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73章解説【1】

2013年06月13日 | ジュズ・タバーラカ解説
1.包まる者よ、
2.夜に(礼拝に)立て、少時を除いて。
3.(つまり)その(夜の)半分、もしくは、それより少し欠くほどか、
4.あるいは、それ(夜の半分)より増やせ。そしてクルアーンを滔々と読誦せよ。
5.まことにわれらはいずれ、おまえの上に重い言葉(クルアーン)を投げかける。
6.まことに夜の発現、それはさらに平坦で言葉もさらに廉直である。
7.まことに、おまえには、昼間は長い(生活のための)往来がある。
8.そしておまえの主の御名を唱え、彼に専従し仕えよ。
9.東と西の主、彼のほかに神はいない。それゆえ彼を代理人とせよ。
10.そして、彼ら(マッカの多神教徒)の言うことに耐え、彼らからきれいに(みごとに)身をかわし避けよ。

 この章が啓示された背景がいくつか伝えられています:

預言者(祝福と平安あれ)による人々への宣教活動を阻止するための策を講じようとクライシュがアン=ナドワ館に集まったという知らせがアッラーの使徒(祝福と平安あれ)に届くと、悲しみに覆われた彼は、ご自身をも衣服で覆いました。(服に包まったという意味)そして心配する中眠りにつきましたが、そこに大天使ジブリールが来て、言いました:「包まる者よ」つまり衣服に包まった者よ。そのような呼び名は預言者(祝福と平安あれ)にとって慰めでした。アラブの習慣として、呼びかけの相手の状態に合わせた呼び名で親しみを込めるということがあります。

また:ジブリールがヒラーの洞窟にいた預言者(祝福と平安あれ)の前に現れたとき、預言者(祝福と平安あれ)は恐れから震えながら家に帰りました。寝床に逃げた彼は、覆ってくれ、覆ってくれ、と言いました。預言者(祝福と平安あれ)がまさにそのような状態にあったとき、ジブリールがふと現れて、「身を包んだ者よ」と言い、その直後に「包まる者よ」が啓示されました。

また:預言者(祝福と平安あれ)が礼拝のために身を服で包んだところで、「包まる者よ」つまり崇拝行為の準備が整った者よ、と呼ばれたと言われています。

至高なる御方の御言葉:「夜に(礼拝に)立て、少時を除いて」は、崇拝行為のために少しの時間を除いて夜に立ちなさい、という意味です。ここで言葉は預言者(祝福と平安あれ)に向けられたものです。眠りを放棄して、崇拝行為のために夜は立ちなさいとの天からの呼びかけです。それは背負わされることになる重い責務に対する準備になるのです。それはほかでもない、アッラーへと人々を誘う仕事です。

この呼びかけが預言者(祝福と平安あれ)に向けられたものであるということは、同時に彼の追従者たちである信徒たちに向けられたものでもあるということです。皆が崇拝行為とアッラーへの誘いの責任を預言者と共有するためです。そのためにも信徒たちは預言者(祝福と平安あれ)の夜の礼拝における道をたどったのです。

これらがアッラーが定め給うた初期の任務です:寝床の放棄、礼拝・クルアーン読誦・タスビーフ(スブハーナッラーということ)・タハリール(ラーイラーハイッラッラーということ・罪の許しを請うといった行為を含むアッラーに捧げる崇拝行為を夜に行うこと。

夜中の崇拝行為が、軍に入ったばかりの兵士の訓練に匹敵することに注目しないわけにはいきません。ただし崇拝行為は違った種類の訓練です。それは実に、信者を創造主につなげ、魂を強くし、また活性化し、神の命令を受け入れやすい状態にする精神的訓練なのです。こういった面のほかに、夜中の崇拝行為は身体を鍛えて厳しさを受け入れる訓練となるいった面もあります。そうすることで魂は満足と忍耐で人生のさまざまな責務を負える準備状態に入れます。また安楽、思うが侭に欲を満たすといった危機感や重大な仕事の実行を弱めたりといった浪費者たちの状況を避けることもできます。つまり夜の崇拝行為は、初期の信者たちが卒業して行った信者の小学校であるということです。だからこそ人々のために輩出された中でももっとも優れた共同体なのです。この共同体こそが国々を解放し、導きと平等を各地に広めたのです。

アッラーは崇拝行為に関して仰せになっています:
「夜に(礼拝に)立て、少時を除いて。(つまり)その(夜の)半分、もしくは、それより少し欠くほどか、あるいは、それ(夜の半分)より増やせ。そしてクルアーンを滔々と読誦せよ。まことにわれらはいずれ、おまえの上に重い言葉(クルアーン)を投げかける。」

夜における崇拝行為は夜の半分かそれより少しだけ短い時間、つまり夜の三分の一よりも少なくない時間に行われなければなりません。魂の研磨と創造主とのつながりにおいて求められている効果と成功した行動を生み出すためです。それか夜の半分としても良いが、長い崇拝行為によって求められているものの逆の効果、つまり体が弱まってしまって、それ以降の生活に支障が出てしまうことがないように三分の二以下としてもよい。「そしてクルアーンを滔々と読誦せよ」の意味は、字の判読とともにじっくりと考えながら一節一節を読め、意味についての熟考のない読み方ではいけない、です。それには、無理のない程度での美しく読もうとする試みも含まれます。「あなたたちの声でクルアーンを飾りなさい」というハディースも存在します。

「まことにわれらはいずれ、おまえの上に重い言葉(クルアーン)を投げかける」つまり、ムハンマドよ、導き・英知・正確さ・明解さにおいて人間の言葉を超える尊く重い言葉-クルアーン-をいずれ啓示する、という意味です。または、クルアーンは、人々が慣れ親しんだ間違った信条の放棄や受け継いできた腐敗した習慣の放棄の要求を含むことから、人々にとって重くて踏み込みにくいものとなるだろうという意味です。

そこでアッラーは、崇拝行為のために夜の間立ち、クルアーンを読むことの英知を解明し給います:
「まことに夜の発現、それはさらに平坦で言葉もさらに廉直である。まことに、おまえには、昼間は長い(生活のための)往来がある。そしておまえの主の御名を唱え、彼に専従し仕えよ。東と西の主、彼のほかに神はいない。それゆえ彼を代理人とせよ。」

夜の発現とは、夜の時間帯すべてや、その間に行われるクルアーン読誦や礼拝などの服従行為のことです。だからそれは「さらに平坦で」つまりさらに足がしっかりと地につき、混乱から離れており、昼間よりも礼拝する者にはより重いものだ、ということです。「言葉もさらに廉直である」より正しい言葉ということです。夜における静かな声、動きの少なさは、クルアーンの意味についての熟考と礼拝における畏敬の念の高まりを助けます。

「まことに、おまえには、昼間は長い(生活のための)往来がある」つまり、昼間には用事を済ませたりする十分に空いた時間がある。だからこそ、夜間にやり逃した崇拝行為があるなら、昼間にそれを取り戻せばいいだろう、という意味です。「そしておまえの主の御名を唱え」おまえに対して創造と調教の義務を負い給うたアッラーの御名前を唱えなさい、という意味です。「彼に専従し仕えよ」彼のために崇拝行為に専念し、意志を純正化し、彼以外の存在を彼とともに配置しないこと。タバットゥルとは:現世から離れてアッラーに向かうことを指します。「東と西の主、彼のほかに神はいない」他でもない至高なる彼こそが東と西の所有者です。「それゆえ彼を代理人とせよ」彼おひとりのみを頼り、降参し、よりどころにしなさい、という意味です。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP107~110)

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