退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「自分が消費者モデルになれない世界」について

2012-09-16 02:53:08 | Weblog
晴れ。今日も夕立ちあり。

ドトールで読書中キャバ嬢ふたりの会話を耳にする。

ひとりは初回来店時にワザと冷たくして
二回目にその後の反応を聞きに来た客の鬱陶しさを語り。

もうひとりは「家庭の事情」をあれこれ話した後で
唐突に泣き出した客の処置に困ったことを語る。

同僚の電話一本で一時間かけて店にやってくる客や
「やめたはずの娘」が別の店にいたりする「事実」も。

それでもいささか声高に語る前者は
「いろんな人と会えるから面白いよね」と「大人な」まとめなど。

なるほどそれぞれに「苦労」がある模様。
当然のことだけれど「生の声」はなかなか興味深い。

ちなみに個人的にはその種の店には行ったことがないし
おそらく今後も行くことはない。

基本的に何が楽しいのか不明。
AKBメンバーを応援するような気持ちと同じようなものか。

ホストクラブというのも性別が逆になっているだけのものだとは思うものの
そうした行動を促す元はいったい何なのだろう。

「育てる楽しさ」と言うのなら
昔懐かしい「たまごっち」あたりがめんどくさくなくてよさそうなのだが。

まあ「趣味の問題」なので具体的なことはその方面の人々におまかせする。
ときどき「別世界のリアル」を知ることができる程度で十分に「お腹いっぱい」。

「需要と供給」が成り立つひとつの「場所」ではある。
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「いい刺激」について

2012-09-15 03:26:30 | Weblog
晴れのちくもり。夕立ちも少々。

金井美恵子「ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ」を読み始める。

祖母と母と伯母と私。
ある日家族の元を去った父と上海の女。

「ハイパーリアル」と言っていいほどの皮膚感覚あふれる細密な描写が続く中
靄に包まれたような「時空」が「立ち現れる」。

語られる記憶は「騙られていること」を十分に匂わせつつ
語り直された「古典」には「異常なリアルさ」があり。

繰り返される文章はまさに「夢」をたどるようで
それらの「リアル」が言葉によって構築されている「事実」を明らかにしつつ。

作品の中の「思い出」が読み進めるうちに文字通り「思い出のように」感じられる仕組みも。
なるほどこうした描き方があったかと思うことしきり。

「フィクションのもつリアルさ」とはこういうものなのだろう。
「時空を超えること」の素晴らしさをしばし噛みしめた次第。

それが「読むこと」なのだとすれば
死ぬまで飽きるはずもないのは言うまでもないか。

服装についての詳細を絢爛かつ簡潔に描いたのは久生十蘭だが
ここまで微に入り細にいたると生地や縫製に関する「知識欲」をそそられる。

映画に関する部分はところどころわかった程度。
むしろあれこれ教えて頂きたいところだったり。

いやはや。

やはり「いいもの」に接すると背筋が伸びる。
ちなみに小説はほぼ読まなくなって久しいのだけれど。
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「停滞すること」について

2012-09-14 02:42:19 | Weblog
晴れ。昨日ほどの暑さはなし。

「橋川文三コレクション」読了。

三島由紀夫についての文章は生き生きしている。
ただし「情熱の元」は結局不明のまま。

石川忠司「極太!! 思想家列伝」を読む。

短めで畳みかける調子の文体が心地よい。
いかにも「パンク」な感じが出ている。

著者は「従来の秩序」の中におさまったいわゆる「論文」の類いがキライな模様。
「とりあえず動きながら考えろ」という主張が中心。

とはいえ取り上げられている「ライン」は案外オーソドックス。
ライヒがやや「異端」か。

それぞれの「読解」も興味深く
「現実」を揺さぶるパワーはありそうなので「マニア」の方はどうぞ。

さて。

毎日を「地道」に暮らしていると
ときどき妙な考えが頭に浮かんだりする。

おそらくは「身体」がそうした生活をいくぶんか拒絶しているのだろう。
元々「きちんとした生活」には縁遠いことも手伝って。

もちろんそうした「揺れ」は誰にもあることで
とりわけ珍しいことではない。

というわけでもう少し飲んで寝る。
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「情熱と暴力」について

2012-09-12 02:52:23 | Weblog
くもりのち晴れ。雨も降る。

「橋川文三コレクション」を読み進める。

著者の「情熱」が相当なものなのはわかるけれど
なぜそこへ行くのかがいささか不明。

とはいえかく言う自分も
なぜこんなことをしているのかと聞かれたら満足な返事は出来なさそう。

深夜「堕ちた弁護士 ニック・フォーリン」を観る。

ラスト近くに主人公親子が一緒に「暴行する」シーンにちょいと驚く。
いずれの「原因」も実はただ「自分の思い通りにならないストレスのせい」だったりするので。

その一方でギャングに甥を殺された主人公の同僚は怒りの余り「犯人」を襲うのだが
その相手が実は間違っていたという話も。

前者は誰も見ていないところでやったので「バレない」。
後者は主人公の忠告にも関わらず襲った相手に真実を話してしまう。

後者は結局襲った相手に撃たれることになるものの
果たして主人公親子はどうなるのか。

というあたりで「season2」が終了したのか次回から別番組に。
この種の「エグさ」がわが国のドラマで描かれることが少ないのはなぜだろう。

アメリカの映画やドラマにしばしば登場する「暴力」は
「本質的な暴力」をどこかで肯定している気がするのだが。

それが「建国あるいはそれ以降の歴史」に裏打ちされたものだとすれば
なるほど「銃」は捨てられない。

わが国に「銃」が伝わったのはポルトガル人によるものとはいえ
結局その「近代兵器」をうまく使った信長が「天下」を取った「歴史」もあり。

現代に絡めて言えば「武力を背景にしない外交」はありえないという「世界の常識」に対して
「非常識」であり続けるのもわが国であったり。

何がなにやら。

「鬱屈したエネルギー」は出来れば「昇華」させたいもの。
そういう「技術」を身に付けることができれば幸いか。
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「単純さよりは複雑を」ということにについて

2012-09-11 02:54:32 | Weblog
晴れのちくもり。深夜に稲光と雨。

突然の激しい雨にサッシを閉めに立ったら
TVのイヤホンに足を引っかけ引きちぎってしまう。

仕方なくPC用でなんとか代用。
とりあえず事なきを得る。

中島岳志編「橋川文三コレクション」を読み始める。

今のところ西郷隆盛を扱った文章が印象に残る。
「政治的無能」と「悲劇の英雄」を共に描いているあたりの感覚が好ましい。

いわゆる「進歩的発想」で人物を捉えないのがポイント。
乃木将軍についても同様。

おそらく「自分の中にあるもの」に正直だったのだろう。
読み進めていくうちにどうなるのか楽しみ。

「時代」などという区切りが所詮「徒花」であることは
ある程度の年月を生きて初めて明らかになる。

ただしそうした「時代」を生きたある種の人々の「姿勢」の中には
「時代」を超えて何事かを感じさせるものもある。

後世の人間はそれらに自らの「勝手な思い」を乗せ
それぞれの「ロマンチック」を描いたりして。

肝心の当人はといえば「孤独」を生きただけ。
賞賛も非難も届かない場所で。

「神が見ていること」のないわが国では
「自分が見ていること」にどれだけ敏感であるかが「わずかな頼り」か。

もっともその「自分」がどれほど頼りないものかも
「自分」だけが知っていたりするあたりがややこしい。

「単純な物語」は文字通り「複雑さ」を消す。
だがそもそも「世界」は常にわれわれの理解を易々と超えるほど「複雑」ではあるのが「普通」。

もちろんわれわれを含めた上でということを忘れずに。
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「いろんな顔があること」について

2012-09-10 02:28:40 | Weblog
くもりときどき晴れ。だったか。

「早朝」に野暮用をすませてまたまた墓参り。
今回は父方の祖父の五十回忌だとのこと。

祖父は生まれる前に亡くなっているので顔を合わせたこともない。
「残念な叔母」の意向を母親が早く片付けたいと思ってしたことのよう。

その後寿司屋で昼をすませてコメダへ行き
帰りに図書館へ。

ドトールで鈴木由加里「女は見た目が10割」を読む。

いかにもわかりやすい挑発的なタイトルに「乗っかってみた」次第。
「キレイ」を強制されることにちょいと疑問を持った著者のあれこれ。

一般的には「内面の重要さ」を説くことに対していささか反発を覚え
「最初に関わり合うかどうかの材料は外面しかないじゃない」というのが「定石」ではある。

とりあえず男子として興味深かったのは「男のナチュラル好き」について。
「自然体」が「不自然さの賜物」であるなら「ナチュラル・メイク」も同様なのは理の当然。

元ポルノ女優が「清純派」と「野性派」をメイクで「演じ分けていた」写真もわかりやすいが
その種の「技術」になぜ男は鈍感なのかと。

また「結婚もしくは恋愛の相手」としては「美人」より「かわいさ」が勝つのだというのもなかなか。
おそらくは「結婚もしくは恋愛」に「安心」を求める男が多いということだろう。

「秘密」が内容に関わらず「隠すこと」によって生まれるのだとしたら
「素顔」が「メイク」によって生まれるのも同様なのか。

男がそこに「過剰な意味」を求めるのは
自分こそ「素顔」を隠しているからだと考えるのが妥当。

単なる「変身術」としてそれぞれに楽しむことができればいいのかも。
もっとも各種の「広告」が「脅迫的」であることも確かではある。

ここでも「ほどほどのお付き合い」がよさそう。
性別を問わず「装うこと」は誰にでも思い当たるもので。

いわゆる「本音」ばかりでも味気なかったり。
その「さじ加減」に「味わい」があるのだとしておこう。

いずれも相手と「ルール」が合いさえすればオーケー。
いや、そう「錯覚」できさえすれば。
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「不思議な日」について

2012-09-09 02:21:26 | Weblog
くもり。暑さはやや緩む。

仕事に出かける途中で近所のおじさんに呼び止められる。
地元にいなかったので会うのは20年ぶりか。

個人タクシーの運転手であるおじさんは何やら懐かしかったのか
「地下鉄まで送っていくよ」と車に乗せてくれた。

「○○ちゃんかなと思ったんだけど。どこか面影があったし」と言った。
「いつもはこの時間にはいないんだけどね」

車内でちょいと世間話。
息子の娘つまりは孫がもう大学2年になるらしい。

「いいところへ就職できた?」と聞かれたので
「ぼちぼちです」と答えておいた(事実を話すと長くなるので)。

今年七十八になるという彼はまだ現役で車を走らせている。
「スゴイですね」と本気で感心したのでそう言った。

「お父さんは生きていたらおいくつくらい?」
「昭和3年生まれなので八十いくつですね」「そうか、それくらいだな」

駅が近づいてシートベルトをはずしつつあらためて礼を言った。
「ありがとうございました。おじさんもお元気で。」

車を降りて一礼し地下鉄の駅へ向かった。

その後ドトールでいつものように読書するつもりがなぜか気分が乗らず。
昔の事をあれこれ思い出すともなく思い出して。

タバコを吹かすこと数本ののち
時間が来たので仕事先へ。

こんな日もある。
どこか時空の歪んだ日。
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「直視すること」について

2012-09-08 03:36:44 | Weblog
晴れ。秋の気配は身近にあるようで遠い。

呉智英「健全なる精神」を再読。

このところ再読続きなのは本切れという事情もあるけれど
一度では内容が十分把握できないため。

著者は「物事の複雑さ」を説いているとみてよさそう。
やたらに「白黒」をつけたがるのがわれわれの脳のはたらきでもある。

たとえば「いじめ」について。

「いじめ」はそもそもなくならないことが自明だとするなら
「相手を死に追いやらない程度で済ますこと」を可能にする方策が「現実的」。

そのあたりを勘違いして「いじめをなくす」ことを目標にしたりすると
いたずらに「事実を隠す」方向に事態が進んでしまったりすることを忘れずに。

「理想」が「現実」を覆い隠すことになっては身もふたもない。
もちろん「犠牲者」が出ることそのものの痛ましさは変わりなく。

この「どうしようもなさ」を直視できれば
おそらくいい意味での「解決策」も見つかりそうな気がするのだが。

果たしてそこまでの「体力」があるかどうかと聞かれると
大方の人にはないだろうと予想されるが果たして如何。

深夜久方ぶりにドラマ「Re Genesis」を見る。

バイオ・医療の専門家たちが集まったNOVACを舞台に
さまざまな事件の解決を図るというのが基本設定。

主人公デヴィッド・サンドストロームの吹替えの
大塚芳忠という声優の「切迫感」がなかなかいい。

頭はキレるが精神にやや問題ありというタイプで
周囲の仲間の存在が彼の「平静」をどうにか維持している。

これまたカナダの作品。
かの国のドラマは見応えのあるものが多い。

今回は「処女懐胎」と「ゲイの息子とそれを抑圧した父親の関係」
主人公の「支え」でもある同僚の「視力回復とそれに伴うリスク」のお話。

わが国ではこの種の「リアル」は嫌われるのか。
いやむしろメディアが勝手にそう決めつけているだけだろう。

いずれにせよ「現実」を「直視」しないと
とんでもないことになることだけは確かだったりする。
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「シンプル・ロジカルであること」について

2012-09-07 02:35:35 | Weblog
くもり。蒸し暑い。

高橋洋一「日本の大問題が面白いほど解ける本 シンプル・ロジカルに考える」を再読。

よく考えれば当たり前のことだが
コストとそれが生み出す利益を計算して投資すべきだと。

著者によると計算された数字に関係なく
あれこれといろんなことの決定が行われているらしい。

経済の世界においてもわが国の「標準」は「世界標準」と異なっている。
要は日本列島そのものが「村」でありそこでいたずらに「既得権益」が守られているのだ。

いつまでたっても「途上国」なのは
スポーツのように「世界標準」がきちんと目に見えないこと。

もちろんスポーツの世界でも
わが国のスポーツ各紙は運動能力とは全く無関係な「ドラマ」を垂れ流してはいて。

「日本」という「奇妙な磁場」にかかると
あらゆるものが「歪む」ことになるのは昔から。

それを「世はいかさま」と簡潔に言ったのは山本夏彦で
いまだに全く正しいのは残念至極。

それにしても。

つまるところ貨幣の量を競うことでしか「豊かさ」を感じられない人間が多いのは
まさに「教育の貧困の極み」だろう。

せめてそこに「洗練された趣味」でもあればと思うものの
「成金」は結局それなりの「趣味」しか持てず。

「キラキラするもの」をいたずらに身に付けたがるのは
「自分がくすんでいるから」。

「シンプル・ロジカル」に考えるとはその種のことを言うものだと知ろう。
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「まだまだ」ということについて

2012-09-06 02:41:04 | Weblog
晴れのちくもり。だったような。

小林信彦「非常事態の中の愉しみ」を再読。

「非常事態」とは言うまでもなく昨年の東北大震災のこと。
マスコミはそのニュースをトップに据えるべきだというのにうなずく。

かつては「冬の神話」後に「東京少年」で「疎開という『地獄』」を繰り返し描いた著者だけに
故郷から強制的に移動させられる子どもたちを慮るところも。

そうした中でも「アンテナの鋭さ」は相変わらずで
あれこれ面白そうなものを紹介してくれるのがありがたい。

今年傘寿(八十歳)の著者に頼るのは「若い世代」として情けない気もするものの
圧倒的な「年季の違い」はどうしようもないというのが「事実」。

その「情熱」に比べればこちらは所詮「お遊び」だと痛感させられることしきり。
ある種の「飢え」を知らない分そういうことになるのだとしておく。

「自分の見聞きしたものを中心に語る」姿勢の奥にあるものを思えば
各種の「大本営発表」の中で「何を信じればいいのか」と嘆くあたりは「おちょぼ口」か。

「襟を正す」という意味ではいいタイミングで読むことができた模様。
とりあえず「ぼくたちの戦争」をきちんと生きるよりなさそう。

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