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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

董奉の物語

2025-05-31 03:44:31 | 人と神の「実際のところ」

◎屍解もするし、白日昇天もする

 

『董奉、字は君異といい、侯官県の人である。その時、同県に長余姓という者がいて、年なお幼い時に或る機会から董奉に面会したことがあった。その時、董奉は既に三十余であった 。その後五十年経て、長余姓がある他の栄職に就いて再び侯官県を通った時、その地の役人共皆彼の許に往いて拝謁したことがある 。

その時、董奉もその中に居ったが、長余姓は彼を見て驚き、「足下は恐らく仙道を得られたのではあるまいか、という訳は、自分が年なお幼くて郷里に居た時に足下に面会したことがある 。それは足下もまた記憶して居られることであろう 。その時足下は最早可なりの年頃であったが、今日お目にかかって見ると、足下は炯々として昔のままで少しも年老った容子がない 。如何にも不思議なことである」と話した 。

その時、董奉はわざととぼけた振をして、「自分でも不思議に思っている」由を語り、「これもこの様な伴運と自分が持って生れたものであろう」と言って笑った 。

 

ここに交州の刺史を為て居た杜登というものが病死して、既に三日許り経過してあったが、その時会々董奉が交州に遊隠して居たので、三つの丸薬を彼の口に含ませ、側の人に命じて彼の頭を挙げ、その身体を揺らしめると、暫時たって、彼は忽ち蘇生し、目を開き、手足を動し、顔色ももとのように精彩になり、半日程たつと起き上り、その後四日程経つと談笑少しも昔に異らなかった 。

そして人に語っていうには、初め死んで息が絶えた時は精神恍惚としてあたかも夢のようであったが、暫時すると、黒衣を着た人が数十人遣って来て、自分を露車(はだかぐるま)の上に載せ、何処へか曳いて行ったかと思うと堅固な朱塗の門のある庭に着き、或る獄屋に投げ込むと直ぐと戸を閉じて外から土を以て封じたようである 。獄屋は一軒立の小屋というよりも寧ろ室という方が近く、一人はいる広さで、暫時すると、一人の男が遣って来て、「自分は太一帝の使者であるが帝の勅によって此処まで汝を迎ひに来たのである」といった時、誰やらが鍬をもって外を頻りに掘る様子であったが、暫時して戸が開き、自分は戸の外へ連れ出された 。

見れば割符の処に赤い蓋を附けた馬車が一輛あって、三人の男が乗って居た 。その中の節(わりふ)を持て居た一人の男が自分の名を呼んで車にのせ、彼処から曳いて前の朱塗門の処へ着いたかと思った時、自分は始て蘇生したのである 。

是に於て杜燮は中庭に立派な一の高楼を築いて、そこに董奉を住まわせ厚く彼を待遇してあったが、董奉はただ脯(ほしし。干し肉)と棗ばかりを食べて居た 。酒は非常に好きで日に三度飲んで居た 。そして彼は時々杜燮の許へ来て共に飲食をすることもあったが、その挙動極めて軽く、自分の居間を出たかと思うと影の動くようにスーッと進み来て、何時の間にか杜燮の座敷に来て居る 。帰る時も矢張り同様であった 。

董奉はしばらく杜燮の許に滞留して居たが、ある日暇を告げてそこを立去ろうとすると、杜燮は痛く別離を惜しんで、為めに大船を造って遣ろうとした 。董奉はそれを押留めて、「自分は旅行をするのに決して船は用いぬ、唯一箇の棺さへあれば充分である」といったので、そこて杜燮は彼の言葉通り早速一の棺を用意さすと、翌日になって董奉にわかに変死した 。

そこでその屍体を棺に入れて埋葬すると、七日程経て、岩昌の方から還て来た人があって、杜燮に彼方で董奉に面会したことを話した 。杜燮これを聞いて不審の余り董奉の棺を掘り出して中を開いて見ると、屍体は何時の間にか消え失せて、中には唯一枚の丹書のみが残って居た 。

 

董奉はその後盛山の麓へ一軒の小屋を建てそこに住んで居たが、ここに一人のらい病患者が居て、今や将に息が絶えなんとした時、彼に治療を乞うた 。その時董奉は彼を空室の中へ坐らしめ、五重にたたんだ布を以てその目を塞ぎ、人のその側に近寄ることを堅く禁じて居た 。暫時たつと彼の患者は苦しい声を出して、「誰れか来て自分をなめるようであるが如何にも痛んで堪まらぬ 。

その舌は目には見えぬが長さは一尺位あって、その息づかいの様子から察するに、この者は何んだか牛のやうな物に相違ない」と叫んで居たが、件の怪しい物は彼の身体を充分に舐め終ると何処へか立去っていった 。その時董奉は彼の側へ進みよってその布を解いてやり、水などへて飲ましめ、「是で最早よろしいが、唯風に当ては不可ぬから」と戒しめ、その心得を丁寧に訴へて去ると、十日の間は皮が剥がれて居るので、全身真っ赤に色づき、疼痛収まらなかったが、水浴して居る中に痛も次第に滅して、二十余日程経つと皮も自然に生じて来て、病は跡形もなく癒って了ったそうである 。

 

その後天下大に旱(ひで)り、百穀ほとんど枯れ尽した時、県令の丁土産というもの酒脯(さけさかな)を備へて董奉の許を訪づれ、尊敬を厚くし詞を丁寧にして、天下の為めに雨を祈らんことを乞うた 。董奉は顔に微笑を含んで、唯一言、「雨か、よし分った、造作もないことだ」といって、その天井を仰ぎ、「だが、然し御覧の通りの粗末な家で雨さへ凌げぬ有様だから」と言うのを聞いて丁土産は直ちに董奉の心中を悟り、早速人を遣して彼の家を改め作らしめ壁を塗るために人を走らせて水を持って来させようとした 。これを見て、「日が暮れたら水が自然に得られるだろう」と言って堅くその事を押留めたが、その夜になると果して大雨が降って来た 。

彼は水を呪て病を治すに妙を得てあったが、それも謝礼としてびた一文得るでもなかった 。唯だ重症の患者の中で病の重かった者は謝礼として杏五株、軽い者は唯一株だけ自分の家のあたりに植えしめた 。

このようにして数年経つ中に、杏樹七万株以上に及び葉繁り幹太り、何時しか立派な一の森林が出来上って、山中に居る諸の禽獣共がその林へ来ては終日遊びまわるので、木の下には草一本だに生えず、あたかも耕したように清浄にしてあった 。そして杏が熟する時になると彼はそこに一箇の大きな倉を作り、杏を求めるものがあれば、米と杏とを交換せしめた 。

中に悪心のものがあって、余計に杏を取ることがあると、一頭の虎が何処からともなく現はれ出て、その悪者の跡を追駈ける 。その時若し余計に取った丈けの杏をその場に投げ棄てれば虎も亦そこから後へ引きかえすのであったが、そうではなくて、持って家へ持ち帰れば、その者は直ちに死んでしまう 。その時若し盗んだ杏を董奉の処へ持て行って罪を謝し過を悔いると、その者は忽たちまち又蘇生する 。それが為めに杏を買う者の中に詐偽を働くものや偸盗をするものは一人も無くなった 。

董奉は、その得た米を件の倉に積み、貧窮の者があれば施し与え、旅人にも分け与えた 。それが為めに毎年三千斛位費してあったけれど、なお残余があったそうである 。

 

ここに県令丁氏の親戚の家に一人の娘が居て、或妖神の為めに魅られて心神錯乱し、あらゆる手段を尽したけれど少しも効能なかつた 。董奉之れを聞て不憫に思い、一度その女子の為めに病を祓ってやると、翌日長さ一丈六尺程もあろうかと思われる、一頭の死んだ大白虎が何処からともなく件の病人の家の前門に這い出て来た 。それと同時に女の病も直ちに平癒してしまった 。

そこで彼女の両親はその恩を謝する為めに、件の娘を董奉に妻し、夫婦仲睦まじく琴瑟相和してあったが、如何なる訳か、その間に子供が一人も無かった 。その後董奉は上帝から碧虚太一真人の位を授けられ、日中に昇天してしまったが、跡に残った妻は矢張り彼の杏を売って生活を立てて居た 。そしてその杏を食み、あるいは騙して余分に取る者があると何処ともなく虎が現われてその者を追跡することは、董奉が居た時と少しも異ならなかった 。その後人々はその杏を植えた場所に一の祠をたて、永く董奉を祀った 。』

 

董奉は、屍解もするし、白日昇天もするが、それでも人間を助けに世に出て来るのは奇特なことである。

杏の林を守るのに虎がいなければいけないというのは、中国人であって、日本なら虎は不要。中国人が多数移民してくるのなら、虎が必要だが、日本全体としては、民度の下落である。

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麻姑の物語

2025-05-30 03:34:23 | 人と神の「実際のところ」

◎玉冠を戴いた仙女

 

『麻姑は晋の石勒の頃の人で、麻秋の娘である。この麻秋という人は気性が猛々しく、城を築くことがあった時、人夫を使うのに極めて苛酷で、一晩中少しもその手を休ませない、ただ鶏が鳴く頃少し休息させるのみであった。しかし麻姑は生まれつき慈悲心の深い女で、父のために使われている工夫たちを見て不憫に思い、適当な時期をみて、鶏の声色を使うと、そばにいる数多の鶏はこれを真似て、皆一斉に鳴き出し、そのため工夫たちはいつもよりも早く仕事を止めることができた。

しかしその後父の麻秋はこれを知って大いに怒り、麻姑をむち打とうとしたので彼女は遂に家を逃げ出して仙姑洞に入り、そこで長年仙道を修行した後、城北の石橋の上で遂に昇天した。そこで後世その石橋を望仙橋と名付けていた。

 

ここに元の時に劉氏鯉という者がいたが、その家の前に一つの大きな槐の樹があった。ある夜夢に一人の玉冠を戴いた仙女が現れて自ら麻姑と名乗り、修繕したいから、その槐の樹を譲ってくれまいかと頼んだので、劉氏鯉は快くそれを承諾し、夢が覚めた後で、彼はどうにも不思議に思っていると、それから数日経って、ある日にわかに大風が吹き、雷雨が激しく降って来て、その槐の樹はいつの間にか消え失せた。そこで、急ぎ人を麻姑の廟に遣わして調べさせると、その槐の樹は廟の前に倒れていたそうである。

 

付記:宋の政和年間に建昌の者で、また麻姑という一人の仙女がいて、州の東南にある姑餘山において道を修め、遂に真人となったそうである。故に王遠の妹の麻姑を加えて、同名異人の女仙が三人いる。』

 

多くはない女性仙人の話。昇仙するのに槐の樹を使っているのは、禅のホウ居士が坐脱するのに正午という天象を用いたのを思い起こさせる。

まことに奇跡には時を選ぶタイプの奇跡と時を選ばないタイプの奇跡がある。

 

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孫思邈の物語

2025-05-29 06:49:50 | 人と神の「実際のところ」

◎水底の城郭での歓待

 

『孫思邈(そんしばく)は華原(陝西省)の人である。幼い時から才知人に優れ、七歳の時能く千言の文章を暗記してあった。そして成長するに及んで深く老荘の学を好み、周の宣帝の時、周の天下が薄く隠れんとするのを見て、にわかに世を厭い、終に太白山に入って道を学び、気を煉り神を養う事に努めていた。彼は天文の学に精しく、医薬の事にも通じていたので、人民の難病を済う事極めて多かった。

ある日のこと道に一人の童子が一匹の小蛇を苦しめているのを見て、不憫に思い件の蛇を貰い受け、之を衣に包み、薬を其傷処に塗って、其蛇を傍の草藪の中へ放して遣った。

するとそれから十日ばかり経て、彼再び郊外へ散歩に出掛けると途中に一人の白衣を着た少年に遇った。その時、件の少年は急いで馬から下りて彼の前に躍り、自分は彼が為めに生命を救われた蛇の兄である事を告げ、種々辞退する彼を無理矢理に引っ立て、その家へ連れて行った。

さて件の少年の家というのは、立派な城郭で、庭には花木生え繁り、建物は金銀を鏤めて金碧の光は四辺を照らして眩い程である。暫くすると数多の従者に附随われ、帽子を被って絳衣(赤色の衣)を着た、一人の男が出て来て、彼を上座に招じ厚く彼の恩義をした後、傍の青衣を着た一人の少年を指して、これこそ君に助けられた少年であると紹介し、山海の珍味を備えて厚く彼を待遇した。しかし彼は自分は五穀を避けて薬を服している道士であることを告げて、ただ酒ばかりを馳走になった。

その時彼は密かに側の人の袖を引いて、ここは何という処であるかと尋ねると、その者はここは径陽の水府であると答えた。彼は心の中に水底にも不思議な処があるものだと思いながら三日ばかりそこに滞在した後、暇を告げて去る時になると、主人は数多の金銀絹の類を出して彼に贈ろうとしたが、孫思邈が堅く辞して受け取らなかったので更にその子供に命じて、龍宮の妙薬凡そ三十種ばかりを彼の前に持って来させ、「これは世にも珍しい薬である。君が世を済い人を救う上に於て何等かの御用に立つてあろうから」と言って、それを彼に贈った。

さて彼は蛇神の水府から出て来た後、件の薬を人々に試みて見るに、各々皆著しい効験があったので、此薬を千金方の一として厚く珍重してあった。

 

隋の文帝彼の名を聞いて、徴して国子博士となさろうとしたけれど彼はその召しに応じなかった。然し唐の太宗が召された時、初めて京都へ詣で皇帝に拝謁したが、その時皇帝は彼が容貌の華やかで若々しいのに少なからず驚かれたそうである。

永徽三年には彼が年は正に百余歳であったが、或る日沐浴して新しい衣冠に着換え、自分は今から無何有の郷に遊ぼうとするのだと言って、家人に別れを告げ、そのまま息を引き取ってしまった。

然し一ヶ月余経てもその顔色少しも変らなかったが、棺に入れて葬ろうとした時、その死骸は何時の間にか消え失せて、ただ衣服ばかりが棺の中に遺っていた。

 

その後唐の明皇帝が蜀の地に行幸なされ、夢に孫思邈が現われて、武都から産する雄黄という薬剤を索め乞うたので、皇帝は翌朝中使に命じて右の品十斤をもたらし、眉山の頂にそれを送らしめて遣ると、山の中頃で頭巾を被り褐衣を着た一人の白髪の老人が、二人の青衣を着た少年を引き具して現われ、件の中使に向って、傍の大きな盤石を指して、持って来た薬を此石の上に置くように命じ、次に石の上に記されて居る文字を写し取って皇帝へ持ち帰るように話した。よって中使はつくづくと件の石の面を眺めると、そこに薬の方を認めた百余言の文字が記されていて、それを初めから写し取ると、写すに随って初めの方から文字が次第々に消え失せ、全く写し終えると石の上の文字もまた全く消え失せてしまった。

そしてしばらくたつと、白い気がふと湧いて来て、老人の姿を包んだかと思うと、やがて彼の姿は掻き消すように失せてしまった。

 

ここに又成都という処に一人の僧侶があって毎日法華経を話していて、兵乱があったけれど幸いに兵災にも罹らず、無難に行い澄ましていた。ある日一人の男が訪ねて来て、彼をその家へ招じて、経を誦せん事を乞い面と向かっていった、「自分の老師が病にかかって久しくたてども癒らないので、そこで今貴僧を招じて経を誦して貰うのである。そして自分の老師の聴こうと望んでいるのは宝塔品の一節である」との事であったが、僧侶は快くこれを承諾して宝塔品を講じていると、そこへ老師が次の一間から現われて来た。老師というのは、もう大分年が老いた老人で、身には粗末な野服を着て藜(あかざ)の杖を携え、両方の耳が長く延びて肩に垂れていた。

 

さて件の老人は読経を聴いていると藤蔓で作った盤に竹の箸をつけ、別に一つの器に麦飯を盛って、その上に杞菊(きく)を挿した数箇の甌(小さいつぼ)を出して、件の僧侶に供養した。そこで彼の僧侶は一口件の飯を食べて見るに、塩気はないけれど、その美味しい事甘露のようで、普通の物とは全く異なっていた。そして彼の僧侶がそこを辞して立ち去ろうとした時に、老翁は銭を出して彼に与え、横の男に命じて彼を途中まで送り出させた。その時僧侶は彼の男にそっと主人の名を尋ねると、彼男は掌の上に孫思邈の三字を書いて示したので、之を見た件の僧侶は大いに驚き、再び彼の男を見上げた時には、彼の男の姿が消え失せて最早そこは居なかった。そこで先刻貰った薬を取り出して検めて見るに、それはやはり霊薬であった。

 

此の事があった後、彼の僧侶は身にわかに軽くなり、一生無病息災で暮らしていたが、宋の真宗の時には、齢二百歳を超えていた。そしてその後何処へか立ち去ってしまって、誰一人として其行方を知ったものは居なかった。 』

 

孫思邈は、周代から宋代まで出現し、千年以上断続的に出現を繰り返し、ババジみたいな感じなのだろう。

ここでは、病気直しが事績の中心だが、ポイントは、屍解して、無何有の郷に入ったこと。無何有の郷は、シャンバラのような桃源郷ではなく、呂洞賓の言うようにニルヴァーナを指すものだろうと思う。

 

蛇を助けたのは、中国では人々の慈悲が薄いことを戒めたもの。また孫思邈は、病気直しのようなカルマヨーガ的なことでは限界があり、やはり神人合一に進んだのだ。

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淮南王劉安の物語

2025-05-28 06:06:11 | 人と神の「実際のところ」

◎八仙人の神通力にもこだわらない

 

淮南王劉安は、淮南子の著者。『淮南子』は、前漢の武帝の時代(紀元前2世紀頃)に、劉安が多くの賓客(学者や方術の士)を招いて編纂させた思想書だが、オカルト的に見るべきものがある。『生を出て死に入るとは無より有にゆき、有より無にゆき、そして衰賤す。この故に清静は徳の至りにして、柔弱は道の要なり』淮南子の原道訓など。。

 

『淮南王劉安は漢の高帝の孫で、平生仙術を好み、内書二十一篇を著し、次に鴻宝万年二巻を著して錬化の道を説いた 。

ある日、八人の老人が劉安の門前で面会を求めた時、門番の男が彼らに向かって言った 。

「我が主人が第一に求めているものは、病の根を断ちて不老不死の長生を得る道である 。」「第二は学広く識高き賢者である 。」「第三に力は鼎を挙げるに足り、勇は暴虎を制するに足るほどの豪傑である 。」「この三つのものを兼ね備えている者でなければ、たとえ面会したとしても到底採用される望みがないから、このまま帰られた方がよかろう 。」

これを聞いた八人の老人たちは互いに笑って言うには、「我々の年老いて何の役にも立ちそうに見えないのでそのように言うのであろうが、しかし我々は王が賢者を敬って厚く士人を遇するということを聞いたので、わざわざ面会を求めているのである 。」「それ賢主は一端のためにその人を捨てずと言って、いやしくも多少の才芸に秀でているものは、その種類を問わず召し抱え、その才能に応じてそれぞれ抜擢任用するということを聞いている 。」

「今我々は年も老い、その上才浅く能少なくして王が望んでいる三つの資格を有してはいないにしても、ともかく一度名を通して面会するように取り計らってくれ、その上でどうなろうと、それはまた知れたものであろう 。」「もし王が少年だから有道の者であると言い、老人だから無能の者に決まっていると思し召すなら、致し方ないが、おそらく汝の主人はそれほど物の道理を弁えぬ者でもあるまい 。」

件の八人の老人がかく言い終わると、たちまちにしていずれ皆 、十五六歳の美少年となった 。これを見た門番は大いに驚き、急ぎ劉安王のもとに行って一部始終を話すと、王はこれを聞いて履をはく暇がなかったので、裸足のまま急ぎ出て迎え、

早速八人の老翁を思仙台に招待し、錦の帷を垂れ、象牙の床を設け、百和の香を焚き、金玉の机を備えて厚くこれを遇し、自分は弟子の履くくつを履き、恭しく北面して謹んで教えを乞うた 。

その時件の八人はまた元の老人となって、さて言うには 、「我々はかねて王が道を好んでいらっしゃるということを聞いて、わざわざここまで出て参ったものであるが、さて王がお求めになるものは、どのようなものであるか 。」

「我々の一人は神通広大であって、座して呼べば風雨にわかに到り、起きて呼べば雲霧直ちに起こり、日月を蔽い、天地を覆う 。」

「また地上にその形を置けば、それがたちまち渺茫たる湖海となり、土砂を振り取って平地に置けば、それが直ちにして広々たる山岳となる 。」

「今一人は山を崩し、谷を埋め、あるいは木の流を止めて淵の底を涸らし、あるいは龍虎を制御し鬼神を使役するなど何事でも思う通りにならぬものはない 。」

「今一人は変化の術に通じて、形を変えること手のひらを返すよりも易く、隠顕出没意のままになすことができる 。」

「今一人は雲に乗って空を渡ること平地を行くよりも易く、針ほどの孔隙さえあれば、いかなる場所へも出入り自在で、千里の遠いところでも一瞬の間に往復することができる 。」

「今一人は火に入っても身体が焼けず水に入っても衣服が濡れず、いかなる刃物や矢でもその皮膚を傷つけることができない 。」

「そしてまたいかなる極寒の冬でもその身凍えるということもなく、いかなる酷暑の夏でもその身汗ばむということがない 。」

「今一人は変化自在の道に通じていて、天地間にありとあらゆる全ての物に化けることができる 。」

「また山川丘陵をこちらからあちらへ転移することもできる 。」

「今一人は一切の厄神病魔を禁厭して天下人民の害毒を除き、またよく年を延ばし寿命を増して不老不死の術を得さすことができる 。」

「今一人は泥を煎じて金となし、鉛を焼いて銀となし、水で八石を煉って珠と変じ、龍に乗り雲に駕して、高く九天の上に遊ぶことができる 。」

「以上は我々八人の有っている仙術の大要であるが、どれでも王のお好みになるものを求めなさい、我々は喜んでその玄術の秘訣を授けましょう 。」王これを聞いて大いに喜び、直ちに酒を出して厚く彼らを厚遇し、一人一人その技を試させると、果たしてその言葉通りであった 。

そこで彼ら八人の道士は王に丹経および三十六の水銀を練る法を授けた 。

さていよいよ仙薬も練り上がって、まだそれを服用しないうちに、偶然とした災難が劉安の身に起こったというのである 。劉安に一人の子がいて遷と呼んだ 。平生剣術を好んであったが、郎中の雷被という者と戯れに剣術の試合をすると、雷被は誤って遷を斬り殺した 。雷被は自分が誅せられるのを恐れ、皇帝に劉安が謀逆を企てていると讒言した 。

そこで彼の八人の道士は劉安に「これも畢竟は天帝が王を呼び迎える機会が来たのであるから」と言って、強いてここを逃げ去るように説き勧め、共に一所に山へ入り、そこで八人の道士は天地を祭って金を地中に埋め、劉安を連れてついに昇天していった 。

この八公と劉安が踏んだ所の石は皆そこが窪んで、今にその足跡が残っているということだ 。その時そこに放り捨てた薬鼎の中の獲物を鶏や犬どもが舐めたので、彼らもまた仙気を得て同じく昇天していった 。よってその日雲中に鶏の鳴く声や、犬が吠える音がかすかに聞こえてあったということだ 。

また一説によると劉安は鴻宝万年の術を得て不老不死の仙人となり、後尸解して昇天し、太極真人の位を授けられたそうである 。』

劉安は、王として生まれながらも道を極め、すべてのすべてである神(第六身体アートマン)となった。八仙の神通力の数々は、すべてのすべてである神とはどういうものかを具体的に示したものだが、そうしたものにすらあまり関心を惹かれなかったので、白日昇天し、さらに一歩進んでなにもかもなしのタオを目指して、犬も鶏も昇天したのであった。猫が出てこないが、家畜はまさしく家の主人の運の消長の影響を受けるものだと思う。

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茅盈の物語

2025-05-27 06:41:46 | 人と神の「実際のところ」

◎白日昇天と二兄弟

 

茅盈(ぼうえい)、字(あざな)は叔申といい、茅漆の玄孫である。弟は固(こ)といい、字を季偉という。その 次の弟は衷(ちゅう)といい、字を思和という。盈は景帝中元五年に生まれたが、小さい 時から尋常の小児と異なっていて、浮世の事を厭うて清虚神仙の道を喜び、年十八の時、家を飛び出して恒山に入り、禾(か)を食して専心に修業を積んでいたが、後、王君に 従って更に道を学び、西の方、亀山(きざん)に至って西王母に謁見し、太極玄真経を授けられ、年 四十九歳の時恒山に帰って北の谷に隠れていた。

この時彼の両親はなお達者で生存していたが、父は彼が久しく家を出て帰らないのを憤り、杖を携えて彼を撃たんとした時、彼は厚く己が罪を謝し、かつ自分は今や仙人の仲間に入っているので、自分の身体は天帝の兵士が常に護衛しているので、もし父上が誤って自分を撃つようなことがあれば忽ち天兵の罰を受け、自分はなおこの上に不幸の罪を重ねることになるから、自分を討つことは堅く思い止まってくれと戒めた 。

しかし、父はその言葉の真偽を試そうと思い、激しく彼を討つと、不思議なことに杖は忽ち折れて数十段となり、その折れた枝の破片が矢のように四方八方に飛び散って、壁に当たれば壁を穿ち、柱に当たれば柱を貫き、この先どうなるか測れないので、さすがの父もにわかに怖気づいて討つことを止めた 。

その後、弟の固、衷の二人は立身出世して、固は武威の太守となり、衷は西河の太守となったので、郷里の人々が数百人集まって盛んに送別の宴会を開いたことがあった 。その時、盈もまたその座敷に交じっていたが、そこに集まってきた人々に向かって、「自分は今何の官役にも就いてはいないが、来年の四月三日に昇天する時になれば、その儀式は盛大なこととなり、今日の比ではないだろう」と言ったが、その時誰一人として彼の言葉を信じるものはいなかった 。それはちょうど宣帝の初元四年である 。

 

翌年の四月三日になると、盈の家の門前にある数丁歩ほどの場所は、誰が遺したということもなく自然に地ならしが出来て、草が綺麗に刈り取られ、その上に青絹の幌が張られて、下には一面に白い毛氈が敷き詰められ、数百人くらいの席が自然に設けられていた 。その時、近隣の人々が集まってきて、盈のために別れの酒宴を始めると、誰もいないのに杯や盤や皿が自然に飛んできて座敷の真ん中へ置き並べられ、香りの高い酒、見も聞きもせぬ珍しい肴、美しい果物が山ほど積み重ねられ、歌舞音楽の音がどこからともなく聞こえてきて、蘭麝の香が数里の外までも充満した 。

そして、しばらくすると朱衣玉帯をつけた立派な天官が数百人、旌旗をかざし、甲仗を携えた天兵を前後に従え、徐々と天から降りてきて、盈を立派に飾った仙車に乗せ、再び次第に天上に昇っていった 。

この時、二人の弟は各自その任地にあって職を執っていたが、兄の盈が昇天し去ったと聞いて、直ちに官を辞して家へ帰ってきて、東山という所で兄の盈に対面した 。その時、盈は二人の弟を見て、「今、目が覚めてももう遅い、それに大分年も老いているので仙術を得ることはほとんど望めない、たとえ仙術を得たとしても、地仙になってこの世に留まるくらいなものだ」と言って、二人に延年不死の法を授け、さらにその後三年ほど不浄を避けて神を煉らしめた後、これに道の秘訣を授けて明堂玄真の気を保存することを得させ、九転の還丹と神方とを授け、各自これを服用して仙人となることを得て茅山に留まり居らしめた。世にこれを三人の茅真君と称して居る。

※抱朴子の仙人のランク付け。

天仙(上士): 肉体のまま虚空に昇る仙人。

地仙(中士): 名山に遊ぶ仙人。

尸解仙(下士): いったん死んだ後、蝉が殻を脱ぎ捨てるようにして仙人となる。肉体が残らず、服や剣などが残されることが多いとされます。

 

茅盈は、幼い頃から道教修行し、中年に成道した。これは、前世までに俗世のカルマ、欲望がほとんど終わっていて、成熟の極みに近かったということ。

正受慧端のような人物だったのだろう。

白日昇天の次第は、俗人がたらふく飲食し、またいわばスペクタルな昇天ショーみたいに見せているが、ことさらにそういうものを見せないと、大衆は納得すまいということで、中国特有のもの。

日本や精神的なものに価値があると考えるインドでは、まずこうしたショー的なものは聞かない。それほどに支那人民の暮らしは、古今厳しいのだろう。

茅盈は、兄弟に『大分年も老いているので仙術を得ることはほとんど望めない、たとえ仙術を得たとしても、地仙になってこの世に留まるくらいなものだ。』と地仙の道を示している。

これは、想像だが、地仙とは、この世に微細身を残し、そこで冥想修行するタイプの修行法なのかもしれないと思う。チベット密教の虹の身体が同様の位置づけを持っているように思えるからだ。

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徐福の物語

2025-05-26 06:43:50 | 人と神の「実際のところ」

◎不死の草と小さな飯椀

『徐福、字は君房といい、秦の道士である 。ある時、なぜとも知らず、道行く人ごとに瘴気(熱病を起こさせる山川の毒気)にあたってにわかに卒倒し、死骸が黒々として道の上に積み、親に別れ、子に別れた者たちの嘆き悲しむ声が四方に聞こえて、この先どのような事が起こるかと人々は安心できる心もなかった 。

その時、どこからか鳥のような鳥数十羽が飛来し、口々に一茎の草をくわえて、それを死人の顔の上に覆い被せると、不思議なことに、死人は皆息を吹き返して蘇生した 。始皇帝はこの由を聞き、急ぎその草を持って、人を鬼谷先生のもとへ遣わしてその名を問わせたところ、「これから東に当たって海中に十の島がある、その中の祖洲というところに不死の草があって、瓊田の中に生える 。

それは養神芝といって、簇々(※群がり生えるさま)と叢生する草で、その葉はキノコに似ている 。もしその草の一片を取って死人の顔に当てれば死人はたちまち蘇生すると聞いていたが、今この草を見るに全くその不死の草に相違ない」という事であった 。そこで始皇帝は徐福を遣わして、彼の祖洲という所を尋ねさせたところ、幾年待っても音沙汰がなく、ついにその生死のほども分からなくなったが、その後沈羲という者が仙道を体得した 。

徐福が太上老君の使者となり、白虎の車に乗って沈羲を迎えに来た時、世人はここで初めて徐福が仙人となったことを知ったのである 。唐の開元年間に疫病が天下に流行し、それに罹る人々が多かったが、一度この病にかかれば半身が真黒になって自由が利かなくなる 。当時の名医、張上客等が皇帝の命を受けてその病を治療したが、少しも効能がなかった 。

そこで昔からの言い伝えによれば、海中に一人の神仙が住んでいて、この者に祈ればどのような難病でもたちどころに治るということであったから、今はその神仙の力を借りる以外に道はないだろうということになり、数多の病人たちが連れだって登州という所から船に乗って、風のままに海の上を行くこと十余日ばかりで一つの島に達した 。島の上には数百人の人民が群集している 。

船を岸につけて上陸してみると、海岸に一人の婦人が薬草を洗っている 。近づいて、向こうに見える人々はどのような方々であるかと尋ねてみると、その婦人は群集の中央に座っている白髪の老人を指して、あの君は徐君という人であると答えた 。そこで再び徐君とは何人であるかと尋ねると、徐君とは秦の始皇帝に仕えた徐福のことであると告げたので、彼の人々は大いに喜び、直ちに徐君のもとに到り、厚く謝礼をして治療を求めると、徐君は快く承諾し、まず飯を出してこの人々に食べさせた 。

ところがその飯を盛る器が甚だ小さかったので、人々は心中にかなり不平に思っていたが、徐君は早くもそれを悟り、「汝達はこの器の小さいのを面白くないと思っておられようが、しかしその中のものを食い尽くすならばまことに結構だ」と言ったので、人々はしきりに貪り食ったが、なるほど一杯食べてみるといつしか腹もいっぱいになった 。そこで徐君は再びその器に酒を盛って飲ませたが、人々は皆程よく酔ってその日はそこに滞留した 。

翌日になると徐君は黒い丸薬を与えて飲ませた、すると黒い水液が大小便と一緒に流れ出て彼の不思議な病はたちまち平癒してしまった 。その時彼の人々は厚く徐君に謝礼を述べ、さらに以後永く徐君のもとに留めて置いてくれるように、呉々も懇願したけれど、徐君は「汝達は今それぞれの禄位を有していて、未だ俗縁が切れていないからここに留まっていることは出来ない、東風を待って再び本国へ帰るがよい」と言い、そして「ここに一つの葉がある、これを飲めばどのような病気でも直ちに治るからこれを持って行って病に苦しんでいる人々を救ってやれ」と言って、黄色の薬を一袋ずつ、銘々に与えた 。

そこで彼の人々は名残は惜しいけれど、徐君の言うままに、東風を待って某日そこを出立し数日を経て再び先の登州へ到着し、報告を添えて委細を朝廷へ奏上した 。玄宗皇帝は試みに右の薬をもって病に苦しんでいる人々に飲ませてみるに、誰も皆たちどころに平癒したそうである 。』

不死の草は、インド古典のアムリタ(甘露)のような、賢者の石のようなもので、効能の説明にばかり気をとられると間違えることがあると思う。

いくら食べても減らない飯椀は、北欧神話でトールが飲んだ、いくら飲んでも減らない杯と同じ。その飯椀は、無限につながっている。

『汝達は今それぞれの禄位を有していて、未だ俗縁が切れていないからここに留まっていることは出来ない』の俗縁は人間である限り切れることはないので、一念発起、発心が必要なのだと思うが、生活すること自体が厳しい支那ではあまりそこは強く言わない。俗縁が切れることはないのだ。

祖洲が日本かどうかより、日本人なら悟っていることが求められる。

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許栖岩の物語

2025-05-25 06:43:41 | 人と神の「実際のところ」

◎石の髄を飲む

『許栖岩は岐山の麓に住んでいましたが 、唐の貞元年間進士の試験に落第してから長安に住居を移しました 。その時一匹の蕃馬(異民族の馬)が市へ売りに出たので 、彼はこれを見るとすぐに欲しくなり 、まずある道士に会って件の馬を占ってもらうと 、この馬は龍の血を引いた物で 、もしこの馬を手に入れることが出来たならばたちまち昇天することが出来るであろうとの事であったので 、許栖岩は大いに喜び 、早速千金の値を出して件の馬を購いました 。

その時魏の令公が蜀の国の王となっていましたが 、許栖岩はある日右の令公に謁見しようと思い 、件の馬に乗って剣閣山を通ると 、馬は足を滑らせて百丈もあろうと思われる深い谷底に墜落しました 。然るに幸にも谷の底には枯葉が高く積んでいましたので 、自分も馬も別に負傷も何もしませんでした 。そこで彼は馬の足に任せて 、何処ともなく先へ進んで行くと数十里計りで 、一つの洞口の前へひょっこり出ました 。見れば 、その辺一面に花木が生い茂っていて 、そこに一つの池があります 。

その傍に一軒のある石造りの家があって 、中には一人の白髪の老人がいて石床の上に横になり 、傍に二人の女が付き添っていました 。そして今許栖岩が来たのを見て大いに驚き、「ここは太乙元君の家で 、普通の人の来るべきところではない 、あなたはどうしてここへ来たのですか」と尋ねました 。許栖岩は委細漏らさずその理由を話すと 、件の二人の女はこのことを老人の元君へ話したと見え 、元君はこの時起上って 、「あなたは人間界にいる時、何を好んでいましたか」と尋ねました 。

そこで彼は臆することなく、仙道を好んで老荘の二書と黄庭経とを読んでいた旨を答えると 、元君は重ねて右の三書に対してあなたはどのように思いますかと尋ねられました 。彼は暫時沈吟した後 、「荘子は一個の真人で気を以て息をしていた 。老子はその道が玄妙の奥に入っていて、ほとんど常人の知りうる所ではない 。黄庭経に到っては要するに長生の道を説いた一部の仙書に過ぎないものである」と、はばかる所なくすらすらと答えました 。

元君はこれを聞いて 、「あなたは余程道を心得ているように見えます」と言って 、彼を自分の傍に座らせ 、彼の二人の女に命じて石髄を酌んで彼に飲ませました 。

しばらくすると侍女の一人が潁道士のやって来たことを告げて引き退がると、すれ違いに道士がそこへ入って来ました 。許栖岩は座を避けながら密かに件の道士を見ると 、計らずも、それこそ以前に自分の馬を相して呉れた道士であったので 、彼は大いに驚き 、その後自分の身の上に起ったことを手短に物語ると 、件の道士は幾度か嗟嘆し 、自分が昔彼の為めに占って残した卦が、今になって当たった喜びを述べて共に笑い興じているところへ 、

 

にわかに一人の仙童が現れ 、彼の主人である元君を呼び迎え 、今夜曲龍山において観月の酒宴を催す旨を告げたので 、元君は許栖岩を顧みて 、自分と一所に東皇君の許へ赴くようにと誘い 、二人一所に仙童が連れて来た龍に乗って其処を出発しました 。

 

元君と許栖岩の二人はしばしの間に曲龍山へ到着しました 。見れば釣橋浮橋はどれも千歩もある長い大仕掛けの結構で 、宮殿の柱は林のように高く空中に聳え立ち 、その頂が雲に隠れてよく見えません 。玉櫚、錦帳はどれも数寄を凝らしたもので 、その壮麗なことは到底筆にも言葉にも描き尽くせないほどでした 。

 

正座にあった東皇君は元君を見ると 、座を離れてわざわざ階梯のところまで出迎え 、そして一所にきた許栖岩を一目見るや 、「あなたは許長吏の孫ではないか 、自分は先日あなたの祖父である長史と一所に酒を飲んでいたが、あなたが今日ここへ来ると言うことはかねてより知っていた」と言って 、彼を座敷へ招いて酒肴を勧め 、

 

夜が更けて奥も閑(しずか)になった頃に、 座敷に侍っていた仙女に命じて青城丈人の歌を始めました。歌に曰く 玉砌瑶階泉滴孔

王簫催鳳和煙舞、

青城丈人何処遊、

玄鶴唳天雲一縷

(大意:

玉砌瑶階泉滴孔: 玉で飾られた美しい階段の石段から、泉の水が滴り落ちている。

玉簫催鳳和煙舞: 玉製の簫(しょう:縦笛の一種)の音色が鳳凰を誘い出し、鳳凰は煙(霞)と一体となって舞っている。

青城丈人何処遊: 青城山(道教の聖地の一つ)の仙人である丈人(仙人を指す尊称)は、今どこで遊んでいるのだろうか。

玄鶴唳天雲一縷: 黒い鶴が空に鳴き叫び、空には一本の雲がたなびいている。 )

 

歌が終わると、元君は許栖岩と一所に再び龍に乗って我家へ帰って来ましたが、途中で一個の大がまえの城郭の上を通った時、許栖岩は元君にここは何処であるかと尋ねると、それは新羅国の王城であるということでした。暫時してある海浜の上に到ると、其処に一つの小さい城郭が遥か下の方に、霞の底になってちら見えるので、ここは何処であるかと尋ねると、それは唐の登州であったということです。 許栖岩は元君の洞府へ帰った後、懇ろに暇を告げて去ろうとすると、元君は一寸彼を呼び止めて、汝は既に石髄を服しているので最早普通の人間ではない、千歳の長寿を保つ仙人の身であるから、人間界へ帰っても今日のことは決して世間へ漏らしてはならない、それから女色は呉々も慎んで近づけるな。

そして遠からぬうちに再び汝と再会する時機があると思うからと言って、その心得を細々と説いて聞かせ、そして許栖岩がいよいよ馬に乗ってそこを立ち去ろうとした時、元君はふと件の馬に目を注いで、この馬は自分の洞府に久しく飼い慣らした龍であると言いました。先年田畑の作物を害した懲罰に暫時人間界へ流されたのである。汝もし人間界へ到着したならば渭渓の辺で、この馬を解いて放って呉れ、然すればこの馬はもとの龍となって再びここへ戻って来るであろうと告げました。

許栖岩がいよいよ暇を告げて洞府の門を出ようとする処へ、侍女の一人が慌て出て来て彼を押し止め、この馬を解いて放つ時に、ついでにガク県の田おばさんから針を少し贈ってもらって呉れよと丁寧に頼んだので、彼は心よく承諾してそこからまもなくガク県の我が家へ帰って来ました。

時は正に唐の宣宗皇帝の大中五年で彼が家を出てからほとんど六十年ばかりの長い月日になると聞いて、彼は今更のように吃驚しました。 そこで彼はある日、田おばさんの許を尋ねてその針を求めると、件の老婆が言うには、先日太乙家に仕えている紫雲姉妹から手紙が来て、ある人に頼んで針を注文したから、それが見えたら針を渡して呉れと細々と認めてあったが、それは全く足下であったかと言って、針を一束渡して呉れたので、彼は件の針を馬のたてがみに結びつけ、渭水の辺で彼の馬を解き放つと、馬は忽ち一頭の龍と化して何処へか飛び去って行きました。

その後、許栖岩は匡廬の辺りに棲んでいましたが、時には現れ、時には姿を隠して、隠見出没更に一定していなかったそうです。』

 

科挙落第者が、実は覚者であったという話。許栖岩は、その修行過程は前世で済ましており、いきなり経典の解釈テストに合格して石髄を飲んだ。石髄を飲んだとは、この時大悟覚醒したということ。石は、真理のシンボルであり、賢者の石にして、石髄こそは、ダンテス・ダイジのいう石ころの心。彼の行った仙境が、この世のものでないが確実に存在するシャンバラであって時間を超越していることを寓話で示している。龍馬みたいな動物は、仙境までの往来が、スピリチュアルな手段によることを示す。

『女色は呉々も慎んで近づけるな』とは、ただの人に戻ることがあるという意味だろうか?

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魏伯陽の物語

2025-05-24 03:19:58 | 浅い霊感から神人合一まで

◎弟子の覚悟を試す

魏伯陽は、内丹(クンダリーニ・ヨーガ系)の中国最初の専門書である周易参同契を著した人物。周易参同契の特徴は五行(木火土金水)、八卦の易の体系でもって内丹の手法を説明したところ。               

クンダリーニ・ヨーガといえば、この世の次元を超えて何かぶっ飛んだ素晴らしい体験が待っているかのようなイメージが先行するかもしれないが、その修行に入るためには、この世に対するあらゆる未練とか、世俗の欲望をすべて捨ててかからなければまず成功することはないだろうということが、以下の逸話の中に見て取れる。

魏伯陽は呉の国の人である 。生まれつき道術を好み、山に入って一心不乱に神丹(しんたん)を練っていた 。その時、三人の弟子が常に彼の側に仕えていたが、そのうち二人の弟子は本当に道を求める心がないのを、彼は早くも見抜いていた 。

ある日、仙丹が練り上がった時、彼はその弟子たちの心を試そうと思い、三人の弟子に向かって言った 。「日頃の苦心もその甲斐あって、今日、仙丹も出来上がったが、これを我々が服用する前にまず犬で試した方がよい。もしこれを服用して犬が何の障りもない様子であったなら、その後初めて我々が服用しても遅くはあるまい」 。そして、彼が山に入る時に一緒に連れて行った一匹の白犬にその仙丹を試してみた 。

わずかな仙丹というものは、陰陽の二気が十分に和合していないものは、中にわずかな毒を含んでおり、これを服用すればたちまち一命を失うものである 。ところが今、伯陽が練った仙丹は、その陰陽の和合がまだ十分でなかったと見え、その犬はそれを服用するや否や、たちまち倒れてしまった 。

これを見た伯陽は弟子たちに向かい、「お前たちも見る通り、犬は今、その仙丹を服用するや否や倒れてしまったところを見ると、この仙丹はまだ十分に練れていないと思われる。もし我々がこれを服用するならば犬のように死んでしまわねばならぬ。さてどうしたらよいか」と、いかにも心配そうにしばらく沈吟していた 。

そして、いかにも思い切った様子で言った 。「自分も幼い時から世を捨てて家を離れ、艱難辛苦を凌いで、ここまでやってきてようやく練り上げた仙丹がまだ十分に練れていなかったとは、もはや神明に見放されたのだろう。こうなっては今更、どの面下げて故郷へ帰られようか。生きて長く世を煩わすよりも、いっそのこと思い切って、自分はこの仙丹を服用しようと思う。お前たちはまだ年も若いことであるから、ひとまずここを去って、他に道術の優れた仙聖を求めたらどうか」 。そう諭し、その仙丹を服してそのまま息が絶えてしまった 。

この時、傍にいた「虞生(ぐせい)」と名乗る一人の弟子はこれを見て、「自分の師は決して普通の人間ではない。それなのに今、自ら進んで死を求めるというには、そこに何か深い理由がなければならぬ」と気づいたので、自分もまたその丹を服して死んでしまった 。ところが、後に残った二人の弟子は、伯陽にそんな深い考えがあったとは思いも寄らなかったので、急に死ぬのが恐ろしくなり、「仙丹は長生をする為めにこそ練るもので、これを服して死ぬのであって見れば、むしろこのまま逃げ去って惜しい命を助かった方がよい」と互いに相談をして、死んだ伯陽と弟子の葬式を取り行う為にそのまま急いで山を下って去って行った 。

ところで伯陽はこの時、すべて死んだふりをして、ひそかに二人の立ち去るのを見計らっていた 。しかし、この時急に起き上がり、かねて作り置いていた妙丹(みょうたん)をとってきて死んだ弟子と犬とを蘇生させ、再び練り上がった仙丹を服して一緒に昇天することが出来た 。

そこで一日、村人に会った時、一封の書状を認(したた)めて詳しくその後の模様を記し、彼の逃げ去った二人の弟子へ送り届けさせると、その二人の弟子はこの手紙によって初めて自分たちの悪かった事を悟り、足摺(あしずり)して後悔したそうである 。

魏伯陽に一の著書がある 。それは『参同契(さんどうけい)』という書で、前後二巻ある 。この書は易経を解説したようにも見えるが、その実は全く易の爻象(こうしょう)を借りて仙丹を練る方法を述べたものであるという事だ 。

師匠が、いきなり飼い犬を毒殺したのに驚いた人も多いと思う。

師匠が自らの術の精華である丹薬を服用し、あっと言う間にこの世を去った。師匠亡き今、弟子たちが効果的な修行を続けて行ける保証はなくなった。

よって、残った弟子二人が死の丹薬を服まなかったのは、現代人としては妥当な判断であるが、内丹(クンダリーニ・ヨーガ系)の道に進もうとする人間としては決定的な覚悟が欠けている。

その覚悟とは、この世のあらゆるものに別れを告げる覚悟である。財産、家族、地位、名誉、世間の評判、親友、恋人、将来の夢こうしたものすべてを捨ててみせる覚悟のことである。

ここをわきまえている師匠であれば、入門時に徹底的に、弟子のこの部分をテストしてかかり、入門させないものだと思う。だからといって、魏伯陽が不徹底であると断ずることはできない。

むしろ弟子のカルマを見て、彼らのためになると見て、殊更(ことさら)に入門を許し、更に弟子のために我と我が身を死んで見せるのは、彼らへの大きな思いやりが見て取れる。弟子のために身を捨ててみせたのであってこれ以上の愛情はあるまい。

従来版の魏伯陽は抄でしたので、全文を上げてみました。

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費長房の物語

2025-05-23 07:14:32 | 人と神の「実際のところ」
◎ひょうたんからタオを求める

費長房は汝南(じょなん)の人で、市長の役を務めていた。ある時、市中に一人の老翁がいて薬を売っていたが、夜は店に吊してある一つのひょうたんの中に入って寝るのであった。しかし、市中の人は誰一人としてこれを知っている者はいなかったが、ただ長房一人だけはある日、楼上からこれを見て、早くもその老翁が普通の人でないことを悟り、ある日老翁の許へ赴いて酒肴を振る舞った。そして、その翌日もまた酒肴を携えてその老翁の許を訪れると、老翁は彼を連れて一緒にそのひょうたんの中へ入ったが、中には美麗な殿堂がいつもあって、美酒佳肴(びしゅかこう)がうず高く並べられていた。そこで二人は飽きるまで飲み、飽きるまで食い、やがてその中から這い出たが、その時老翁は長房に向かってこの事を決して他人に告げてはならぬと呉々(くれぐれ)も戒めた。


その後、その老翁は一日、長房の許に尋ねてきて、今日まで秘していたが、実は自分は天上の仙人である、或る過失によって暫時仙界を退出されてここに隠れ住んでいたのであるが、今漸くその罪も許され、仙界へ帰ることになったと告げた。就いては「足下を一所に連れ立って行く心は無いか」と尋ね、次に「今夕二人で酒を飲もうと思って、階下に少しばかりの酒を用意して来た」と告げた 。そこで長房は人を階下へ遣わしてその酒を持ち来させた 。その時、老翁が持って来たという酒壺は、わずかに一升程も入ろうかと思われる小さい器物であったが、しかし重くてなかなか一人では持ち上げられなかった 。そこで十人ばかりの男が担ってこれを持ち上げさせようとしたけれど、それでもなお出来なかった 。その時、その老翁はこれを見て笑いながら階上から下りて来て、一本の指でその酒器を軽々と引き下げながら、再び階上へ上がった 。酒はわずかに一升程であったけれど、いくら飲んでも尽きると云うことはなく、終夜二人で遂に飲み尽くすことが出来なかった 。


長房は実際、心の中では仙道を学びたいとは思っていたが、そうなれば後に残る妻子共が困るだろうと思ったので、老翁に行くことを承諾しなかった 。老翁は早くもその心を悟り、一本の青竹をとって来てちょうど長房の身長位に切り、それを長房の家の後の木の枝に懸けさせた 。然るにそれが家人の目には全く長房と見えたので、家人は長房が縊死(いし)したものと思い、大いに嘆き悲しんで厚くこれを葬った 。その時長房は常にその側に立っていたけれど、家人の目には彼の姿は見えなかった 。


そこで彼はその老翁に従って深山に入り、ある日の如きは数多の猛虎の群の中に一人置き去りにされたけれど、彼は少しも恐れる様子はなかった 。すると老翁はある日、室の中に一丈(いちじょう)もあろうかと思われる大石を朽ちた綱で吊り下げ、これを天井から釣下げ、その下に彼を坐らせた 。その時、数多の蛇がどこからとも現れて来てその綱を噛み切ろうとするのを彼は見ていたけれど、彼は少しもその座を動かなかった 。老翁これを見て、次に椀(わん)に人糞(じんぷん)を堆高く盛ってこれを長房に勧めた 。その中には三疋の虫が蠢動(しゅんどう)しており、見るからに胸が悪くなりそうなのだが、これにはさすがの長房も肝をつぶして暫時躊躇(ちゅうちょ)した 。老翁はこれを見て言うには「汝はほとんど仙道を得ることが出来ようが、ただこれを我慢して食べられぬようでは未だ充分の境地には行き得まい」と 。


これを聞いて長房ももはや断念して暇を乞い、帰ろうとしたとき、老翁は一本の竹杖を授け、「これに乗って行けば瞬間に到着することが出来る、もし家に着いたらこの杖を葛陂(かっぴ:沼地の地名)の中へ投げ捨てよ」と告げ、さらに一枚の符を書いて、「これを持っていれば、地上の鬼神共を自由に制御することが出来るから」と言ってそれを彼に与えた 。


そこで長房はその竹杖に乗って山を下ると、瞬く間に彼の家へ到着した 。彼、初め家に帰る時、わずかに十日位経っていることだろうと思ったが、しかし家へ帰ってみれば、すでに十余年も経っていたので、少なからず吃驚(びっくり)した 。そこである老翁の言う通り、例の竹杖を葛陂の中に投げ捨て、密と後を振り返ってみると、彼の竹杖と思ったのはすなわち一頭の龍であった 。


家人共は長房を見て大いに驚き怪しみ、直くには彼の言葉を信じなかったが、長房が細々と一部始終を物語ったので、先に葬ったものは全く長房でなくて、唯一本の竹であった事が明瞭になり、家人共も初めて彼の無事息災であった事を非常に喜んだ 。その後、長房は老翁から授けられた符によって種々の病を療すことが出来たのみならず、目に見えぬ鬼神共をも自在に駆使することが出来た 。こういうこともあった 。一日、彼一人座敷の真中に坐って頻りに目を瞑(つむ)って罵(ののし)っていたので、傍にいた人々が「何をそのように怒っているのか」と尋ねると、彼は「自分は今、法を犯した悪鬼を叱っているのである」と答えた 。また一日の間に彼は数千里の距離を往来することは珍しくもなかったが、ある時彼の許に珍しい客があったので、使用人を遣わして隣園の隅から酢を買い求めさせると、それがわずかな時間の間に帰ってきた 。彼はまた縮地(しゅくち)の術に達していたことによって有名である 。縮地の術とは、「地脈を縮めるの術」で、一時千里の遠い所でもすぐ目の前にあるように見せしめるのである 。


ある日、長房は弟子の桓景(かんけい)という者に、「この九月九日には汝の家に大きな災難が起こるから、袋を作ってその中に茱萸(しゅゆ)を一杯詰め、それを腕の上にかけて高い山に登り、菊花を浸した酒を飲めば、その禍(わざわい)を免れることが出来る」と告げた 。そこで桓景はその日になると、一家族を伴って山に登って菊の花の酒を飲み、その夕方、家へ帰って来て見ると、家に畜っていた牛羊から鶏犬の類まで悉く変死していた 。


長房はその後のふとした事から老翁から授けられた彼の仙符を失った為め、終に悪鬼共の為めに撃ち殺されたということである 。


ひょうたんの中に入って寝るというのは、壺中天で、シャンバラのような楽園の意味。これが、神智学関係になるとひょうたんや壺でなく、金星に行ったとか、土星に行ったとか話になる。
ダンテス・ダイジに言わせると、日常とまったく違った世界があることを表現するのに、ひょうたんや壺や、金星、土星を使う由。日常とまったく違った世界とは、一般には霊界を思い浮かべるかもしれないが、仙人の想定しているのは霊界ではなくて、自分が宇宙全体になる道(タオ)と自分との合一である。


費長房は、長年の正直で無私な生活により仙人に異界に連れて行ってもらった。だが最終テストは、映画インディジョーンズの蛇室風の「三疋の虫入りの人糞椀」だった。これが選り好みをしないということで、悪魔の誘惑である。


最後、費長房は、悪鬼、悪霊を追うエクソシストもやっているが、ダンテス・ダイジは、そういうのを勧めない。
『心霊科学的能力によって、邪悪な霊的波動を感知して、それを追い払ったり支配したりするよりも、もともと邪悪な霊など実在しないという正覚の中で、あるがままの人間生活を生きる方が、より豊かな 霊的生活の
あり方ではないだろうか。』(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
よって費長房は、バッドエンドだった。

なお、文中の桓景の話は、天変地異を予見して一家全員事前避難して助かった話として有名である。

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劉越の扉の奥

2025-05-22 02:58:48 | 人と神の「実際のところ」
◎二度と開かぬ石の扉

周の世に匡先生、名を績と呼ぶものがいて、南樟山の虎渓のほとりに修道をしていると、一人の少年がいつ頃からかしばしばやってくるようになったが、その言うことを聞くと、なかなか奇警で普通のものとは格段違っているので 、匡先生は心中に深くこれを怪しみ、ある日彼の少年に向かって、貴殿がここへ遊びに来るようになったのももう久しいことだ 。しかし今なお君がどこのだれであるかを明かしてくれないのは何よりも残念だ。今日はぜひこれを伺いたいと言うと、件の少年は、自分は劉越といって、この山の陰に住んでいるものだと答えた 。
この山の麓に高さ二丈ばかりの一つの大きな石がある、この石を手で叩くと、内に応ずるものがあって戸が忽ち開かれることを告げた 。

そこで匡先生はある日、彼の少年に言われた通り 、山の麓に行ってみると、果たして高さ二丈ばかりの大石があったので、試みにトントンと軽く叩いて見ると、石が忽ち裂けて二つになった 。それは即ち石の門扉であって、左右にサッと開くと、一人の小僧が案内に出て来て彼を奥に導いた 。

門内へ入って数十歩も行ったかと思う頃、二人の青衣を着た男が出て来て前に立って案内してくれた 。それについて奥深く入って見ると、驚いたことには、大きな広々とした庭を隔て、いくつかの楼閣がそこにもここにも建っていて、金朱の建物や欄干が燦然として相映し、珍しい鳥や、奇妙な獣が勝手に庭内を飛び回っており、幾種類とも知れぬ見事な草木が四辺に繁っていて、一体の風情が全く世間のものと異なっている 。

そこへ主人の劉越が真人の冠服をつけて出て来た 。匡先生はあまりに見事な宮殿なので、このような所で悠然と長く滞留していたらさぞ面白いことであろうと、しきりに心を動かし始めたが、劉越は早くも彼の心中を見抜き、貴方の修養はここに来て住むほどまだ充分積んでいない、いずれそのうちには貴方もここに住む身となるだろうから、今日は一日悠然と遊んでお帰りなさいと言って、仙酒を三杯、他に延齢保命湯を一杯ご馳走してくれた 。

さて匡先生はそこを辞して山を出て、後ろを振り返って見ると、彼の石の扉はまた元の様に鎖されて一つの石となっている 。その後彼は再びそこへ赴いて前のように石を叩いて見たが、今度は何のてごたえもなかった 。その場所は今の盧山の太平・興国宮の三門の外、即ち石建亭の在る所である 。この石は今日一般に仙石と称しているが、今もこの石の表に劉仙の二字が存しているそうである 。

匡先生の修道は、見込みがあったので、仙郷に案内され、仙酒を三杯、他に延齢保命湯を一杯ご馳走になった。成道、覚醒のプロセスで言えば、金朱の建物などは、悟り直前の悪魔の誘惑の一種であり、そういう観点から言えば、匡先生はテストに失敗したのだが、またチャンスもあるのだろうと思う。

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戦後の日本の巨額経済事件

2025-05-21 06:57:40 | 時代にFace it
◎おもしろうて やがて悲しき ○○○○

以下の話は、根拠のない妄想である。
金融庁は2025年5月8日、インターネット証券口座の乗っ取りによる不正取引金額が1月から4月末時点の合計で約3049億円となったと発表した。得た資金を中国株に購入に充てていることから犯人は○○系という記事も出始めた。経済戦争は、開戦されたと見るのだろう。

過去の日本の巨額経済事件を見ると毎度外国がからむ。イトマン事件は損失2800億円ともいわれ、半島に資金が流れたとも言われる。
商工ローン事件も損失2000億円ともいわれる。
新銀行東京は、総損失額は不明だが、総資産は4千億で、都の出資金の棄損だけで、800億円以上。

経済事件とは考えられていないが、最近話題の韓国系教団への資金の流れも累積数千億円規模と想像される。

 さらに国民が再エネ賦課金で苦しむ太陽光発電は、太陽光発電パネルが中国ほぼ独占なので、いまとなっては、某国に兆円規模の資金が流れ、一部日本の政治家にキックバックが流れるスキームとなったといわれる。

こうした流れで、今回のインターネット証券口座の乗っ取り事件は、規模的にも巨大であり、NISAによる株式投資を国民に勧めている政府には、国民からの不信感をあおることになった。

株は10年に1回くらい大暴落を繰り返し、それを込みで40年位の収益計算
をすると、収益は、預金、国債と大差ないが、株はそれらより価格変動リスクが高い分不利。よって政府がNISAで株だけ勧めるのは、意味不明と、YouTubeで高橋洋一先生が言っていた。

さらに大阪万博入場者の生体を含む個人情報が外国政府に流れるが、大阪万博入場者は、今後インターネット株式取引、銀行取引でなりすまし被害にあった際に、生体情報もなりすまされているだろうから、それが自分のやった取引でないことを証明するのに苦慮するのではないかと妄想する。


おもしろうて やがて悲しき 大阪万博
よみびと知らず

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時所位、TPO

2025-05-20 07:08:25 | 人と神の「実際のところ」
◎霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中の本来的位置

禅語録の無門関第十一則州勘庵主から。
趙州和尚がある庵主の処を訪問してたずねた、「居るかい。」。
するとその庵主がグッと拳を立てた。そこで趙州は「ここは水が浅くて船を泊めることができない」といってすぐに出て行った。
また他の庵主の所に行って「居るかい」とたずねた。するとその庵主もまたグッと拳を立てた。
そこで趙州は、「おまえさんこそは自由に物を与え、自由に奪い去ることができて、活殺まことに自在である」といって、ただちに礼拝した。』

二人どちらも拳を立てたが、一人は正解で一人は不正解に見えるが、そうではなくて、正解の人が時所位(「time」、「place」、「occasion」)を得ていたということ。つまり合気道の植芝盛平言うところの天之浮橋に立っているということ。

このように外形は異なっているが、中味が違う例は、一人の僧が御簾を巻き上げるのはダメとされたが、別の僧が御簾を巻き上げるのは可とされた。同様に坐禅中にある僧が居眠りしていたら棒でたたかれたが、臨済は坐禅中に居眠りしても咎められなかった。

上手く立ち回れば、正解になるだろうと思うかもしれないが、上手く立ち回ることを求めているわけではない。その要素は、「柔軟性」「臨機応変さ」「主体性」とも言われるが、正解は、『随処に主となれば立処みな真なり』(臨済宗の開祖である臨済義玄)であって、どのような行動をするかどうかが核心ではなく、悟っているかどうかが問われている。これは、「どんな時、どんな場所でも、自分自身が主体となって堂々と振る舞えば、その場その場が全て真実となる」という意味ではなく、今ここを生きているかどうかということ。

その先に、「覚者の行動はすべて合理的」(ダンテス・ダイジ)とか、
『「国家意識のある宗教といふものは魂の向上した人でないと分らん」、「矢張り然し、人類愛の上から見ても、世界に対する所謂人類愛と、国家に対する愛と、郷里に対する愛と、家族に対する愛と、個人に対する愛といふ様に、段々小さくなつて来る。日本国民としては国家に対する愛が必要であり、又広汎的に云へば世界一般の人間に対する愛が必要である。焦眉の急を要する問題として一番どれが主であるかと云へば、自分の祖先の墳墓の国である。これを愛するのが一番急務であり、大切な事であると思ふ」』(出口王仁三郎)
が、ある。

この意識は覚者共通のもので、『男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は、必ず邪道に堕落する。
なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中に、その本来的位置を与えられたものだからであり、それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。 』(ダンテス・ダイジの冥想非体験(性愛冥想)から引用)にも見える。

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自分が損すれば他人が儲かるからよい

2025-05-19 06:14:15 | 達磨の片方の草履
◎我が失えば、他が得るではないか

雲居希膺は、江戸時代初期の禅僧。51歳で大悟、松島瑞巌寺や妙心寺の住職をやった。

見かけは地味なエピソードがいくつかあるが、盗賊など半グレ、反社、敵方の戦国武将さえ感服させる威徳があった人物。
メリデメばかり念頭にあって、1円でも1ポイントでも得をしようと考えている人には、自分が損すれば他人が儲かるという考え方は奇妙かもしれないが、悟り・究極の幸福の方向性は、その方面であって、自分を小さくするという方向。それが無用の用である。

『我が失えば他が得る

雲居は街道を歩く時は、いつも手を背に回して腰のあたりに杖を横たえ、てくてくと歩き、侍者ははるかに後からついて来させるのがつねであった。
ある夏の日、やはりそのようにして街道を歩いていた。この日はあまりにも暑い日だったためか、雲居は歩きながら衣を脱ぎ、道ばたにうち捨てたまま歩き続けた。侍者はあわててこれを拾って、雲居のところへ持っていった。すると、雲居は侍者をにらみつけて、「おまえが持っているものは何じゃ」
「老師のお衣です。あんなところに捨てておいては誰かが持っていってしまいますから、こうやって拾って来たんです」
すると雲居は叱っていうのだった。
「わしが失えば、それを拾って得をするものもあるのじゃ。真如法界は他なく自なし、というではないか」

やはり、旅をしている途中のこと。ある村で宿泊を頼むことになった。侍者が行って交渉していたが、どうも宿賃をもっとまけろ、といい争っている様子である。聞くと、たかが一、二銭のことである。これを見て、雲居は顔をしかめていった。
「我が失えば、他が得るではないか」』
(禅門逸話選(上)/禅文化研究所P142-143から引用)

※真如法界:すべての宇宙、第六身体アートマン


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龍樹の末路

2025-05-18 21:34:51 | 究極というものの可能性neo
◎乱行三昧の末路
(2021-07-14 )

龍樹(ナーガールジュナ)は、バラモン出身で、家は裕福で秀才の誉れ高く、若くして各地を遊学し、天文、地理、星宿などを学びほとんどの道術を体得していた。

彼には道友が三人いて、皆優秀で眉目秀麗だったが、揃って好色を追求するために隠身の術を、さる術者について学んだ。この術はさる薬物を瞼に塗ることで身を隠すことができるものだった。四人は、この薬でもって自由に遊び回り、終には王の後宮に入り、宮中の美女を手当たり次第犯して回った。

強姦から百日経つと宮中では懐妊する婦人が多く、王に告白して処罰を求める者が多かった。


王は、これは方術によるものと見て、細かな砂を宮廷内にまき、足跡を追えるようにした。果たして、龍樹以外の三名は、足跡によって待ちかまえていた勇者たちに首を切り落とされた。龍樹は王の周り七尺は、刀を持ってはいけないことになっていたため、王のそばに居て難を逃れたが、この場を生きて逃れられるなら出家して法を求めようと誓いを立てた。

以後の努力により、龍樹は高名な僧となり、各地を伝法、行脚し、最後は一室に閉じこもり、何日も出てこなかった。弟子が部屋に入ってみると蝉の脱け殻のようになって世を去っていた。

これは、チベット密教風の屍解。王の後宮で乱行三昧を行った大悪人の末路としては、平穏すぎやしないかとも思う。


だが、キリスト教徒取り締まりの最右翼だった、サウロ(パウロ)のダマスカスでの改心の例もあり、おいそれと真相について想像をたくましくすることはできない。


ただ大聖者は大悪人のこともよく知っているものだということはあると思う。

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天地一杯の水が 手桶に汲みとられた

2025-05-18 05:52:28 | 達磨の片方の草履
◎内山興正氏の詩

内山興正氏は、日本の曹洞宗の僧侶、詩人。 澤木興道に長年師事し、その死後に安泰寺の住職となる。 兄弟子に横山祖道、弟弟子に弟子丸泰仙がいる。

『生死

手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに
汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ 』
(求道 自己を生きる/内山興正/柏樹社 P52-53から引用)

詩人は、歌人と同じで、心の中に淡い恋心のようなものがないと、詩は作れないと思う。
自我自分のことを“私という思い固め”すなわちマインド(頭)と表現している。

桶の水で大悟した千代野(岐阜県関市松見寺開山の無外如大尼禅師のこと、鎌倉円覚寺の開山仏光国師無学祖元の弟子となった)が、水を汲みに谷に下りた時に、桶の底が抜けて水もすべて落ちてしまった。
桶の水に写っていた美しい月もとたんに消えてしまったことを見て、
千代野は忽然として大悟した。

その時の歌。
『とにかくに たくみし桶の 底脱けて
  水たまらねば 月もやどらず』


“水たまらねば”とは、成熟が一定水準にならないと、月である宇宙全体(天地一杯の生命)にならないということ。

仏光国師無学祖元が来日したのは、南宋滅亡前夜。隠元も明国滅亡前夜に来日。中国は王朝滅亡前夜に高僧、文化人が日本に移民してくる。
今や中国もそのような雰囲気だが、この時代は、高僧はいないので、来日しても文化人だけだろう。大陸王朝滅亡時には、その王朝の精華が日本にやってくるのだが、宗教の精華はあったのか?

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