◎二人の弟子と妻も同日の昇仙
習近平失脚の噂が流れる今日この頃。
『そこで道陵は蒼渓県の雲台山に上って、ここが即ち自分の功が成就して、他日昇天する地であると定めて、ここに庵を結んで住んでいた 。ある日再び鳴り響く天楽の音が空中に聞えて、太上老君が再び現れ出た 。しかし高く雲の上に車を停めて下まで降りて来なかったので、道陵は地に平伏し、はらはらと涙を流しながら、「畏れ多くも詔を奉じ、秘文を賜って悪鬼と戦い、目出度く彼らを鎮圧することができたが、これも陛下の御稜威によることは言うまでもない 。とは言えながら、しかし臣が身命を惜しまず、微力を尽くした功労も少なくないことと存じております 。して今陛下は忝なくもわざわざここに御光臨になったにも拘らず、雲上高く留まらせ給うは臣が身になお未熟な点があってのことか、それとも大道が永くこの身を見捨てたのか 。願わくは一言の御言葉を賜って、臣の意を決せしめ給え」と、大地に身を転がして慟哭した 。
その時老君は一人の使者に命じて言わせるように、「汝の功労は確かに広大にして、九真上仙に拝するだけの価値は確かに在る 。しかし先日汝に命じて鬼神たちを鎮定させたのは、ただ彼らが狂暴な行いを止め、幽明を分け、人鬼の区別を明らかにし、もって清浄の化を布かせんがためであった 。
しかるを汝みだりに鬼を殺し、またみだりに風雨を起こし、鬼神を使役し、山川を震動せしめ、殺生をもって天地を汚したのは、元来慈悲を以て本旨としている大道に違反している 。これをもって上帝はひどく汝の罪を怒っておられるによって、我は汝に親しく近づくことができないのである 。
然らば汝暫時身を退いて、過ちを悔い罪を謝して謹慎の意を表し、さらに一層奮励して三千六百日の間道を修めた後に、我は更に再び汝と無何有の郷、上清八景宮の内に於て対面しよう」と言い終えて、再び天上へ昇って去られた 。
そこで道陵は王長と一緒に鶴鳴山に赴き、そこで暫時謹慎していた 。ところが、ある日どこかに妖怪が住んでいて人民を苦しめていると聞いたので、早速弟子の王長、趙昇たちを率いてそこに至ると、途中で十二人の神女に会い、この付近に一つの醸泉があると聞えているが、場所は何処であるかと件の神女共に尋ねると、彼処に見えるのが即ちそれである 。
但しそこには昔から一頭の毒龍が住んでいて、近づくものに害をなすと伝えられているから気をつけられよとのことだったが、これを聞いて道陵は件の大池に行き、法をもってその毒龍を呼び寄せたけれど出て来ない 。そこで彼は一枚の符を書き、化して金翅の鳥となし、池の上を飛び旋回させると、毒龍はこれを見て大いに驚き、急いで池を振り捨て、どこへか逃げ去ってしまった 。
するとその後池の水は悉く涸れ尽くし、遂に鹹泉(塩水が湧き出る泉)が湧き出るようになったので、住民たちはここに初めて再び塩水を汲んで塩を製することができた 。その時の十二の神女が再び出てきて、銘々一つの玉環を道陵に捧げ、長く彼の姿となって仕えんことを請うた 。道陵はこれを見て先ず玉環を受け取り、それを組み合わせて一つの大きな玉環となし、それを井戸の中に放り捨て、「離れて先ずその環を得たものを以て妾とする」旨を告げ 、そして神女たちが我先にと衣を解いて井戸の中へ入り、玉環を取ろうと争うのを見計らい、急に件の井戸に蓋をして、永く彼女らを封じ込めて井戸の神とした 。
これがためにその辺の住民は今になっても彼の神女の害に遭うことがなく、長く鹹泉の利を受けることができたので 、その後彼の功績をもってその町に付け、陵州と号したそうである 。
さて道陵は重ねて道を修めること前後二十年間であったが、ある日二人の仙使が突然彼の許に訪ねて来た 。一人は青い襟をつけた朱い衣を着て左手に板籍を執っている 。今一人は黒い髻をもって髪を包み、身に美しい絹の衣を着て、腰に剣を佩びていた 。そして手に一つの函を捧げ恭しく道陵の前に進み寄って、上帝の命によって彼を閬苑に呼び迎えんために態々ここへ来た事を告げ、上清真符を彼に渡した 。
そして暫時経つと、数千の天兵一頭の黒龍に紫の駕籠を曳かせ、雲に乗って煌々と現われて道陵をその駕籠に乗せて天上の仙宮へ連れて行った 。
道陵はやがて仙宮へ到着して見ると、その結構の宏壮にして美を凝らしている有様は見るに目も眩むばかりで、宮殿の門の上には擬太玄都正一真人 の九字を書いた扁額が掲げられてあった 。
その時数多の仙人が出て来て一人一人彼に拝謁し、それが済むと二人の仙人が現れて彼を老君の許に案内した。これより先き二人の従者がいて彼の傍に始終付き添っていたが、いずれも二十ばかりの少年で、ある人に聞くと、それは子房子淵の二人であるということだ。太上元始天尊のお住まいなさる宮殿というのは、石を巧みに削った玉で作り、土塀は黄金で固められていた。次に殿上を見渡すと、金碧燦爛として目も眩むほどである。ややしばらく経つと一人の仙人が現れて恭しく詔を奉じて彼に正一盟威の法を授け、なお彼を推して太玄都正一平気三天扶教輔元大法師となされ、更に昇天の期日をも予め彼に告げ知らせた。その後道陵は上帝の宮を辞して自分の住家なる巴西の渠亭山の赤石崖舎に帰ってくると、まず三天正一の秘法を弟子の王長、趙昇に授け、離沅山中に於て広くその法を世に推し広め、次に又陽平山に於て飛仙の法を嗣師に授けた。
桓帝の永寿元年正月七日、夜もほのぼのと明け方近くなった時、王長、趙昇の二人空中を見るとその場に太上老君がお出になり、張道陵の名を呼んで、「汝の功によって唯今秘籙を授け遺すぞ」と言い終えると老君は道陵に命じて白鶴に乗らしめて、成都へ連れて行き、ここで暫時正一盟威の大旨と北斗南斗経とを説いて聞かせ、それが済むと、老君は忽ち天上へ帰っていった。
その時道陵は長く自分の遺跡を後世に残そうと思い、雲台山の西北にある断崖の間に身を投げ込むと、石壁の中を穿って、その頂の方から再び飛んで出てきた。それがためにそこに二つの洞穴ができた。崖の中腹にあるのを峻仙洞といい、頂にあるを平仙洞という。同年九月九日彼はなお渠亭山に留まっていたが、上帝そこへわざわざ使いを遣わして彼に正一真人の号を授け、まもなく昇天すべきことを諭された。これにおいて、彼は盟威都功等の諸品の秘録及び斬邪の二剣、その他玉冊玉印をば長男の衡に授け、「三五歩置正一の秘法は詳しくこれらの書に説いてあって、妖邪を退治し、人民を安んずるの術もまたこの中に記してある。
我が子孫は代々自分の位を受け継ぐべきであるから、我が家の子孫でないものにはこれらの書を与えてはならぬぞ」と堅く戒め、また王長、趙昇の二人の弟子に仙丹の残部を分けて遣って自分と一所に昇天することを得させた。やがて多くの仙官たちの迎えを受け、洋々たる天楽の中に、紫の絞興に乗り黒龍を御して遥かに昇天していった。時に年百二十三歳、昇天の場所は即ち彼の雲台山である。その時彼の夫人の雍氏もまた共に一所に昇天していった。その後彼の子孫は世々異人の位を受け継いで、江西の広信府、貴渓県の龍虎山に住んでいた。』
ここでも、無何有の郷に至れば昇仙の資格ありということ。
同時に白日昇天できるのが、二人の弟子と妻というのは、実は同日の昇仙ではなく、後日だったのではないだろうか。
禅のホウ居士父娘ですら、同日の臨終ではなかった。