退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

声音について

2010-06-17 03:45:56 | Weblog
快晴。梅雨の晴れ間。

アン・カープ 梶山あゆみ訳「『声』の秘密」を読む。

縁側で日向ぼっこしているような気分になれる本。
論理を優先させすぎずにあれこれの情報をキーにして進むお話。

直線というより面をなぞる趣き。
赤ん坊の識別能力にあらためて驚きつつ。

ある程度のレベル以上の歌い手は
おそらく自分が「楽器」だという意識があるはず。

安定して表現できるのが理想だけれど
時間の経過とともに「楽器」の状態も変わって行くのが必然。

さまざまな声を聞く環境にいる身として思うのは
とりあえず「耳障りな声」でない人の少なさ。

もちろん声を受け取って判断するのは自分という頼りないフィルターなので
それが「正解」とかではもちろんないのだけれど。

「甲高い声」を発する存在としての女性が
近代では嫌われてきたということはどうやら「事実」らしい。

いずれにせよひとりひとりの声が
その声の届く相手に心地よさを伝えられればいいはず。
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物足りなさについて

2010-06-16 03:52:49 | Weblog
深夜。台風のように激しい雨。

mixiのアプリ「はじめようマイバー」をあれこれ。
知り合いを呼ばないとレベルアップが遅いのがめんどくさい。

昔アバターを作って勝手に遊べるのを少しやったことがあって
これはそれの縮小版という感じ。

自分の部屋を作って家具も置いて
プールでは飛び込み台もあって写真も撮れたはず。

それに比べるといやはや。
会話も出来ないのでその種の楽しみ方はあきらめて。

しかしバーで会話がなかったら意味がないのだけれど。
別に出会いを求めるとかどうとかではなく。

バーチャルなバーとしては
もう少しあれこれ出来た方が楽しかろう。

たとえばそこにキャラクターのあるバーテンダーがいて
客に合わせてカクテルなど作れたりしたらいいのに。
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晴れない空模様

2010-06-16 02:19:08 | Weblog
雨。一日中。

「ゾルゲの見た日本」読了。
引き続き高橋洋一「日本の大問題が面白いほど解ける本」を読む。

おそらく経済に関する話のほとんどは「占い」なのだろう。
そこへ当たり前の「経済学」を持ってくると論理的に見えると。

事ほど左様に「経済の世界」ではインチキが少なくなく
マスコミ関係も基本的な数字や式について学ばない模様。

いろんな意見があることはもちろん健全だけれど
なぜ本格的な「論戦」にならないのか。

かくいう自分も「経済オンチ」のひとりではあるので
どの説が正しいのか判断を下せるかというと心もとない。

ただし長年活字を読んできている経験から
説得力の有無は理解できるつもり。

誰か明快に説明してくれるとありがたいのだけれど。
ここでも「蓄積の無さ」ばかりが横行するままだとしたら哀しい。
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ジャーナリストとしてのスパイについて

2010-06-15 01:28:41 | Weblog
くもりときどき雨。パラパラ。

みすず書房編集部編「ゾルゲの見た日本」を途中まで読む。

戦前に新聞社の特派員として来日、
ソ連のスパイとして活躍するもやがて捕まり処刑された男の「報告」の一部。

もし世界が平和だったら学者になっていただろうという男は
当時の日本を冷静に正確に観察している。

軍部についての分析や二・二六事件、
やや煩雑だけれど「日本の農業問題」についての報告がすごい。

ドイツとの二重スパイだったという説もあるけれど
これほどの人材を無駄に処刑してしまった当時の日本はやはり「貧しい」。

おそらくその「貧しさ」は現在さらにヒドイことになっているはず。
こちら側に取り込んで正確な情報を手に入れるといった「発想」は微塵もないのだろう。

「スパイ」をある種の「職業」だと考えると
徹底した「プロ」の見本として今でも参考にすべきものは少なくないはず。

ジャーナリスト志望者には必須の存在と思われるので是非。
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好きな人たち

2010-06-14 02:45:10 | Weblog
くもりときどき雨。今日から梅雨入り。

戸井十月「植木等伝 『わかっちゃいるけど、やめられない!』を読む。

最近やや勢いのある週刊ポストに連載されていたもの。
著者の監督した映画に植木等が出演したのが縁らしい。

朝日文庫「夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記」は昔読んでいたので
どんなものかと確認するため。

スーダラ伝説の頃はまだまだ生き生きとしていた植木等の
亡くなる少し前の急激な老け方を見て「ああ」と思ったのを覚えている。

たしかTBSで「植木等ショー」という番組をやっていた時には
「どうしてこんな内容のものしか出来ないのか」と憤っていたもの。

あの笑顔と笑い声に触れると
自分のバカさ加減も「ま、いいか」と思えてくる。

もちろんそれに甘んじていいわけでもないけれど
「そのうちなんとかなるだろう」とついつい。

圧倒的なキャラクターという存在がなくなって久しい。
「いじめっこ顔」なだけの小沢一郎が「権力者」とは。

そういえばサントリーのCMに香川京子と左右田一平が出ていた。
79歳と80歳の演じる夫婦はいかにも懐かしい。
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残念なこと

2010-06-13 02:23:42 | Weblog
快晴。梅雨前の夏日。

「日夏耿之介文集」ようやく読了。

後半は少し読みやすくなり内容は辛辣に。
病弱という「身体の条件」がもたらした豊穣を少しだけ味わう。

「本物」を知りやすい「お坊ちゃま」という環境も
時には必要なもの。

とにかくいろんなタイプの人々がいて
好き嫌いはあれどもあれこれ交わって。

邪まな気持ちのないまま
ある種の「洗練」や「琢磨」を続けること。

そういう環境が望ましいのだけれど
若い時分以来遠ざかって久しいのは「不徳の致すところ」。

「類は友を呼ぶ」のだとしたら
未だ「友とするに相応しい人」になれてはいない模様。
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それぞれの場所でよくあること

2010-06-12 02:02:45 | Weblog
快晴。やはり案外涼しい。

仕事帰りにガストへ。
プレミアム・モルツ2杯とマヨコーン・ピザとシーザーチキンサラダの夕食。

毎回同じようにピザを頼むのは
ごはんをきちんと食べてしまうとビールがまずくなるから。

世の中はいわゆる「デフレ・スパイラル」だけれど
人についても同じような仕組みが働くことについて話す。

たとえばある「弱点」を持った人は
似たような「弱点を持っている人」に関わりたがる傾向がある。

敢えて明確に説明してしまえば
それは無意識に自分の「弱点」を治そう、あるいはその「上」に立とうとするのだろう。

その「人の連鎖」は残念ながら
あまりいいものを生み出すことにはつながらない。

無意識はあくまで無意識のままで
他人から見た「明確な自分の弱点」に気付けない人が他人をどうこうできるわけもない。

あきれるほど単純な仕組みだが
一度動き出すとこれがなかなか止まらない。

「王様は裸だ」と言えるのか
もしくは誰が「猫の首に鈴を付けに行く」のか。
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変わらない「生意気」について

2010-06-11 01:19:16 | Weblog
快晴。気温が30度を超えるものの夜は涼しい。

「日夏耿之介文集」を途中まで読む。

漢字はそこそこ知っている方だけれど
本格的に漢籍を読んだと思われる著者の使う漢字はさすがに読みにくい。

普通はかなが振ってあるはずなのに
原文を大事にしたいと思った編者のせいかあるいは本屋のせいか。

学校時代先生の好き嫌いで成績が全く変わったというあたり
現代の子どもたちも大いにうなずくところだろう。

個人的には小学校の卒業文集に各学年の担任を評価した文を書き
ボツにされて書き直した記憶がある。

多少なりとも生意気な子どものすることは
時代を問わず変わりないらしい。

ちなみに著者は明治二十三年(1890年)生まれで
漱石・鴎外・紅葉・鏡花・龍之介らの名前が「身近なもの」として出てくる。

オカルトや妖魔術にも凝ったようで
ポーの翻訳などもした模様。

澁澤龍彦の先達だと思えばいいのかは不明なので
ご縁があったら作品を読んでみることにする。
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提供されるだけの「消費」から新たな「生産」へ

2010-06-10 02:21:15 | Weblog
くもりときどき晴れ。湿気はやや減る。

ジークムント・バウマン「リキッド・モダニティ 液状化する社会」を読む。

資本の移動が自由になると
より高い利潤を求める空間が拡がり競争はいっそう激しくなる。

中でもとりわけ高い人件費を削減するとなると
雇用は自動的に不安定にならざるを得ない。

市場のシェアをほぼ独占する形で競争に勝った企業は潤うものの
賃金の低い労働者はその身分を固定されてしまう。

自らの「生産」が「生存」を保障する作業でしかない労働者たちは
せめてもの「自己」を消費で表現するしかなくなり。

それが実は「大量生産品」だとしても
その商品を手にすることに「ステイタス」はあるのだと信じるのみ。

その姿はほぼ「奴隷」で
なおかつ彼らの目の前には「成功者」の「優雅」が次から次へと現れる。

道理でのんびりとは暮らせない。
「貧乏」を基本とする「リスク」を引き受ける以外には。

明日食べるものがない「貧困」を知らずに
他人が持っているものを持てない「貧乏」を恐れる者たちよ。

適当な広さの家に住みそこそこのものを食べ着て
とりあえず将来に不安のないこと。

そんなシンプルな生活が人々から奪われて久しいけれど
なぜなのだろうと考えてみよう。
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ささやかな愛の不足は過剰なものを生むということ

2010-06-09 01:18:03 | Weblog
くもり。蒸し暑い。

昨夜はPCが突然ネットにつながらなくなった。
深夜に遊べず本を読みながら寝てしまう。

中島哲也「告白」を駅前のミッドランド・スクエア・シネマで観る。
実に久方ぶりの映画館。

郊外にあるシネマ・コンプレックスそのままの造り。
10分前にしか客を入れないのが「仕事」を減らすのだろう。

松たか子の「慟哭」の芝居に工夫あり。
犯人たちだけでなく「普通の」クラスメートたちも問題だという解釈で。

描かれる分量が圧倒的に多いのが「母」のダメさ。
この「父の不在」はどうしたことだろう。

登場人物たちが「鏡」に映されることが少なくないのも忘れずに。
「少年法」という単語もやたらに出てくる。

女子が「事情」をわかっていて
男子は「ひとり芝居」をしている設定。

感情の交通の「貧しさ」は圧倒的だけれど
ここには経済的な「貧しさ」がない。

種類の異なる「貧しさ」は
いずれも「資本制」の行き過ぎた結果だと思えば交わるのか。

いわゆる「熱血」のダメさ加減も
ふたりの男子を使ってしっかり描かれているけれど。

この「救いようのなさ」を知れば
人は「やさしく」なれるのだろうか。
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