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75章解説【2】

2013年01月17日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
20.断じて、いや、おまえたち(不信仰者)は目先のもの(現世)を愛し、
21.そして来世をなおざりにする。
22.その日、(信仰者たちの)顔は輝き、
23.(顔は)その主の方を仰ぎ見る。
24.また、その日、(不信仰者たちの)顔は暗く歪み、
25.背骨折(のような責め苦)が己に対しなされると思う(確信する)。
26.断じて、(魂が喉元を囲む)鎖骨に達した時、
27.そして(周囲の者に)言われた、「(あなたがたのうち)誰が呪医ですか」。
28.そして彼(瀕死の者)は、それがかの別離であると思った(確信した)。
29.そして脚は脚に重なる。
30.その日、お前の主の方に(裁定に)追い立てはある。
31.それでも彼(人間)は真実と認めず、礼拝もしなかった。
32.むしろ、嘘と否定し、背を向けた。
33.それから、意気揚々と歩んで家族の許に赴いた。
34.(破滅は)おまえに近いぞ、近い。
35.更に、おまえに近いぞ、近い。
36.人間は見逃されて放っておかれると考えるのか。
37.彼(人間)は射精された精液の一滴ではなかったか。
38.それから、それは凝血となり、更に(アッラーがそれを人間に)創り、更に整え給うた。
39.そして、それ(そのような人間)から男と女の両配偶者を成した。
40.そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか。

そして現世の欲望を来世より優先している審判の日の到来を否定している者たちに対する警告の言葉に戻ります:
「断じて、いや、おまえたち(不信仰者)は目先のもの(現世)を愛し、そして来世をなおざりにする。」

 意味:クライシュよ!現実がおまえたちの主張のように死後の復活などなく、行為の報復もないというのは違う!おまえたちは消えゆく現世を愛し、永遠に終わらない来世を放棄している。現世を目先のものと名付けているところにその短さと時間の経過の早さが現われています。

 そしてアッラーは来世における信仰者の行く末と不信仰者の行く末を解明し給います:
 「その日、(信仰者たちの)顔は輝き、(顔は)その主の方を仰ぎ見る。また、その日、(不信仰者たちの)顔は暗く歪み、背骨折(のような責め苦)が己に対しなされると思う(確信する)。」

 輝く顔は信仰者の顔を指します。輝く(ナーディラ)は、至福の印として喜びが見られることです。その顔はその主をまじまじと見ます。自分らの祝福多き至高なる主を見られる以上に愛しいことなど彼らにはありません。ただ、如何に見るのかについては私たちには分かりません。この世界に存在するすべての美は万物の主の創造です。そんな御方が信仰者の前に御姿を顕わにしてくださることは、彼らにとってこれ以上にない幸福であるのです。

 代わって不信仰者の顔は、暗く歪みます。つまり、自らの行いを知って顰め面になることです。そのため背骨を折るようなとても巧みな仕置きが起きることを確信します。

 アッラーは不信仰者たちに審判の日の光景を知らせることで脅かし給うた後、彼らが毎日目にしている光景を更に彼らに近付けて更に脅し給います:それは人間と現世の間を離れさせる死の光景です。愛する者たちとの間を隔てる、地球の生き物全てが経験する死です。それは避けられないものであり、世界のあらゆる場で常に繰り返し起きています。そして全ての存在は死に対して同じ立場にあり、それを追い返す方法などありません。以上の事実は、人間が関わる余地のない神の能力から死がやってくることを感じさせます。にもかかわらず彼らははかない現世が消えることから何も教訓を得ません。至高なるアッラーは仰せになります:
 「断じて、(魂が喉元を囲む)鎖骨に達した時、そして(周囲の者に)言われた、「(あなたがたのうち)誰が呪医ですか」。そして彼(瀕死の者)は、それがかの別離であると思った(確信した)。そして脚は脚に重なる。その日、お前の主の方に(裁定に)追い立てはある。」

 「魂」は人間の魂を指します。それが鎖骨に達することは、死が訪れ、その兆候があらわれはじめることを指します。「誰が呪医ですか」つまり死に際の人間の家族が言い合います:この人を治せる医者はいないか?と。「راق」は病人を治療するために何かを読む人を指します。「そして彼(瀕死の者)は、それがかの別離であると思った(確信した)」つまり、瀕死の人間が、現世、家族、お金、子供と自分を離れさせる死の到来を確信した、です。「そして脚は脚に重なる」魂が体内から出るときまたは両脚がカフン(死人を覆う布)にくるまれるときに両脚がくっつくことを指すと言われます。また:死の苦悩の激しさが到来しつつある来世が付随している恐怖、清算、報奨、罰にくっつくことを意味する、とも言われます。「その日、お前の主の方に(裁定に)追い立てはある」つまり、しもべたちの帰り処はアッラーであるゆえ、彼らは審判の日に行為の報いを受けるために主のもとに連れて行かれます。

 命を断つ死の光景を前に、続く聖句はアッラーの導きに背を向ける者たち蔑視します:
 「それでも彼(人間)は真実と認めず、礼拝もしなかった。むしろ、嘘と否定し、背を向けた。それから、意気揚々と歩んで家族の許に赴いた。」

 審判の日を信じず、アッラーのことも彼の啓示のことも信じず、礼拝もせず、クルアーンを嘘だと言い、信仰から背を向けた人間は、家族の許に気取り歩いて帰ったという意味です。

 これらの特徴を備えた者に対してクルアーンは脅迫を向けます:
 「(破滅は)おまえに近いぞ、近い。更に、おまえに近いぞ、近い。」

 この表現は、アラビア語において、脅しを意味します。クルアーンも脅迫を目的として、この表現を繰り返し使っています。

 審判の日を否定する者、この現世の中に腐敗した者、生きている間ずっと不道徳なままの者はアッラーが人間を無目的に創造し給うたと思うのでしょうか。人間は動物と同じなのでしょうか。命令されず、義務も負わされない。規律を齎す法に従うよう呼び掛けられることはなく、その両手が成した行為の清算を来世で受けることもない?!
 「人間は見逃されて放っておかれると考えるのか。」

 審判を否定する者たちにアッラーから応答が来ます。人間の創造の初期についてと、子宮におけるその成長の段階についての解明が共に述べられます。人間を創造したアッラーの御力はそれをその死後に生きた状態に戻すことが可能です:

 「彼(人間)は射精された精液の一滴ではなかったか。それから、それは凝血となり、更に(アッラーがそれを人間に)創り、更に整え給うた。そして、それ(そのような人間)から男と女の両配偶者を成した。そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか。」

 人間は偶然生まれた存在ではありません。アッラーは彼を、無数の精液の中から卵子と結合出来る一つの精子から創り給い、受精卵は凝血つまり分裂したものになり、子宮の壁に引っ掛かります。そして細胞は完全な人間に成長します:つまり男と女です。

 人間をこのような形に創造出来る可能な御方は、清算のために人間を審判の日に復活させ給うことが可能です。「そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか」この聖句をもってこの章は完結します。自分は生き返ることはなく、骨も集められることはないつまり再生を否定している人間に対する応答は章の冒頭に先に述べられました:「われらは彼の指先まで整えることが可能」そして章の終わりはこの聖句に合った「そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか」との御言葉が来ています。

 また預言者(祝福と平安あれ)は「そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか」を読むたびに、「至高なるアッラーよ、いいえ」と言っていたことが伝わっています。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP139~142)
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