退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『さよなら』と独特の体質」について

2017-01-12 02:13:10 | Weblog
『くもりのち晴れ。出がけには雨も。

「日本映画時評集成 1976―1989」読了。

このシリーズは全3冊なので残り2冊も必ず読むつもり。
時代に寄りそう感じは「歴史書」と思えばいいか。

文章の「疾走感」が心地よく「あすなろ」な姿勢が清々しい。
何事かを「好き」であることのいい実例。

それとは全く関係なく。

問題を解く上で問題が何を問うているかを理解するのは当然。
その理を「わずかなめんどくささ」によって消去すると「間違える」のは必至。

この「当然」を当然だと見なさない人々が現れて久しい。
日常の中で何度もそうしたことを繰り返す不思議よ。

「ひきこもり脳」の厄介さは自分がどれほどおかしなことをしていたとしても
その「自分のいい加減さ」を疑わないところにある。

それどころか「自分の正しさ」から一向に抜け出そうとはせず。
すべては「相手」が悪いことになり。

どこまで行ってもそうしたいなら「さよなら」と言うのみ。』と書いて昨日も寝る。

くもりのち晴れ。寒さはやや緩む。

白川静「続文字講話」を読む。

「過去」に照らされ「現在」を生き「未来」に恥じぬこと。
思想を生み出す言葉の扱いをいい加減にしてはそれが決して出来ないことなど。

著者の作品に接していると自動的に背筋が伸びる。
本シリーズは読み終わったもののこの種の言葉を「座右」に置いて自らを省みる必要がありそう。

というより「いいもの」に触れていないと自分が沈んで行くような気がする。
「過労」でもないのに「自律神経失調症」のような。

これもまた「中毒」だと思うといささか厄介ではあるものの
とりあえずそれを「無条件」に「生きる前提」にはしている次第。

「個人的なゲリラ戦」だということでよろしく。
おそらく今後もこの「すれすれ」は続いて行くはずで。

「二歩後退一歩前進」といったところか。
なるほどこのザマでは「普通の生活」など無理だと大いに納得する。
コメント
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