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88章解説

2011年08月09日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
88章解説
1. 圧倒的(事態の)消息が、あなたに達したか。
2. (或る者の)顔はその日項垂れ、
3. 骨折り疲れ切って、
4. 燃えさかる獄火で焼かれ、
5. 煮えたぎる泉水を飲まされる。
6. かれらには苦い茨の外に、食物はなく、
7. それは栄養にもならず、飢えも癒せない。
8. (外の或る者たちの)顔は、その日歓喜し、
9. かれらは努力して心充ち足り、
10. 高い楽園の中に置り、
11. そこで、虚しい(言葉)を聞かない。
12. そこには、流れる泉があり、
13. 高く上げられた(位階の)寝床があり、
14. 大杯が備えられ、
15. 褥は数列に並べられ、
16. 敷物が敷きつめられている。
17. かれらは骼駝に就いて、如何に創られたかを考えてみないのか。
18. また天に就いて、如何に高く掲げられたか、
19. また山々に就いて、如何に据え付けられているか、
20. また大地に就いて、如何に広げられているかを。
21. だからあなたは訓戒しなさい。本当にあなたは一人の訓戒者に外ならない。
22. かれらのための、支配者ではない。
23. だが誰でも、背き去って信仰を拒否するならば、
24. アッラーは最大の懲罰でかれらを罰される。
25. 本当にわれの許に、かれらは帰り来るのである。
26. かれらの清算は、本当にわれの任である。

 この章は、審判と人々のその日の行き先―至福か罰か―について述べ、また何でも可能な御方の力を垣間見られる現象のいくつかに私たちの関心を向けます。

 まず、聴覚に審判の日の恐ろしさやその日の人々の帰り処が何かを訴えかける表現から始まります。アッラーは仰せになります:「圧倒的(事態の)消息が、あなたに達したか。」事態の重要性を大きくし、それが確実に起こることを強調し、一体それはどのような消息であるのか興味を持たせるために疑問詞が使われています。アル=ガーシヤ(覆うという意味を持つغ ش يが語幹)は、審判を指しています。その恐ろしさと激しさで人々を覆うためこのように名付けられました。

 続いてクルアーンは罰を受ける人間の様子と至福を享受する人間の様子を語ります。審判の恐ろしさと激しさに合わせて、まず罰を受ける民の光景が述べられます:

 「(或る者の)顔はその日項垂れ、骨折り疲れ切って、燃えさかる獄火で焼かれ」

 かの日、屈辱を味わっていると分かる顔があるでしょう。彼らは現世で大いに苦労したのですが、来世のためには何もなりませんでした。なぜならその人の現世の行いは不信と罪だけだったためです。または:不信仰者たちは、来世において、日の中で鎖や足枷を引っ張ることで疲れ、苦しむだろうし、それに地獄の暑さの厳しさが追加されるという意味です。

 クルアーンは続けて、彼らの苦しみを表現します:

 「煮えたぎる泉水を飲まされる。かれらには苦い茨の外に、食物はなく、それは栄養にもならず、飢えも癒せない。」

 激しいのどの渇きを癒やすなにかをくれ!と地獄の民が求めて出てくるのは、沸点に達した熱いお湯です。空腹のあまりに痛む彼らが食べ物を求めると、ダリーゥという棘の種類の果実が出てきますが、腹の足しになるようなものでは決してなく、反対に食べる者の害となります。

 以上が罰の民の光景です。代わって至福の民をクルアーンは次のように表します。

 「(外の或る者たちの)顔は、その日歓喜し、かれらは努力して心充ち足り、高い楽園の中におり、そこで、虚しい(言葉)を聞かない。」

 喜びと善良さを合わせた表情です。それらは彼らが享受する至福から来る影響です。

 「かれらは努力して心充ち足り」自分たちの現世の行為に満足している、また来世でアッラーが彼らに与え給うた至福に満足しているという意味です。さて、この至福はどこにあるのでしょう?それは、「高い楽園の中に」あります。天国(ジャンナ)は来世における至福の住処です。ジャンナの由来は、覆い。木が豊かで、陰が出来る様子がうかがえます。天国の特徴も場所と同様に、高いのです。クルアーンはこの天国を次のように描写します:「そこで、虚しい(言葉)を聞かない」そこでは意味のない言葉や間違った言葉を聞くことなどないという意味です。天国にあるそのほかの至福について言及する前に、天国をこのように描写したのは、現世における裕福で贅沢な生活を送る人たちの状態に対する批判が背景にあります。彼らは、言葉遣いにおいて限度を超えるのが至福を補完するものだとしています。この中には、意味のない話をする者とならないようにとの、信者に対する教訓が含まれています。アッラーは現世で彼らに対し、かれの恩恵をたくさん授け給うているのですから、信者たちの至福は、無知で愚かな人たちの至福ではなく、徳のある人たちの至福であるべきなのです。

クルアーンは続けて、天国の至福を描写します:
「そこには、流れる泉があり、高く上げられた(位階の)寝床があり、大杯が備えられ、褥は数列に並べられ、敷物が敷きつめられている。」

天国には、噴出する泉が流れており、それは止まることがありません。また高いところに設置された心地よい座り場所もあります。そこに座った信者が主が彼のために許し給うたすべての至福を目で見ることが出来るようにするためです。またすぐ手に取れる、準備されたコップが置かれてもいます。人々が飲みたいと望むと、コップは飲み物で満たされるのです。彼らは居間で、並べられたクッションに寄りかかります。そこには楽しみと美しさを添える絨毯が敷き詰められています。

クルアーンが来世の生活の概要を述べた後、話題は現在の生活に戻ります。この世界における創造主の偉大さと顕在したかれの御力に今度は私たちの目を向けさせます。至高なる御方は仰せになります:

「かれらは骼駝に就いて、如何に創られたかを考えてみないのか。また天に就いて、如何に高く掲げられたか、また山々に就いて、如何に据え付けられているか、また大地に就いて、如何に広げられているかを。」

クルアーンは私たちの目を、私たちの傍は上にある、そこから訓戒を得ないまま見ているものに向けさせます。その第一番目が:ラクダです。クルアーンを授かったアラブ人は、他の人たちに比べてラクダを頻繁に利用していたからです。その創造には、秘密があり、叡智と神の御力を感じさせる秘密があります。これについてはこの章の最後で詳細を述べます。

代わって天の創造について言えば、それはアッラーの御力を最も感じさせます。天は、人類が昇っていこうとするもの、星や惑星に満ちた場所です。科学者たちは、望遠鏡の発明がされた後、その数は数百億にのぼるとしました。

またクルアーンは、山々を大地に据え、大地を広げて、何億もの人間や生き物が住むのに適した場所にし給うたアッラーの御力の様子に目を向けさせます。

審判の日の情景、この世界におけるアッラーの御力の様子が述べられた後、アッラーは使徒(平安と祝福あれ)の目を、訓戒と強制ではなく慈善に基づいた彼に与えられた任務に向けさせ給います:

「だからあなたは訓戒しなさい。本当にあなたは一人の訓戒者に外ならない。かれらのための、支配者ではない。」

つまり、ムハンマドよ、人々にアッラーの御力と叡智を示す諸印、彼らに下された恩恵を思い出させなさい。われがあなたを彼らに遣わしたのは、アッラーの導きを彼らに知らせ、それによって彼らを訓戒するため。あなたは彼らを支配する者でも、人々にあなたのしたいことをさせるような暴君でもない、という意味です。

続けてクルアーンは、アッラーの導きに背を向けた人の行く末を解明します:

「だが誰でも、背き去って信仰を拒否するならば、アッラーは最大の懲罰でかれらを罰される。」

つまり、しかし、あなたムハンマドに背き、アッラーの導きによって導かれず、かれの諸印を拒否する者は、アッラーはその者を最大の罰、つまり地獄の罰で罰されるだろう、という意味です。

死と再生で人々がアッラーの許に帰ることは、紛れのない事実です。アッラーは彼らの行為を清算し給います:「本当にわれの許に、かれらは帰り来るのである。かれらの清算は、本当にわれの任である。」

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP94~99)

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