イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

111章解説

2011年09月03日 | ジュズ・アンマ解説

(2011/9/3訂正・加筆)
بسم الله الرحمن الرحيم
111章解説
1. アブー・ラハブの両手は滅び、また彼も滅びた。
2. 彼の富も稼ぎも、彼のためは役立たなかった。
3. やがて彼は、炎に伴なった火にくべられる。
4. 彼の妻もまた(火に焼け)、薪を運んで、
5. 彼女の首には棕櫚(しゅろ)の縄が(つけられて)ある。

 まず、アブー・ラハブについてですが、彼は預言者(平安と祝福あれ)の父方のおじで、アブドゥルウッザー・イブン・アブドゥルムッタリブといいます。両頬が燃えるように赤いため、アブー・ラハブ(火炎の父)と呼ばれていました。

 アブー・ラハブはかつて、イスラームの宣教のために各部族へ出向く預言者(平安と祝福あれ)の後をつけていました。彼(平安と祝福あれ)が「本当に私はあなたたちに送られた使徒です。」と言うと、おじである彼は甥を嘘つき呼ばわりし、人々に預言者(平安と祝福あれ)を信じさせぬようにしました。

 彼の妻である、ハルブの娘でアブー・スフヤーンの姉妹のウンム・ジャミールは夫と一緒に預言者(平安と祝福あれ)に危害を加えていました。

 アブー・ラハブは、現世で膨大な財産を手にしていることで自惚れてしまった一人でした。彼らの生活地位を脅かし、義務を彼らに果たさせるような、どのような改善運動にも反対でした。そのためアブー・ラハブは、預言者(平安と祝福あれ)との近い親戚関係にあっても、彼が呼びかけていたかのアッラーから頂いた兄弟愛と慈悲と平等を謳う使命に対する強大な敵でした。

 このスーラが下された背景として、イブン・アッバース(御満悦あれ)が次のように伝えています:「あなたの近親者に誓告しなさい。」(26章214節)が啓示された際、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)はサファーに上り、「朝だ!」と叫びました。「誰が叫んでいるのだ?」「ムハンマドだ」そして人々は彼のもとに集まりました。彼が「~~族よ、~~族よ、アブドゥ・マナーフ族よ、アブドゥルムッタリブ族よ!」と言い、次に「この山の背後に盗賊がやってきていると知らせたならば、皆さんは信じますか?」人々は「私たちはお前が嘘をつくのを見たことがない」と言いました。次に「本当に私は皆さんを激しい罰を警告する者です。」と言うと、アブー・ラハブは「お前など滅んでしまえ。そんなことのためにわしたちを集めたのか。」と言い、彼が立ちあがるとこのスーラが下りました。このスーラはマッカで啓示されたことで意見が一致しています。

 最初の「تبَّتْ」(滅んだ)は、アブー・ラハブに対する滅びと失脚があるようにとの祈願です。「彼の両手」は、アブー・ラハブ自身を指します。第二の「تبَّ」(滅んだ)は、アッラーによってすでに彼が滅ぼされたことを指します。「ما أغنى عنه ماله」のماは動詞を否定する品詞であり、彼の富は今後臨在彼を益することはないことを指します。「稼ぎ」は彼の子供や儲けた利益や名声や追従者です。「やがて彼は、炎に伴なった火にくべられる。」は、来世で彼は燃え、さらに熱くなるために追加される火の中に入ることを指します。


 「彼の妻もまた(火に焼け)、薪を運んで」つまり、彼の妻はとげを運んでは預言者(平安と祝福あれ)の歩く道にばら撒いていたことを指します。または、自身の夫の心を腐らしたように、人々の心が預言者(平安と祝福あれ)に対して腐敗するために彼の悪口を言い触らすのに専念していたとも言われます。アラブで「薪を運ぶ者」は、悪口を言う者を指すのです。


 「
彼女の首には棕櫚(しゅろ)の縄が(つけられて)ある」クルアーンが彼女をこのように描写したのは、首に荒縄をかけて薪集めをする男のようにとげを運んでいた彼女の行為を卑しんだためです。本来首は飾り物を付けるところです。または審判の日における彼女の状態がこれであり、首には火か鉄でできた縄がかけられると言われます。

 アブー・ラハブの妻はこのスーラを聞くと、預言者(平安と祝福あれ)と一緒にマスジドにいたアブー・バクルのところへやって来て言いました:あなたの友人が私を中傷していると聞いた。今に見ていろ!と言ったところ、至高なるアッラーは彼女に預言者(平安と祝福あれ)を見られないようにし給いました。アブー・バクル(御満悦あれ)は彼女に、私と一緒に誰かいるのか見えるか?と聞いたところ、彼女は、私を馬鹿にしているの?私にはあなたしか見えない、と言いました。

 アッラーの導きから人々を散らばらせる者や、欲望に従う者、旧来の信仰に親しむ者、手にしている財産で自惚れている者に対する戒めとするため、アッラーは滅びの呪いを含んだこのスーラをアブー・ラハブ夫妻に降下しました。

 そしてアッラーの約束は遂行され、アブー・ラハブは敗北し、人々をイスラームから逸す行為は無駄となったのです。彼の名声は抹消され、後世に渡りその名は卑しめられました。そして見苦しい死に方をしたと言われます。アダサと言われる感染性の病を患い、3日後には悪臭を放つほどになりました。恥を恐れた彼の家族は、穴を掘ってそこに棒を使って彼を入れ、石で穴を埋めました。

 このスーラは、悪口に熱心に打ち込み、社会に誘惑の火を点ける女性たちが持つ人間の本能を表わしていると言えるでしょう。その例の一つが、「薪運び人」と表現されたアブー・ラハブの妻です。良く調べれば、社会と家庭に起こる多くの問題の原因が、人々が敵対し合い、嫌い合っているのを見て喜ぶある女性たちが起こしている誘惑であることが分かります。彼女らの男性に対する誘惑や話のうまさが彼女たちを大いに援助します。男性たちは彼女たちの罠に引っ掛かりそして簡単に彼女たちへの愛の虜になってしまいます。

 クルアーンの奇跡
 このスーラは、実際に起こった不可視の出来事を含んでいることで、クルアーンが神の啓示であることを示します。

 よく知られているように、預言者(平安と祝福あれ)には一定の間、イスラームの敵が多くいたにもかかわらず、彼らは時間が経つと心が柔らかくなり、彼のもとにやって来て改宗したものでした。例えば、ウマル・イブン・アルハッターブ、ハーリド・イブン・アルワリード、アムル・イブン・アルアースなどです。しかし驚くことに、クルアーンがそういった者たちから一人を選んで、永遠の不信と裁定しました。次の御言葉がそのことを確定しています:「
やがて彼は、炎に伴なった火にくべられる。」つまり、彼は死ぬまで不信仰の状態のままで過ごし、それが来世での罰を受けるのにふさわしい、ということです。


 この「アブー・ラハブは決してムスリムにはならない」という断定的な裁定は、クルアーンがアッラー以外からのものであったならば有効でなかったでしょう。アブー・ラハブが人々の前で「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」と偽りの証言をして、その直後に「お前たちのクルアーンは、わしが信仰しないために火獄に入ると言うが、ここで今わたしは信仰を公表し、アッラーの使徒が正直であることを証言した。」と言うことは十分可能です。もしこのようなことが起こっていれば、きっと人々は神の啓示であるクルアーンを疑ったことでしょう。しかし実際には、このようなことは何も起こらず、クルアーンが明らかにしたように「彼は死ぬまでムスリムにはならなかった」のです。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P192~195)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2953~2956)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

112章解説

2011年09月03日 | ジュズ・アンマ解説

(2011/9/3訂正・加筆)
بسم الله الرحمن الرحيم
112章解説
1. 言え、「かれはアッラー、唯一なる御方。
2. アッラーは、自存者。
3. かれは産まず、産まれもしない。
4. かれには匹敵するもの何一つない。」

 この章は、多神教徒たちが神様とは一体どのような御方なのか表現してほしいとアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に向けた質問に対する答えとして啓示されました。

 ムハンマドよ、アッラーについて言ってやれ。「かれはアッラー、唯一なる御方」と。彼は御自身においてもその属性においてもその行動においても崇拝されることにおいても、唯一なる御方。アッラーが唯一なる御方であることは、イスラームを構成する信仰箇条であり、アッラーによって啓示されたすべての宗教も同じようにこの信仰箇条によって構成されました。また次のアッラーの御言葉が全預言者と使徒の宣教の基礎でした。「アッラーに仕えなさい。かれの外に、あなたがたに神はないのです」(23章32節)

 アッラーの被造物に見られる跡が、かれが御一人であられることを証言してくれています。このお話を聞いてくださっている皆さん、この世界について深く考察してみてください。そして世界を覆っている規則正しさや叡智や物事の運び方をよく眺めてみてください。さまざま形や距離を違えたものたちが一つになり、調和している姿にも注意を払ってみてください。よく考えてみれば、一つの運営者からそれらが発せられているのが分かるはずです。まさに、“すべてのものに宿るしるしは、アッラーが御一人であることを示している”のです。


 御一人であられる崇高なるアッラー以外に神は存在しません。自然の力や他の被造物の力をかれと配してしまったのなら、それはとてつもなく大きな不義です。その罪の大きさは、次のアッラーの御言葉が示している通りです:「「アッラーは三(位)の一つである。」と言う者は、本当に不信心者である。」(5章73節)

 もし、アッラーにその神性において仲間がいたならば、仲間同士で世界の運行や創造や秩序において相違が起こったことでしょう。やがてこの相違は宇宙の腐敗を招き、不均衡をもたらしたはずです。アッラーは天地創造について言及し給うた直後にこのことについて仰せになられました:「もし,その(天地の)間にアッラー以外の神々があったならば,それらはきっと混乱したであろう。」(5章22節)

 崇高なるアッラーは御一人であられます。そのアッラーに仲間がいたとしたら、他の仲間は他の仲間を追い越そうとして相違が起きてしまったでしょう。そしてそれぞれは自身が創造したものを支配しようとしたでしょう。こうなるともはや宇宙は落ち着くことはなく、規則も守られなくなります。このことについてクルアーンは次のように示しています:「アッラーは子をもうけられない。またかれと一緒の外の神もない。そうであったら,それぞれの神は自分の創ったもので分裂しお互いに抜き出ようとして競い合う。アッラーに讃えあれ。(かれは)かれらの配するものを(超越される)」(23章91節)

 続いてクルアーンは、アッラーの唯一性を表わした後に「アッラーは、自存(صمد)され」という言葉でアッラーの性質を表わしました。サマド(صمد)の意味は、かれの御許しなしにはどのような事柄も遂行されることのない御方、です。かれのみが事柄の遂行者であられます。かれこそは私たちが災難や不幸で苦しんでいるときに、幸せを見出させ給う御方であり、苦悩のときの避難所であり救済者となる御方なのです。またサマドには、“他に必要とされるが、自身は何ものも必要としない”という意味があります。すべての被造物はアッラーを必要としますが、アッラーは何も必要とし給わず、自存し給います。

 私たちが苦しみにあるときにアッラーを求め、かれに避難しようとすることは、アッラーが人間に植え付けた天性の一つです。まことに各宗教の歴史やその哲学がそのことを確証しています。人間は確実に、災難に遭うと、主に帰り主を求めるものなのです。このことはクルアーンにも出てきます:「 人間は災厄に会えば主に祈り,梅悟してかれに返る。」(39章8節)

 続いてクルアーンはアッラーを描写して次のように述べます:「
かれは産まず、産まれもしない」つまり、かれから子は発生せず、かれが何かから発生したことはない、ということです。これはアラブの多神教徒たちの、天使たちはアッラーの娘であるという言葉と、ユダヤ人たちの、ウザイルはアッラーの子である、という言葉と、キリスト教徒たちの、メシアはアッラーの子であるという言葉に対する返答でした。

 もし至高なるアッラーが何かから生まれた、と仮定してみると、それは無からの発生ということになります。これでは私たちを含めた全生物と同じ立場になってしまうどころか、「かれを存在させた存在」を要するという結果にたどりつきます。この思考により、存在を与えてくれる神を必要とする存在に神性は不相応であることが分かります。

 最後にクルアーンが述べるアッラーの属性は:「
かれには匹敵するもの何一つない」つまり、かれの本質と諸属性と諸行為においてもかれの神性においても、かれと同位にあるものは存在しないということです。「かれに比べられるものは何もない。かれは全聴にして凡てを見透される方である。」(42章11節)

 多くの人たちが、想像によって創造主を描写し、理性が受け入れられない形を作りあげては迷ってしまいました。これを逆手に取った無神論者は、宗教と対立しました。

 代わってイスラームは、この問題を正し、アッラーの本質についてはっきりとした言葉をもたらしました。かれは、すべての完璧の属性を持ち給い、そしてかれは被造物が持つすべての属性から離れています。アッラーは御自身について、次のようにクルアーンの中で描写し給いました:「天と地における,(考え得られる)最高の姿は,かれに属する。かれは偉力ならびなく英明であられる。」(30章27章)

 また預言者(平安と祝福あれ)は次のように言われました:《まことにこの章は、クルアーンの三分の一に相当する》(ムスリム)

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P196~198)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2957~2960)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

113章解説

2011年09月03日 | ジュズ・アンマ解説

(2011/9/3訂正・加筆)

بسم الله الرحمن الرحيم
113章解説
1. 言え、「黎明の主にご加護を乞い願う。
2. かれが創られるものの悪(災難)から、
3. 深まる夜の闇の悪(危害)から、
4. 結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たちの悪から、
5. また、嫉妬する者の嫉妬の悪(災厄)から。」

この章は、アッラーから預言者(平安と祝福あれ)と信徒たちへの、あらゆる恐れや悪からアッラーへ避難するようとの指導です。

マッカ啓示と言われていますが、正しくはマディーナ啓示の章です。ユダヤ人たちがマディーナで預言者(平安と祝福あれ)に魔法をかけたのがきっかけです。次に続く114章もマディーナで一緒に啓示されたと言われています:《ある夜、私にかつて見たことのないような章が啓示された。(それらは、)「言え,「梨明の主にご加護を乞い願う。」と「言え,「ご加護を乞い願う,人間の主」である。》(ムスリム、アッ=ティルミズィー、アン=ナサーイー他)

この章が啓示された背景を見てみましょう。真正ハディースに述べられたように、アーイシャ(御満悦あれ)によって伝えられた、ラビード・イブン・アル=アウサムというユダヤ人がアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に魔法をかけた話の中にそれは見出せます。この男の娘である「結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たち」がアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に11個の結び目で魔法を実際にかけたところ、アッラーは結び目と同数の11節の章である、ムアッワザターン(二つの加護を求める章、つまり113と114章)を啓示し給いました。その後預言者(平安と祝福あれ)は回復したということです。ここで、現代の学者の中に、この話をユダヤ人が人々に預言者(平安と祝福あれ)に対して疑いを持たせるためにねつ造したものだとする見解を持つ者がいることも付け加えておきます。その根拠は、「アッラーは,(危害をなす)人びとからあなたを守護なされる。」(5章67節)、「本当にわれは,嘲笑する者に対し,あなたを十分に守ってやる。 」(15章95節)です。

まずこの章は、「言え、「黎明の主にご加護を乞い願う」の言葉で始まっていますが、ファラク(فلق)は「黎明」の他にいくつか別の意味があります。何かが割れることや、何かからはっきりと現われることなど。黎明と呼ばれるのは、夜から朝が生まれる様子が由来であると言われます。「かれは、夜明けを打ち開く御方」(6章96節)他に、ファラクは被造物すべてや、すべての存在という意味を持つとも言われています。それらすべては、無という覆いの中に隠れていましたが、アッラーはそこから創造によって被造物の姿を現せ給いました。「穀粒や堅い種子を裂き開くのは、本当にアッラーである。」(6章95節)アッラーは枯れた種にひびを入れ給い、そこから緑色の草を生えさせ給い、固い種子を割り給い、そこから大きな木を生えさせ給うのです。

クルアーンは私たちに、黎明の主、もしくは万物の主に避難することを教えてくれます。「かれが創られるものの悪(災難)から」つまり、アッラーが作り給うたあらゆる悪から、ということです。この簡潔に表わされた節は、この世界に起こり得るすべての悪を描写しています。

「深まる夜の闇の悪(危害)から」は、暗くなる夜の悪を指しています。夜というものは、恐怖と震えが備わっているものですが、夜に起こると思われる盗難や事件といった出来事への恐れを多くの人に植え付けます。他に、危害を加える猛獣や毒を持つ虫への恐怖も含まれるでしょう。特に田舎などに滞在する人たちのそれらに対する恐怖はさらに大きなものです。そこで至高なるアッラーは、自己防衛のための準備を十分にしたうえで、アッラーに逃げ場を求めること、つまり自身の心をアッラーにゆだねることを信徒たちに命じ給いました。

「結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たちの悪から」の女たちは、魔法使いだと言われています。その理由は、魔法使いは危害を加えたい相手に呪文を唱える際、糸を使うのですが、それを結びながら魔法が成立するために、結び目に唾を吐きかけていくからです。魔法は悪魔によって指導されるものだとクルアーンの中で述べられています。

「また、嫉妬する者の嫉妬の悪(災厄)から」の言葉でアッラーはこの章を結び給います。嫉妬(حسد)は、他人が享受している恩恵が消え去ることを望む感情です。しかしその恩恵が無くなってしまうよう望まず、それと同じようなものが自分にもあればと望むことは嫉妬ではありません。それが服従行為であれば、より好ましいものです。イスラームにおける合法な二種類の嫉妬は、預言者(平安と祝福あれ)が次にお示しになったとおりです:《嫉妬は二つしかない。アッラーが財産を与え給い、真実においてそれを消費する権力を与えられた者と、アッラーが叡智を与え給い、それによって裁定し、それを教える者。》(アル=ブハーリー)

実はこの嫉妬が、天と地でアッラーに対して犯された最初の罪なのです。イブリースはかつて天上でアーダムに大きく嫉妬しました。彼の嫉妬は、アッラーによる「アーダムにサジダ(跪拝)する」という命令に背かせるほどのものでした。「彼(イブリース)は言った。「あなたが泥で創られた者に、どうしてサジダしましょうか。」」(17章61節)とクルアーンにあります。ここでのサジダは、崇拝的な意味を持たない、敬意を表するものです。そこでアッラーはイブリースを天国から追放し給い、審判の日まで続く呪いを彼にかけ給うたのです。代わって地上で起こった最初の嫉妬は、カービールがハービール(両人とも最初のの人間であり預言者であったアーダムの子。)に対して抱いたものです。ハービールを殺害させるほど激かった彼の嫉妬の原因は、アッラーが彼の供え物は嘉納し給わず、兄弟であるハービールの供え物を嘉納し給うたためです。

この章は、人間を「恐怖」からの解放へ導いてくれています。心理学でも理解されているように、「恐怖」は精神と身体に破壊的な影響を与えます。人々に「恐怖」が覆いかぶさると、彼らのモチベーションは低下してしまい、自信もなくなってしまいます。以上は精神に与える影響についてですが、「恐怖」が身体に与える影響に次のようなものがあります。心拍数の増加、筋肉の不安定による影響は胃にもおよび、痛みとなって現れます。また震えと虚弱感が生まれます。

至高なるアッラーは、かれに避難することで、人間から恐怖心を取り除きたいと望み給いました。誰でも、全被造物の主であるアッラーに避難する人は、すべての悪からかれに守ってもらえ、恐怖を取り除いてもらえるでしょう。そしてしっかり力強く生きるために十分な落ち着きと自信をアッラーに与えてもらえるでしょう。

またこの章は、悪口を言って歩いては社会にひびを入れる腐敗した者、他人に害を望む嫉妬する者たちに対する反抗と、そして彼らの望みが達成されることがないことを暗示しています。アッラーに対するイスティアーザ(加護を求める)は、このような者たちの害から身を守る手段をとる行動でもあるのです。

預言者(平安と祝福あれ)はこの章などを繰り返しお読みになっていたと、アル=ブハーリーが出典したアーイシャ(御満悦あれ)が伝えたハディースにあります。《預言者(平安と祝福あれ)はかつて、毎晩寝床に赴かれる際、合わせた両手に息を吹きかけ、「言え,「かれはアッラー,唯一なる御方であられる。(112章)」と「言え,「梨明の主にご加護を乞い願う。(113章)」と「言え,「ご加護を乞い願う,人間の主(114章)」をお読みになり、その両手で届く限りの体の各部分をお撫でになったが、まずは頭、顔、体に続く部分から始められ、三回同じことをされた。》

参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P199~202)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2961~2963)

③ファトゥフ・アル=バーリー、シャラフ・サヒーフ・アル=ブハーリー/イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー(第一巻、http://www.muhaddith.org/cgi-bin/dspl_cgi.exe/form)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする