありましたがVS−300なるヘリで
空を飛ぶことに成功しました。

操縦しているのはシコルスキー本人。
これにカバーをつけて?操縦者の体を保護したバージョンも
その後開発されています。

機体の下にフロートが三つついており、史上初にして水陸両用が可能でした。

このいかにも危なっかしく見える機体をよく自分でテストしたものだと思うのですが、
自身がパイロットであったシコルスキーにしてみれば、
危険なテスト飛行だからこそ自分で行う方が気が楽だったのかもしれません。

余談ですが、シコルスキー社の前を通り過ぎた時、息子が

「最近(2015年)ここロッキード・マーティンに買収されたんだよね

というので、なぜそんなことを軍事オタクでもないのに知っている?
と非常に不思議だったということがありました。
ネット時代の子供って・・・・・。

シコルスキーHSS。
海軍の対潜哨戒機の必要性から開発され、その後のSー58、
シーキングの原型となりました。

HO4S。
朝鮮戦争で活躍した乗員搬送ヘリの海軍用です。

MHー53。
海兵隊海軍バージョンは「スーパースタリオン」と呼ばれます。

海上自衛隊でも使用されていましたが、順次退役し、最後の1機は
今年2017年の3月に除籍となって運用が終了しました。

ちなみに後継機は アグスタウェストランドのMCH-101。
掃海隊でおなじみですが、「しらせ」にも搭載されています。

 

シコルスキー本人は、

「私の行った個々の仕事は人類を進歩させるための火花を未だに放っている

とおそらく晩年に豪語していたそうですが、これが決して
高すぎる自己評価でないことは皆さんも納得されるでしょう。

確か浜松の空自の資料館にパイアセッキのヘリが展示されていて、
それをここでご紹介するのに、

「パイアセッキとはさても面妖な名前であることよ

と感じいったのですが(いつの時代の人だよ)、その後これが
ポーランド人にはよくある人名であることがわかりました。

フランク・パイアセッキ(1919-2008)

はポーランドから移民してきたテイラーを父に持つフィラデルフィア生まれ。
本人はペンシルバニア大学とニューヨーク大学で工学を学んでいます。

ちなみにこれも同一人物らしいのですが、どうして
「これ」が「あのように」なるのか理解できません。

外国人の歳の取り方って謎だわ。

小さい頃から飛行機模型を作るのが好きだった彼は、10代のうちに
ローターを上に付けた固定翼機

「オートジャイロ」

を開発するという一種のオタク天才でした。
シコルスキーとほぼ同時に友人と共同でシングルローターのヘリ、
PV-2(Pはパイアセッキ、Vは共同開発社のヴェンジー)を開発。

この時の貴重な実験の様子が残されていました。

Piasecki PV-2 first flight, April 1943

うーん、これで飛んだってことにするのか?それでいいのか?
という怪しい動きではありますが、一応宙には浮いています。
ヘリの足はどっかに飛んでいかないようにロープが付けられていますね。

1945年3月7日、パイアセッキは初めて「ちゃんと飛ぶ」タンデムローターのヘリ、
P-V エンジニアリングフォーラムXHRP-Xの開発に成功します。

P-V Engineering Forum XHRP-X, 1945

有名な「フライング・バナナ」の形をすでに備えていますね。
ってかあれが完成系というのも如何なものかって気もしますが、(個人的感想)
バナナに似ている度だけでいうと、こちらの方がかなり完成度は高いです。

パイアセッキの実験は記録が残っているものが多いらしく、
楽しい音楽とともにまとめた映像があったのでご紹介しておきます。

Straight Up: Frank Piasecki’s Flying Machine


さて、ヘリコプターを開発した人物は同時期に三人いました。
もう一人が、ローレンス・デイル・ベル(1894−1956)です。

 

どうしてヘリの開発者は皆全体的に似ているというか安定の良さそうな容姿なのか、
と少し不思議な気がするのですが、それはともかく、”ラリー”・ベルは
グレン・L・マーチンカンパニー(のちのロッキードマーチン)
でマネージャー、コンソリデーテッドでは副社長にまで登りつめたあと、

ベル・エアクラフト・コーポレーション

を立ち上げます。
1941年からヘリコプターの開発に着手したベルは、1943年、
伝説のヘリ、

BELL 30

の初飛行を成功させます。

Bell Model 30 Crash

実験ではものすごい失敗をしていますね。
地面に機体が叩きつけられると同時にパイロットは放り出され、
その瞬間ローターに激突しているように見えるのですが、
怪我は手首の骨折だけで済んだということです。

その後この事故を教訓として(多分)スタビライザーを開発、
1947年には「ベル47」を完成させました。

アメリカの人気戦争ドラマ「M*A*S*H」のオープニングクレジットでは
負傷者を搬送する朝鮮戦争のシーンがベル47を有名にしたそうです。

「スイサイド・イズ・ペインレス」(自殺は痛みなし)

というテーマソングとともに記憶しておられる方もいるでしょうか。

金魚鉢のようなユニークなキャノピーはオールラウンドビジョンが可能で、
スキッドの形は、荒れた地形に着陸することができ、
2つのエクステンション・ポッドが装備されているため、
重症者を搬送するのに活用されました。

ニクソンか?と思ってしまったこの悪役っぽいおじさん、
わたしが今回初めてその名を知った

チャールズ・カマン(1919ー2011)

は、26歳の時に発明したサーボフラップ制御式ローターを提げ、
友人二人と三人で立ち上げた会社、

カマン・エアクラフト・カンパニー

で1947年に初めてのヘリK−125を開発します。

海軍のために開発されたH43ハスキー。

カマンはその後艦載用対潜ヘリコプター、
Hー2シースプライトを産みました。

スタンリー・ヒラー・ジュニアについては、
サンフランシスコ空港近くの「ヒラー航空博物館」を見学した後、
一項を費やしてその作品群について語ってみました。

早熟の天才 スタンリー・ヒラー・Jr.

この項でも触れているように、ヒラーの発明歴は10歳前に始まっており、
12歳に動力付きミニチュアカーを売る会社の社長になりました。

最初にヘリコプターの発明をしたのは15歳のとき。

1944年には

XH-44 "Hiller-copter"(ヒラコプター)

を開発することに成功。
ヒラー・エアクラフト社は朝鮮戦争で規模を拡大し、
軍からの発注を受けるようになりますが、その中でも

 Hiller OHー23(レイブン)

はヒラー社でもっとも有名な機種となりました。
また、彼は「フライング・プラットホーム」という垂直一人用のヘリを発明。

「早熟の天才」のページでも説明した「ホーネット」というヘリは、
ティルトウィングで史上初の高速垂直離着陸を可能にした画期的なものでした。

ヒラー自身がこれに乗っている動画が見つかりました。
驚いてしまったのは、後付けしたローターの先が回る時にボーボー燃えてること。

Hiller YH-32 Hornet Helicopter (1951)

ヒラー氏、サングラスをかけて瀟洒なスーツのまま優雅にこれに乗り、
空中でサングラスを外してこちらにカメラ目線で声をかけております。

彼の案外なナルシーぶりが楽しめるお得な映像となっておりますので、
みなさまこれだけはぜひご覧ください(笑)

最後に。

ヒラーは自分がちびっこ社長だった頃、主力商品(ミニカー)の素材だった
金属を使ってままごとセットやハンガーも売っていますが、

チャールズ・カマンは自分がギタリストだったこともあり、
ヘリコプターで財をなしてからは、趣味の音楽事業の会社も作ってしまいました。
「オベーション」ブランドのギターは、今でもギタリストに評価を受けています。

続く。

 

 

 

 


コンコルド・シンドローム〜イントレピッド航空宇宙博物館

2016-06-26 | 航空機

1年前の見学の話が終わらないうちに
またアメリカに来ていて、しかもニューヨークの近くにいるわけですが、 
今回
博物館である「イントレピッド」の繋留してあるピアに駐機してある
コンコルドの話をすれば、「イントレピッド航空宇宙博物館」の話は終わりです。


「イントレピッド」のある86番桟橋をグーグルマップで上空から見ると、
大変目立つ三角形のコンコルドの姿が確認できます。

わたしたちは広大な「イントレピッド」の艦内をとりあえず甲板の航空機から初めて
艦橋と艦内展示(カミカゼショー含む)まで一気に見学しました。



貼り忘れた写真その1、バブルキャノピーの陸軍ヘリ。
この近辺の展示は艦内の「バンク」、乗組員のベッドや機関銃など、
触って乗れる体験型となっています。
子供達は大喜び。



貼り忘れた写真その2、このカプセルの中にコクピットのように収まったら、
Gを思う存分味わえる「Gショック体験」。
何が悲しくてこんなものに入って意味なく振り回されなくてはいけないのか。
ということで、わたしどもは体験を辞退しました。

さて、このあたりで大変お腹がすいてきました。
艦内にはレストランもあるということだったので、そこに行ってみたら、
元「イントレピッド」のgalleyを利用したレストランは営業を中止しており、
仕方なく外にでてきました。



そこには二台のホットドッグ売りの車が店を出しており、
長居する見学者はここしか食べるものがないので、皆並んでいます。
まあ、アメリカ人にとってはそう悪くないレベルの食べ物かもしれません。

わたしどもも、この際、衛生、味、栄養、コストパフォーマンス、添加物の危険、
そういったことをひとときだけ忘れ去ることにしました。
窓口で一応チーズをどうするかとか、ベジタリアン用のソーセージにするかとか、
(アメリカでは、ほとんどのハンバーガー屋で必ずソーセージやハンバーガーのパテそっくりの
得体の知れない代替肉があり、どうしても肉が食べられない人に配慮している)
そういう注文を受けて、チョイスすることはできます。
さて、これをどこで食べるか、なんですが・・・。

 

「みんなコンコルドの下に行ってるね」

「なんと、コンコルドを屋根に利用して休憩所を作ったんだ」

ニューヨークの夏は普通に暑いですが、日陰に入れば蒸し暑いことはないので、
皆ここで気持ちよさそうに休憩しています。
行ってみると、巨大なコンコルドの翼の下は、その形が幸いして
ちょうどいい日陰を作っており、しかも高さも十分。
日本の感覚では違和感がありますが、合理的なアメリカならではのアイデアです。



テーブルの向こうには、アフリカ系の親子がわたしたちと
同じところで買ったホットドッグを食べていました。
味は・・・・まあ多くは申しません。

地面に機内へ続いている電気コードが這っていますが、コンコルド機内は
現在も公開されていてツァーで中を見ることができるので、
パネル操作や空調その他、まだ電気を必要とするのでしょう。



わたしたちも一度はコンコルドに乗ろうと料金を聞いたという縁もあることだし、
(ボストンからパリまで一人100万円と言われて即座に引き下がった)
ぜひ一度は中を見てみたいものだと思ったのですが、時間が合わず涙を飲みました。

ツァーにはさらに別料金が必要で、45分間の間みっちりと、おそらくは
コンコルドの憧れの客席に座って話を聞いたり映画を見たりするのでしょう。
もし今年もnyに行くことがあればぜひ中を見てみたいものです。



コンコルドをこんな間近すぎるくらい間近で見られる(というか下でものを食べられる)
というのも、ここでしか味わえない贅沢な経験かと思われます。
アメリカ国内にコンコルドの機体は3機展示されているのですが、1機はスミソニアンに、
もう1機はシアトルのボーイング博物館で、いずれも室内展示。
もちろんこのような
よく言えばおおらか、悪く言えばぞんざいな扱いはしていません。

ちなみに、20機作られたコンコルドは、事故で失われた1機と解体処分になった
1機の合計2機をのぞいてすべて現存していますが、フランスに6機、英に6機、
ドイツ1機、なぜかバルバドス1機、スコットランド1機という内訳です。

ご存知の通りコンコルドは、ブリティッシュ・エアウェイズとエール・フランスの
共同運行による史上唯一の超音速旅客機で、大西洋を2時間で結ぶという
「特権階級の」乗り物でした。

客席は全部で100席、そのどれもが「ファーストクラス」で、
お値段的にも他社のファーストクラスの2割増しの料金というもの。

航行するのは6万フィートの上空。(通常の旅客機は3.3万フィート、1万m)
速度は毎時1350マイル(2150km、通常の旅客機は800km少々)規格外の旅客機です。

コンコルドは未来の飛行機の先駆けをうたって華々しく登場しましたが、
ソニックブームが環境問題を引き起こすということや、長い滑走を要すこと、
燃料の問題で思ったほど(というか全く)他国に売れなかったことで、
客単価がいつまでたっても安くならず、経営に苦しんでいたところに
フランスでの墜落事故が起こったため、即時飛行停止から退役を余儀なくされました。

わたしもあの事故が起こったとき、やはり先駆というのは技術が完成していないが故に
こういう犠牲を避けられない宿命なのだなと思ったものですが、
現在、事故の原因は機体の不調でも整備ミスでもなく、離陸時に滑走路に落ちていた
コンチネンタル航空の飛行機から脱落した部品をタイヤが踏んでバーストし、
タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出た燃料に引火、
そのまま炎上したという完璧な「もらい事故」だったということになっています。

しかし前述の理由で集客に苦労していたところに、同時多発テロが追い打ちとなり、
コンコルドの歴史はわずか27年で幕を閉じたのでした。



飛行機後尾に見える「G-BOAD」のマークは機体登録番号で、この機体は 
シリアルナンバー102、初飛行は1976年の8月であったとなっています。
記録によると、一時シンガポール航空と共同運行されていたので、機体の色は
一時塗り替えられていたということです。


まだコンコルドが飛んでいた頃、わたしはアメリカ=ロンドン間で
ブリティッシュエアに乗りましたが、そのとき機内で、
7センチくらいのダイキャスト製のコンコルドの模型を記念に買いました。
コンコルドの形態を忠実に模して、先端が前も後ろも針のように尖っていたので、
当時幼児だった息子の手の届かないところにいつも置いていたのを、
この写真を見て思い出しました(笑)



搭載していたエンジンは、

ロールスロイス・スネクマ・オリンパス 593 

オリンパスは軸流圧縮式ターボジェットエンジンです。
昔このブログでイギリスの「アブロ・バルカン」について話したことがありますが、
もともとオリンパスエンジンはこのバルカンのために開発されたものです。

バルカンが開発中止になったので、RR社はコンコルドのために切り替えました。
オリンパスは自衛隊とも縁があって、古くは「ゆうばり」型護衛艦、「いしかり」、

「初雪型汎用護衛艦、「はたかぜ」型が、船舶用のオリンパスエンジンを搭載しています。 

ちなみにスネクマというのはフランスの航空エンジン会社で

Société Nationale d'Étude et de Construction de Moteurs d'Aviation 

「航空機用発動機研究製造国営会社」の略。

決して「拗ねクマ」ではありません。 



コンコルドの翼の下から見る「イントレピッド」後部。
いろいろと増築しているのでもはや空母には全く見えません。



ここに昔は海軍旗が毎朝毎夕掲揚されていたのだと思われます。
今は海軍艦ではありませんので、ここにはアメリカ国旗が翻ります。



コンコルドの日陰に座って、日がなハドソンリバーを眺めるのも
粋なニューヨークの過ごし方のような気がします。
同じような色調のアパートが立ち並んでいるので、地域的には
それほどアッパーでない層が住んでいるのかと思われます。
特に奥の二つのアパートは、いかにも中間層の住宅っぽい。



川面を眺めていると、いろんな船が通ります。
これはわたしには全くわかりませんが、機械などを運んでいる船?



ところで、ここからハドソン川の下流に向かったところに、
例の「松明を持ったレディ」のいるところがあり、そして、あの
同時多発テロの悲劇が起こったワールドトレードセンターのある地域があります。

あの事件が起こった時、「イントレピッド」は博物館を閉館して、
代わりに長らくFBIの指揮所が置かれていました。
館内は「お泊まりツァー」のために宿泊施設がありましたから、おそらく
職員はずっと艦内で寝泊まりしていたのかもしれません。
その関係なのかどうかはわかりませんが、ここにはこんな碑があります。



なんの加工もされていない、錆びるがままに任せた、鉄の巨大な板。
それはかつてのワールドトレードセンターの二つのビルを思わせます。
これは、ワールドトレードセンタービルを形作っていた鉄鋼のフラグメントです。

なぜ事件後FBIがここに引っ越してきたかというと、そのFBIオフィスが

ワールドトレードセンターの近くにあって潰れた

からだそうです。(ここの説明によれば。)
実際はFBIのあったワールドトレードセンター7は、航空機が突入したわけでもないのに
しかもツインタワーと道を隔てて離れているのに、事件から6時間も後に崩壊しています。

わたしは「グラウンドゼロ」と言われていた頃の現場を見に行ったことがありますが、
他のビルが全く無事なのにWTC7だけがまるで解体爆破のように倒壊した理由は
現場の位置関係からいっても不思議な現象だなあと思いました。 

事件後、アメリカでは、報道の現場の人間が7号棟崩壊に触れたくても、
会社のトップの許可がないといけないので、実質腫れ物扱いになっているそうです。
なぜかな〜?


という挑発的な話をしだすと、またコメント欄が荒れるのでこの辺にして(笑)



ともあれ、このせいで、当時の「イントレピッド」では500名ものFBI職員が

連日ここでお仕事をするという異様な状態になりました。
いきなり倒壊したオフィスには当時誰もいなかったので全員無事だったってことですか。

そりゃめでたい。
さらなるテロに備えて皆どこかに避難でもしてたんですかね。

このモニュメントは、いわばFBIから博物館への「お志
」とでもいいましょうか。
その節はお世話になりました、というほんの気持ちが含まれているそうです。





「イントレピッド」博物館は、ブロードウェイや5thアベニューに車だとすぐ
(混んでいなければですが)いけるような大都会に、このような軍事博物館が、
しかも連日盛況のうちにオープンしているという意味で世界でも特異な存在と言えましょう。



イントレピッド甲板から隣のビルにヘリコプターが降りていくのを目撃。
これもニューヨークならではの眺めです。

ところで本日タイトルの「コンコルド・シンドローム」の意味ですが、
すでに失敗したものとみなすべき事案について、過去の投資を惜しんで
無益な埋没費用を費やし続ける現象を指す心理学・経済学用語で、
コンコルドの商業的失敗に由来しています。

人間は精度の高い未来予想をすることができず、経験からその投資が
無駄かそうでないか、
判断するわけですが、
なまじその投資が大きくなればなるほど、無駄であることを
認められなくなり、

「今までの投資が足りなかったのでは」「もう少し投資すればなんとか」


という心の声に従って引き返せない深みにはまってしまうということ。

事件からまだ20年にもならないのに、
すでに未来永劫この症候群に名を残すことが決定とは。

コンコルドという飛行機は、栄光と名声の地位から
真っ逆さまに墜落してしまったんですね。


そのきっかけが滑走路の異物だとしたら、
それはあまりにも大きな”躓き”だったという気がします。





イントレピッド博物館シリーズ 終わり
 



 


”CAT SHOT” 空母「イントレピッド」

2016-03-16 | 航空機

「イントレピッド」のハンガーデッキに入って一番先に目につくのがこの模型です。

プリーズドゥーノットタッチ、と言われなくても手が届きません。
あ、触っちゃいけないのはこの周りのフェンスのことかな。


空母を博物館にしている西海岸の「ホーネット」は、
オリジナルのラッタルを使い、館内に入場する仕組みになっていますが、

ここニューヨークの「イントレピッド」博物館は、空母の外側、
少し離れたところに階段だけの塔を併設し、その渡り廊下を進むと
そこが甲板、という作りになっています。

イントレピッドの見学についてお話しした時に、艦載機というか、
甲板の展示飛行機から解説を始めたのはそのためで、すべての見学者は
甲板からツァーを開始するということになっているのです。

それを見終わった後、選択肢は三つ。

1、艦橋
2、艦内
3、特別に作られたスペースシャトルのコーナー

この順路はどのように行ってもいいですが、あまりに広大な博物館は
見るところが多すぎて、見学には丸一日かかってしまいます。
わたしたちは先日お伝えしたように艦橋を見学し、ついで
甲板に一旦出てからこんどは甲板の下のハンガーデッキに行きました。


ここではこの空母「イントレピッド」そのものの紹介をするコーナーがあります。


「イントレピッド」が最初にハドソンリバーに博物館として展示されたのは1986年ですが、
2006年、ここ86番桟橋、ピア86が老朽化のため改装する際一度移動しています。
もう自走できなくなっているため、6隻のタグボートで曳航を試みたのですが、
長い間に蓄積した泥にスクリューを取られて動かすことができませんでした。



そこで周りを浚渫(しゅんせつ)し、艦体はドライドックに移されました。
ピア86の改修が完成した後、ここに戻されたのですが、問題となったスクリューは
取り外してしまって、館内に展示されています。








大口寄付のスポンサ企業も、ちゃんと目立つところに名前があります。
「ミューチュアル・オブ・アメリカ」はアメリカではよく聞く相互保険会社です。
メイシーズは古くからの老舗デパートで、ボストンの独立記念日の花火大会スポンサーなど、
目立つイベントにはよく名前を見受ける企業。

そして、上から二番目、あのリーマンブラザースの名前が・・・・。

リーマンショックが2008年、イントレピッド博物館改修が始まった頃には
まだサブプライムローンの焦げ付きも始まっておらず、ブイブイ言わせていた時代。
社員が避暑地にクルーザーなど持ち、毎週末はセレブパーティなどと言われていた頃です。


しかし、世間で言われていましたが、リーマンショックの直接の原因って、
韓国政府筋の銀行が株取得をいきなり取りやめたことだったのですね。
日本では報道されなかったので「韓国が原因」って、いったいなんなんだと思っていました。



イントレピッドの進水式で派手にシャンパンの瓶が割られる瞬間。
この写真を撮ったカメラマンすごい。

「イントレピッド」intrepidを辞書で引くと、「恐れを知らない」「勇敢な」
という文語であることがわかります。
この名前を持つアメリカの軍艦は全部で4隻。
もちろんここにある空母「イントレピッド」がその最後の名前を持つ船です。

一番最初に「イントレピッド」と名付けられられた船は、バーバリー(トリポリ)戦争の時、
1801年にリビアにある王朝とアメリカとの戦いに投入されたものです。

二番目は1874年スチームエンジンで、三番目は海軍の水兵の住居として使われていました。



さすが空母だけあって時鐘も大きい。
時鐘とは、以前「大和の時鐘」で説明したことがありますが、
船の上でも時間の経過がわかるように30分おきに鳴らされる鐘です。
鐘の一打を「・」で表すとすると、
 
0:30 ・  1:00 ・・ 1:30 ・・ ・ 2:00 ・・ ・・  2:30 ・・ ・・ ・ 3:00 ・・ ・・ ・・ 3:30 ・・ ・・ ・・ ・ 4:00 ・・ ・・ ・・ ・・ 


これがワンセットで、4:30にはまた一点鐘から始まるのです。

これもなかなか奥が深くて、一巡してくるとまた「・」から始まるのですが、

 16:30 ・ 17:00 ・・ 17:30 ・・ ・ 18:00 ・・ ・・ 18:30 ・ 19:00 ・・ 19:30 ・・ ・ 20:00 ・・ ・・ ・・ ・・

1830、1900、1930、この赤字の鐘の数がここだけ変則なのです。 

ちょうどこの頃が気の緩みなどで、船にとって事故が起こりやすいんだそうですね。
というわけで本来5点鐘のところ、1点鐘にすることで

「まだ当直任務は始まったばかり」

と気を引き締めるためだそうです。

アメリカ海軍でも同じようなことをしているのでしょうか。



ここにもあった特大模型。

こちらは1943年に就役してから、戦時中に運用されていた時の再現モデルです。

「イントレピッド」は大戦時、常時90から100位の航空機を艦載していました。
F6F「ヘルキャット」、SB2C「ヘルダイバー」、TBF「アベンジャー」などです。

昇降機は、当時3つあり、そのうち一つは船のデッキのエッジに、あと二つは
センターラインに当たるところに位置していました。



そのうちの一つが、この部分です。

艦体の色は当初ブルーグレーにペイントされていました。
また別項でお話ししますが、フィリピンで海軍の特別攻撃隊の突入を受け、
多大な被害に苦しめられてから、艦体をカモフラージュの「ダズル・グレー」に
塗り直したあとが、この模型のカラーです。

日本の特攻隊員の目にはあまり関係なかったと思いますが・・。



ステージに誰か立ってお話ししているのに、後ろで喋っている人がいるー(笑)

この模型の置いてあるあたりは「ハンガー1」というのですが、乗組員は

何か催し物がある時にはここに集合しました。
先日、このステージの使用例をいくつかご紹介しましたね。

奥のステージのように見えているのは、艦載機のエレベーターです。
そしてここに見えている飛行機は手前がF9F-8「クーガー」
奥のヘリがパイアセッキHUP/UH25「レトリバー」です。

写真は1958年に撮られたものだということですが、この頃まだ
人権を認められていなかった黒人兵が白人の中に混じっています。
海軍では世間一般ほど人種差別はなかったのでしょうか。



「航空機の着陸とはコントロールされたクラッシュ(墜落)である」

とそういえば昔飛行機の専門家という人に聞いたことがあるのですが、
実際に艦載機に着陸する時に、飛行機は2秒間の間に241kphから0に減速します。

それを可能にするのはアレスティングケーブルとテイルフック。
最初にこれに挑戦したパイロット、ユージン・エリーはこの事故で亡くなりましたが、
それらが改良されたあとも、着艦の事故は幾度となく起こりました。


着艦の際の事故を少しでも軽減するために、いろんなシステムが考えられました。
このオプティカル・ランディング・システムもその一つです。 

ホーネットのシステムは去年確か甲板上にあったと思うのですが、今年は見ませんでした。
甲板上にあるとそう大きく見えないのに、こうしてみると巨大です。 



日本海軍では採用されなかった着艦システム。管制うちわ。
正確にはなんていうのか知りません。
左下の書物には、このうちわマンの動作の意味が図解で示されています。



うちわマンのうちわ管制お仕事例。
ノリノリである。


「機動部隊」という映画についてお話ししたことがありますが、
ゲーリー・クーパーが演じた主人公の海軍軍人が、「ラングレー」という母艦に
必死の思いで着艦訓練していたのを覚えておられますでしょうか。
この「ラングレー」がCV-1、つまり海軍最初の航空母艦です。

この航空管制「うちわ」の横にはそんな説明が書かれているのですが、
興味深いのは、

航空母艦ができるまで、海の上の武器は船であったが、
艦隊戦の時代は終わりを告げ、艦載機による航空戦の時代がやってきたことを
「最初に真珠湾攻撃が証明した」

と書いてあることです。


それだけでは沽券にかかわるのか、ミッドウェイ海戦も付け足してはいますが。
そういえば映画「機動部隊」では、主人公のクーパーが大鑑巨砲主義の海軍上層部に、

「日本軍の攻撃は、これから艦隊戦は航空機の時代であることを教えた」 

みたいなことを言っていましたっけ。
もしかしたら真珠湾攻撃をやった山本五十六っていわゆるひとつのパイオニア?  

そういえば東京裁判でも、同じ海軍軍人として真珠湾攻撃を称賛すると言う葉を

永野修身にわざわざ伝えたアメリカ軍人もいたと言いますね。




キャットショット。猫撃ち?

昔ペルシャとエジプトが戦争になった時、ペルシャの軍隊が盾に猫をくくりつけて、
猫を神の使いとするエジプト兵が攻撃できなくするというものすごーく卑怯な
防御法を編み出し、実際にそれで勝ったという話もあった気がするけど関係ある?


キャプションには、

1954年、インテレピッドからカタパルトで離艦遷都する
ヴォート7FU3
「カットラス」の周りからはスティームが立ち上っている


と書かれてあるだけ。
これは「カタパルト( catapult )」のCATで猫は関係なかったのでした。

そういえば、先日見学した「ロナルド・レーガン」の管制士官が、なにかというと
「キャッツ」「キャッツ」と言っていましたが、こういう風になんでも
略して発音するのは、帝国海軍の伝統を引き継いだ海上自衛隊だけではなかったのね。 


続く。

 


キャッスル航空博物館~「ストラト」シリーズ「我敵B29」

2016-03-10 | 航空機

「成層圏の要塞」というタイトルで、ロッキードの「ストラトフォートレス」
という飛行機のあれこれについてお話ししたことがあります。
この「ストラト」は、「成層圏の」という意味があることをこの時に知ったのですが、
ロッキード社の手がけた飛行機にはこの「ストラト」をかぶせたシリーズが
いくつかあり、ここアトウォーターのキャッスル航空博物館にも展示されています。

 まずその一つがこの



C-97ストレトフレイター(Boeing C-97 Stratofreighter)

フレイターというのはズバリそのもので「貨物輸送機」ですから、
ストラトフレイターとは


「成層圏の貨物輸送機」
・・・・・


なんでも成層圏ってつければいいってもんじゃなかろう?とつい突っ込みたくなりますが、
ストラトフォートレスの名前の系譜を受け継いだという関係上仕方ありません。
しかし、シェイプはご覧のようにずんぐりとしてストラトフォートレスとは大違い。

・・・・・・といいたいところですが、実はこの機体、同じく
ボーイングが開発した
B-29戦略爆撃機と基本的に同じなのです。




ちなみにこちら、スーパーフォートレスWB-50D
てるといえば似てますよね。
このB-50がB-29の改良型で、爆撃機より胴体が拡大されていますが、
主翼はほぼB-29と同じとなっています。



おまけでスーパーフォートレス反対側から。



語名称ではB-50スーパーフォートレスですが、なぜか日本語記名では
B-50だけで、「スーパーフォートレス」の名称は使用されていないようです。

B-29と混同するので、こちらはそう呼ばないことに決めてるんでしょうか。

B-50スーパーフォートレスはストラトフレイターより少し後の
(ストラトフレイターは戦争末期に開発された)1947年に運用が始まりました。
なので、実戦に投入されたことは一度もありません。

そのせいなのでしょうか、ノーズペイントも半裸の女性などという
ある意味殺伐としたものでなく、「ニルスと不思議な旅」の挿絵のような(?)
メルヘンちっくな鳥さんが描かれ、そこには

「フライト・オブ・ザ・フェニックス」

という文字が・・・・・・。

・・・いやこれ、どうみてもガチョウなんですけど。


 


もういちどストラトフレイター。

この飛行機を不恰好なものにしているのは、輸送機型に改造されるにあたって、

上下方向におもいっきり拡大されたそのボディ。
恥も外聞もなく容量を大きくすることで輸送積載の拡大を図ったわけです。

これが貨物輸送機であることを示すためか、わざわざ前に
黄色いコンテナのようなものを置いています。



とってつけたような下腹部が、実際にとってつけた部分です。
機体にも記されているように、アメリカ空軍が運用していました。

これだけ思いっきり大きくしたので、2台のトラック、または軽戦車を運ぶこともできましたが、
それでなくても機体が大きくて鈍重なため(やっぱり)
前線には使用されたことがありません。

主に、後方で患者の輸送に使われていたようです。



ちなみにこれがストラトフレイターが飛んでいるところなのですが、

何かに似ているような・・・・・グッピー?



と思ったら、本当にあった(笑)プレグナント・グッピー

うーん。わたしはこの人生でこんな不細工な飛行機を見るのは初めてかもしれない。

かっこ悪い。ひたすらかっこ悪いこのシェイプ、このストラトフレイターを
さらに改造して作られた輸送機で、「おめでたのグッピー」のおなかには
アポロ計画のためのロケット部品を積み込むために、NASAが運用していました。

さらにさらに、怖いもの見せたさでもうひとつお見せしておくと、



いるよね。こんな生物。
グッピーというよりこれはイルカとかクジラの類い?

こちらもNASAの運用のために、プレグナントグッピーをさらに大型にした

スーパーグッピー

こんな短い翼で飛べるの?と思ってしまいますが、そもそもストラトフレイターの頃から
エンジンの強さには定評があるので無問題。
これがどれだけでかいかというと、こんなシェイプなのに全長が43、84m、
B-29より13m大きく全幅が47,625mでこれもB-29より4mも大きい。
飛来するB-29を見て、

「でかい・・・・薄気味悪いくらいでかい」

と言っていた紫電改のタカの久保一飛曹にぜひこの機体の感想を聞いてみたいものである。





B-47ストラトジェット

成層圏のジェット機。
Bー29の後継機として戦略航空集団が導入した戦略爆撃機。
同じストラトでもどうですか。このスマートさは。

と思ったら案の定、この機体の設計に関しては戦時中、ドイツの
後退翼機の情報を手に入れたことから、急遽予定変更して作られたものなんですね。

完成したのは1947年と戦後なのですが、戦闘中に盗んだ他国の情報を
堂々と戦争が終わってから製品化してしまうあたりが、
勝ったのをいいことにやりたい放題のアメリカさんらしいですね。

とにかくこの後退翼を搭載した最初のシェイプは、
それまでのものと比べると
革新的なものだったといえます。



どうよこの画期的なこと。
というか翼無駄に長すぎね?と思うんですけど。



こうして横から見ても、いかに翼の角度が後退しているかがわかります。

 

「成層圏の要塞」というエントリでも、B-52に核を積ませてウロウロさせていた、
という話をしたのですが、ちょうどその頃、冷戦初期のの運用であったため、
この機体も、大重量の核爆弾を搭載することを考慮して設計されました。 

のちに、米露の間で「危ないから核を使うのお互いやめような」という

「核戦争の危険を低減する方策に関する合意書」


を交わすことになるまで、配備が積極的に進められたため、
生産台数は2、032機と大変多くにのぼりました。

Bー29が朝鮮戦争でMiG-15を相手に苦戦したので、
この中途半端さにも関わらず大量投入される結果になったのですが、そのせいで、
1955年から65年にかけての4回にわたっていずれもMiGに撃墜撃破されています。


最後の一機だけが撃破されるも横田基地にかろうじて帰投することができたようです。



ノーズを真下から見たところ。
カメラ用らしい穴が見えていますね。



思いっきり地味な感じのこれは

KC-135ストラトタンカー。

またストラト。「成層圏の油槽機です。とほほ。
その名の通り空中空輸・輸送機。



飛行中。



お仕事中。餌をあげているのはF-16。
F-16に給油できるということはかなり速度も出せるってことですよね。

今ふと考えたのですが、空中給油という方法ができてから、少なくとも飛行機が
燃料切れで墜落するということがなくなったんですよね。
これはコロンブスの卵というか、誰が考えたのか知らないけど凄い。(小並感)



ストラトタンカーのスコードロンマーク。



ここキャッスル空軍基地に昔配備されていたらしく、町の名前「アトウォーター」と
町のシンボルである給水塔が(^◇^;)描かれています。
というか、給水塔がシンボルだなんて、どんだけ何もない街なんだよ。


ボーイング社は終戦時、大型爆撃機増産のために莫大な設備投資を行っていたので、
戦争が終わって喜びに沸くアメリカで今後の不安に怯えていました。

ボーイングに限らず武器会社は似たようなものだったと思うのですが、

とくにボ社は民間より軍に重きを置いてきたので終戦は切実な問題だったのです。

そこで従業員の3分の1を解雇するという業務縮小に加え、
戦争中から開発を進めていたストラトフレイターを元に、
会社を立て直すためにこれを旅客機にし立て直すことにしました。

ところが戦争中軍との商売に力を入れすぎたのが祟り、民間から発注が来ません。
頑張って営業努力を重ねた結果、発注が取れ、ストラトクルーザーと名付けられた
フレイターの改造版旅客機の開発がようやく始まります。


エンジンもB50に使われた4300馬力の強力なものを搭載し、
機体は従来の形を2段重ねして
(つまり中が二階建て)収容能力をアップ。
一階部分にはバーラウンジも設けるなど、飛行機が特別なものだった時代に、
ゴージャスな旅をお約束する旅客機になったのです。
(のちに講和条約に向かう吉田茂や白洲次郎ら全権団がお酒を飲んだところです)

ただ、途中でB-29から設計変更し、エンジンがパワーアップしているのにプロペラが
そのままだったことから、故障などが相次いで信頼性はイマイチだったそうです。



戦後開業した日本航空が、当初のリースを含めて、
ボ社の飛行機を一切使用しなかったのは
(最初のリースはダグラスDC-3)、
ボーイングが日本人の敵B-29を作った会社だったからという説があります。


しかし実際は、ボ社が戦後民間飛行機への転用をうまく行えなかったせいで、
遺恨以前に、単に同社を信頼できなかったというのが本当のところだそうです。


ボーイング社の方も、B-29を改造しただけのストラトクルーザーを

日本人が買ってくれるなんて全く期待していなかったでしょうけど。



 


チカソーとヒューイ・ファミリー~イントレピッド航空宇宙博物館

2015-09-22 | 航空機

空母「イントレピッド」航空宇宙博物館の展示機、回転翼と参ります。

Sikorsky (HRS-1) H-19 Chickasaw 1950

最初に「イントレピッド博物館」について書いた時に、このシルエットを
艦外から見て、

「あのおにぎりシルエットはシコルスキー”チョクトー”」

と断言してしまったのですが、とんだ大間違いでした。
「チョクトー」ではなくて「チカソー」だったんですね。

なんだチカソーって。


S-58の「チョクトー」がインディアンの部族名なので、当然ながら
このチカソーもそうであろうと思い調べてみたら、チョクトー族とは
大変似た言語形態を持っているけど全く別の部族であるということでした。

アメリカという国におけるネイティブインディアン出身の人たちが
どういう位置付けでどうみなされているのかということについて
わたしたちはあまり考えることもないわけですが、wikiなどを調べてみると
部族ごとに彼らはコミュニティなどを持っており、部族出身の有名人なども
わかるようになっています。

たいていの場合ネイティブアメリカンは侵略「された方」で、たとえば
このチカソー族なども、住んでいた領地を巡ってフランスからの入植者と
イギリスからの入植者が戦闘を繰り広げた、などという過去を持っています。


回転翼というのは第二次世界大戦中から研究は続けられていましたが、
実際に運用が本格的に始まったのは戦後です。

アメリカ軍は兵員の輸送を目的にヘリコプターの開発を進めていました。
シコルスキー社に対して出された要求はつぎのようなものです。

乗員2名・兵員10名あるいは担架8台を搭載して、
340kmの距離を飛行できる機体

この要求に応えてその前のS-51(定員2名)を発展させた形で作られたのが

このS-55シコルスキー「チカソー」でした。



「きかんしゃトーマス」のハロルド。
ハロルドの登場はいつからかはわかりませんが、「きかんしゃトーマス」は
1945年から原作が連載されていたというので、ヘリコプターのキャラクターを
登場させる時に「チカソー」がモデルになったというのは時期的に納得できます。

ところで今ハロルドの画像を検索していて、”きかんしゃトーマス”を
イケメン軍団にしてしまった萌えを発見してしまいました。
ハロルドさんは全身白のスーツに身を固め、ヘリだけに”上から目線”のお兄さんに・・orz

話が盛大にそれてしまいましたが、なにしろ子供に絶大な人気のある
アニメキャラのモデルになるくらいですから、チカソーというのは
ヘリコプターの中でもパイオニア的存在であったということでもあるのです。

何が偉大だったといって、ヘリコプターが輸送にどれだけ役に立つかということが
初めてこの機体で証明できたということでしょう。
飛行時間も、床の下に設置された巨大な燃料タンクのおかげで飛躍的に伸びました。


わたしが間違えた「チョクトー」は、「チカソー」の機体を大きくして、
エンジン出力も大きくしたというだけの違いなのです。
間違えてもこれは当たり前ですね!(大威張り)

「チカソー」が製造されたのが1,828機、「チョクトー」はさらに2,261機と、
いわばヘリコプターという航空機の成功を物語る数字です。
「チカソー」の100機以上が軍用され、海軍、海兵隊、沿岸警備隊仕様となりました。
商業用としては一時期ヨーロッパで使われていたこともあります。

ここにある機体は、海軍のレークハースト(ニュージャージー)にあった
ヘリコプター部隊「Two "HU-2"」、通称「フリート・エンジェルス」の仕様機です。

日本では海保が2機を所有したのを始め、三菱がノックダウン生産をして
民間仕様だけでなく全自衛隊が運用していました。

1959(昭和34)年の伊勢湾台風の際に、陸自のヘリが取り残された人々を救い出しました。
この時にヘリコプターの救助能力の高さが世界に知られることになったいう話もあります。






こちら、


Bell AH-1J Sea Cobra 1971

向こうは

Bell UH-1A Iroquois “Huey” 1959

コブラはコブラでも「シーコブラ」、スーパーコブラでもあります。
シーとついているからにはやはりこれは海兵隊仕様ですね。

チカソーやチョクトーが輸送という点で安定したころ、やはりというか軍関係者から、
ヘリコプターで攻撃もやればいいんでね?という話が出てきました。
(かどうかはわかりませんが状況判断でそうだろうと思います)

そこで「攻撃型ヘリ」というジャンルを、1960年初頭から陸軍が開発しようとしました。
しかし、なぜか空軍は「攻撃ヘリ」という概念に否定的でした。


こういうのの裏にも、「空を飛びなから攻撃をするのは固定翼でないと」、
つまりそれは空軍の仕事だ!みたいなセクショナリズムがあったのかもしれませんが、
それより何より、攻撃ヘリの開発に消極的になる理由というのはただひとつ。

ヘリコプター自体戦場からの離脱が固定翼より容易でなかったからです。

輸送ヘリにさらに銃器類を搭載して「ガンシップ」としたのですから、当然機体は重くなり、
逃げ足が遅くなったことで、ベトナム戦争での当初の損失率は大変高いものでした。



それでもなんとかベトナム戦争中に損害を受けにくい仕様の攻撃ヘリを投入したい、
ということで、陸軍は各ヘリコプター制作会社から候補を選出しますが、
結局その中からベル社の試作品が最終的に選ばれ、エンジンは強力だけど軽いその機体に

AH-1G ヒューイ・コブラ

と名付けられて最初の攻撃ヘリとなったのです。
エンジンはヒューイと同じもので、開発からわずか6ヶ月でベトナム戦争にデビューしました。

今回アメリカから帰る直前にテレビでメル・ギブソン主演の
「We Were The Solders」(日本題”ワンス・アンド・フォーエバー。なんで?)を観ました。
最初にアメリカ軍が北ベトナム軍との間に地上戦闘を行った一日を描いたものですが、

「これが君たちの”ニュー・ホース”(新しい馬)だ」

と、ヒューイが紹介されているシーンが最初のほうにありました。

ふと気づけば隣に置いてあるのも「ヒューイ」なわけですが、
このコブラも、

「ヒューイ・ファミリー」

と言われる一連のベル社のシリーズの一つなのです。
もちろんそれまでのヒューイ・ファミリーとは、タンデムコクピットになり
機体が薄くなったことで(攻撃がヒットする確率を減らすため)形態は一新しましたが。

ちなみに前にもお話ししましたが、「ヒューイ」は、最初に部隊に配備された型番の
「HU-1」の「1」を「I」と読んで、
 「HUI」→「ヒューイ」となったという経緯があります。



今でもヒューイと呼ばれる本家ヒューイ、イロコイ
アメリカではほとんどがブラックホークに置き換わっていっているそうですが、
自衛隊ではバリバリの現役で、総火演や訓練展示でもお馴染みです。

ヘリコプターで攻撃をすることにこだわった陸軍は当然ヒューイに
重武装を積ませてガンシップにしようとした時期があります。

ちょっと興味深いのが、ベトナム戦争のときに搭載していたドアガンの名前が

「サガミ・マウント」

といったらしいんですね。
サガミったら富士総合火力演習のあるのも相模だったりするわけですが、
この命名は、どうやらこのシステムが

相模総合補給廠

で研究開発されたためではないかということになっているようです。
ガンシップや対戦車ヘリにする試みは長らく続けられましたが、
だいたい先ほどの理由で、コブラにその役割は完全に移行しました。




日本の誇る偵察ヘリ、 OH-1は武器を搭載しないのだろうか?
という疑問が時々あるようですが(知恵袋とかで質問されているのを見たことあり)、
ヒューイを武装ヘリにするために
色々と苦労した経緯を見るに、一言で言うと

「機体が軽くて重い武器を積めないからダメ」

ということなんだろうと思います。
宙返りもできなくなってしまうしね。



甲板の回転翼、最後はこの

Sikorsky HH-52A Sea Guardian 1961

湾岸警備隊が運用しているだけあって、「シーガーディアン」(海の守護者)。
検索するとHh-52Aは「シーガーディアン」じゃなくてただの「シーガード」なんですが・・。
これ、どちらかが間違っているってことですかね?

このシーガード(どっちでもいいや)、このエントリ的にはたいへん美しく収められるので
たいへん嬉しいことに、「チョクトー」と「チカソー」を土台にして作られました。
この角度からはよくわかりませんが、機体の底が船のような形をしているので、着水もできます。

日本でも海自と空自で救難ヘリとして運用するために輸入し、三菱がノックダウン生産しました。
 



おまけ*

艦橋にさりげなーくありました。

「トンキン湾」ったら、ベトナム戦争が始まるきっかけになったあれですよね?
調べたらこのマーク、

海軍第7艦隊に1961年の作戦参加から75年の撤収まで使われたニックネーム

であることがわかりました。
「ホーネット」のアイランド・ツァーで案内してくれた元艦載機ドライバー、

「Sさん」ことウィル元中尉が日本に来たことがある、というのは
第7艦隊関係であったことからだったらしいですね。 


背景の黄色にすっかり薄くなっていますが赤線三本が引いてあるのは、

当時の南ベトナムの国旗と同じにしたからだそうです。

日本をやっつけろ!→サンダウナーズ→旭日旗使用、という例もありましたが、
こういうノリ、良くも悪くもいかにもアメリカ人だなあと思います。



続く。 






 


ハリアーとシュペル・エタンダールのフォークランド紛争~イントレピッド博物館

2015-09-07 | 航空機



イントレピッド航空宇宙博物館について順番にお話ししていますが、

今日は2機の飛行機についてです。


British Aerospace/McDonnell-Douglas AV-8C Harrier 1969

これは珍しや、迷彩塗装のハリアーです。
垂直、バーティカルに上がることができるという艦載機にとっては願ってもない
便利な機構を持ったこのイギリス製の航空機、インピッドによると

「ジャンプジェット」

とその機能を一言で説明しています。

最初のハリアーは1967年の12月には初飛行を行なっており、それから15年後には
ブリティッシュロイヤルネイビーが、フォークランド紛争にも投入しています。


海兵隊は1991年の「砂漠の嵐作戦」(湾岸戦争において、アメリカ始めとする
多国籍軍の航空機とミサイルによるイラク領南部とクウェートへの空爆作戦)
において、アメリカ軍としては初めて、ハリアーを実戦投入しました。

ここにあるハリアーはアメリカ海兵隊が注文したオリジナルで、
マクドネルダグラス社によってよりパワフルなエンジンに換装し、
アップデートされて「リ・デザイン」されたAV-8Cモデル。

国立海兵隊博物館(っていうのがあるんですね)から貸与されています。


ハリアーはそのユニークな能力ゆえ、数々の「blockbuster」に登場しています。
007、ジェームスボンドの「リヴィング・デイライツ」(1987)では
西から東に要人を脱出(?)させるため使われ、またシュワルツネッガー主演の
「トゥルー・ライズ」(1994)では、戦闘機の着陸シーンのために、
海兵隊から借りたハリアーIIを使って撮影が行われています。


ちなみに「blockbuster」という言葉ですが、これそのものは大型高性能爆弾のことで、
転じて映画で大ヒットした作品のことをいいます。
昔はアメリカには街のあちこちに「blockbusters」というレンタルビデオ屋があり、
わたしも会員だったものですが、今アメリカは本屋ですらなくなってますからね。
って関係なかったですか。
 
ところでこのハリアーは、砂漠の盾作戦の際、わずか31歳で殉職した

Captain Manuel Rivera Jr.

をでディケートしているという説明がありました。

 

名前からもわかるようにプエルト・リコ系アメリカ人であるリベラ大尉は、
移民の両親の元、ニューヨークのサウスブロンクスで生を受けました。
学業優秀で、大尉に昇進したときにもNASAの宇宙飛行士として候補に挙がるほどでしたが、
彼はそれを断り、砂漠の盾作戦に参加する部隊に行くことを選んでいます。


1991年、ペルシャ湾オマーンでの訓練飛行において、リベラ大尉は、
乗っていたハリアーが強襲揚陸艦「ナッソー」にクラッシュして死亡しました。

キャノピーの結露のせいで、水平線を見失ったのが原因ではなかったかと言われています。

ハリアーの初期型は特に操作が難しかったということですが、
リベラ大尉の事故原因なども、これに続くハリアーIIの安全対策に生かされ、
同じ事故を起こさないための教訓が生まれたに違いありません。


死後、リベラ大尉はパープルハート勲章を始め数々のメダルを叙勲され、
出身のサウスブロンクスの学校にはその名前が冠されています。





外国機つながりでこれ。
みなさん、この飛行機ご存知でした?
わたしも結構いろいろとアメリカの航空博物館を見てきましたが、
フランスの戦闘機をアメリカで見たのは初めてのことです。

Dassault Étendard IVM 1962

ダッソーのエタンダール。
エタンダールとはフランス語で「軍旗」を意味します。

フランス海軍が艦載のための軽戦闘機を要求し、98台が生産されて
1962年から2000年まで運用されていました。
フランス海軍にとってこれが最初の国産艦載機となりました。



レバノン内戦(1983~4年)では地対空ミサイルに被弾して被害を受け、
ユーゴスラビア紛争(1993年)、コソボ紛争(1999年)にも投入されています。

このシェイプから容易に想像されるのですが、エタンダールは低空での高速飛行が得意でした。
1978年以降には「シュペル(スーパー)エタンダール」が開発され、
イラクーイラン戦争、(1980-88年)、
そしてフォークランド紛争(1982年)にも参加しました。



マリーンと書いてあるので海兵隊かと思ったら、これはなんのことはない、
フランス語で「海軍」、つまりフランス海軍のサインなんですね。

このエタンダールは当博物館が、フランス退役軍人会を通じて
フランス政府から直接貸与されているものだそうです。



ところで、ハリアーとエタンダールが並べて展示してあるのには、
キーワード「フォークランド紛争」つながりではないかとわたしは思いました。


どちらの機体もフォークランド紛争に投入されており、

もしかしたらここに展示されている二機は、一緒に飛んだことがあったかもしれませんし、
さらにはNATO(North Atlantid Treaty Organization)か、あるいは
同盟国の関与した任務において、同じ任務を果たしていた可能性もあります。

しかしそれだけではなく、この両機の派生形が、フォークランド戦争において、
実質互いに敵味方になっていたと聞いたら、皆さんは少し驚かれるでしょうか。




ここでフォークランド紛争について簡単に説明しておきましょう。

アルゼンチンは、自国で「マルビナス諸島」と呼ぶフォークランドの島を巡り、
長年イギリスと領有権を主張し合っていました。

この均衡が破れたのは、1982年にアルゼンチンが国境の南端を超えて
サウス・ジョージア島に軍隊を侵攻させ、民間人を上陸させた時です。
(アルゼンチン政府の内政の不満そらしのためだったという説濃厚)

アルゼンチンはすぐさま実効支配に入ったのですが、イギリスはこれに対し、
自国の領土を守るため軍事力を発動することを選択し、戦争が始まりました。

イギリス海軍のハリアー部隊は、派兵が決まったとき、まずフランス軍に支援を依頼しました。
敵であるアルゼンチン軍はフランス製のシュペル・エタンダールを運用していたので、
製造元でありその長所短所を知り尽くしているフランス空軍に、
エタンダール必勝法のためのトレーニングをしてもらったのです。



ルゼンチン軍のシュペル・エタンダールは、その当時アルゼンチンが
フランスのダッソー社から購入したばかりで、ついでにこれもフランス製の
エグゾセ(Exocet)ミサイルAM39(MBDA社)を5発搭載していました。

このシュペル・エタンダール2機が放ったエグゾセ・ミサイルのうち1発が

イギリス海軍の駆逐艦「シェフィールド」HMS Sheffield,D80に当たり、
「シェフィールド」はその後沈没しています。


そして一連の戦闘において、イギリス軍のハリアー(シーハリアー)は
爆撃中に対空砲火によって、ハリアーとしては初めての戦没となり、
さらにはその翌日、悪天候の中、シーハリアー同士がおそらく空中衝突で
一気に2機が失われることとなりました。

フォークランド紛争は、第二次世界大戦後に起こった初めての西側諸国同士の
戦闘であったため、このハリアーとエタンダールのようなことがいくつかこりました。

アルゼンチンは当のイギリスから兵器を一部輸入していましたし、
エタンダールの例のように、両軍ともアメリカ、フランス、ベルギー
などの兵器体系を
多数使用しており、同一の兵器を使用した軍同士の戦闘になったからです。

つまりそれだけ相手の兵器について知悉しながら戦っていたため、
少なくともハード面において、両軍は「同じ条件」で戦ったことになります。
しかし、ご存知のように、結果はイギリス側の圧勝でした。


なぜだったと思われますか?

はい、これはいわば集団的自衛権の勝利”だったんですね。
英陸軍特殊部隊の経験が豊富だったことや、長距離爆撃機の運用が成功したことが、
イギリスの勝利に大きく寄与したというのはもちろんですが、
なんといっても、最大の勝因は、

同盟国アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受け、情報戦
を有利に進めたから

だったのです。
衝突が起きた時、南米諸国は、相互に領土問題を持つチリを除き、
一応口ではアルゼンチン支持を表明しましたが、
実際に軍隊を派遣した国は一つもありませんでした。

「メスティソ」、つまり”白人の国”として自らを「南米のヨーロッパ」と称し、
内心、他の南米諸国を蔑視する傾向のあったアルゼンチンは、
こんなところで
人望のなさ(つまり嫌われてた?)が露呈してしまったということだったのかもしれません。


しかし、比較的親アルゼンチンであるペルーからは、この戦争を
「帝国主義との戦い」と位置付けた
義勇軍も参加しましたし、ペルー政府からも、

ミラージュIII(フランス製ですね)

が10機、有償にて調達されました。(結局間に合いませんでしたが)
アルゼンチンは、こういう事態になって、自分が南米諸国の一員であることを
改めて自覚せざるを得なかったのではないかとも言われています。


何かと「日本が孤立する!」と叫ぶみなさんは、本当の孤立というのは
フォークランド戦争におけるアルゼンチンのことをいうのだと認識していただきたい。

たとえ中国と韓国と北朝鮮から孤立しても、中国と韓国と北朝鮮との間にしか
領土と拉致の問題を持たない我が国としては、何の問題もないということもねっ!




さて、戦争は終了し、イギリスとアルゼンチンには国交が再開しましたが、
じつはフォークランド諸島における領有権問題はいまだに


未解決のままなのです。

驚きましたか?今わたしも驚きました(笑)
つまり、アルゼンチンは今もフォークランド諸島の領有権を主張しているんですねー。

映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙」(だったっけ)で、
サッチャー首相が、戦死した一人一人の家族に宛てて、自筆で
お悔やみの言葉を書き綴るシーンがありましたが、英国首相として

「イギリスは決して決して決して奴隷にはなるまじ」

という「ルール・ブリタニア」の歌詞通り、自国の領土を侵されたときには
いかなる状況であろうとこれを取り返す、という国是のもとに派兵を決意し、
大勢の若者たち(戦死者256名)の命を実際に犠牲にもしたというのに、
結局領土を完全に取り戻すことはできなかった、ということになるのです。

これは虚しい。虚しすぎる。
今現在の英国民のフォークランド派兵に対する評価を知りたいものです。



さて、ハリアーとエタンダールの話題ですので、最後にフォークランド戦争が

各国の兵器に与えた影響についてひとことだけ付け加えておきましょう。

この戦争の後、実戦を経験していなかったほとんどの兵器が
実際に使用されることによって、
評価すべきは評価され、欠点の見つかったものは
欠点を改善すべく軌道修正されることになり、
結果的に、世界の軍事技術は飛躍的発展を遂げることになったと言われています。


実際の戦争が、人類の科学技術そのものを発展させる原動力であるという説は、

フォークランド紛争においても、正しいと証明されることになったのでした。



続く。

 


MiGと「タイガー・ミート」~イントレピッド航空宇宙博物館

2015-08-14 | 航空機

ニューヨークはハドソン川に面したピア86に繋留された空母「イントレピッド」。
今は航空宇宙博物館として連日多くの観光客が訪れる名所となっています。

同じ空母博物館でも、サンフランシスコはアラメダの「ホーネット」とは、
その注目度も、動員数も桁違いに多そうですが、それというのもこのピア88は
マンハッタンの中心街からほど近い場所にあり、ハドソンリバークルーズが出港する
観光船の発着所にほど近いという地の利があるからです。

だからこそ大変な数の航空機と、展示をつねに作り変えるだけの資金が賄え、
「ウォー・バード」だけでなくコンコルドやスペースシャトルまで展示することもできたのでしょう。


というわけで、展示機も「ホーネット」とは違って、貴重なMiGなどもあったりするのです。
冒頭写真は、

Mikoyan Gurevich MiG-21 PFM (NATO code name Fishbed F)1959



MiGの”i"だけがなぜ小文字なのか、つい最近まで知らなかったわたしですが、
「ミコヤン・グレーヴィチ」はソ連の公開会社で、ミコヤンさんとグレーヴィチさん
1939年に作ったためこの名称となったものということで納得しました。

バラライカという楽器(三角形)に翼の形が似ているため、
彼らはこれを本当に「バラライカ」というあだ名で呼んでいました。
(バラライカ型の飛行機って、たくさんあると思うんですが)
NATOのコードネームはフィッシュベッド(Fishbed、魚類の化石多い堆積層の意)。


MiGと名付けられた「MiG1」が歴史上初めて登場したのは1940年です。

戦闘機としてのMiGはMiG35までがあり、初飛行は2007年ですが、
ソ連はその間崩壊などによる財政難もあって、何度も開発が途切れています。

この21が制作されたのは1955年で初運用が1959年のことですが、

初生産から15年位樹経って一つの完成形を見たのか、このタイプは多くの派生形を生み、
なんと社会主義国を始め60カ国以上の空軍で採用されました。

なんとアメリカ空軍でも採用されて空戦訓練などに使われていたそうです。
ここにある21型は、ポーランド空軍で運用されていもので、MiG-21PFM型
ワルシャワ防衛のための迎撃機という役割を担っていたそうです。

ところでどうしてわざわざ視認性の高い虎の絵が描かれているのでしょうか。


皆さんはNATOタイガーアソシエーションという言葉を聞いたことがありますか?
これは、一言で言うとNATO参加国の空軍同士の連携を強めるために、
フランスの防衛大臣が提唱して1961年に結成され、2015年現在に至るまで
存続している非公式な組織です。

参加部隊はヨーロッパのすべての国からと、名誉メンバーとしてアメリカ、
カナダ、インド、スロバキアからの空軍から選出され、彼らは年一回、

TIGER MEET

と称する合同演習を持ち回りの主催によって行っています。
今調べたところ、ポーランドはこの主催になったことも開催国になったこともないのですが、
このタイガー・ペイントは、タイガー・ミートで飛行させるためだけに施されたそうです。

タイガー・ミートのページを見ると、2015年度のタイガーミートは、
5月に初めてトルコのコンヤ基地で開催され、無事終了したということでした。

この飛行機はイントレピッドにポーランド国民から、という名義で寄贈されています。




Mikoyan Gurevich MiG-17 (NATO code name Fresco) 1952

先ほどのトラ柄の隣に仲良く並んでいるこちらのMiGは17型。
トラと反対に、思いっきり視認性を低くすることを意識したペイントです。
先ほどの21から先っちょの三角をとったら21になるという感じのノーズですが、
ノーズがインテイクというこの形(Fー8クルセイダーみたいな)の嚆矢となったのは
もしかしたらMiG-17だったのでしょうか。



ソ連のMiGとアメリカのファイターはお互いに相手に勝つために
開発競争が行われ、その結果機能が向上していったという歴史があります。


この先代であるMiG-15の出現は、アメリカをはじめとする国連軍に衝撃を与え、
第二次世界大戦では無敵だったあのB-29がMiGー15の前に多数撃墜されて、
制空権も一時は揺らいだというくらいでした。

これに対してアメリカ軍が投入したのがF-86セイバーです。

それからというものMiG-15とセイバーはシーソーゲームのように制空権の取り合いを演じ、
実際に制空権の行方は頻繁に南北を移動するほど、激しい戦いとなりました。

セイバーだけで見ればMiG15のキルレシオ(撃墜比率)は4:1というのがアメリカ側の数字ですが、
このセイバー以外の航空機、例えばB-29などは勘定に入れていないので、
アメリカ側のMiG-15による全体の被害は、結構甚大なものであったということになります。


ちょっと面白かったので少し余談を。

MiG-15のためにF-86が投入されたにもかかわらず、実際に会敵する機会が少なかったので、

この両者が朝鮮戦争でガチンコ交戦した回数はそんなに多くないそうです。

しかも、MiG-15が上昇力と高高度での運動性に優れていたのに対し、
F-86は急降下能力と低高度に優れていたため、両者が交戦に入ると、常に
MiG-15は上昇しF-86は急降下して(自分の得意な駆動で空戦に持ち込もうとするので)
戦闘が成り立たなかったこともその理由の一つでした。

「敵機発見!」「空戦用意!」


きゅいいいい====ん(セイバー)

くおおおお~~~ん(MiG)

「・・・あれ、あいつどこいった?」

「上昇していったらやられるからここにいよう」

「降下したらやられるからここで待つか」

「・・・・・・」「・・・・・・」

「じゃ交戦不成立ってことで!」「帰投!」


みたいなことが度々あったってことなんですね。微笑ましい。


それはともかく、小型・軽量の単純な機体に大出力エンジンを搭載する、
という画期的なコンセプトで衝撃のデビューをしたものの、
これといった戦果をあげていないのがMiG-15でした。

MiG-17はその不備を補う形で開発され、朝鮮戦争に投入されたのはほとんどこちらで、
MiG-15には

「ガガーリン(宇宙飛行士)が事故死した飛行機」

という忌まわしい名称だけが残されているといった状態です。
ガガーリンの事故死も実際の原因は明らかになっていないのだそうですが、
(最新説ではあるソ連の英雄が無断離陸したスホーイとニアミスしたというもの)
MiGー15の機能そのものはそんなに欠陥があったというわけではなく、
つまりパイロットの練度にことごとく問題があったのではないかとされます。

先日お話しした「欠陥機」クーガーで、MiGを何機も撃墜した米空軍パイロットは
機体の不備を根性で跳ね返すだけの技量を持っていたというのと反対で、
その時の軍のマンパワーというのは、時として機体の性能の評価さえ変えてしまう、
ということではないかと思いました。

ところでMiG-17ですが、多数生産され、30以上の空軍で採用されたというモデルです、
ベトナム戦争ではその駆動性と攻撃力は多くのアメリカの戦闘機を上回り、
北ベトナム軍からはMiGー17パイロットに4人のエースが生まれました。

NATOはMiG-17に「フレスコ」というコードネームをつけましたが、北ベトナム軍は
塗装していないシルバーのMiG-17を「銀ツバメ」(シルバースワロウ)と呼び、
カモフラージュ塗装されたものを「スネークス」と呼んでいました。

ここにある機体は2007年にイントレピッド博物館が手に入れたもので(経緯は不明)
北ベトナム空軍のカモフラージュ塗装を施された「スネークス」です。

最後に外国機つながりでもう一つ。

 Aermacchi MB-339 1979


デザイン的になにか家電ぽい軽さとえもしれぬ洗練を感じさせると思ったら、
やっぱりイタリア製の飛行機でした。

イタリア国旗の三色があしらわれたブルーは、
フレッチェ・トリコローリつまり「スリーカラードアロウ」(三色の矢)
というイタリア空軍のアクロバットチームのための塗装です。

アエルマッキは高等練習機であり軽攻撃機で、駆動性が良いため、
アクロバットチームに採用になったようです。


ところでアエルマッキではありませんが、フレッチェ・トリコローリで検索すると
恐ろしい航空ショーでの事故映像が出てきます。
1988年8月28日にドイツのラムシュタイン空軍基地で演技中に空中衝突を起こし、­
フィアットGー91戦闘機3機が墜落。 
墜落した機体のうち1機が観客席に飛び込み、地上の観客と
パイロット合わせて75名が­死亡、346名が負傷したという大事故でした。


続く。





クーガーとタイガー〜イントレピッド航空宇宙博物館

2015-08-11 | 航空機

ニューヨークはマンハッタンにあるイントレピッド航空宇宙博物館の
艦載機(というか甲板に展示してある飛行機)のご紹介、続きです。

コメント欄でsoraさんがご指摘くださったので改めて調べてみたら、
 


映画「アイ・アム・レジェンド」の一シーン。
ウィルったら、ブラックバードの翼の上でゴルフをやっとるじゃないか。


 

前回お話ししたように、ブラックバードは岸壁に向けた艦首に一番近いところにあり、
マンハッタンの摩天楼を一望にできるという絵面ゆえに、このシーンに選ばれたのでしょう。

あとは「ナショナルトレジャー」でもロケが行われました。
ニコラスケイジがこの甲板からハドソン川に飛び込んで逃げたシーン。

もちろんスタントマンがやってるわけですが、



この甲板から飛び降りるのは飛び込みの選手でもないと無理かもしれません。

さて、冒頭写真は

Grumman A-6E Intruder 1963

です。
去年ここカリフォルニアで訪れたパシフィックコースト航空博物館で、
このイントルーダーとプラウラー(うろうろする人の意)EA-6の違いでコメント欄が
炎上
(でもないか)したということがありましたが、こちらは間違いなく
『E』のつかない方のイントルーダーです。

プラウラーの「E」は電子の「E」。
というわけで、こちらは電子戦を行わない方なのですが、画期的だったのは
これが全天候型の攻撃機であったということです(ここの説明によるとそのようです)

そのせいなのかどうか、非常に汎用性があったということで、生産されて以降
アメリカが関わった戦争のすべてに投入されてきました。

あの「ニミッツ」にも当然艦載されており、「ファイナルカウントダウン」では
F-14トムキャットに空中給油をしてみせるという、海軍的には
「プロモーションシーン」で
その姿を見ることができます。
ジョリーロジャースに


「終わったら窓ガラスを拭いてくれ」

とかベタベタなギャグ(にもなっとらん)をいわれちゃったりしてね。



Grumman (F11F-1) F-11A Tiger 1956

先日コメント欄で昭南島の空軍がタイガー(F-5)を使用している、
というご報告を聞いたばかりですが、このタイガーはブルーエンジェルス仕様。

ブルーエンジェルスというのはご存知ニミッツ提督の発案で創始され、
ヘルキャットからベアキャット、パンサー、そしてこのタイガーと、いわゆる

「グラマンの猫戦闘機」

を仕様機として乗り継いできたわけですが、この機体は1961-1963年に
♯5ソロ機として使用されたものです。

(一瞬”ガッツレス”ことヴォートの”カットラス”も使っていたのは黒歴史ってことで)

ちなみにグラマンはF7F「タイガーキャット」というのも作っていますが、

この「タイガー」とは別物です。念のため。


タイガーの生産の歴史は大変短く、1957-8年の間に201機造られただけで、

最初の42機は「ショートノーズ」のもの、そしてそれ以降はここにある「ロングノーズ」です。
短命の理由はどうも軽量化に成功しなかったからということみたいですね。

ただ離着艦性能、操縦性、運動性においては非常に優れていたため、アクロバットには
むしろ大変向いていたということでブルーエンジェルスの使用となりました。

ところで、このタイガー、航空自衛隊が購入するかも?という話になって、
F-104スターファイターと売り込みの競り合いをしたことがあります。

先ほども言ったように機体が重くなりすぎてエンジンを換装しなくては使い物にならん!
という状態だったのですが、グラマン社は「ちゃんと換装して納入します」と
売りたい一心で日本に約束しました。
しかし結局エンジンの開発は日本がやらなくてはならないことが判明し、
タイガーが翼に日の丸をつけて飛ぶことはありませんでした。

これってつまり、アメリカで重量がネックになって海軍にそっぽを向かれたから、
日本に売りつけようとしたわけですよね?

この商談のときに暗躍?した伊藤忠商事とグラマンは

「伊藤忠、おぬしも悪よのう」
「ひっひっひ、グラマン様ほどでもございません」

などとゴニョゴニョやってたんだろうなあとゲスパーしてみる(笑)



(F9F-8) AF-9J Cougar 1954

大戦後初めて海軍に導入されたジェット戦闘機、それが F9Fのパンサー。
パンサーと名前を対にしたかのような「クーガー」は、パンサーの改良型で、
朝鮮戦争に投入されたものの、速度が遅かったたため、後退翼に改良するように
海軍が注文をつけてできたのがこの「クーガー」です。

朝鮮戦争には1951年、MiG 15のデビューより一年遅れて登場しましたが、
結局このときに空戦を行う機会は訪れませんでした。

そもそもクーガーへの改良は、MiGに対抗するためだったわけですが、
パンサーに乗っていた搭乗員は技量で機体の不備をカバーしてMiGと戦い、
それなりに戦果をあげていたということなのです。



ビル・T・エイメン(スペルが本当にAmen!)少佐が、米軍のHPによると

「MiG-15に対する勝利を決めた後パンサーから降りてくるところ」

ちなみにこの部分の文章は、

after scoring his victory against the MiG-15.

となっています。
エイメン少佐はVf-111、あの「サンダウナーズ」の隊長です。

というわけで、パンサーでは栄光の歴史を築けたのに、改良型のクーガーは
タイミングが悪くて交戦すらできなかったということですが、もしサンダウナーズが
最初から機体速度の上がったクーガーでMiGと交戦していたら、
結果はどのようになっていたでしょうか。



Grumman (WF-2) E-1B Tracer 1958

これは初めて見ました。
大きなお皿を背負ったEーC2早期警戒機なら空自にも配備されていますが、
こちらのレドーム(レーダードーム)は楕円形で、上から見ると

wiki

こう・・・・・ぷぷっ(噴き出している)

早期警戒機の「甲羅」感が楕円になってさらに一層亀のそれに肉薄!

いやー誰が考えたか知りませんが、このレドーム仕様機って、
見た目が和むわー。

このレドームの部分をイントレピッド艦上の写真でもう一度見ていただきますと、
機体との間に細い盛り上がりがありますが、これが方向安定版というようです。

方向安定版、って何を安定させるんだろう・・。

トレーサーは艦上機として開発されましたが、レドームに全ての機能を詰め込んだ結果、
大型の割に居住区がが異常に狭くなり、正副操縦士プラスレーダー員2名の計4人を乗せるのが
大変困難であった上、電子機器(つまり皿ですね)の発熱を

冷却する能力も欠けていたためE-2・ホークアイの開発が進められたというわけです。

ホークアイは映画「ファイナルカウントダウン」では発艦シーンを見せてくれていました。 



このトレーサーはイントレピッドに艦載されていたんですね。
上方から見た翼の長さを見ると、艦載機として運用するために
思いっきり尾翼をたたんでいるのがよくわかります。



McDonnell F-4N Phantom II 1960

我が日本国航空自衛隊ではバリバリ現役のファントムです。
このスプリットベーンの機構を当ブログでは熱く語ったことが あり、
当機で行われた上昇の限界を競うハイジャンプ計画について語り、
また成り行き上「ファントム無頼」を全巻大人買いして読破したというくらい縁の深い戦闘機。 

マクドネルダグラス社を一躍世界のトップに押し上げ、
また西側諸国では唯一5000機以上製作された戦闘機で、
未だにアメリカを除く世界中の軍で運用されている 名作中の名作機でもあります。

 

その現役時代、アメリカでいろんなチャレンジを行ってきたファントムIIですが、
アメリカ大陸横断チャレンジ、なんてこともしています。
ロスアンゼルスから3機のファントムが時間差で飛び立ち、 ロングアイランドまで、
途中で3回の給油を受けながら、

3時間5分、2時間50分、2時間47分

と後になるほど速くなって到着しています。
これはもしかしたら、後になるほど空中給油の要領が良くなっっていったためとか、
そういう理由のせいではないかという気がしますが・・。 

 


 Beech T-34A Mentor 1953

修復作業中のようです。
メンターはその名前の通り、初級練習機として使用される飛行機。
日本でもかつて「はつかぜ」として採用されていました。
海上自衛隊の鹿屋航空基地で展示されているのを見た覚えがあります。

このようにイントレピッドでは常時機体のメンテナンスが同じ甲板の
修復コーナーのようなところで行われており、展示機も貸借先との契約の関係で
少しずつ入れ替わっていっているようです。



続く。



 


F16A・クフィル・ブラックバード~イントレピッド航空宇宙博物館

2015-08-08 | 航空機

さて、ニューヨークのマンハッタンにあるイントレピッド博物館の見学記、
しょっぱなから空母の艦首と艦尾を見間違えて、心ある人々を不安のずんどこに陥れた
当ブログですが、そういう瑣末なことはこの際きっぱり忘れていただいて、
どんど
ん前に進みたいと思います。

今日は艦載機、というかつまり甲板に展示されている航空機の紹介です。
言っておきますが、甲板にあるのは艦載機ではないものもあります。




冒頭写真は


Grumman F-14 Tomcat

動翼を持ち、翼が角度を変えることができるのが大きな特徴ですが、
翼の付け根の部分にグローブペーンと呼ばれる手動式の小さな翼がついていて、
それが予定に反して性能には一切影響を与えないものだったという話を始め、
トムキャットに付いてはこのブログではいやっというほど語ってきました。

最近の話題では、今年の初めに映画」「ファイナルカウントダウン」を取り上げたとき、
時空を超えて真珠湾攻撃前夜の真珠湾に現れた「ニミッツ」の艦載機であるこのF-14に
艦長のカーク・ダグラスが零戦の撃墜を命じるという話がありましたね。

「ニミッツ」に乗っていたくらいですから、1980年に除籍になった「イントレピッド」
にもこのF-14が載せられていたのではないかと思われます。

ところで、「トムキャット」という名称ですが、「トム猫」、つまり雄猫から
この名前が付けられていたのだと思っていたら、もともとの由来は、
可変翼で猫の耳のように翼が動くことに、この機体の導入を強く押していたのが
トム・コノリー大将で、「Tom's cat」→「Tom cat」となったという話。

Fー15イーグルは、世界でも日本、サウジ、イスラエルとはっきり言って
ネカチモの国しか買わなかった(買えなかった)ということは有名ですが、
F-14のころには第一次オイルショックによる原価高騰とベトナム戦争からの撤退がたたって、
在庫がだぶつき、一度はこれがグラマン社の存亡の危機ともなっています。

しかし、いかなる営業活動によるものか、イラン軍が本機を採用したことによって
グラマン社は経営危機をなんとか回避したということがあったそうです。

トムキャットはAIM-54フェニックスミサイルを搭載しており、これはトムキャット専用仕様です。

海軍と空軍が長距離対空ミサイルの統合をするために共同開発をしていたようですが、
結局空軍機のフェニックスミサイル搭載は実現しないまま終わりました。

このトムキャットはフロリダのペンサコーラ海軍基地から長期貸借しているもので、
グラマンが最初に制作して偵察機能などを試験していた「史上7番目」の機体です。





この変わった飛行機、わたしは生まれて初めて見ましたが皆さんはいかがですか。
そもそもこのペイントの色からして初めてです。

IAI  Kfir    Israel Aircraft Industries 

この「IAI」をつい顔文字で読んでしまったわたしはインターネットに毒されてますか?
泣いている顔ではなく、アイ・エー・アイ、つまりイスラエル空軍工廠のことでした。
さらにこの「Kfir」も何て発音するのだとGoogle先生にお聞きしたところ、これは
ヘブライ語で「クフィル」、「仔ライオン」のことだそうです。

まあ確かにライオンちっくな塗装ではあるわけですが、時代の古さを感じさせ、
おそらく40年は経っているに違いないと思ったらやはり1973年製でした。

イスラエル空軍が飛行機を自分で作ることを余儀なくされたのは、それまでミラージュを
輸入していたフランスが、中東への武器輸出をドゴール政権の時に禁止したからです。

フランスがイスラエルに武器を輸出しなくなったわけは、ちょうどそのころ中東戦争で
イスラエルとエジプト・シリアなどの中東アラブ諸国との間に戦闘が起きており、
フランスとしてはおそらく石油などの輸入の絡みでイスラエルを切るしかなかったのでしょう。



何かに似てるなあ・・・と思ったら、やっぱりミラージュ?ファントムにもどことなく・・。

ゼロから機体をデザインしている場合ではないので、イスラエル空軍はミラージュ5を下敷きに、
エンジンはアメリカから購入したF-4のエンジンを積むことにしたようです。

平面から見るとわかりにくいですが、デルタ型の翼でそれこそミラージュそっくし。
ただしミラージュはクフィルのように「前翼」はありません。

クフィルは「カナード」(カナルというフランス語の鴨を英語読みしたもの)と言われる
この前翼が付いているのが大きな特色となっており、カナード付きの飛行機のことは

エンテ型

と総称します。
エンテというのも実はドイツ語で「鴨」を意味するのですが、どういうわけか
フランス語の「カナル」→「カナード」は前翼の部分だけを指します。

クフィルは先ほども行ったように子供のライオンを意味する言葉ですが、
アメリカ軍は海軍と海兵隊がF-16が導入されるまでの間、クフィールを
仮想敵、アグレッサー部隊のためにリースしていたことがあり、そのときには

「F-21 ライオン」


とそのものズバリの名称で呼んでいたそうです。
MiG-21を「演じて」、大変好評であった・・・・という時代の飛行機ですが、
実はIAI、いまだにこの機体をアップデートして、輸出もしようとしているようです。

ちなみに新谷かおるの「エリア88」には架空の国家軍機として登場した模様。



F-16A FIGHTIG FALCON   

おそらくこういうエントリになるととんでもない間違いをするのではないかと
息を殺して注視している部下に世話を焼かせないためにも、見覚えがある機体でも
ちゃんと展示版があるものは写真と照合してアップしているのですが、
展示版がないこの機体も、インテイクの形で間違いようがありません。

というか、そのインテイクにカバーに”F-16”って書いてあるんですけどね。

Fー16はバリバリ現役なのですが、どうしてそれがここに展示されているのか。
ここには先ほどのクフィル、ブラックバード、そしてこのF-16Aが並べて展示されており、

「WINGS OVER THE MIDDLE EAST」

という説明看板がそれらのために立てられていました。

「とてもスリーク(スマート)だけど他の航空機と少し違うルッキング。
なんのためだと思いますか?
答えの一つは「中東」に横たわっています」

そのような出だしのあと、クフィルがイスラエルの軍用機であること、
1990年から1年間行われた湾岸戦争にF16Aもアメリカ空軍機として投入されたこと、
そしてイスラエル軍が(defense force、自衛軍となっている)
そのどちらもを使用していたことが書かれています。

しかしそれではA-12ブラックバードはなんの関係が?



ブラックバードが引退する前、最後の形であるSR-71は偵察機として中東を飛んだ、
という関連付けをしているのですが、ここに展示されているのは実はA12タイプです。

A-12は1962年、ロッキードの「スカンク・ワークス」に寄ってデザインされ
極秘でCIAのために開発された偵察機で、一人しか乗れません。

wiki

前から見るとSRー71との違いがよくわかりますかね。
平面斜めから見ると、明らかに違うはずのシェイプが確認しにくいのですが、



この部分で見分けがつくかもしれません。

ちなみにA-12は沖縄の嘉手納基地で「ブラックシールド作戦」のために投入され、
北ベトナムにおける偵察任務に22回出動しています。
沖縄ではのちにSR-71の姿も見られることになるのですが、現地の人々が誰言うともなく
「ハブ」と呼んだのを当のアメリカ軍が気に入って、自らハブを名乗るようになります。

開発当初、この作戦に入れ込んだリンドン・ジョンソンは「アークエンジェル」と名付け、
設計案もそのようになっていたのですが、結局「ハブ」です(笑)


ちなみにA-12は引退直前、沖縄での運用中に一度太平洋に墜落しています。
沖縄の人々は「ハブ」とあだ名をつけこそすれ、この不気味な偵察機が欠陥で
墜落するから日本から出て行けなどということは全く言わなかったわけですが、
今だったらおそらく沖縄に集結する左翼は嬉々としてこれを政治活動に利用したでしょう。

先日の調布市に小型機が墜落した件ですら、オスプレイと結びつけて
墜落の危険を心配して見せたくらいですからね(嘲笑)

このA-12、コードネーム「article122」は、ネバダ州にある通称「エリア51」、
グルームレイクでレーダーテストのために配置されました。




ブラックバードの下にはこのような黄色いカートが停められていましたが、
これはコンプレッサーで、圧縮した空気を供給しエンジンを回転させるものです。

このカートと機体はどちらも国立空軍博物館から貸与されています。


しかしこうしてみると、クフィルとファイティングファルコン、そして
ブラックバードが中東での戦争に投入されたという共通点はともかく、掲示板の

「ディファレントルッキング」

が中東とどんな関係があるのか。
博物館の説明にはいまいち疑問が残ったまま終わりました。



 


続く。




 


 


ヒラー航空博物館・HU-16アルバトロス~飛行艇の時代

2015-04-28 | 航空機

ヒラー航空博物館は、数多あるアメリカの航空博物館の中でも
なんというか資金が非常に潤沢なのではないかと思わせるものがあります。

去年の夏は合計三つの航空博物館に行ったのですが、オークランド空港にある
オークランド航空博物館は、レストアがなかなか進まず、何年も希少な機体を
敷地内に放置している様子がありましたし、軍用機が中心のキャッスルミュージアムも、
常に寄付を募り、維持していくための努力が機体の保存状態に反映されていない風でした。

しかしここはいついっても展示物のメンテナンスがちゃんとされているし、
そもそも展示の仕方に演出が加えられてドラマチックになっていたり、 
航空に興味を持つ子供たちにサマースクールや定期的な航空教室を開催し、
リピーターを増やす工夫を常に行っていて、盛況です。

残り二つの航空博物館が、わたし以外の客の姿すらほとんどなく、
平日の閑古鳥が鳴いている状態だったのに比べ、ヒラーには必ず一定数の客がいました。

しかし、改めて調べたところ、ヒラー航空博物館のオープンは1998年。
カリフォルニアの非営利団体が母体です。
メンバーシップ制度で、年会費を下は40ドルから上は1万ドル(100万円)まで払い、
ベネフィットを受けたり、常時寄付金を募ったりして維持しているほか、
労働力(レストアに必要なメカニック)などもボランティアを採用しているようです。

ここには個人機用の飛行場が併設されていますから、飛行場の利用客には
大口のスポンサーもいるのではないかと思われます。

さて、冒頭写真は今日お話しするつもりの展示機、

HU−15 アルバトロス。

ヒラーのHPにはこれにamphibian(水陸両用)、さらに
Circumnavigated the world.(世界一周バージョン)と説明があります。

この「アホウドリ」の愛称を持つ飛行艇は、グラマンが開発したレシプロ双発。
ごらんのように、飛行艇独特の船底型下部を持っています。 

飛行艇ですね。

宮崎駿監督の「紅の豚」は、登場人物の全員が飛行艇に乗っていました。
ポルコ・ロッソの飛行機のモデルはマッキM・33、ライバルのカーチスはカーチスR33−2
他にもサヴォイア・マルケッティS・55ハンザ・ブランデンブルグCC・・・・・。

ずれも1900年代、第一次世界大戦後に登場した飛行艇で、この頃は飛行艇に取って
黄金時代とも言うべき反映期、「飛行艇の時代」でもありました。

具体的な時代や国ですら分からないことが多い宮崎作品の中では珍しく、
第一次大戦後の世界大恐慌の不安と混沌の世界、と時軸をはっきり限定してありますが、
それは宮崎監督がこの飛行艇を作品で描きたかったからでしょう。

テーマのコアは主人公が第一次世界大戦でエースと呼ばれた戦闘機乗りで、
つまり「人を殺すのがいやで自分に魔法をかけて豚になった男」であること。
第一次世界大戦から人類は飛行機という武器で殺し合うことを始めましたが、
それでもこの時代は作品でも描かれる「騎士道的な名のある人間同士の戦い」が
航空戦に許された最後の時代であったとも言え、この時代設定には必然性を感じます。

主人公は人間であったとき、戦闘機マッキM・5に乗っていましたが、
豚となってからは飛行艇にその乗機を替えます。

このころ、高揚力装置が未発達だったため、滑走距離に制限がある陸上機と比較して
滑走距離に制限のない水上機は高出力化が行いやすく、いくつかの戦闘飛行艇が生まれました。

この映画にはいくつかそれらをモデルにした飛行艇が登場します。

しかし、技術の発達により陸上機でも高出力化が行えるようになったため、
水上艇は戦闘のためでなく、輸送に目的をシフトして製造されるようになりました。


つまり、飛行艇が歴史的に悲惨なイメージを背負っていないことが作者の用途にぴったりで、
かつこの頃の空気をノスタルジックに表現するツールとして得難い題材だったのでしょう。


というわけで今日は、ヒラー航空博物館の飛行艇関連の展示をご紹介します。



グラマンは大戦中、G−21「グース」という、
名は体を表すというか、いかにも「グース面」をしたこの飛行艇を既に作っていました。
この水陸両用艇はグラマンが最初に民間用に作ったもので、
米軍や沿岸警備隊などでも輸送任務等で活用されました。

もともとロングアイランドに住む富豪がニューヨークに飛ぶための飛行機を
グラマンに依頼したというのが開発のきっかけです。

この「グース」の後継タイプが、冒頭写真の「アルバトロス」です。

戦後すぐ、アメリカ空軍と海軍の両方から「墜落したパイロットの救出」
という用途のため発注されたので、
陸上でも外洋でも運用できるように、
その胴体には深くて長いV字断面を持ち、波浪状態の海面に降りることを可能にしていました。


ところで皆さん、飛行艇と言えば!
我らが海上自衛隊には名機US−2がありますね。





戦後、川西航空機と海上自衛隊はあくまでも飛行艇にこだわり、
PS-1救難艇US-1、そして現在のUS-2につながる名作水上艇を生み出してきました。

それがあの「エミリー」、二式大艇に始まる日本の飛行艇の系譜です。

グラマンは戦争中「フォーミダブル・エミリー」(手強いエミリー)と米軍に恐れられた
名機二式大艇の性能に興味を示し、川西の技術を自社へ移転しようと考えました。
そこでUF-1救難飛行艇、つまりこのグラマンHU-16「アルバトロス」飛行艇1機を
川西航空機に提供し、川西はそれを基に実験飛行艇UF-XSを製作しました。


UF-XSは昭和37年12月の初飛行から昭和41年まで実験と調査を行い、
十分な基礎データを取得したうえでPS−1の制作に取りかかっています。

アルバトロスの制作は戦後すぐに始まり、初飛行は1947年。
ここにあるアルバトロスはもっと新しいものですが、この胴体、



戦後捕獲した二式大艇の波消し装置そっくりに思えるのですが、どう思いますか?



ほら、このシェイプも二式そっくりです。

さて、ここにあるアルバトロスですが、1997年3月にここベイエリアのオークランドを発ち、
5月29日までの73日間で世界一周飛行をしています。

このスポンサーであったらしいアップル社の昔のロゴが鮮やかに描かれていますね。



この赤道を縫うようなコースで、フロリダをアメリカ本土の最後に、そのあとは南米の
ベネズエラからブラジルまで行き、アフリカ大陸にはダカール、セネガルから入り、
スペイン、アテネ、ギリシャ・エジプト、インド洋ではパキスタン・カルカッタに寄り、
タイ、シンガポール、インドネシアから下に降りてオーストラリアへ。
ポートモレスビーなどという、戦記好きにはおなじみの名前もあります。
太平洋ではクリスマス諸島やハワイなどを点々と経由し、ホノルルからオークランドに帰還。 

オークランドから出発して東周りで世界一周する。
このコースを見て、アメリア・イアハートの名前を思い出した方はいませんか?

そう、この企画は、かつて女流飛行家イアハートが、最後の挑戦となった世界一周飛行、
残念ながらそれはニューギニアのラエ、(ポートモレスビー近く)を出発したのを最後に
永遠に消息を経った、あの挑戦をそのまま再現しているのだそうです。

操縦したのはここベイエリア在住の二人の飛行家で、この飛行機は、たった一つの
「世界一周」という目的のためだけに飛んだ、初めてのアルバトロスとなりました。



それでは皆様を機内へご案内いたします。



コクピットとフライトアテンダント?のジャンプシート。



そして客室でございます。
こんなに豪華なシートならば、世界一周旅行もどんなに楽だったでしょう。

この周囲には、かつて全盛期だった頃の飛行艇の資料もあります。



マーチンM−130、クリッパー

このクリッパーあたりは船底がただ丸いだけであるのに注意。

パンアメリカン航空が1935年から1941年まで運用していました。
クリッパーはここに描かれているように全部で三機制作されました。



ボーイングB−314

人員輸送用に12機制作され、全盛期には大統領機となったこともありますが、

飛行機の発達によってその存在意義も薄くなり、
1946年に戦争が終わると全て退役しました。

写真は1939年、パールハーバーで翼を休めているB−314。



飛行艇に艀(はしけ)から人々が乗り込む様子が書かれたリトグラフ。
下のエアメールは、この飛行艇でハワイに旅行をした人が国内に宛てて出したもので、
1940年7月12日の消印があります。
 


表記がなかったので自分で調べるしかなく時間がかかりましたが(笑)
おそらく

シコルスキー S42B 旅客飛行艇

ではないかと思われます。
建設途中の橋が写っていますが、マイアミのキー諸島を結ぶセブンブリッジマイルかな?

 

マーチンM−130もまた旅客機で、広い機内にはベッドやラウンジを設けてあり、
ゆったりと空の旅を楽しめる仕様になっていたそうです。
そして"チャイナ・クリッバー"の名が与えられ、ハワイ経由で東アジアへの航路に使われました。
シコルスキーと同時期の飛行艇ですが、大きさも航続距離もこちらが上回っていました。

この頃の旅行は「移動することが旅行」なので、乗る方も「ちょっと早い船旅」位の感覚です。
実際チャイナクリッパーは巡航速度時速252kmというものでした。



元々の写真がボケていたのでさらにボケていて何が書いてあるのか分かりませんが、
これはチャイナクリッパーのクルーです。
 


ところでこのヒラー航空博物館の正面にこのような慰霊碑があることを
去年エントリでお話ししましたが、これは、M−130の三番機である
フィリピンクリッパーが、まさにここ、ヒラー博物館のあるこの地に墜落し、
その際死亡した人々の魂を悼むために建てられたものです。

M−130は全部で三機作られました。
チャイナクリッパー、グアム近海で行方不明になったハワイ・クリッパー、
そしてこのフィリピンクリッパーです。



このときはM−130は海軍に徴用されていたため、乗っていたのは大半が海軍軍人でした。
クルー9人、乗客10人。
碑銘の一番最後に見えるのは女性名で、看護士の大尉です。

そして、チャイナクリッパーも1945年1月に着水に失敗し、喪失しました。

オークランドにあったショート・ソレント(インディアナジョーンズの撮影に使われた)
についてお話ししたときにも思いましたが、低速で港港を、
しかも明るい時間だけ飛んでゆっくりと移動する、そんな交通手段は
ジェット旅客機が世界の都市を瞬く間につなぎ、地上ではアメリカですら
リニアモーターカーを日本から技術輸入しようかという今日、(笑)
よほどの物好きか乗り物そのものを楽しむ目的でもなければだれも必要としなくなりました。
航空の発達に伴い、飛行艇の時代が終わりを告げるのは自然の淘汰でもあったのです。


しかし、我が国では、例えば小さな諸島だけでできているモルジブ共和国が
移動手段を全て飛行艇に頼っているように、海洋国家ならではの必要性から
救難艇という分野で独自の道を歩み、その技術をUS−2という飛行艇に結集させました。

ヒラー航空博物館にあるアルバトロスが世界一周のためだけに作られたように、
かつての「飛行艇の時代」を懐古するためのものではなく、
今ここにいる我々国民をいざというときには救難するという存在意義を持って。

そこで、自衛を除く戦争という手段を放棄した日本の軍隊である自衛隊が、
かつて敵を畏怖させた二式大艇をUS−2に乗り換えたことは 、ポルコロッソが戦闘機を降り、
飛行艇に乗り換えたこととなんだか繋がるなあ、などと思ってしまったのですが、
こういう考え方は宮崎駿監督の思うつぼでしょうか(笑) 

 



 


キャッスル航空博物館~B-52「成層圏の要塞」

2015-02-12 | 航空機

去年の8月、カリフォルニア滞在中に車で約2時間南に下った
アトウォーターという内陸の町にある

キャッスル航空博物館

を見学してきました。

相変わらず遅々として進んでいませんが、時折こうやって
思い出したように
ここで見た航空機についてお話を続けています。
終わらないうちにまたもや別の航空博物館のシリーズが始まってしまい
尻切れとんぼに終わってしまいそうですが、努力はします。



キャッスル航空博物館は広大な飛行場後の敷地に軍用機中心に航空機が

常時60機以上展示してあるという米国でも有数の航空博物館ですが、
片隅にはこのような資料館もあり、こちらも大変充実しています。

冒頭写真は、当博物館室内展示のB−52コクピット。

 


博物館の外側に回ったところはこうなっています。
実際のB−52のコクピットの部分だけ切り取って、
博物館の建物に組み込んでしまっているんですね。
トレーラー状のものと溶接して室内から見学できるようにしてあります。



さすがに上空を飛んでいるかのようにコクピットを書き割りで囲む、
などという芸当まではできなかったようです。
こういう展示物は航空協会だけでは無理なので、常に寄付を募っているのですが、
有志企業によるドネートで展示物を制作するという例もあるようです。



CPTはコクピットのことです。
カウンティバンクという銀行による寄付による展示であると宣伝しています。

 

B−52は頭文字”B”、つまりボーイング社が開発しアメリカ空軍に採用された戦略爆撃機です。
愛称は「ストラトフォートレス」。
「ストラト」は「strategy 」、つまり「戦略」からきているのかと思ったのですが、
実は”stratosphire”から取った

「成層圏の要塞」

という意味なんだそうです。なるほどー。



ここの野外展示にもB−52がありますが、あまりの巨大さに
かなり離れないと全体の姿がフレームに収まりません(笑)

当航空博物館を俯瞰で示した案内図を見ると、展示航空機の中でずば抜けて大きく、
最も場所を取っているのが、


コンベアのRB-36H「ピースメーカー」。



次いでこのB−52です。
アメリカ軍が大陸間爆撃機の航続力に亜音速の速度性能を備えた
大型機を、冷戦下にソ連圏内の目標を爆撃するために開発しました。



実際にはベトナム戦争で冷戦時代予期していた核爆弾による攻撃ではなく、通常の絨毯爆撃を行い、
(アメリカ以外には)

「死の島」

と恐れられました。



冷戦下で、ソ連による奇襲核攻撃を恐れたアメリカは、
複数のB−52をつねに滞空してパトロールさせることにより、
万が一ソ連が核攻撃を行った場合にも航空機の全滅を避け、いつでも
報復核攻撃を可能としているというアピールをしていました。

つまり
B−52に核を積ませて常時4~5機国境圏内をうろうろ
させていたわけです。

そんなことして落ちたら危ないやないかい!

と思わず今頃突っ込んでしまったあなた、あなたは正しい。

実弾頭の核兵器を搭載してのパトロールは、一度ならず二度ならず
複数回、墜落事故を起こして その度に放射能事故にまで発展し、
そのうち最大の事故となった

チューレ空軍基地米軍墜落事故

では核弾頭が破裂、飛散して大規模な放射能汚染を引き起こし、
事故のあったグリーンランドを所有していたデンマーク政府との国際問題に発展するわ、
環境汚染は拡大するわ、除去作業に関わった作業員に賠償請求されるわで、 
これはもうソ連に取っては奇貨とでも言うべき敵の(
文字通り)
自爆だったわけですが、しかしさすがにソ連はこの事件をターザンの石と考えず、

「核戦争の危険を低減する方策に関する合意書」

に合意したため、両国で調印に至っています。
相手が腐っても文明先進国で、良かったですね。

めでたしめでたし。(棒)




通常爆弾が多数搭載できるように改造されたB−52。

これは、1956年、偵察機能を削除して長距離爆撃機に特化した機体で、B−52D(6モデル目)です。
ほとんどがベトナム戦争に投入されたもので、ここに展示してある機体もそうです。



同年代に制作されたB−52は170機と大量で、このキャッスル航空博物館始め
多くの機体が現在も展示保存されています。



大理石にみっちりと彫り込まれた気合いの入った碑文。

これはベトナム戦争でおこなわれた

アークライト作戦

の誇らしい説明文です。
グアムのアンダーセン空軍基地から飛来した27機がベトコンの拠点に対し
1,000ポンドおよび750ポンド爆弾による攻撃を行ったというもので、
おそらくベトナム人が見たらドン引きすると思われますが、
アメリカ人というのはほら、たとえばドゥーリトル空襲のことだっていまだにやたら誇らしげに語り、

「ドゥーリトル空襲記念日に皆で集まってパーティしよう!」

なんてやっちゃう国民ですから。
日本ほど自虐的になる必要はないけど、もう少しこのとき絨毯爆撃で亡くなった
非武装の民間ヴェトナム人に対して遠慮してもいいんじゃないかな、と思うの。




ここに展示されているこれらの爆弾も、そのときに使用したものを再現しているようです。
1965年から1973年までの間、「アークライト作戦」に従事したB−52は、
碑文によるとおよそ13万回に亘る出撃回数に90万の飛行時間、投下爆弾は900万発に及びます。



操縦士、レーダーナビなど最後のクルーの名前が刻まれています。
因みに操縦士はアル・オズボーン大尉、ナビはフレッド・フィルズベリー少佐。
ナビが機長より上官のようです。
真珠湾やマレー沖海戦のときの爆撃機も偵察が士官(真珠湾は淵田少佐)でしたが、
アメリカでもこういう組み合わせは少なくなかったようです。




それでは今一度室内展示に戻りましょう。
1957年の「ライフ」の表紙を飾るのは

「45時間で世界一周」

と言うタイトルがかぶせられたB−52の勇姿。
下のクルーの写真はやはり「ライフ」からで、レーダー・オペレータの中尉だそうです。
しかし、この模型を見ると、この機体の巨大さが改めてわかりますね。



このキャッスル航空博物館のあるのはアトウォーターという市ですが、
この「アトウォーター・シグナル」という新聞が伝えるのは、B−52の墜落事故のことです。



1956年の2月、カリフォルニアのストックトンとトレーシーの上空で
乗員8名のB−52ストラトフォートレスが爆発墜落、4名がパラシュートで脱出、
4名が殉職したという事故がありました。

8ヶ月前から運用されたこの機体の初めての航空事故で、
機長のフレミング少佐の遺体は散乱した機体とともに発見され、
遺体にはパラシュートを付けていた痕跡が あったことから、脱出時
パラシュートに火が燃え移り墜落死したことが判明しました。
フレミング少佐にはキャッスルガーデン(基地内の軍人用居住地?)に
妻と三人の子供 がいることなどがこの記事に書かれています。

ここに展示されているのは、生還した4人の一人で 後尾射撃手だった
ウィラード・ルーシー軍曹(写真)が事故時使用したパラシュートと、
そのときに被っていたヘルメットなどの装備品です。 



ハリウッド映画がここをロケ地として撮られたことがありました。
日本では上映されず、DVDも発売されていないのでご存じないと思いますが、そのものズバリ、

「B−52爆撃機」(Bombers B-52)



この映画の撮影は全てキャッスル空軍基地だった頃の当地で行われました。
導入されたばかりのB−52を実際に登場させる目的があり、
キャッスル空軍基地にはB−52の部隊が配備されていたからです。

この映画は、B−52が導入されようとしていたころのアメリカ空軍を舞台に、
機体のテスト飛行での危機に立ち向かうクルーと、彼らを取り巻く人間模様を描きます。



この出演者の中で日本人に有名なのはヒロインのナタリー・ウッドでしょうか。
「ウェストサイド・ストーリー」の出演と、その謎に満ちた死で有名な女優ですが、
(彼女は水死体で発見され、いまだに殺人事件であるという疑いは消えていない)
しかし、その他にもエフレム・ジンバリスト・Jr.などが主演しているというのに
どうしてこの映画が日本未公開であるのか全くの謎です。

ナタリー・ウッドはカール・マルデン演ずるベテラン曹長、ブレナンの娘、ロイスの役。
お約束ですが、父親の機のクルーであるニックネーム「ホットショット」
ジム・ハーリー中佐とお付き合いをしていて、案の定意味もなく反対されているという設定。

どうして曹長の部下に中佐がいるのかはわかりません(笑)



ブレナン機長たちが、B−52の導入を空軍にためらわせている技術的な問題を
何とかして解決しようと奮闘努力するというのが話のコアになっています。

ある極秘のテスト飛行で、空中給油の後に
コントロールパネルのショートから火災になったブレナン機。
自分の命を賭してクルーの命を救おうとしたハーリー中佐の姿を見て、
ブレナン機長は、娘との交際と、ついでに彼の技量を初めて認めるのでした。

・・・・ん?

この事故内容は、先ほど新聞記事になっていたアトウォーターでの事故と全く同じなんですが。

映画は事故の翌年の1957年の公開となっていますから、
空軍かボーイングか、あるいはそのどちらもが、
この事故後のB−52への世間の批判を払拭するために仕掛けたプロパガンダ目的の映画だったのかな、
sとふと考えたり。



衣装も靴も、アクセサリーですら皆展示されています。

館内ではDVDで映画が放映されていましたが、一種のパニック映画のような造りで、
特に事故シーンはなかなか面白そうだと思いました。

ブレナンが、好条件で民間飛行機会社からの誘いを受け、
彼が愛する空軍の生活と高報酬のどちらを選ぶか板挟みになる、というのが話のクライマックスのようです。

その結果はネタバレになるため英語版のWikipediaにも書かれていませんが、
常識的に考えれば彼がどちらを選ぶかは分かりきっています。
意表をついて案外あっさり高収入の道を選ぶ、というオチも案外アリかもしれませんが、
日本ではそれを知るすべはありません。


どなたかこの映画をご覧になったことがあればぜひ教えて下さい。
別にどうしても気になって仕方がないというわけではありませんが。








パシフィックコースト航空博物館~”歴史的航空人”の顔ぶれ

2014-12-09 | 航空機

サンフランシスコの北、サンタローザにある
パシフィックコースト航空博物館についてお話しするのも最後になりました。

おそらく、サンフランシスコ在住の飛行家だった

ジョセフ・アーサー・グラッソの寄贈したと思われる装備からです。



昔の飛行家が使用していた装備も展示されていました。
だーれ?「Google」とつい読んでしまったのは。(・_・)/ ハーイ



1930年代にすでに度付きゴーグルがあったんですね。

日本の場合はパイロットが努力の末、「昼間でも星が見えるようになった」とか、
「箸で飛ぶハエを捕まえられるようになった」とかいう神話が
まことしやかに(ほんとだったのかしら)語られたぐらいで、
つまり飛行機搭乗員というものはマサイ人のように目が見えるもの、
ということになっていたので、ゴーグルに度をいれることなど
需要もないし誰も思いつきもしなかったのだと思われます。



Resistolというのはアメリカのカウボーイハット専門の
会社ですが、宣伝用に作られたゴーグルということでしょうか。



説明の写真を撮るのを忘れましたorz
ヘルメットとゴーグルと酸素マスクです。
そんなこと改めて書かれんでも見れば分かる?



朝鮮戦争時代にアメリカ軍で使用されていた医療箱。
ちょっと驚いたのは左上にバンドエイドがあること。
アメリカではもうこの頃にバンドエイドが発売されていたんですね。



売店の壁にかかっていたイラスト。

この博物館で最初に説明した「911ファーストレスポンダー」が
絵になっているわけですが・・・・・。

それにしても、この絵・・・・モクモクと煙を吹き上げ、
まさに次の瞬間倒壊予定のワールドトレードセンタービルですが、
29.99$になったところで、一体こんな絵を誰が買うのか。

何を思ってこんな絵を描き、しかも売っているのか。

かろうじてこれが売れのこって安売りになっているあたりに、
まだしもアメリカ人の良識は死なず、というのを見る気がしますが。

 


昔ここにあったサンタローザ陸軍航空基地の鳥瞰図。
オブジェとしても行けそうな凝ったデザインです。



ふと目を留めたポスター。
「イーグル集合」という題がついています。
伝説の航空機と、有名なパイロットが大集合。



左の方にはサビハ・ギョクチェンや、黒人だけの飛行隊、
レッドテイルズのデイビスJr.空将なんかもいるのですが、
後の飛行家の名前は写真が遠すぎて確認できませんでした。


エーリヒ・ハルトマンレッドバロン、リヒトホーフェン男爵はいませんし、
アメリア・イアハートチャールズ・リンドバーグもいませんので、
今ひとつ選定の基準というのが分かりません。
いわゆる「戦闘機エース」とかではなく、特定の飛行機に乗っていたとか、
歴史的に意味のあることを為したとか、象徴的だったとか、
まあそういった基準ではないかと思われます。

右の方には、


南極到達を果たした
ロバート・”ファルコン”・スコットJr.大佐!(イギリス海軍)、

日本人には「ジパング」でもおなじみ(だったっけ)、
レイモンド・スプルーアンス大佐!(アメリカ海軍)

(表記がウィリアムになっているけどこれは間違いです)




エノラゲイからノルデン照準器覗いて広島に原子爆弾を落とした
(えええええ~)
トーマス・W・フェレビー少佐!(アメリカ陸軍)

エノラゲイを広島上空までナビゲーターとして導いた
(えええええええ~)
セオドア・ヴァン・カーク少将!(アメリカ陸軍)



そして、音速を超えた男チャック・イェーガー!の上に海軍旗と共にいるのが、


昼間に星が見えるくらい視力を鍛え、さらにはSAMURAI!の著者として
世界的に有名になった零戦搭乗員、

坂井三郎中尉(大日本帝国海軍)!


ほかにも、アポロ計画で最初の宇宙飛行士となったジョン・グレン
この下に描かれていました。

それにしてもエノラゲイの搭乗員が二人もいるって、どういうことよこれ・・・。



ふと天井を見れば、そこには零戦とB52が。




21型は小隊長機のマークを巻いています。

よく見ると中にちゃんと搭乗員もいるぞ。



尾翼の「虎」は、261空所属機という意味です。

これにも日本人らしい(そりゃそうか)搭乗員が乗ってます。



P−39エアコブラ。
こういうところのスペルもこまめに間違っていますね。

エアコブラの下に見えるのは、そのP−39の宣伝広告。

戦闘機の宣伝広告があるとは知りませんでした。

機体に隠れて内容が見えなくなってしまったのが残念ですが、
右下には

「航空史を創る!」

みたいな決め文句が書いてありますね。



ブラックバードの裏?



P−38ライトニングのコーナー。
妙なポーズをしている搭乗員のブロンズ像は
説明がないので何を意味しているか分かりませんでした。



日本軍の対人爆弾。
持ち主のスワン中尉は、

テニアンで自分のテントにこれが落ちたけど不発弾だったので良かった

という、一行ですむ説明を長々と文学調に書いています。
書きたいという気持ちは分からんでもないですけど。




日本人に取っては「へーそう」としかいいようのない
「俺たち同盟国」のポスター。

英、中、露(このころはね)豪、カナダ、コスタリカ、
キューバ、チェコ、ドミニカ共和国、エチオピア、フランス、
ギリシャ、インド、ニュージーランド、メキシコ、ユーゴ、
南アフリカ、ユーゴ、ポーランド、マレーシア、そして、


イラク!(爆笑)

 

カウンターにおじさんが見えていますが、この方は
わたしがさようならを言って外に出たとたん、一足遅れて外に出てきて、
ピカピカにレストアされた真っ赤なビンテージのムスタングを
これ見よがしに羽箒で磨き始めました。(磨く必要はなさそうだったけど)

ご自慢の愛車を滅多にこない女性客に見せたかったのかもしれません。



というわけで、パシフィックコースト航空博物館、
丁寧な手作り感あふれるいわゆる「おらが町の博物館」ですが、
細部まで行き届いた展示の内容は、航空ファンとして大変評価できます。

展示物に間違いが多いですが、それはまあ、ご愛嬌ってことで(笑)



シリーズ終わり